第23話  第四巻 欲望の果 嫉妬 

 天真宗・別格大本山法国寺の貫主久田帝玄との面会を翌日に控えたその夜――。

 どうにも寝付けない森岡洋介は何度も寝返りを打っていた。そして、深夜三時過ぎを確認すると、とうとうベッドから起き上がりリビングへと移った。

 一昨日、森岡は北摂高度救命救急センターの理事長を通じて、帝玄との面会を取り付けていた。しかも帝玄は、密会場所として病室ではなく法国寺を指定した。

 まさに、森岡が推測したとおりの展開となったのだが、そうはいうものの、彼の真意がどこにあるかは不明のままだった。

「洋介さん、眠れないの」

 風呂上りの茜が缶ビールを片手に顔を覗き込んだ。

 島根から戻った直後から、二人は半同棲生活を送るようになっていた。平日に深夜まで飲んだときには、洋介が都島の茜の高層マンションに泊まり、週末には箕面にある洋介のマンションで一緒に過ごしていた。二人は本妙寺の件が片付くのを待って正式に入籍するつもりでいた。

「こないに落ち着かんのは久しぶりやな」

「洋介さんが緊張で寝付けないなんて、余程のことなのね」

「なんせ、相手は御前様やからなあ。それも向こうの意図がわかっていれば俺も前もって手が打てるのやが、今回は全く見えてこん。とにかく、その場の成り行きによって臨機応変に対応せなにゃならん。御前様相手に、これは難儀なことや」

 洋介は陰鬱そうな顔で、茜から手渡された缶ビールを一気に飲み干した。

「でも、御前様ほどのお方が裏切りなどという卑怯な真似をされるかしら」

「普通に考えれば、誰かてそう思うやろうな」

 茜に同調した洋介は、

「せやから、そうせざるを得ない切迫した事態に陥っておられると思うのやが、その見当がいっこうに付かんのや」

 と渋い顔をした。

「手掛かりは全くないの」

「いや、ないこともないが……」

「どんなこと」

「御前様は、関東の広域暴力団の息の掛かった金融屋から相当な借金をしておられる」

「それが絡んでいるということではないのね」

「おそらく、法国寺の宝物が消えた件には絡んでいると思うが、どう考えても仮病を装ってまで合議を延期されたこととは結びつかんのや」

 洋介は首を捻った。

 もし、久田帝玄が金に窮しているのであれば、むしろ神村を早く本妙寺の貫主に据えた方が得策であった。というのも、神村が貫主になれば様々な事業が動き出し、それに伴って多額の資金が流入するからである。洋介が解せなかったのは、その資金の一部融通が可能であることを帝玄自身も承知しているはず、ということだった。

「そういうことですか」

 そう言って茜は冷蔵庫から新しい缶ビールを取ってきた。そして一口飲んだ後、肩越しに手渡すと、そのまま腕を洋介の首に巻き付けた。

「なあ、茜。この頃俺は、本妙寺の前貫主だった山際上人が亡くなられた直後から、何かどす黒い陰謀が蠢いているような気がして仕方ないんや。筧と宇川の裏切りもそうやが、それ以外にも不明なことが多々ある」

 洋介は振り返って茜に顔を向けた。

「総務清堂による法国寺の黒岩前貫主への勇退勧告や、藤井清慶による御前様の醜聞のリークと規律委員会への提訴。それらを裏で画策したのも、そして今回の御前様の件もその黒い陰謀の一環のような気がするんや」

「黒い陰謀って、正体不明の誰かが御前様をも動かしているって言うの? そんな人が天真宗の中に、いえこの世の中にいるとでもいうの」

「常識的に考えればおらんやろうな。けど、御前様の弱みを握っている奴がいるとしたら、どうやろうか」

「弱みっていえば、それこそ暴力団からの借金がそうなのだろうけど、違うのでしょう」

「そうなんや。せやから借金の問題以外に何かあるんや、何かが……俺は何か重大なことを見落としているような気がしてならんのや」

 そう言うと、洋介は天井を見つめて深い溜息を吐いた。

 外はすでに東の空が白み始めていた。

 カーテンの隙間から差し込んだ光の陰影で察知した茜は、

「外が明るくなってきたわ。洋介さん、眠れなくても横になって身体を休めた方が良いわ。なんといっても、今日は一世一代の大一番なんだから」

 と、洋介の手から飲み掛けの缶ビールを取り上げ、寝室へと彼の背中を押した。

「大一番か。大相撲で言えば、まるで東の正横綱に幕下が挑むような、本場所では到底ありえん取り組みやな。御前様が片足でも骨折しておられん限り、とても勝ち目はないな」

 冗談とも愚痴ともつかぬことを言って、洋介は寝室へと向かった。

  

 翌朝、森岡は京都山科の法国寺に久田帝玄を訪ねた。

 帝玄は森岡との面談のため、入院先である大阪吹田の病院を密かに抜け出ていた。

 法国寺を抱く山々は、早くも秋の装いを纏い始めていた。まるで申し合わせたかのように順序良く色づき始めたカエデ、ツツジ、ニレ、ブナ等は絶妙のコントラストを放ち、五十にも及ぶ塔堂、伽藍、子院といった人工物も、大自然と見事に同化して悠久の時を讃えている。

『西の総本山』との異名を持つこの大院は、かつては京都五条にあり、数代におよぶ天皇の御綸旨十余通を所蔵していることでもわかるように、長年に亘り勅願道場として栄華を誇っていた。

 比叡山延暦寺を御所の北東の鬼門とすると、法国寺は南西の裏鬼門にあたり、その配置からしても、かつては天皇家鎮護の祈願所たる権威を誇っていたことを窺わせる。

 なるほど、戦国時代には京都に上洛した大名がしばしば本陣とし、足利将軍家との謁見の場となったというのも肯けた。

 客間に請じ入れられた森岡は緊張の極致にいた。まさか、このような形で影の法主とも称される久田帝玄と合い見えることになろうとは、夢想だにしないことだった。

 彼は、腹の中から一切の駆け引きを除去していた。そもそも駆け引きが通用するような相手でもなかった。ただひたすらに帝玄の本心を聞き出し、もし助力できる事が有れば、そこに活路を見出そうとしていた。

 望みがあるとすれば、こうして帝玄が面会に応じてくれたことである。もし、完全に反旗を翻したのなら、会う必要もないはずであった。

 しばらくして、ドアの向こうに人の気配がした。

「森岡君。良く来てくれたね」

 帝玄は、応接室のドアを開けて足を踏み入れるなり声を掛けた。

「御無沙汰しております。お元気そうで安心しました」

 不意を突かれた森岡は、あわてて立ち上がって頭を下げた。

「なあに、少し体調を崩したのを執事長が大袈裟にしたのだよ」

 帝玄は何食わぬ顔で言った。

「そうでしたか、そうお伺いして安心しました。また、本日はお時間を取って頂き有難うございます」

「いやいや、他ならぬ君だけには、何をおいても会わないわけにはいかない」

「恐れ入ります」

 もう一度頭を下げた森岡は、

――やはり、作為だったか。

 と確信したが、仮病についてはそれ以上触れなかった。

「しかし、君とは鳥取以来だね。私の晋山式でも顔を見なかったが、来てくれなかったのかね」

「とんでもございません。もちろん馳せ参じましたが、御前様のお近くには、皆さん御立派な方ばかりが居られましたので、挨拶は失礼させて頂き、隅の方で拝見しておりました」

「何を言っているのかね。私を法国寺の貫主に押し上げてくれた第一の功労者は森岡君、君じゃないか。何を遠慮することがあったのだね」

 帝玄の口調には、全く敵意が感じられなかった。森岡は、ほっと胸を撫で下ろした。

「醜聞による規律委員会の懲罰会議を乗り切れたのも、君が永井宗務総長に手を回したからだというじゃないか」

「なぜ、それを?」

 知っているのか、と森岡は訝しげな顔をした。

 永井大幹に協力を求めたことは、永井本人と弓削しか知らない事実だった。森岡は、二人には公言しないよう釘を刺していた。その証拠に、神村や谷川兄弟の耳にも入っていない。

 森岡の面に不審の色を見た帝玄は、

「永井宗務総長から直接聞いたのだ」

 と種を明かした。

「御本人から、ですか」

 だが、森岡の面には疑念が張り付いたままだった。

「正直に言えば、私も今度ばかりは覚悟していたのだ」

 帝玄は神妙な声になった。

「永井上人の査問にも一切の抗弁をしなかったので、必ずや厳罰になると思っていた」

――やはり弓削上人の推量どおりだったか……。永井宗務総長に手を回して正解だった。

 いまさらながら、森岡は心の中でほっと息を吐いた。

「ところが、戒告という軽い処分で収まった。そこで、永井宗務総長を問い質したのだよ」

「そうでしたか」

「君との約束を守り、彼は口を硬く閉ざしていたが、私の恫喝にも似た執拗な問い掛けにようやく真相を明かしてくれたというわけだ」

「永井上人には却って悪いことをしました」

「君には私から事情を明かすと言ってある」

 帝玄は、気にするなと首を横に振った。

「だから、晋山式では真っ先に礼を言おうと君を待っていたのだ」

 と言って帝玄は深々と頭を下げた。

「君には大変世話になった」

「御前様、どうぞ頭をお上げ下さい。御前様にそう言って頂けるだけで、私には十分です」

 森岡は湯飲みに手を伸ばした。濃い煎茶を一口喉に通し、いよいよ眦を決したとき、その気配を察知した帝玄が先に口を開いた。

「例のことだね」

「はい」

「私もね、君がそろそろ現れることだと待っていたのだよ」

「私を待っておられた?」

「そうだ。君のことだから、早晩今回の事を聞き付けるだろうし、そうなれば神村上人には内緒でここにやって来ると思っていたよ。上人は今日のことは知らないのだろう」

 森岡は小さく肯き、

「余計なご心配はお掛けしない方が良いかと思いまして」

 と独断での訪問である旨を告げた。

「そういう君だから、私は待っていたのだよ。君には何もかも話そう。それが、私に尽力してくれた君への義務だと思うのでね」

 帝玄も湯飲みを手に取り、二、三度すすった後、おもむろに話し始めた。

「まず、君の想像しているとおり、宝物を持ち出したのはこの私だ。そして、その行き先は石黒組なのだ」

「石黒組、ですか」

 森岡はとりあえず安堵した。

 帝玄の口から石黒組の名が出たことで、少なくとも彼が正直に打ち明けようとしていることは確かと思われた。

「週刊誌に書かれていたその石黒組だ」

 帝玄は唇の端を歪めた。

「石黒組には借金があってね。その担保の一部として、どうしても渡す破目に追い込まれてしまった」

 全ては彼に非があった。

 バブル時代、銀行の口車に乗って手掛けた不動産事業等々が、バブルが弾けたのと同時に悉く失敗して多額の負債を背負うことになった。その結果、危うく融資の担保に入っていた長厳寺の敷地のうち、駐車場と宿坊の土地を手放さざるを得なくなった。

 既(すんで)の所で彼を救ったのが、稲田連合の先代会長稲田政吉(いなだまさきち)であった。稲田は特別攻撃隊、いわゆる特攻の生き残りだったせいか、ことさら信心深く、よく帝玄の父帝法の元に訪ねて来ては、教えを請うていた珍しい極道であった。

 帝法の誼だった稲田政吉の紹介で、稲田連合傘下の石黒組の息の掛かった極東金融が低金利で肩代わりをしたのだが、しだいにその返済もままならなくなった。それでも、稲田政吉が生存中は帝玄との関係から取立ての催促などはなかった。

 だが稲田政吉が亡くなり、続いて彼の舎弟だった先代の石黒組長の死去に伴って代替わりしてからは、徐々に態度がよそよそしくなり、ついには担保にしていた長厳寺の土地を取り上げるという通告があったのだという。

 ここ数年、鎌倉近辺の再開発が進む中、長厳寺の約三万坪の敷地は魅力があったと推察された。とはいえ帝玄にしてみれば、鎌倉時代から脈々と先祖が守ってきた土地であり、父帝法と彼自身の努力によって、今日の隆盛を勝ち得た名刹である。簡単に手放せるものではなかった。

 そうこうしているときだった。

 別格大本山法国寺の黒岩貫主が勇退するという話が伝わってきた。八方塞だった帝玄に訪れた千載一遇の好機に、親交のある八王子興妙寺の立花玄湛(げんたん)貫主の推薦を得て立候補しようと考えた。法国寺の貫主になれば、他の本山とは比べ物にならない強力な護山会があり、新しい支援者も見つかるのではないかという期待があったからだ。

 だが、ほどなく藤井清慶が立候補すると聞き及んだため、資金に余力のない帝玄一人の力では勝利するのは困難と自重していたのである。

 神村正遠からの話が舞い込んできたのは、その矢先だったのである。

 まさに渡りに船とはこのことで、神村が支援してくれるとなれば、藤井清慶に勝利する見込みがあるのではないか、また経費の持ち出しも最小限で済むのではないか、と踏んで承諾したというのが真相であった。

「全く、お恥ずかしい限りだ」

 話し終えた帝玄は、両手で顔を覆い隠しながら俯いた。

 その仕種に、森岡は居た堪れなくなった。周囲から鎌倉の御前様と崇められ、影の法主と畏敬の念を抱かれる傑物も、彼の目には醜態を晒すただの老人にしか映っていなかった。

「そのような事情がお有りになったのですね。あのとき、御前様があっさりとお引き受け下さったので、拍子抜けした程だったのです」

 森岡は、長厳寺での初対面の折を想起して言った。

 帝玄が顔を上げた。

「しかし、あまりに時間が無かった。事業をするにしても、大きな収益を上げるまでには最低でも二年は掛かる。しかも、その収益はあくまでも別格大本山法国寺、つまり宗門に帰するものだ。長厳寺のように自由に扱うことはできないから、私的に流用しようにも、自ずと限度というものがあった」

「事業に出資ではなく、純粋な支援者は見つからなかったのでしょうか」

「いなかった。いや、法国寺の護山会ではないが、一人だけそれらしい者がいるにはいたのだがね」

 帝玄は口幅ったい物言いをした。

「その方には、断られたのですか」

「いや、相談を持ち掛けようと思ったのだが、途中で話ができなくなったのだよ」

「どうしてでしょうか」

 帝玄が肩を落とし、溜息を吐いた。

「その若者が、余りに一途に他の上人を支援していることがわかってね。しかも、その若者は法国寺の件でも、相当に助力してくれていた。私はそれ以上の助成など、とても言い出すことができなくなってしまったのだよ」

 森岡は、はっとなった。

「御前様。もしかして、その若者というのは私のことですか」

 そのとおり、と帝玄が大きく肯いた。

「あの鳥取での朝、電話で朝食に誘ったのは、腹を割って君に相談しようと思っていたからなのだよ」

 森岡は思わず唇を噛んだ。鳥取での早朝の電話を思い出したのだ。

――あのとき、御前様本人が直接電話を入れられ、さらに二人きりの朝食とされたのには、裏にそのような事情があったのか。

 森岡は未熟な己に忸怩たる思いになった。茜と結ばれて有頂天になり、洞察力の劣化を招いていたのは明白だった。

「遠慮なさらずにおっしゃって下されば、少しはお役に立てたかもしれませんのに……」

「そうだね。そうするべきだったかもしれないね」

 帝玄は弱々しい声で同調した。

「大変恐縮ですが、私は勝手に御前様を大師匠だと思っていました」

「大師匠?」

「神村先生は私の人生の師匠。御前様はその先生の師でいらっしゃるのですから、私にとっては大師匠に当たると心に刻んでおりました。ですから、私にできることでしたら何でもする覚悟でおりました」

「そうか。君が法国寺の件で私に尽力してくれたのには、そういう気持ちも含まれていたのだね」

「はい」

「そうとは知らず、君への相談を断念し、進退窮まった私はとうとう魔が差したように法国寺の宝物に手を出し、石黒組に担保として渡してしまったのだよ。実に愚かなことを仕出かしてしまった。いまさら後悔しても仕方のないことなのだがね」

 苦悶の表情が、森岡の目に痛々しく映っていた。

――金というのは恐ろしい。これほどの偉人でも抗しえないのか。

 彼は、その苦悩地獄から帝玄を救い出せるものならば、とついに核心に触れた。

「失礼とは思いますが、極東金融からお借りになった残金がいくらかお教え願えませんか」

 転瞬、帝玄の目つきが変わった。かっと見開いて、森岡の心中を見抜かんとしているかのように睨んだ。

 森岡は決して目を逸らさずに相対した。彼もここが正念場だと本能的に見極めていた。それは瞬時の間であったが、森岡には永遠の流れように感じられた。

 もとより帝玄も、森岡に二心などあるはずもないことは顔を合わせたときから承知していた。

 やがて、彼の重い口が開いた。

「利息を含めて十億だ」

――少ない。

 と、森岡は思った。

 彼は、伊能の報告以来、頭にこびり付いて離れなかった二十億円という数字の半分の額に、勇気付けられた思いになった。

「その十億円、私が立て替えましょう」

 自然と口を衝いて出た。

「なに! 十億円全部をかね」

 帝玄も思わず驚きの眼で森岡を見返す。

「そうです」

 森岡はそう言った後、一つ息を呑んで頭の中を整理した。

「とりあえず、一週間後に三億を用意致しますので、そのときに宝物を返却してもらって下さい。残りの七億は一ヶ月後に用立てます。どうでしょう。この条件で先方は承知するでしょうか」

「それならば問題はないと思うよ。しかし、本当に良いのかね」

 帝玄は不安顔で訊いた。

「ただ、一つだけ条件がありますが、宜しいでしょうか」

「もちろん構わない」

「聞くところによりますと、天山修行堂の敷地は御前様が買い取られて、個人名義となっているとのことですが、間違いないでしょうか」

「間違いない。元々は大本山興妙寺の敷地内に建立したものだが、その後私が譲り受けている」

「では、その天山修行堂の敷地を担保に入れさせて下さい」

 その瞬間、帝玄が厳しい顔つきになった。

「と、申しましても、どうぞご安心下さい」

 森岡は懸念を払拭するように、両手の掌を二、三度顔の前で大袈裟に振った。

「私は、不動産業者ではありませんから、土地自体に興味はありません。興味があるのは天山修行堂の後継者問題です」

 ほう、と帝玄が目を細める。

「僭越ながら、御前様は後継者を決めかねておられると承っております。しかも、血縁には拘っておられないとか……」 

「そのとおり。私には一人娘しかいなくてね。婿を後継者に育てようと努力したのだが、天山修行堂を受け継ぐまでには至らなかった。何しろ、今や天山修行堂は全国の優れた僧侶が、さらに自らを高めようとして籠もるお堂だからね。それ相応の能力がないととても務まらないし、能力を無視して血縁者を後継者に据えるような私物化も許されない。だから、天山修行堂は然るべき人物に託そうと思っているのだよ」

――園方寺の道仙方丈の推量は間違いではなかった。

 と心の中で膝を叩いた森岡は、己の野望の一端を口にした。

「そういうことでしたら、神村先生を後継者に指名して頂けないでしょうか」

 帝玄が、ふふふと声もなく笑った。

「そりゃあ、彼が望むなら私としても願ってもないことだよ」

「そうなのですか」

 森岡は訝し気な口調で言う。

「森岡君は知らないらしいが、私はこれまで何度も天山修行堂を継いでくれるよう頼んでいるのだよ。だが、その度に断られている」

「先生は断っていらっしゃる? 何故でしょう」

「はっきりした理由を言わないが、おそらく彼のことだから、娘婿のことを気遣ってのことだと思うよ」

「先生なら考えられますね」

 森岡は同調するように言ったが、内心では他にもっと強い理由があるような気がしていた。神村を本妙寺の貫主へ押し上げようと奔走している森岡だが、なぜ神村がその座を求めたのか釈然としていなかった。神村は地位や金銭、権力などの俗欲とは無縁の人物である。その神村にしてみれば、前途有意な後人の指導に当たれる天山修行堂の後継者こそ天職のはずだ、と森岡は思ったのである。 

「その件は折をみて先生に進言すると致しまして、そのためにも土地を担保に入れさせて下さい」

 再度頭を下げた。

「そういうことであれば全く問題はない。もう一度言うが、天山修行堂は父帝法が開基し私が受け継いだが、宗門のためであれば私物化するつもりは微塵もない。神村上人が受け継いでくれるのなら本望だし、土地も建物も彼の名義にしてくれて構わない」

 そう断言した帝玄の目が少し懐疑的なものに変わった。

「その後、君は根抵当権を外すつもりだね」

「はい」 

「さすれば、私は十億円で君に売却し、君がそれを神村上人に寄進したと同じことになる。それなら十億円はちっとも惜しくないというのだろう」

「おっしゃるとおりです」

 森岡は笑みを浮かべた。

 しかし……と帝玄は大きな嘆息を漏らした。  

「鳥取のときも思ったものだが、君のような献身的な支援者に恵まれている神村上人は果報者だな。今日の件も上人は知らないと聞いてつくづくそう思う」

「とんでもないことです。私が勝手にやっていることですから。しかし、御前様と良いお話ができて安堵しました」

「安堵したとな」

「なんと言いましても、御前様は神村先生の向後になくてはならないお方です。もし、私が余計な事を致しまして、御前様と先生の間に溝ができるようなことになれば、私には償いようが無いところでした」

「なるほど、それで安堵したというわけか。十億も用立てる羽目になったというのに、いかにも君らしいな」

 帝玄は、森岡の神村を想う心根に心底から感服していた。

 一人を深く想い遣る心はいずれ万人に通ずる。それは山頂の一滴の雫が、やがて大河に通じているのと同じ道理である。

 帝玄は、もしこの男が宗門の世界に入って来たのなら、神村に断りを入れ、まずは自身の最後の弟子にしたい、とつい考えずにはおられなかった。

「では、この話はこれで終わりと致しまして、私にはどうしても御前様にお尋ねしたいことがあるのですが」

「何かな」

「宝物の件の事情はわかりましたが、それでは何故、結果的に本妙寺の合議の日を延期されたのでしょうか。私には御前様の負債と本妙寺との繋がりが、どうしても見えて参りません。むしろ、そういう状況でしたら、神村先生が早く本妙寺の貫主になられた方が、御前様にも都合が良かったのではないでしょうか。口幅ったい言い方ですが、現に先生が本妙寺の貫主になられたあかつきには、いくつかの事業が動き出す予定になっています。御依頼があれば、その中からいくらかをご融通することもできました」

「君が疑問に思うのも無理はない。ある事情がなければ、私も延期などしなかった」

「宜しければ、ある事情というのをお聞かせ願えませんか」

 うーん、と唸った帝玄は腕を組んで沈思した。

 重苦しい時間を森岡はじっと待った。

 やがて、  

「弟子の悪行をばらすようで心苦しいのだが、これもまた君に黙っているわけにもいかないな」

 と言った帝玄の表情には、再び陰影が射していた。そして、彼の告白は耳を疑う方向へと展開していった。


 実は、宝物の一件を森岡より早く嗅ぎ付けた男がいた。

 後日判明したことであるが、法国寺の執事の中にその男の息の掛かった僧侶が潜んでいたのである。帝玄は、直ちに内通した僧侶の職を解いたが、宝物の一件を知った男は、それを材料に帝玄を恐喝してきた。

 その要求は、

『天山修行堂を譲れ』 

 というものだった。三億円で買い取るというのだ。もちろん買い取りというのは裏工作で、表向きには『後継者に指名しろ』と要求してきたのである。

 なんと、森岡と同じ着眼をした切れ者がいたのである。

「考えることは、皆同様ということですか」

「たしかに目的は同じだが、手段と心根が君とは全く違った」

 帝玄は語気を強めて一刀両断すると、我が身の立身出世のみしか眼中にない男の魂胆を見抜いていたと付言した。

 もっとも、男の要求は今回が初めてではなかった。帝玄が借金で苦労している事実を知った男は、すでに三年も前から買収話を持ち掛けていたのだという。

「おそらくは、瑞真寺……」

 と、帝玄が思わず呟いたのを森岡は聞き逃さなかった。

「瑞真寺、とおっしゃいましたか」

 森岡は目敏く訊いた。

 だが、

「いや、なんでもない。今のは聞かなかったことにして欲しい」

 帝玄があわてて口を濁したため、森岡はそれ以上の詮索を控えざるを得なかった。

――やはり、瑞真寺は御前様に敵対していたか。

 森岡の心の中に細波が立った。

「少なく見積もっても六億は下らない土地を、半値の三億で買収すると申し出たこと自体は足元を見ただけでのことだったが、今回は話に応じなければ警察沙汰にするとまで口にした」

 帝玄は苦悶の表情で言った。

 そこまで聞いて、森岡の胸にある疑問が浮かんだ。

「此度の恐喝は論外と致しまして、これまで断り続けてこられた理由はその男は天山修行堂を受け継ぐには能力不足だったからでしょうか」

「いや、能力に限って言えば適任者だった。それこそ、娘婿などより断然な」

「では、どうしてこれまでお断りになったのでしょうか」

「繰り返しになるが、私には神村上人こそが意中の人物だったのだよ」

「はい」

 森岡は納得顔で肯く。

「これはね、森岡君。私だけの想いだけではなく、父帝法の切なる願いでもあったのだよ」

「御尊父様の?」

「神村上人は、父の最晩年に天山修行堂にやって来た。父は、いつか私にこう言ったことがあったよ。『神村君を初めて見たとき、私が待ち望んでいたのはこの若者だったと悟った』とね。私は、父に一度も誉められたことがなかったから、正直神村上人に嫉妬したこともあったが、その後の彼の精進振りを見るにつけ、なるほど父の気持ちが良くわかった」

「御前様ほどのお方でも、嫉妬をされたのですか」

 森岡は信じられないと言った顔つきで訊いた。

 帝玄ほどの高僧である。嫉妬などという劣情とは無縁だと思っていた。

「人間というのは厄介な生き物でね。私だって若いときは嫉妬だけでなく、仏教の教えに反して、人を憎んだり恨んだりしたものだよ」

「失礼ながら、御前様ほどの家門と才能に恵まれたお方でも、そのようなお気持ちになられるのですか」

「森岡君。むしろ、名門といった肩書きや、なまじ才能がある方が厄介かもしれないよ」

 ふむ、と森岡は言葉を咀嚼するように考え込んだ。そして帝玄の達観した謹言は、彼の胸の奥深きところに刻み込まれることになった。

「ところで、森岡君は恵果(けいか)阿闍梨という中国の高僧を知っているかね」

 帝玄が話題を変えた。

「無学ですので、弘法大師空海上人に密教の奥義を伝授された方としか存じません」

「十分だよ」

 帝玄が顎を小さく引いた。

 阿闍梨(あじゃり、あざり)とは、サンスクリットで軌範を意味し、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する僧侶を指している。

 恵果阿闍梨というのは、当時金剛頂系と大日系に分かれていた密教を一つに纏めるという偉業を成し遂げた偉大な僧侶で、代宗、徳宗、順宗と三代に亘る唐の皇帝に師と仰がれたため、三朝国師と呼ばれた。

 そして、一子相伝とも言われる密教の奥義を授けるべく、日本から空海上人が来訪するのを待ちわび、奥義を伝授するや否や、使命を全うしたたかのように亡くなった人物でもある。

 後年、空海上人は師の恵果阿闍梨を評して『虚往実帰(きょおうじっき)』という言葉を用いている。虚往実帰とは、行くときは何も分からずに空っぽの心で行って、帰るときには充実し、十分に満足しているという意である。つまり恵果阿闍梨は空海上人をして、それだけ徳の高い人物だったという、最大賛辞を口にさせるほどの人物だったということである。

 恵果阿闍梨は、一度奥義を弟子の中国僧義明に授けたのだが、その義明が恵果阿闍梨より先に逝去してしまったため、もう一度、奥義を受け継ぐに相応しい人物を探さなければならなかった。

 もっともこれには異説もあり、義明の存命中に、空海上人にも奥義を授けたという説もある。いずれにせよ、かなり年老いてからのことであり、体調も思わしくなかったが、それでも周囲の猛反対を押し切り、継承者を空海上人と定め、日本からの渡来を待ちわびていたという。

 空海上人は、暴風雨の中を命からがら唐の都の長安に辿り着き、幸運にも青龍寺に二千人とも三千人とも言われる弟子を持つ、恵果阿闍梨から短期間で密教の全てを伝授された。恵果は、初めて会った空海上人を見るや、『我汝の来るを知り、待つこと久し。今日相見えて大いに好し』と告げ、空海上人は大変驚いたとの記述が残っている。

 ちなみに、そういう状況下であったため、通常は数年掛かる奥義の伝承を、僅か数ヶ月で終えたと言われている。言葉の問題も克服しての偉業であるから、空海上人がいかに大天才であったかの証であろう。

 尚、真言密教伝持の八祖は、第一祖・龍猛菩薩(りゅうもうぼさつ)に始まり、第二祖・龍智菩薩(りゅちぼさつ)、三祖・金剛智(こんごうち)、第四祖・不空三蔵(ふくうさんぞう)、第五祖・善無畏(ぜんむい)、第六祖・一行(いちぎょう・いっこう)禅師、第七祖・恵果阿闍梨と続き、第八祖・弘法大師空海へと伝承された。

 こうしてインドで生まれた真言密教の教えが、第三祖の金剛智によって中国に伝わり、第八祖の空海上人によって日本に伝えられたのである。

 公式の学説では、密教奥義の伝承は空海上人を最後に途絶えたということになっているが、実は密かに受け継がれて来ており、現在の正統伝承者が神村正遠なのである。

 一方で日本仏教界にとって不幸なこともあった。

 平安仏教のもうひとつの聖地である、比叡山延暦寺の開祖最澄上人もまた遣唐使船で唐に渡ったが、短い留学期間ということもあって、密教の奥義を伝授されずに帰国した。

 そこで最澄上人は、頭を下げて一旦空海上人の弟子になり、奥義を極めんと欲したが、空海上人は伝法灌頂を受けるに足る修行を終えていないと奥義の伝承を拒否した。

 これが日本仏教の二大聖地とも母体とも言われる両者の間に深い溝を作ってしまった。そしてその確執は、実に千数百年もの長きに亘ることになり、二十一世紀になってようやく歴史的和解に至るのである。

 久田帝玄が話を続けた。

「大変おこがましいが、父にすれば、神村上人を天山修行堂に迎えたとき、長らく待ち望んでいた空海上人を弟子に迎えた恵果阿闍梨の気持ちと、重なる想いだったのだろうね。だから父の遺言もあって、天山修行堂の後継者は、神村上人と決めていたのだよ」

「それでも、その男は諦めなかったということですか」

 森岡は詰るように言った。

「別にかばうわけではないが、その男の気持ちも理解できなくはなかった」

 元々、総本山の有力宿坊の家に生まれたその男は、子供の頃から才気に溢れていたらしく、もし長男に生まれていれば、法主の座も夢ではないというほどであったという。

 なるほど、長じて天山修行堂にやって来たときには頭抜けて優秀だった。

 だが、不運なことに男は三男だったので、長幼の序が色濃く残る総本山において、家門を継ぐ可能性はなかった。そこで、後継ぎの男子が居ない地方の名門寺院に養子に出されたのである。

 男にしてみれば、ただ長男に生まれたというだけで、能力の劣る兄が家門を継ぎ、自身は地方に追いやられるという不条理を忌々しく思ったのも無理はない。

 だが、それが因(もと)で男は邪まな考えを抱くようになった。天山修行堂を我が物にして、全国宗門僧侶の裏支配を思い立ったのである。

 帝玄には、男の野心が手に取るように透けて見えていた。

「断わるまでもなく、父が天山修行堂を建立した本意は、そのような不徳義なものではない。だから、たとえ神村上人が後継を承諾しなくても、私がその男に譲ることは決してなかったのだよ」

「ところが、その男は宝物の一件を嗅ぎ付け、事もあろうに、今度は御前様を恫喝してきたということですか」

「そうなのだ」

「そのような外道、とても許せませんね」

 森岡はいかにも憎々しげに言った。

 女色に血道を上げる坂東明園や、強欲な一色魁嶺を目の当たりにして来ていたが、その彼らにしてもこの男の悪行に比べれば稚戯に等しい、と森岡は嫌悪感を抱かずにはおれなかった。

「私は悩みに悩んだ。その男の恐喝に屈すれば、天山修行堂は彼の手に落ちる。そうなれば、我欲に走る彼のこと、宗門全体の行く末など眼中に置かないことが明白だ。それでは父の遺志に反することになる。そうかといって、彼の申し出を断れば警察沙汰になり、私の信用は失墜する。いや、私の信用だけなら当然の報いだが、結果として長厳寺を手放すことになれば、父だけでなく御先祖様方にも申し訳が立たなくなる」

 帝玄の告白に、彼の窮状を理解した森岡だったが、彼にとって肝心なことは他にあった。

 森岡は、さらに核心へと切り込んだ。

「御前様のご苦悩はよくわかりましたが、その事と合議の延期はどのように繋がるのでしょうか」

「その男は、神村上人の本妙寺貫主就任を妨害しに掛かったのだよ」

「具体的には?」

「私に本妙寺の件では、久保上人を支持しろと要求してきた」

――やはりそうだったか。

 森岡は心の中で舌打ちをした。 

「その男は、神村先生に恨みでもあるのでしょうか」

「森岡君。恨みではなく、嫉妬なのだよ」

「嫉妬?」

「まさしく嫉妬の一念というべきだろうね」

 憂いを帯びた声で言った。

 帝玄が、その男は天山修行堂において頭抜けて優秀だったと言った証拠に、男は二十二歳という若さで、天山修行堂・百日荒行達成の最年少記録を樹立した。これは総本山の妙顕修行堂を加えても、十指に入る若さであった。

 だが、その栄光も束の間、翌々年やって来た神村にあっさりと更新されてしまった。なんと神村は十代で百日荒行を達成したのである。

 その後神村は、ほぼ隔年で荒行に挑み、三十代で千日荒行の偉業を達成した。三十代での千日荒行達成は、実に四百七十年ぶり、三人目の快挙であった。これらもまた、神村が達成した偉業の一つに数えられるものである。

 その後、五年の間があって、四十三歳で十一度目を、四十六歳で十二度目を成満したのである。

 とにかく神村は、その人格、教養、識見、気力、体力等々あらゆる点で他の僧侶を圧倒的に凌駕していた。もちろん、その男も例外ではなかった。神村と同年代に生まれた者の不運と諦めるしかなかったのであるが、いずれせよ、自身より遥かに優れた神村の出現に、その男の大いなる失望と落胆が容易に想像できた。

「周囲には、神村上人とその男を『天山修行堂の竜虎』などと並び称する者もいるが、神村上人には遠く及ばないことを、その男自身思い知らされていたと思うよ」

 話を聞いていた森岡の面が一気に紅潮した。

「御前様、少し、少しお待ち下さい」

 手をかざして息を整える。

「もしやその男とは、九州の菊池龍峰上人ではないですよね」

 帝玄は虚しそうな顔をした。

「残念ながら、その菊池上人だ」

――なんということだ……。

 森岡は激しく動揺した。まさか、神村を実弟のように可愛がっていたはずの菊池龍峰が、そのような鬼畜に転落していたとは俄かには信じられない話だった。

 森岡は、帝玄に疑問をぶつけた。

「しかし、菊池上人は本妙寺のときはともかく、法国寺の貫主に御前様を擁立したときも、その後の多数派工作にも助力していました。今頃になって妨害するくらいなら、何故力を貸したのでしょうか」

「そこが、彼の陰険な性格を現しているのだ」

 吐き捨てるように言った帝玄だったが、

「元はといえば、これも私が悪かったのかも知れない」

 と一転して後悔の表情になった。

「実は、天山修行堂を買い取りたいという彼の申し出を断るとき、明確に『君には譲らない』とは言わず、『神村上人に譲るつもりである』とだけ言ったのだ。私の言葉を受けて、彼は『神村上人さえいなければ、自分にも可能性がある』と勘違いをしたのだ。法国寺の件で、神村上人に同行してやって来たとき、何食わぬ顔でいた彼の本心は見抜いていた。そういう次第だから、本妙寺のときも、神村上人から依頼さえあれば、彼は率先して尽力したと思うよ」

「……」

 森岡にしては珍しく、帝玄の言葉の意味が理解できなかった。

「ほう、聡明な君にもわからないことがあるのだね」

 帝玄は、むしろ安堵したように言った。

 帝玄が言わんとしたことは、大本山本妙寺の貫主と天山修行堂の導師を両立させることは、物理的に不可能だということである。

 帝玄も、本山に匹敵する長厳寺と天山修行堂の二寺院を抱えているが、彼の場合は、両寺院とも個人所有であるから、宗務はどうにでも融通が利く。

 天山修行堂に入るときは、長厳寺の宗務は高弟を代役に立てることも、近隣の寺院に助力を願うことも可能だが、大本山ともなればそうはいかない。まずは、大本山の宗務を全うすることを第一に考えなければならないのだ。

 それは、法国寺の貫主になった帝玄にも言えるのだが、彼の場合は高齢に加え、不埒な考え、つまり新しい支援者を獲得することが主目的であったから、二年、三年で退位する心積もりだったし、短い期間であれば天山修行堂は副導師に任せることもできる。

 しかし、神村の場合はそうはいかない。

 五十代半ばの若さで、大本山の貫主になるということは、長期政権は必定であり、そのうえで天山修行堂を引き受ければどうなるか。大本山の宗務のためとはいえ、新任の導師が天山修行堂の務めを疎かにするようなことがあっては、周囲が黙ってはいないのである。

 帝玄は、神村を大本山や本山の貫主たちに引き合わせなかったのは、まさにこの一念があったからだと言い添えた。つまり、神村を手の届かないところにやりたくなかったということである。

 森岡は、東京目黒の澄福寺に芦名泰山を訪れたときの菊池龍峰の言葉を思い出した。

「菊池が、本山の貫主を目指さないのも同じ理由ですね」

 菊池龍峰が所有する冷泉寺は、末寺とはいえ本山に匹敵する繁栄があった。金銭面に限れば、持ち出しが必須な本山の貫主に就任する必要はない。

「次元は違うが、そう言えるかもしれない。だが、彼が本山の貫主の座を目指さない第一の理由は、今言ったとおり天山修行堂が狙いだからだ」

「表向きの理由と腹の内は違っているというわけですか」

 そうだ、と帝玄は肯いた。

「菊池は、神村上人が本妙寺の貫主になってしまえば、天山修行堂を受け継ぐことができなくなると考えた。彼が法国寺の件で尽力したのはそういう思惑があったのだよ」

「ところが、宝物の一件で、そのような回りくどい工作が不要となった菊池は、先生が大本山の貫主になることすら認めたくなくなった、というのですね」

「大本山本妙寺の貫主を無事務め上げれば、その先に別格大本山法国寺貫主の座も射程圏に入るし、神村上人ならば法主の座ですら夢ではないだろう。そうなれば、神村上人のことだ、並の法主で終わるはずがない。日本仏教界の頂点に君臨する可能性だって生まれる。嫉妬深い菊池は、たとえ天山修行堂を手に入れたとしても、神村上人が表舞台で華々しく出世し、宗門内だけでなく仏教界全体や世間一般からの耳目も集めて行くことに我慢ならなかったというわけだ」

「なるほど」

 森岡は唸った。

「神村上人も絡んでしまい苦慮した私は、とりあえず急場凌ぎの緊急入院を画策したというのが真相なのだ」

「これでようやく全てが腑に落ちました。私のような若輩者によく話して下さいました」

 森岡は感謝の意を表した。

「しかし、一ヶ月も日延べして大丈夫なのでしょうか。菊池は、明日にでも警察沙汰にするとも限らないと思いますが」

「それは大丈夫だと思うよ。強硬手段に訴えれば、念願の天山修行堂が手に入らなくなるわけだから、余程の決心がいる。彼にしても、そう簡単には踏み切れないだろう。それに……」

 帝玄がその先を躊躇った。

「他に何かございますか」

「此度の所業は、菊池一人の考えとも思えないのだよ」

「先ほどおっしゃいました瑞真寺でしょうか」

「う、うん」

 またしても帝玄の歯切れが悪くなった。

――御前様ほどの傑物をして、口を重くさせる瑞真寺とはいかなる力を持った寺院なのだろうか。しかもその瑞真寺と菊池龍峰は繋がっているかもしれない……。

 森岡の胸にもう一度寒風が吹き荒れた。

「ともかくも、お話しを伺えば伺うほど、人倫の道にも悖る奴のこと、たとえ警察沙汰は控えたとしても、他に何を仕出かすか想像が付きません。御前様、先ほど一週間後に三億円を用意すると申しましたが、一日でも早い方が良いでしょう。私の方は、明後日には用意できますので、そのように取り計らって下さい」

 森岡は会談の最後に、今回の一件を決して口外しないよう帝玄に念を押した。それは、帝玄の体面を気遣ってのことというよりは、兄とも慕う菊池の本性が神村の耳に入ることを慮ったのであり、さらに言えば、すでに悪事の顛末が露呈している事実を、菊池本人に気づかせないためでもあった。

 森岡は、いつの日か必ずや菊池龍峰に対して、苛烈な意趣返しを考えていた。そのためには、菊池の自分に対する警戒心を緩いままにしておきたかったのである。


 法国寺を辞去し、坂根らが待つ車に乗り込んだ森岡は、魂を抜かれたような虚脱感に見舞われていた。

「如何でしたか」

 運転席の坂根が様子を見かねて、恐る恐る訊ねた。

 だが森岡は、

「ああ……」

 と言ったきり、口を堅く閉ざしてしまった。全身全霊を傾けた帝玄との対面を終えた彼は、ろくに口も利けないほど疲労困憊していた。

――不調に終わったのか。

 森岡の反応に、蒲生も心中穏やかではなかったが、ともかく大阪へ向けて車を走らせた。

 この日は坂根を伴っていた。大阪の地理を頭に入れつつあった蒲生であるが、なにぶん京都は初めてだった。しかも、久田帝玄との重要な面談である。間違いがあってはならなかった。

 蒲生は助手席、足立統万は後部座席に座らせ、京都の道筋を頭に入れることに専念させていた。

 国道一号線を南に進み、京都南ICから名神高速道に入る。上りの渋滞に比べ、下りは車の流れは順調だった。この辺りはまだ自然が豊かで、緑溢れる山野、田畑を横目にしながら、大阪府内に入った。高槻市、茨木市と過ぎ、やがて道路標識に吹田市の文字が見えたときだった。

「腹が減ったな」

 重苦しい空気を打ち破った森岡の一言がそれだった。

「そうですね。とっくに昼を回っていますからね」

 坂根が相槌を打つように答えると、

「よっしゃ、幸苑に向かえ。久しぶりに女将の顔が見たくなった」

 森岡の声には張りが戻っていた。

 その気合の籠もった声に、久田帝玄との会談が首尾良く終わったことを察した坂根は、ほっと安堵の息を吐いた。

 だがこの後、事の一部始終を聞かされた彼は、珍しくも嫌悪感をあからさまにした。

「まさか、御前様ともあろうお方が、盗人のような所業をなさるとは……」

「御前様であれ、誰であれ、金に窮すれば心が折れ、魂を悪魔にも売るということや。それだけ、金が人の心を支配する世の中になっている証左やな」

「嘆かわしいですね」

 蒲生もやるせない声で言った。

「せやけど、そのお陰で俺の金が威力を発揮するんやけどな」

 森岡の声には自嘲の響きがあった。

「ですが、社長。御前様が、坂東上人に金額のことを訊かれたということは、神村先生を裏切るおつもりだったということですよね」

 坂根は確かめるように訊いた。

「そう、はっきりとも言えんな。俺もそこまで問い質すことはせんかったが、おそらく迷っておられたのだろうと思う。そういった中で、とにかく探るだけ探られたのじゃないかな」

 森岡はやんわりと否定した後、

「しかし、情勢は六対四やったから、どっちにしても二人を寝返らせるのは難しかったと思うがな」

 と推量した。

 坂根は首を傾げた。

「二人ですか? 御前様ご自身の他にあと一人で良いのではないですか」

「計算上はそうやが、しかしなあ、坂根。先生が御前様の法国寺貫主就任に尽力されたことは、宗門内に広く知れ渡っているんやで。そういう状況下で先生を裏切れば、御前様の宗門内での信用は大きく失墜するんとちがうか。それはきっと、別の意味で耐えられんことやと思うで。せやから、自らは先生を支持し、他の者を寝返らせようとされたはずや」

 なるほど、と肯いた坂根は、

「では、社長。もし社長が借金の肩代わりを申し出なければ、御前様はどうされたのでしょうか」

 と訊いた。核心を突く問いである。 

「おそらく、菊池に屈しておられたと思うよ。少なくとも三億は手に入るんやから、宝物は返してもらえる可能性があるやろ。もっとも、その三億のうち大半は、神村先生支持者を寝返らせるための工作資金に使われたかもしれんがな。とはいえ、宝物を取り戻すことができなくても、警察沙汰にならへん限り、法国寺を舞台に新たな金策をする猶予ができるわけやからな」

「そうしますと、御前様が合議の日を一ヶ月延期されたのは、結果として命拾いをしたことになりますね」

 そうや、と森岡は肯いた。

「もし御前様が短絡的に屈しておられたら、本妙寺の貫主の座と天山修行堂、その両方とも手に届かなかったかもしれんな。そういう意味では、今回天山修行堂の敷地を担保に取れたことは大成功やった。これで後継者選びは、俺の意思を無視できんようになったからな」

 と、森岡は満足そうな笑みを浮かべた。

「それにしても、坂根さんからこれまでのあらましを聞いていましたが、宗教界も汚い世界ですね。菊池とやらの所業は論外としても、他にも色狂いに強欲等々、とても聖域とは思えませんね」

 先程から沈黙を通していた足立統万が辛辣な言葉を吐いた。

 一転、森岡の表情に憂いが宿った。

「統万、お前は境港という、俺や坂根とは違って、それなりの街に生まれ育ったが、とはいえ東京や大阪とは比べれば田舎と言ってもええやろ」

「はい」 

「田舎の寺院は滅多なことでは不祥事は起さん。悪評が広まれば、檀家からそっぽを向かれ命取りとなるからな。だが、都会の寺は違う。とくに本山の貫主ともなれば、俗欲を丸出しする不心得者が仰山おるんや」

「そのようですね」

 統万は落胆の声で言った。

 足立家は洋介の祖父洋吾郎の実父が境港に移って事業を起こしたことに始まる。そのときから菩提寺は浜浦の園方寺だった。したがって、統万にとって身近な僧侶といえば道恵と道仙父子ということになる。

 二人の人柄を知る統万にしてみれば首を傾げたくなるのも無理は無かった。、

「ついでに、お前らに言うとくけどな、人の世に聖域があるなんていうのは幻想やで。人はそれがこの世には無いことに気づいているからこそ、それらしい理想の世界を創りたがるんや」

「……」

 森岡の沈んだ声は三人の言葉を奪った。

「もし僅かにあるとすれば、それは無償の愛やろうな。もっとも、それは本来の聖域の意味からは外れているかもしれんがな」

「無償の愛ですか」

「そうや。親子、夫婦、恋人、師弟といった、愛する者を想う心などはそれに近いかもしれんが、あくまでも一対一の関係やな」

「なるほど。そのように考えますと、社長にとっての神村先生は、まさに聖域そのものですね」

 坂根は、森岡が神村のために惜しみなく大金を費やす理由がわかったような気がした。森岡は自身にとっての聖域を、世俗の垢から必死に護ろうとしているだけなのだ、と。

「しかしだ、これが複数になると、途端に妬み、嫉み、恨み、憎しみ、そして欲が入り込んできてあかんようになる。まして組織などは、大きくなればなるほどあかんようになる。宗教団体といわず、芸能、文化の団体といわず、歴史のどこかで分裂しているのが多いやろ。その原因は後継者問題がほとんどや。後継者になれんかった方が分派を作り、それぞれが正当性を主張し合うんやな。そんなんで、初代の理念や哲学はちゃんと受け継がれて行くんやろうか。実に虚しいこっちゃのう」

「言われてみれば、大きい組織は分裂しているところが多いですね」

 そう同調した坂根は、言外に、

『まさしく仏教こそがその最たるものの一つであり、天真宗もまたその例外ではない』

 との意があることを読み取っていた。

 そして、神村が天真宗への改宗を森岡に持ち掛けなかったのは、彼のそのような無常観を見抜いていたからなのだと悟った。つまり神村は、森岡を仏教とか天真宗といった枠組みに嵌めてしまうのではなく、あくまでも自身との一対一の関係において、まずは思想、哲学といった知識の伝授から始め、やがて知識に裏付けられた洞察力、分析力、判断力といった見識を養わせ、そして最後に、実行力を伴う胆識を身に付けさせようと試みたのだ、と理解したのである。

「さて、そんなことより、問題は金をどうするかやな」

 その一言が得心顔の坂根を現実に戻した。

「社長。まさか当てもなく、御前様に約束をされたわけではないのでしょう」

「当たり前やがな。せやけど半分で済んだとはいえ、そもそも十億でも予定外やったし、何かのときに備え丸裸になるわけにもいかんから、現金の持ち合わせが足らんのは事実や。ウイニットの株を担保にして借り受けるか、あるいは売却せにゃならんな。ただ、上場前の一定期間は株の売買が禁止されとるから、気を付けんとあかんのやが……」

 森岡が頭に思い描いていたのは榊原壮太郎だった。彼なら気兼ねがなく、大株主なったとしても安心であった。しかも、もし榊原個人ではなく榊原商店が所有すれば、いずれは後継者たる自分のものになるのと同然でもある。

 だが、霊園開発のための法国寺裏山の造成費用に五億円の拠出を依頼し、また結果的に支援は仰がなかったが、福地正勝監禁事件でも数億円の拠出を願ったばかりである。

 森岡はこれ以上の借りを作りたくはなかった。彼はいかに親しい間柄であっても、一定の許容量を超える貸し借りは、ときにそれまでの良好な関係をご破算にしてしまいかねないと承知していた。

 森岡は、そこで金の算段を放念した。

 彼は資金繰りよりも心迷うことを抱えていた。久田帝玄には口止めをした菊池龍峰の所業を神村に報告すべきか否かということである。

 森岡が菊池に対して意趣返しをするためには、神村に知られるわけにはいかなかった。神村が知れば、彼の人間性からして、菊池との和解の道を模索するとも限らないからである。

 もし、神村がそのように欲すれば、森岡の行動には箍が嵌められることになり、勝手な振る舞いができなくなる。やり方次第では神村に気取られることなく、事を成すこともできなくはないだろうが、それでは神村の心に背くことになってしまう。森岡にそのような裏切り行為などできるはずもなく、必然的に秘めた意趣返しは断念せざるを得なくなる。

 そうかといって、神村に知らせないままだと、いつ久田帝玄の二の舞になるとも限らない。菊池にすれば、純朴な神村を陥れることなど、赤子の手を捻るより簡単なことであろう。森岡が眼を光らせようにも、おのずから限界というものがある。

 彼にとっては、実に悩ましい命題だったのである。


 翌日、森岡は物事というのは、そう一朝一夕には進まないことを痛感させられる。

 久田帝玄から、石黒組がすでに宝物の一部を売り捌いていたとの連絡が入ったのである。しかもその売却先が、誰あろう菊池龍峰本人という痛恨事であった。

 森岡が懸念した通り、菊池は強かにも先手を打っていた。帝玄が金を工面して、宝物を取り戻す前に、証拠の品の一部を自分の手元に置いたのである。

――やられた。

 心臓を錐で突かれたような痛みが奔った。つれて、足元からおぞましい奇体が這い上がって来るのを感じていた。

 森岡にはその正体が何者であるかわかっていた。菊池の並々ならぬ執念を見せ付けられ、生まれて初めて味わう敗北という恐怖に慄いていたのである。

 言わずもがな、この一件が公に露見したとき、宗教人である菊池には、盗難品と知らずに購入したという抗弁は通らない。それはつまり、彼がいざとなれば身を捨てる不退転の覚悟で事に臨んでいることを表明していることに他ならないのだ。

 この背水の覚悟を前に、森岡は手詰まりとなった。為す術もなく、ただじりじりと絶望の淵に追い込まれて行くしかなかったのである。

 洋介は、久々茜に愚痴を零した。

「せっかく御前様と話が纏まったというのに、まさか、菊池がここまでやるとはな」

「菊池っていう人も、必死なのよ」

「相手が玉砕をも厭わないとなると、全くのお手上げやな。時間もないことやし……」 

 茜の目には、それが投げやりに映った。

「ふん、そうかしらね」

 嫌味の色が滲んでいた。

「何か良い考えでもあるのか」

「良い考えかどうかはわからないけど、向こうは意固地になっているみたいだから、逆転の発想が必要ね」

「逆転の発想?」

 洋介は首を捻った。

「そう。洋介さんは怒りに任せて、相手を追い詰めることばかり考えているでしょう。そうじゃなくて、逃げ道を創ってあげることも考えてみたら」

「逃げ道か……」

 洋介は藤井清慶をむやみに追い詰めて、帝玄の醜聞の暴露に繋がった苦い経験を思い出した。

「きっと、振り上げた拳を下ろしたくても下ろせないんじゃないかしら。だから、彼の面子を保ってあげたうえで、説得する人が必要だと思うわ」

「言うのは簡単やが、これだけ腹を括っている菊池を説得するとなれば、それ相応の人物ということになるやろ。言うまでもなく、目の敵にされとる先生や御前様では無理やから、その上といえば、法主さんということになるが、その場合先生の耳に入れんわけにはいかんやろうし、そもそもが法主さんに持って行く話やない」

 洋介は諦め顔をした。

「結局のところ、他に適当な人がおらん」

 それを見た茜は、さらに彼の心を逆なでするように言った。

「あら、案外洋介さんの目は節穴なのね」

「なんやて」

 洋介はムッとなった。

「もう一人いるじゃないの」

「もう一人? いったい誰のことや」

「ここまで言って、洋介さんがわからないなんて、また珍しい」

 とうとう茜は、皮肉まで込めた。

「法主さん以外に、菊池が心を許す人物がいるとはとても思えんな。いったい誰やねん、回りくどい言い方せんと、はっきり言えや」

 洋介は憤然として言った。見当が付かない苛立ちと、賢しらな物言いが癇に障ったのである。

「総務さんよ」

 茜は何食わぬ顔で答えた。

「なんやて、清堂!」

 全く予想だにしなかった名前に、洋介は憤りをも忘れ去るほど仰天した。

「総務さんなら、適任だと思うけどなあ」

「な、何を言ってるんや。清堂は、ついこの間まで熾烈な戦いをしてきた敵やで」

「そんなことわかっているわよ。むしろ、それが好都合じゃないのかしら」

「……どういうことや?」

 いかな頭脳明晰の洋介も混乱を極めていた。

「神村先生や御前様と敵対する者同士の方が、利害が一致する分、心が通じるかもしれないってこと。それが逆転の発想よ」

 茜はしたり顔で言ってのけた。

「そ、そうか」

 盲点といえば盲点であった。だが、一旦は肯いた洋介も、すぐに悲観的な言葉を継いだ。

「まあ、一応理屈は通っとるが、清堂が敵だった俺の頼みを聞いてくれるはずがないがな。門前払いが関の山や」

「洋介さんは、景山さんと親しくなっているのでしょう? その辺りを手掛かりにしてみたら」

 たしかに景山律堂とは総本山での大法要のときに会った後、一度食事を共にしていた。

「しかし、なんぼ懐刀やいうても、彼は執事の一人に過ぎんからなあ。第一、もしこれがきっかけで、万が一にも清堂と菊池が手を組んだりしたら藪蛇やないか。それこそこっちが息の根を止められることにもなりかねん」

 洋介は諦め顔で退けた。彼の懸念は常識的であったろう。

 だが次の瞬間、茜の態度が豹変した。洋介の軟弱な言動に、柳眉を逆立てて怒声を上げた。

「さっきから聞いていれば、グダグダ、グダグダと弱気なことばかり並べてんじゃないわよ。洋介さんらしくもない! そこを何とかするのが洋介さんの本領でしょう! それに最後の正念場でなんでしょうが、肉を切らせて骨と絶つといった、相手と刺し違えるぐらいの気概がなくてどうするの!」

「あっ」

 洋介は、我を取り戻したような声を発した。そして、先刻からの彼女の挑戦的な物言いは、自分を鼓舞するためだったと気づいた。

 これまで、彼女の優しい母性ばかりを見てきた洋介だったが、このときばかりは七歳も年下の彼女が、まるで姉さん女房、いや母親のように大きく映っていた。

「総務さんだって、伊達にその職に就いているわけではないでしょう。洋介さんが私心を捨て、誠意を尽くせば心に届くんじゃないの。ほら、『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』っていうじゃない」

「……」

 洋介は、呆然として返す言葉を失っていた。

 寝室へ向う去り際の、

「そうそう、松尾会長が一度洋介さんに会いたいそうだから、近々電話があると思うわ」

 と言った茜の言葉も耳に入っていなかった。

 一人残されたリビングで、洋介はしみじみと噛みしめていた。さすがに彼女は、関西一の繁華街といわれる北新地で、若くして最高級クラブを経営するだけのことはあるということを……それはつまり、どのような世界であろうと、トップに君臨する者はそれ相応の器量を持ち合わせている、という極めて自明の理であった。

――虎穴に入らずんば虎子を得ず、か。

 こうして茜の強烈な叱咤が、洋介の闘争心に再点火をしたのだった。










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