第24話  第四巻 欲望の果 宿願 

 神村の盟友であったはずの菊池龍峰が裏切っていた。この驚愕の事実に進退窮まった森岡は、ある温泉宿に総務藤井清堂を訪ねる。

 確たる勝算もなく、仇敵も同然の藤井清堂の懐に飛び込むことなど、傍目には無謀な行動に映ったであろう。一つ間違えば、清堂はこの材料を武器にして、対立する久田帝玄を攻撃するかもしれないのである。

 しかし事ここに及んでは、総務清堂に頼る以外、他に手立てが無かったのも事実だった。

 それは太閤豊臣秀吉亡き後、加藤清正や福島正則らに追い詰められた石田三成が、怨敵徳川家康の懐に飛び込んで難を逃れた逸話にも似た、まさに死中に活を求める、伸るか反るかの大胆な賭けであった。

 森岡は、総務清堂への取次ぎに尽力してくれた景山律堂と同じく、清堂もまた、いや次期法主が内定している彼なればこそ、宗門そのものに泥を塗るようなことは望まないと信じたかった。久田帝玄の醜聞を攻撃材料としなかったように、である。

 森岡は総務の立場にいる清堂の、その宗門への良心に賭けたのだった。


 森岡が静岡県の北西部、妙顕山の足元に位置する温泉宿岡崎家に着いたときには、すっかり夜の帳が下りていた。

 岡崎家は森岡の見知った宿だった。神村に同行して総本山に出向いた折、何度かこの名旅館に泊まったことがあった。

 岡崎家は、かつては東海道の要衝で本陣の御用を授かっていただけのことはあって、一万坪にも及ぶ広大な敷地に木造二階建ての本館の他、離れ屋が十五棟もあった。離れ屋はいずれも二間か三間続きで、それぞれに檜風呂が付いていたが、中でも同じ三間ではあるが、併せて四十畳もの広さを誇る『鳳凰』と呼ばれる一棟があった。森岡はその最上級の離れ屋を予約していた。

 この出張には、神栄会若頭補佐の九頭目らが帯同していた。むろん影警護なので、付かず離れずの適当な距離を置いている。


 総務清堂と景山律堂はすでに到着していた。

 森岡が景山の案内で清堂の待つ鳳凰の間の襖を開けると、三間続きの奥の部屋で床の間を背にした清堂は、自分の正面に座るよう手招きをした。だが、森岡は清堂の居る奥の間には入らず、中の間に正座して、恭しく頭を下げた。

「猊下。本日はお忙しいところ、私などのために時間を割いて頂き、ましてこのような所まで御足労願いまして、誠に有難うございます」

 森岡は、こういう場での挨拶の仕方を知っていた。書生の頃、目上の主賓に促されても、決してその誘いには乗らず、必ず別間に座して挨拶をするように、と神村から教わっていたのである。

 すると、清堂はもう一度手招きをしながら、

「まあ、そう畏まらないで、こっちに来て座りなさい」

 と気品のある声を掛けた。

 二度目の誘いで、ようやく森岡が正面に座ると、清堂はいきなり本音を吐いた。

「正直に申せば、法国寺の件が決着したばかりで、私はあまり気乗りがしなかったのだが、景山が宗門の浮沈に関わる一大事だから、どうしても君に会ってやって欲しいというものでね」

「それは恐れ入ります」

「しかし、景山の話だと、君とは一度会っているらしいね」

「栄真大聖人の没後七百五十年遠忌の大法要のときにご尊顔を拝しました」

「そうだ、思い出した。あのとき末席にいたのが君だったね。しかし森岡君、噂はこの景山から聞いているが、君にはずいぶんと煮え湯を浴びせられた」

 清堂は苦笑いをした。

「恐縮です」

 森岡は身を縮めた。

「ところが、一敗地に塗れたというのに、景山は清々しい気分だなどと、負け惜しみとしか思えないことを言うのでね。実を言えば、この景山ほどの者を、そういう気持ちにさせる男とはいったいどんな人物かと、時さえ経てば私も一度君と膝を付き合わせて話をしたいとは思っていたのだよ」

「そうおっしゃって頂きますと、少し気が楽になります」

 森岡は安堵したように言った。

「ところで、余程の重大事らしいが、どういうことかな」

 清堂の目が底光りしていた。気品のある好々爺といっても、そこは大宗派天真宗で総務にまで上り詰め、法主の座に手を掛けている男である。凡庸であるはずがない。

 森岡は、事の顛末を包み隠さず話した。

 話に耳を傾けていた清堂の表情は、たちまち苦々しいものに変わり、怒りを抑えるためか、扇子を忙しく打ち仰いでいた。

 そして、森岡の話が終わるや否や、

「何ともはや、愚かな事を……久田上人も久田上人なら、菊池も菊池だ。嘆かわしい事この上ない!」

 と辺りに響き渡るほどの声を荒げた。およそ、貴人の上品さを持つ清堂には似つかわしくない怒声だった。

「それで、私にどうせよというのだね」

 憤りが冷めやらぬ中、清堂は怒気を含んだ声で訊いた。

「菊池上人から宝物を買い取って頂きたいのです。もちろん、代金の一億は私が用意致します」

「それは良い案ですね。総本山に保管されていれば、たとえ世間に知れたとしても、どのようにでも言い訳が通るとお考えなのですね」

 景山が清堂の顔色を窺いながら、森岡の真意を代弁した。

「しばらく保管していれば、気が気でない久田上人にお灸を据えることにもなりますし、その後折を見て法国寺に返還して頂ければ、と考えております」

「君の考えは良くわかったが、話の限りでは相当な覚悟のうえらしい菊池が納得するだろうか」

「そこを次期法主たる猊下にお願いしたいのです。猊下直々の説得ならば菊池上人も従わざるを得ないと思います」

「菊池上人の生家である『蓮の坊』からも、口添えしてもらいましょうか」

「いえ、せっかくのご助言ですが 、それは止めておいた方が良いでしょう。菊池上人は生家に良い感情を持っていませんので、却って上人の心を頑なにさせてしまう恐れがあります」

 久田帝玄から菊池の養子縁組の経緯を聞いていた森岡は、景山の提案を丁重に退けた。

「致し方ない。久田上人の窮地を救うことは面白くないが、これは宗門の名誉に関わることだからそうも言ってはおれない。ここは私が一肌脱ごう」

 清堂は、閉じた扇子でテーブルをぴしっと叩いた。

 やはり法主になるだけの人物である。必ずや私心怨念を捨て、宗門のために立ち上がると読んだ森岡の賭けは当たった。

「そのお礼といっては、誠に僭越ですが……」

 森岡は遠慮がちに切り出した。

「礼など、気にすることはない」

 清堂は森岡の言葉を遮り、即座に断った。  

 森岡は口元を緩めた。

「そうおっしゃられると思いまして、約束手形を御用意いたしました」

「約束手形だと」

 清堂が興味深い声を発した。

「遠い将来ですが、猊下の念願が叶うことをお約束致します」

「私の念願が叶うとな。いったいどういうことかね」

 清堂は怪訝な眼差しを森岡に向けた。

「先々、天山修行堂を総本山の管轄下に置くように致します」

「何だと! どうして君がそれを知っている」

 清堂は、自身の宿願を森岡が知っていることに驚きを隠せなかった。

「恐れながら、私が森岡さんにお話しました」

 景山が緊張の表情で告白した。

 清堂は二人を交互に見遣り、

「君たちは、そういう間柄になっていたのか」

 と得心しつつも、

「しかし、口で言うほど簡単ではあるまい。今や総本山の妙顕修行堂をも凌ぐお堂だぞ。本当に、君にそのようなことができるのかね」

 清堂の疑心にも森岡には余裕があった。

「できると考えております。まもなく天山修行堂の敷地には、私個人の名で十億円の抵当権を設定致します。おそらく、久田上人には返済はできないでしょう。ですから久田上人がお亡くなりになった後でしたら、いずれ時期を見て土地を総本山に寄進することもできます。その後はゆっくりと時間を掛けて、宗務院あたりが後継問題等に影響力を行使していけば良いでしょう」

 と落ち着い口調で存念を披瀝した。

「なんと、そのような事態に至っておるのか」

 清堂は眼を剥いて唸ると、一転、ふふふと半ば呆れ顔で笑った。

「なるほど、景山が君に心を許すはずだ」

 森岡の腹案は、清堂をして思わず頷かせるに十分な説得力があった。

「しかしながら、早急には無理でございます。大変失礼ですが、猊下のご存命中にも無理かと思います。ですが、必ずや約束は守ります」

「それで約束手形というわけだな」

「はい」

「宜しい。景山が信頼する君のことだ、私も信じよう」

 清堂はようやく穏やかな表情になった。彼は景山を引き合いに出したが、何よりも自身の目で確かめた森岡を信用したのは言うまでない。

 森岡は、儀礼的に金銭的な見返りも提示したが、当然のごとく宗門の名誉を守るために金など受け取れない、と清堂は固辞した。

「その代わりといっては恐縮じゃが、君に一つだけ頼みがある」

「私にできることでしたら」

「今すぐではないが、いざというときに力を貸して欲しい」

 清堂の顔には悲壮感が漂っていた。このとき、彼は天真宗の行く末に関わる重大な懸念を抱えていた。

「承知致しました。その折は、微力ながらお力添えを致します」

 森岡は詳細を聞かずに承諾した。権力を手中にしている者とも思えぬ弱気な表情に、森岡は一抹の不安を覚えながらも畳に両手を突いた。 

 話が纏まったところで、芸者、鳴り物を呼んで賑やかな宴会となった。花柳界に生きる者は口が堅いことを知る森岡が、この日の密会が外に漏れることは無いと踏んだうえでの趣向だった。


 宴会の後、森岡は景山を本館のラウンジバーに誘った。彼だけに伝えたいことがあったのである。

「本日は有難うございました」

 いや、と景山は首を小さく左右に振った。

「礼を言って頂くのはまだ早いかと思います。私には、たとえ総務さんの説得であっても、菊池上人が素直に応じるかどうか疑問に思えます」

「同感です」

 森岡は目を細めた。やはりこの男は使える、と満足したのである。

「そこで、景山さんには事前工作をして頂きたいのです」

「事前工作?」

「総務さんの説得の前に、貴方の口から菊池に因果を含めて下さい」

「私が菊池上人に因果を? それは、ますますもって無理でしょう」

「大丈夫です」

 森岡は自信有り気に微笑んだ。

「いったい何をせよと」

「総務さんの真意と称して、内々にアメとムチを吹き込んで頂きたいのです」

「具体的にはどのような」

「アメの一つは、清堂上人が法主になったあかつきには、久田上人を糾弾するという約束です。これで菊池の溜飲も少しは下がるでしょう」

 うむ、と景山は肯いた。

「それから」

「もう一つは彼を近い将来、本山の貫主の座に就けるよう道筋を付けるというものです」

 天山修行堂の裏支配を断念するとなれば、必ずや表舞台での出世を望むだろうであろうとの推測であった。

「本当にそれで良いのですか」

 景山は訝しげな顔つきをした。

「菊池が承諾すれば、久田上人への糾弾はうやむやにするとしても、本山の貫主への便宜は図らないといけなくなります、それは森岡さんの意に反するのではありませんか」

 森岡は、ふふふと含み笑いをした。

「景山さん、むしろ積極的に便宜を図りましょう」

「……?」

 景山には、森岡の真意が見抜けなかった。

「景山さんと私で適当な本山を見つけ、総務清堂上人の許可を得たうえで、菊池に斡旋するのです。私たちが企画するのですから、裏工作などどうにでもなるでしょう」

「そうか」

 景山はようやく森岡の笑みを理解した。

「菊池上人は、総務さんの腹心である私と仇敵も同様の貴方が、まさか手を組んでいるとは思わないから、そこに油断が生じるのは必定。その隙を突いて一杯食わそうというのですね」

「清堂上人は何も御存知なく、約束を果たされたことになりますから、問題ありません。ただ、清堂上人を利用した心苦しさは残りますがね」

「その点は事が済んだ後で、私から重々お詫びをしましょう。それより、菊地上人に気取られないよう十分な注意が必要ですね」

 はい、と森岡は顎を深く引いた。

「私たちが手を握っていることを菊池にはもちろんのこと、清堂上人以外の誰にも気づかれてはなりません。清堂上人にも内密にして頂くようにお願いして下さい」

「わかりました。上手く申し上げましょう。それでムチ方は?」

「その逆で、宗門の名誉を著しく傷つけたとして、清堂上人が法主の間は、いや永井上人が法主の間まで、菊池の如何なる昇進も総本山は認めないという最後通告です。これで約二十年間、つまりはこの先一生涯、菊池は要職に就けなくなります」

「なるほど、出世欲旺盛な菊池上人には強烈なムチですね」

 景山は鳥肌が立つ思いだった。

 森岡が転んでもただで起きる男ではないと承知してはいたが、この絶体絶命とも思える窮地までも逆手にとって、菊池に対する意趣返しを企んでいたとは、景山には考えも及ばないことだったのである。


 森岡の話は続いた。

 ヘネシー・XOのダブルを喉に流し込み、バーテンダーにお代わりを注文すると、口調をあらためた。

「ところで、瑞真寺というのはどういうお寺でしょうか」

 森岡は、胸の中で大きくなる存在の正体を問うた。

「何かありましたか」

 そう聞き返した景山の面が、何処かしら緊張の色を滲ませているように見えた。

「いえ。最近しばしば耳にするものですから、気になりましてね」

 森岡は差し障りなく答えた。

 景山は、瑞真寺建立に至った経緯を詳細に話した。

「天真宗にはそのような歴史がありましたか」

 森岡は呻くように言った。

 その数奇な誕生秘話を知ったことで、瑞真寺の存在が心の中に一層重く圧し掛かって来たのである。

 森岡は、ふっと息を吐いて気分転換を図った。

「ところで、この際景山さんには私の密かな計画を打ち明けておきましょう」

「そのような重大事を私などに話して良いのですか」

 景山が遠慮深げに訊いた。

「先ほど総務さんにお話したこととも関わりがありますので、貴方には申し上げておきます。ただ、これはあくまでも私一人の存念であって、神村先生はご存知ありません」

「承知しました」

「私の眼中には、神村先生しかないことは前にも申し上げました」

 景山は黙って肯いた。

「私はその先生の将来の絵図を勝手にこう描いています。まず、本妙寺の貫主の後は二、三年で退位される久田上人の後継として、別格大本山・法国寺の貫主に上がって頂きます」

 景山は黙ったままだった。

「その法国寺の貫主も三年から五年で退位して頂き、次は天山修行堂の正導師に就いて頂こうと思っています。もっとも、これは久田上人の寿命とも関連しますので、多少の前後はあるかもしれませんがね」

 景山はうむ、と息を一つ吐いた。

「最後に、天山修行堂の導師を十年ほど務めて頂いた後、永井上人の後継として、総本山の法主に上がって頂こうと思っています」

 森岡は他人に対して、初めて己の野望の全てを披瀝した。

 森岡がブックメーカー事業を十五年限りとしたのは、神村の法主擁立という遠大な夢を抱いていたからである。この密かな野望の実現のためには、神村自身だけでなく、側近である森岡もまた身綺麗にしておくことが肝要だった。

「やはり、そうでしたか。貴方のことだから、それくらいのことは考えておられると思っていました」

 景山は、顔色一つ変えずに言った。すべて予想済みだったのである。

「まあ、私が勝手に夢を描いているだけですから、実現できるかどうかわかりませんし、それ以前に先生がご承知下さるかどうかも不明ですがね」

「神村上人の御意思は別として、一見無茶な話のようですが、貴方の力を持ってすれば実現可能かもしれません。先ほどの清堂上人とのお話で、すでに天山修行堂を手中に収めておられるようですから……」

 総本山で生きてきた景山は、在野から法主に駆け上がることの難しさを知っていた。その彼ですら、森岡の智力と財力を持ってすれば、強ち叶わないことではないと思ったのである。

「問題は法主の座ですね。一旦滝の坊に籍を移すとしても、相当な抵抗があるはずでしょうから」

「いや、神村上人なら万人が認める逸材ですし、見渡したところ、他の名門宿坊の中に、傑出した人物もいませんので可能性はあるでしょう」

 と言ったところで、景山の面が引き締まった。

「ただ一人を除いてはね」

「ただ一人……中原遼遠(りょうおん)上人ですね」

 そうです、と景山は肯いた。

「現在、宗務院の宗務次長という要職に就かれておられます。永井宗務総長が総務に上がられた後の、後継の有力候補の一人です。さすが、望めば法主の座も夢ではなかった是遠上人の血を受け継ぐだけのことはあって、なかなかの大器と評判の方です。順調に行けば、森岡さんが目論まれる永井上人の後の法主の座を巡って、かち合うかもしれません」

 神村が得度した総本山の滝の坊は、栄真大聖人の一番弟子だった栄招上人が開基した名門中の名門宿坊である。神村の師だった中原是遠は、その識見、人徳から法主の座も夢ではなかったが、小学校から高校までの同級生だった朋友の栄薩現法主を担ぐことに徹した。

 中原遼遠は、その是遠の実子で神村より五歳年下の弟弟子に当たった。

「もしそうなると、先生の御性分からして、恩師の子息を相手に身を引かれることも十分に考えられますからね。正直に言って、それが気掛かりではあります」

「しかしそれすら、これから二十年もの時間があれば、根回しするには十分だと思っておられるのでしょう。そのために、永井宗務総長や弓削上人、妙智会を味方に付けられたはず」

 森岡は小さく肯いた。

「そこで、景山さんにも力になって頂きたいのです」

「私? 私にできることなど、高が知れていますよ」

 景山は顔の前で手を振った。

「いいえ、重要な役割があります」

 森岡は景山を見据えた。

「貴方には、神村先生の後の天山修行堂をお任せしたいと思っています」

「ええっ! 私に天山修行堂を……」

 茫然自失となった景山の手からグラスが滑り落ちた。

 神村の未来の話には平然としていた景山も、自身に関する思い掛けない言葉に激しく狼狽したのである。

「すいません」

 とあわててグラスを拾い上げた景山に、

「そうはいうものの、二十年も先の話ですけどね」

 森岡は笑い掛けた。

「じ、時期がどうのこうのという問題ではありません。私などに務まるはずがないでしょう」

 景山の口調は整っていなかった。あまりのことに、いかな有能な彼でも消化し切れないのだ。

「まあ、落ち着いて下さい」

 森岡は宥めるように言うと、 

「以前申しましたように、失礼ながら私は貴方の能力を買っています。是非、お考え下さい」

「しかし、私に資格があるでしょうか」

 景山は、総本山の者が天山修行堂に入る当然の懸念を口にした。 

「むろん貴方には、それまでに天山修行堂で荒行を二度成満して頂かなければなりませんがね」

 神村のときもそうであったが、通常総本山の宿坊僧である景山が、天山修行堂で荒行を行うことには非難の声が上がる。しかし森岡は、先刻総務清堂に約束したことへの布石と捉えれば、師である清堂も理解を示すであろうと推察していた。

「二回で良いのですか」

「結構です。貴方は、すでに妙顕修行堂で五回荒行を達成しておられますので、併せて七回達成したことになり、後継者として十分な資格を得られます。その頃には清堂上人もこの世にはいらっしゃらないでしょうから、誰憚ることなくその座に就けるでしょう」

 そう言った森岡だったが、内心は八回を希望していた。確たる規定はないが、歴代の法主は荒行を八回成満していた。影の法主と目されている久田帝玄、次期法主が内定している清堂の二人も八回満行したと聞いていた。

 したがって法主と並び称される久田帝玄の後継者ともなれば、同様に八回を期待したいところだが、景山の負担になることを考慮して七回と言ったのである。また、景山であれば、自ら八回目に挑戦するだろうという信頼もあった。

 森岡の目が鋭くなった。

「それに、一度その座に就いてしまえば貴方の好きなようにできますよ」

「え?」

 景山の頭には言葉の意味が響かなかった。

 森岡は不敵な笑みを浮かべた。

「総務さんとの約束どおり、天山修行堂を総本山の管轄下に置くか、あるいはそのままにしておいて貴方が影の実力者となり、天真宗を裏で支配するか、ね」

「そ、そんな、恐れ多い」

 景山は怯むように言った。

「貴方に渡してしまえば、私は総務さんとの約束を果たしたのも同然ですから、その後は一切関知しませんよ」

 森岡は捨て台詞のように言った。

 その悪魔の囁きにも似た彼の言葉は、忘れていた酔いを一気に揺り戻し、景山はすっかり悪酔いをしてしまった。


 景山と別れ、部屋に戻って内湯に入っていた森岡に来客があった。すでに日付が変わっていた。時を選ばぬ訪問客に、身構えて応対に出た蒲生は、ドアの前に立つ来客の姿に安堵の息を漏らした。

 森岡を訪ねて来たのは、置屋・鈴邑(すずむら)の女将と芸者の小梅だった。

 慌しく風呂から上がった浴衣姿の森岡は、

「どうかしましたか」

 と訊ねた。

「こんな深夜に申し訳ありません」

 頭を下げた女将に、

「時間は構いませんが、何か不都合なことが生じましたか」

 と、森岡は気遣った。

 それというのも、総務清堂との宴会のとき、この小梅も呼んでいたのである。人格者の清堂や景山に限ってまさかとは思ったが、無理難題を押し付けたのではないかと疑ったのである。

 森岡の懸念を察した女将は、 

「とんでもありません。総務さんはむろんのこと、お連れ様にそのような不埒な方はいらっしゃいません」

 と強い口調で払拭した。

「では、どういった用件でしょう」

 森岡の重ねての問いに、女将はいっそう緊張の面になった。

「この小梅を助けてやってもらえないかと」

「助けるとは?」

「小梅を身請けしてやって頂けないかと……」

「身請け?」

 一瞬、戸惑いの表情になった。

「いくらですか」

「それが……」

 女将は口籠もった。

「遠慮なくどうぞ」

「六千万でお願いします」

「ほう」

 森岡は思わず息を吐いた。

 身請けの相場は――といっても相場など有るようで無いようなものであるが――二千万円前後である。小梅は芸者になったばかりの二十歳。端正な美人というわけではないが、男好きのする顔立ちで、色白の肉感的な身体をしていた。

 下賤な言葉で言えば、たしかに上玉の部類ではある。しかしながら、それでも精々倍の四千万円が上限であろう。女将の提示した金額は法外といっても良かった。

「何か込み入った理由があるようですね」

 裏事情を察した森岡が訊いた。

「実は、小梅の父親が事業に失敗しまして、六千万の借金を抱えてしまったのです」

 女将はやるせない声で言った。

 花柳界ではよくある話である。近年は少なくなったとはいえ、花柳界に飛び込む理由の一つが借金、それも親のそれである。女将はこれまで何人ものそういった女性を見て来ていた。もっとも、今も昔も手っ取り早い借金の返済手段は風俗の世界に身を置くことである。

「お父さんはどのような事業をされていたのですか」

 森岡は小梅に訊いた。自身の身請け話である。事情を説明させ、覚悟の程を量ろうとしたのである。

「父は、御山で土産物を扱う商売をしていたのですが、三年前に御山の材木に手を着け、失敗したのです」

 小梅ははっきりとした口調で言った。

 彼女のいう御山とは総本山全体のことである。当然のことながら、総本山真興寺の周辺には門前町が開け、参詣客を相手の土産物店が軒を連ねていた。小梅の実家はその中の一軒だった。

 これもまた言うまでもないが、妙顕山をはじめ周囲の主だった山々は天真宗が所有している。その広大な山野に生い茂った檜、欅、杉といった樹木は、適度に伐採されて業者に売却されたり、総本山の堂塔伽藍の新築、改修に用いられたりしていた。

 その際は、いわゆる山師(やまし)が介在することになる。山師は、古くは山々を渡り歩いて金などの地下資源を探す技術者あるいは科学者であったが、近年は一山当てて大儲けをしようとする輩が多くなった。そのため、胡散臭い詐欺師的な話をする者を山師というようにもなった。

 山林に関わる山師とは、一目で山の価値を算出する人物のことを指す。樹木の種類、数、品質などを一目で見抜き、概算金額を弾き出すのである。この山師の判断が売買値の参考になったため、その眼力は重要であった。

「お父さんは、なぜそのようなことに」

 手を出したのか、と森岡は訊いた。地道な商売していた者がなぜ、との疑念である。

「馴染みの業者に唆されたのです」

 小梅は恨みがましい語調で言った。

 その業者とは二十年来の付き合いで、十年前に一度、檜三百本、欅二百本、杉二百本を三千百万円で落札したことがあったという。

 今回はその五倍強の量だったため、総額は一億六千万円となった。資金に余裕のなかった業者は利益を折半するという条件で、不足分の一億円を用立てて欲しいと相談を持ち掛けた。この商談の場合、三割の利益を乗せて転売することが見込めた。つまり、小梅の父の懐には労せずして三千万円が手に入ることになった。

 業者は信用できる男だった。年に七、八度も総本山を訪れ、その度に店に顔を出し親交を深めた仲だったのである。

 小梅の父は預金を下ろし、不足分の八千万円は家の土地建物を担保にして金融機関から借り受けた。土地建物の評価は担保価値を下回ったが、材木の伐採権を追加担保として差し出す条件が付記されていた。

 そうして首尾よく材木の権利を落札したのだが、いざ伐採の段になって異変が起こった。切り出しのため山に入った作業員の一人が行く方知れずになったのである。作業中に不足の事故が起こったという報告はなかった。その証拠に懸命な捜索にも遺体は発見されなかった。

 この不可思議な事件は『神隠し』として門前町の人々の口の端に上った。

「神隠し、ですか」

 森岡は不審げに言った。

「噂はこの近辺まで広がりましたから、御山は大変なことだったと思います」

 女将が言い足した。

「結局、この一件を御山の祟りだと恐れた伐採を請け負った会社が手を引いたのです」

「それで一億円が焦げ付いたのですね」

 そうです、と小梅は肯いた。

「事業を持ち掛けた業者に支払い能力はなく、材木の権利を譲渡するということで許しを請うてきました」

「では、どなたかに権利を譲られれば良いのではないかな。元は一億六千万の価値があるわけだから、半値でも八千万は回収できるでしょう。損には違いありませんが、金融機関からの借り入れ分は返済できたでしょう」

「もちろん、父も懸命に転売先を探しましたが、何といっても霊験灼な天真宗の御山です。一旦ケチの付いた材木を買取ろうという者は現れませんでした」

 そう言って小梅はうな垂れた。

「触らぬ神に祟りなし、というですか」

 森岡は同情の声で呟いた。

「私が芸者となって父を援助していますが、まだ六千万円の借金が残ったままです。それでも利息を払い続け、何とか差し押さえを免れてきたのですが、突然、土地家屋を差し押さえるとの最後通牒が届いたのです」

「何の前触れも無くですか」

「はい」

――銀行は、そのような荒っぽいことはしないものだが……。

 森岡は、きな臭いものを感じ取ったが口にはしなかった。

「しかし、なぜ私なのかな」

 森岡は当然の疑問を口にした。

「それは……」

 小梅が当惑の顔を女将に向けた。女将が小さく顎を引いて代わりに答えた。

「実は、その危難を救ってくれそうな人が、現れたのは現れたのですが」

 と語尾を濁した女将に、

「彼女の身体が条件というのですね」

 森岡は察したように言った。

 大学生の頃から花柳界を良く知る森岡は、この手の話には通じていた。なにせ、彼の最初の女性も当時『菊乃』という源氏名の芸者だった片桐瞳である。

「そうです」

 女将がやるせなそうに言う。

 森岡は小梅を見たが、彼女は俯いたままだった。森岡には、それが恥じらいというのとは違った印象を受けた。

「どのような人物ですか」

「それは……」

 今度は女将が口籠った。

 森岡は、口留めでもされているのだろうかと思ったが、

「無理にとは言いません」

 と少し突き放したように言った。都合の悪いことはだんまりを決め、虫の良い話をするな、という思いが籠っていた。

 それが女将には伝わったのか、意を決したように、

「『カワハラ』という五十歳絡みの実業家です」

「カワハラ……他には?」

「天真宗とも関わりが深いらしく、年に数度総本山を参詣しておられるようで、岡崎家(こちら)に宿泊された際、小梅も座敷に呼ばれたのです」

「気に入られたわけですね」

「はい、一目で」

 女将が答えた。

「私に相談されたということは、その話、嫌なのですね」

 森岡は小梅に念を押し、こくりと肯いた彼女に、

「でも、なぜいきなり身請けなのかな」

 と訊いた。

「えっ」

 小梅が当惑顔になった。

「まずは、借金を申し込むのが普通じゃないかい」

 小梅は一瞬言葉に詰まったが、

「六千万なんていう大金、私には返済する当てがありません」

 と気丈な声で答えた。

 たしかに六千万円という額は、おいそれと返済できる額ではない。余程の人気芸者になり、馴染みの客が付かなければ無理な相談だった。仮に、借金を肩代わりする新たな身請け話が舞い込んだとしても、人物的に森岡より好条件とは限らないのだ。

「なるほど、それで身体を売るということですね」

 森岡は辛辣な言葉を浴びせた。

 二人は困惑の表情を見せた。彼女らが知る森岡にしては、予期せぬ厳しい言葉だったらしい。

「私だって男ですからね。小梅さんなら自分の物にしたいのはやまやまですが」

 森岡は前置きすると、

「良いのですか、日陰者ですよ」

 森岡は独身だが、愛人だと宣言した。

 小梅はしばらく考え込むと、意を決したように、 

「森岡さんなら構いません。助けて下さい」

 と訴えた。

「猶予はどれくらいありますか」

「二ヶ月ほどです。それまでに良い返事を貰えないときは、容赦なく立ち退きを迫るそうです」

 女将が代わって答えた。

「では、私に一ヶ月時間を下さい。前向きには考えますが、私だけを頼りにせず、その間に他の解決策も考えてみて下さい」

 森岡はそう言うと、所有する土地建物と山林伐採の権利書の写しを要求した。もちろんのこと、森岡が乗り気になったのは小梅の身体が目的ではない。彼の気を引いたのは総本山の材木であった。

 総本山の周囲の山々には良質の材木が密集していることを森岡は耳にしていた。これを契機に総本山の材木を扱えるようになれば、榊原への恩返しにもなるし、神村の法主就任へ向けての事業に使える、と考えたのである。


 翌早朝の六時、森岡は再び景山に面会を求めた。カワハラなる人物に心当たりがないか問うためである。

「このように朝早く申し訳ありません」

 森岡が非礼を詫びた。

 景山の目が一瞬泳いだ。昨夜の悪魔の囁きが蘇ったのである。

「き、気になさらないで下さい。七時には岡崎家(ここ)を発つつもりでしたから、お会いするならこの時間しかありませんでした」

 気を取り直した景山は真顔で、

「何かありましたか」

 と訊いた。昨夜の計画に齟齬が生じたと思ったのである。

「景山さんはカワハラという人物に心当たりがありませんか」

「カワハラ?」

 全くの予想外の問いに、気の抜けた声を発した。

「いや、失礼。そのカワハラという人物と何かありましたか」

「それが、突拍子もない相談を受けまして……」

 森岡は苦笑いしながら、小梅の身請け話をした。

「ほう。森岡さんが芸者の身請けをされる」

 景山はからかうように言った。むろん、森岡の目的が小梅の身体ではないと推量してのことである。

「カワハラとはどのような人物ですか」

「五十絡みの実業家で、天真宗の信者らしく、年に数度総本山に参詣するようです」

「男性ですね」

「そうです。この岡崎家にも何度か泊まったことあるようです」

「年に数度の参詣というのは、たしかに奇特な人物ですが、御山には年間に数十万人も参拝客があります。カワハラという名だけでは見当も付きません」

 と言った直後、景山の脳裡を何かが突いた。

――カワハラ? まさか……。

「どうかされましたか」

「ちょっと気に掛かることが浮かびましたが、杞憂かもしれませんので、まだ申し上げるほどのことではありません」

 さりげなく言った景山の面に、どこか陰鬱な影が射しているのを森岡は見逃さなかった。


 景山律堂の様子から、ますます『カワハラ』なる人物が気になった森岡は、帰阪の予定を変更して、真興寺の門前町に出向いた。寺社相手に商売をしている面高屋(おもだかや)を訪ねるためだった。

 九頭目らは岡崎家で待機することになった。平日とはいえ、門前町は参詣客でそれなりにごった返している。人目の多いところでの凶行はないと思われた。

「熊の親父っさんいるか」

 店に入るなり、森岡は奥に向かって声を掛けた。しばらくすると、奥から白髪の男性が笑みを浮かべながら出て来た。

「洋介か、久しぶりだな。お上人も御一緒か」

「いや、今回は俺一人だ」

「一人? それはまたどういうわけだ」

 白髪の男性は訝しげに訊いた。

「理由は後だ。それより飯を食わせろ。ビールもな」

「お上人の前とそうでないときとは、ずいぶんと態度が違うな」

 白髪の男性は嫌味を言ったが、顔は笑っていた。

「奥に入れ、典子に何か作らせる」

「典子? 典ちゃんが遊びに来ているのか」

「里帰りじゃない。戻って来たんだ」

「戻った? まさか離婚したのか」

 白髪の男性は黙って肯いた。

「まだ若いんやし、なんぼでもやり直しが利くやろ」

 慰め言葉を掛けながら森岡は店の奥に入った。

 この白髪の男性の名は面高熊太(くまた)といい、面高屋の十八代目当主である。

 面高屋は真興寺の門前に店を構えていたが、参詣客というより寺社相手の商売をしていた。主な商売品目は『水晶』と『数珠』である。他にも品揃えはしているが、この二品目で売上の七割を占めていた。

 水晶は殊の外神仏との関わりが深い鉱物で、会社や個人が神仏を祭る際、御本尊として水晶を祀ることも多い。例えば、僧侶が読経して水晶に菩薩などの念を入れるのである。

 事実、ウイニットの本尊は、神村によって大玉の水晶に観音菩薩が入魂されている。他にも、新築家屋の魔除けのために敷地の四方の土中に水晶を埋めることもある。

 総本山の滝の坊が、この面高屋から水晶を入手していた付き合いから、下山した神村も面高屋と取引があり、その関係で森岡も大学生時代には知己を得ていた。

 その後、森岡自身も面高屋から十センチ大以上の水晶を無制限に注文しており、併せて数珠も百個注文していた。無制限というのは、良い品であれば買うということである。かつて、東京目黒の大本山澄福寺貫主の芦名泰山説得のため、高価な墨を入手した手法と同様である。

 数珠にしても、伽羅(きゃら)製の高価なものだった。

 沈香香木(じんこうこうぼく)の中でも、とくに質の良いものを伽羅と呼んでいるが、彼はこの伽羅を数珠玉にした腕輪を面高屋から仕入れていた。近しい者への贈呈用である。

 こういった経緯から、森岡は面高屋の主人である面高熊太とは近しい関係にあった。

「洋兄ちゃん、有り合わせで良い? それとも寿司でも取ろうか」

 典子がビールとグラス、つまみを乗せた盆を手にやって来た。容姿は十人並みだが、学生時代はラクロスをしていた健康的で腹に裏表のない女性である。

「久しぶりに典ちゃんの手料理が食べたいな」

「じゃあ、静岡名物の富士宮焼きそばで良いかしら」

「良いね」

 そう言った森岡は、ビールを注いだ熊太に、

「ちょっと教えて欲しいことがある」

 と真顔を向けた。

「難しい話か」

 熊太が身構える。

「三年前の神隠しは知っているよな」

「神隠し? そりゃあ、この辺りの者は誰でも知っている」

「本当に神隠しなんて信じているんか」

 森岡は少し揶揄するように言った。

「正直に言えば、俺は信じてはいない。事故か何か裏があると思う。だがな、洋介、この場所柄を考えてみろ」

「しかし、余りに迷信過ぎやしないか」

 いや、と首を横に振った熊太の面が神妙になった。

「それには理由があってな。あの場所は、五十年前と三十年ほど前にも同じようなことがあったんだ」

「ほんまか」

 森岡も少し驚いた顔になった。

「五十年前は、俺はまだ子供だったが、御山が騒然となったことを憶えている」

「二度の伏線があっての三年前の事件だったということか」

 森岡は腑に落ちた顔になると、

「じゃあ、今福屋の災難も知っているな」

 と訊いた。今福屋は小梅の実家の屋号である。

 もちろんだ、と熊太は肯いた。

「主の野津さんとは業界の集まりで見知った仲だ」

「ということは……」

 森岡は小梅の身請け話を熊太に話した。

「野津さんから直接聞いた。芸者に落としただけでも胸が痛むのに、まして五十絡みの男の愛人などに……と慟哭されてな、他人事とは思えず俺も貰い泣きしてしまった」

 熊太は同情の声で言った。

「身請け話は本当だったのか」

 森岡は独り言のように呟いた。小梅の所作などから、もしや騙りではないかとの疑念を抱いていたのである。

「ところで、親父さんはその五十絡みの男に心当たりはないか。名はカワハラというそうや」

「カワハラ?」

 熊太は暫く記憶を辿った後、

「無いな」

 と答えた。

「かなりの実業家で、年に数度も真興寺に参拝するほどの信者らしいのだが」

「うん?」

 面高が首を捻った。

「カワハラに間違いないか」

「どういう意味や」

「よく似た名で、勅使川原(てしがわら)という男なら、お前の言った条件にピッタリ当てはまるのだがな」

「どういう人物だ」

「立国会(りっこくかい)の会長だ」

「天真宗の壇信徒会だな」

 森岡は確かめるように訊いた。

 彼は、天真宗の高僧である神村に師事しているとはいえ、それは思想、哲学といった学問上の弟子であり、天真宗の教義とは全く無縁のものだった。為に、天真宗周辺の事柄については、下世話に上る噂程度にしか認知していなかった。

 うむ、と熊太は首を縦に振り、

「立国会とは別に、個人的にも様々な事業を展開している大物だな」

 と畏敬の念を込めるように言った。

「仮にその男だとすれば、悪い話には思えないのだが」

 森岡も訝しげに言った。少なくとも経済的には恵まれているのだ。

 立国会の現在の会員数は三百五十万人ほどと言われている。全天真宗信徒の実に四割強であった。

 立国会の設立は、戦後まもなくの頃だった。当時の天真宗は、開宗以来最大の壊滅危機に瀕しており、宗門の再興に様々な手立てが施されていた。中でも、再興の最大の功労者は、私財を擲って天山修行堂を建立し、数多の僧侶を育て上げた久田帝法であるが、もう一人挙げるとすれば、立国会の創設者であり、現会長公彦の実父でもある『勅使河原公人(きみひと)』であろう。

 宗門の再興に尽力した久田帝法に対して、公人は壇信徒の結束に力を尽くした。帝法と同じく私財を投じて『財団法人立国会』を設立すると、宿坊の未整備な全国の名刹に隣接してホテルや旅館を建設し、自身が経営する旅行会社を通じて、寺社巡りのツアーを組み、会員には安価で提供した。

 また、数多くの寺社に護山会を組織し、自社グループの社員や知人に声を掛けて入会させた。戦後の貧しい時期、これらの方策が壇信徒の親睦と結束を生み、併せて各寺院の絶大な経済的支援となった。

 ただ、こうした善行の影で、勅使河原公人には常に負の噂が纏わり付いていた。終戦直後、帰国した公人は非合法市場、いわゆる『闇市』の支配者となったのだが、軍事物資を横流して得た資金と、隠匿したそれらを元手にしたのではないかという噂が広まったのである。

 職業軍人だった公人の、終戦直前の階級は陸軍大尉、任務地は旧満州だった。職業軍人ではあったが、実戦部隊ではなく、兵站(へいたん)つまり補給部隊の指揮官だったため、終戦直前の混乱期、補給物資を隠匿や横流しは容易かったと推察されたのである。

 噂はともかく、公人はそうして得た巨額の富で様々な事業を展開する一方、民自党の設立に資金を提供するなど、政商として政財界に大きな影響力を持つことになった。後年『昭和の妖怪』との異名を持った所以であった。

 その後、天真宗の復興ともに立国会の会員は急増大し、いまや天真宗に限らず、我が国最大の壇信徒会となったのである。勅使河原グループの相続と共に、立国会の会長の座も受け継いだ勅使河原公彦は、政財界だけでは飽き足らず、さらに右翼団体や暴力団とも繋がりを持ち、己の権力欲を満足せんとしていた。

「救ってやるのか」

「どうしようかと迷っている」

「お節介焼きのお前にしては珍しいな。金が惜しいわけでもあるまいに」

「この辺りがな、もやもやとしているのや」

 と、森岡が左胸を擦ったとき、典子が出来上がった料理を運んできたため、話が中断した。

「それはそうと、洋介、お前が典子を貰ってくれないか」

 熊太が突拍子もないことを言い出した。その面は冗談とも本音とも見分けがつかない。

「俺が?」

「言っちゃあ悪いが、ちょうどお前も独り者だ」

「典ちゃんなら、気心が知れてるから文句はないが……」

 森岡は困惑顔で言った。

「まだ、奥さんのことが忘れられないのか」

「そうやない。小学生の頃から知っている典ちゃんは、妹のような感じやからなあ」

 茜との関係は、神村や榊原、福地にも明らかにしていなかった。故に、適当に誤魔化したのだが、

「私だって洋兄ちゃんはお断りよ」

 と、都合良く典子も同調した。

「お前も兄のような感じなのか」

「それもあるけど……」

「洋介のどこに不足があるんだ」

 熊太が不満げに言った。

「不足なんてあるはずないじゃない」

 典子も怒ったように言い返した。

「だって、洋兄ちゃんは女にもてるでしょう」

「前の亭主の二の舞は御免ということか」

 熊太が苦い顔をした。

「洋兄ちゃんは、ただの女好きに過ぎない前の夫とは違うわよ。でもね、料理していて耳に入って来たけど、小梅さんの身請け話って洋兄ちゃんにでしょう」

「ま、まあね」

 森岡は決まりが悪そうに答えた。

「そういう風に女の方が洋兄ちゃんを放っておかないでしょう。嫉妬で身が持たないわ」

 と、典子は嘆息した。

「離婚の原因は旦那の浮気だったの」

「そう。そりゃもう酷かった。でも、私の男を見る目がなかったのだから、自業自得とも言えるわね」

 典子が自嘲気味に言うと、

「洋介が駄目なら坂根君か蒲生君、いや足立君でも、と言いたいところだが、若い三人に出戻りを押し付けるのは忍びない」

 との熊太の言い草に、

「父さん、犬や猫をやるみたいな言い方は止めてよ!」

 と言葉を荒立てた。

 まあまあ、と森岡は宥めると、

「じゃあ、真面目な男なら再婚する気はあるのかい」

「真面目なだけじゃ駄目よ。生活力もなくちゃ」

 典子は嘯くように言った。

「真面目で高収入という条件ならお薦めの男がいるけど、一度会ってみるか」

「誰だ」

 典子より先に熊太が身を乗り出した。

「住倉哲平といって俺の片腕だ」

「お前の片腕ということは、仕事ができるということだな」

「もうすぐ榊原商店という会社の社長にする予定だ」

「榊原商店って、まさか榊原荘太郎さんの会社じゃないだろうな」

 熊太は目を丸くした。

「そうや、よう知っとるな」

「当たり前だ。寺社相手の商売をしている者で、榊原さんの名を知らなかったら潜りだ」

「あの爺さんはそないに有名か」

 感心する森岡に向かって、

「しかし、お前の片腕とやらを、榊原商店の社長にするとはどういうことだ」

「榊原の爺さんの会社を俺が継ぐことになったんやが、俺は他にあれこれと事業を抱えとるから、当面代役として住倉を社長に仕立てるという算段なんや」

「榊原さんの後をお前が継ぐってか」

 熊太は表情を強ばらせた。

 榊原商店どころか、味一番も含めた持ち株会社の社長に就任することを知っている坂根らは、何食わぬ顔で聞いていた。

「住倉は無欲、正直、真面目を絵に描いたような男や。せやから、俺も彼に金庫番を任せてきた。同じ寺社相手の商売をすることやし、典ちゃんの旦那としてはぴったりだと思うがな」

「ねえねえ、外見はどんな?」

 典子が興味深げな声で訊いた。

「身長は俺よりやや高いくらいのやや細身で、顔はまあ並やと思うで」

「年は?」

「問題はそれや。俺より二歳年上の三十八歳や。典ちゃんの一回り上やな」

「三十八歳、再婚か」 

 熊太が自分の娘のことを横に置いて疑念を挟んだ。

 いいや、と森岡が首を横に振った。

「住倉は四人兄弟の長男でな。大学生のとき父親を亡くし、その後三人の弟を父親代わりとなって面倒を看たんや」

「それで、婚期が遅れたというわけか」

「苦労人やから、人情の機微にも通じている。熊の親父っさんも大事にしてくれると思うで」

 森岡はそう言った後、思案顔の典子に視線を移した。

「あかんか」

「ううん」

 典子は首を横に振ると

「再婚だけど、良いの?」

 と不安を覗かせた。

「そんな事を気にするような男やない。幸というか、子供もおらんことやし、典ちゃんなら気に入ると思うけどな」

 森岡が太鼓判を押すと、

「だったら、洋兄ちゃん、一度本人に内緒で会わせてくれない」

 と、典子は目を輝かせた。

「おう。その気があるなら、こっちで段取りをしたろ。せっかく大阪に来るんやったら、京都や奈良も見物させたるわ」

「でも、寺社観光は勘弁してね」

うんざりといった顔で言った典子に、

「それなら神戸やな」

 と、森岡は苦笑いした。

「洋介の部下やったら、人物は間違いないだろう。宜しく頼むわ」

 面高熊太が喜色の射した顔で言った。

「その代わり、坂根と統万が面倒を掛けることになるかもしれんで」

「え?」

 名指しされた二人が驚きの目で森岡を見た。

「坂根。この一件、お前に任せる。統万と二人で裏事情を探れ」

「……」

 無言の坂根に、

「この話、何かすっきりとせん。金が惜しいわけやないが、どうせなら気分良く出したい」

 とわだかまりを漏らした。

「社長は単純な身請け話ではないとお考えなのですね」

 森岡は小さく肯き、

「総本山のことは、この熊太の親父に訊けば大概のことはわかるやろ。景山さんに相談してもええし、必要とあれば伊能さんの会社を使ってもええで。二人には話を付けておく」

 と言い添えた。

「わかりました。では、このまま静岡に留まりましょうか」

「いや、一ヶ月の時間があるから、しばらく様子を見てからでええ。その間に、向こうで解決出来りゃそれにこしたことはないしな」

 森岡はそう命じ、 

「それとな、今度こっちへ来た時は、宿は岡崎家にしろ」

 と指示した。 

「それは贅沢過ぎます」

 坂根がとんでもないという顔をし、統万も肯いた。 

「心配するな、一番安い部屋を取る」

「はあ」

「滞在中にな、小梅を含め芸者を呼んで何度か騒げ」

「そ、それはいくらなんでも……」

 坂根は即座に遠慮した。

「坂根、これも経験やで。別に芸者をどうこうしろとは言わんがな」

 池端敦子の憤怒の顔が脳裡に浮かんだ森岡は、

「さあ、話はこれくらいにして、冷めないうちに典ちゃんの手料理を頂こう」

 と含み笑いを堪えながら言った。










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