第25話 第四巻 欲望の果 人徳
静岡から戻った森岡洋介に一本の電話が入る。
松尾電器グループの総帥・松尾正之助の意を受けた秘書からであった。数多の経営者たちから『商売の神様』と崇められ、日本経済界を牽引する、いや経済界だけではない、今や私塾を通じて、政界への直接的影響力も増大している、まさに日本のトップリーダーの一人であった。
――そういえば、茜がそれらしきことを言っていたな。
森岡は、茜の言葉を思い出しながら受話器を取った。
内容は、明日の夕刻、幸苑で会食したいというものだった。
松尾正之助は山尾茜の後見人である。その茜と結婚するからには、一度は会っておかねばならない人物だった。というより、そもそもが願っても滅多に会える人物ではない。それが先方から会いたいというのである。森岡に断る理由などなかった。
翌日、約束の時間より十五分早く着いた森岡は、例によって茶室に顔を出した。抹茶を一服所望すれば、ちょうど良い時間になると計算していた。
ところが、女将が息を切らしてやって来て、
「森岡さん、お急ぎ下さい。会長はすでに席に着いておられます」
と急かした。
「え? もう」
「会長は、いつも三十分前にはお着きになります。まあ、森岡さんとも思えない。てっきりご承知だと思っておりましたわ」
女将の初枝は顔を曇らせた。彼女が、いかに親身になっているかが見受けられる。
「女将、心配には及びません。会いたいと言ってきたのは先方ですし、遅刻をしたわけでもない。それで咎められるのなら、松尾正之助もその程度の人物だということです」
森岡には外連味がなかった。いかにも神村しか眼中に無い、何者をも恐れぬ彼らしい物言いである。
「まあ」
女将は目を丸くし、
「それにしても……」
と嘆息した。
「有能な方だとは思っていましたが、まさか松尾会長の方からお誘いがあるとは……」
「いったい、どういう要件なのか。恐ろしい限りです」
森岡は真顔で惚けた。
松尾正之助は、孫娘同然の結婚相手を品定めをしたいのです、とは言えなかった。
「やはり、渚(なぎさ)を貰って頂くべきでしたわ」
女将が悔しげにお点前を見た。森岡のお茶は必ず若女将、つまり女将の愛娘である渚が点てた。その渚は聞こえないふりをしていた。
「森岡さんの初婚のときは、渚はまだ九歳でしたけど、再婚なさらないうちに成人したというのに、幸苑を継がせることばかりが頭にあって、嫁にやることなど毛頭思い付きませんでした」
女将はいかにも口惜しそうに言った。
「女将、それが正解です。渚さんとは十五歳も離れていますし、しかも私はバツ一です」
森岡は苦笑いをした。
「そのような瑣末なことはいっこうに気に致しません」
女将は語気を強めて言ったが、
「でも、こんな不出来な娘では森岡さんの方からお断りでしょうね」
と、最後は自身に言い聞かせるように呟いた。
「人にはそれぞれ宿命というものがあります。渚ちゃんはこの由緒ある幸苑を継ぐのが生まれ持った宿命です」
森岡はお点前を頂き、茶碗を戻した。
そうですね、と女将は一つ息を吐いた後、
「あらあら、ごめんなさい。無駄口を叩いている場合じゃないわ。本当に会長をお待たせすることになってしまいます」
そう言って、再度森岡を急かした。
「遅くなりました」
失礼いたします、と言って女将が襖を開けるのと同時に、森岡は少し声を張り上げた。しばらく頭を下げていたが、いっこうに声が掛からないので、森岡は痺れを切らしたように顔を上げた。
――おや?
森岡は少なからず戸惑った。二間隔てた座敷にいる松尾正之助が、床の間を背にする上座ではなく、横手の席に座っているのだ。つまり対等ということである。
森岡はしばらく逡巡したが、すくっと立ち上がると、足を滑らすように進み、黙礼して席に着いた。
これもまた神村の教えであった。
岡崎家での総務藤井清堂のように、先方が上座に着いているときは慇懃な所作が求められるが、この松尾正之助のように、対等の席に着座している場合は上座を進めるなどの必要以上の遠慮は無用、ということなのである。
「森岡君、今日はいきなりで申し訳なかった。わしが松尾正之助じゃ」
森岡が着座するなり、松尾が口を開いた。
「とんでもございません。会長こそ私如き若造に時間を割いて頂きまして恐縮です。私が森岡洋介です」
森岡は松尾の目を見据えて言った。
松尾正之助は八十三歳。加齢が止まったかのように若々しく、現在でも経営の第一線で活躍している。馬面顔で笑うと目尻が下がるため、それを見てうっかり気を緩めてしまおうものなら、即座に痛い目に遭う。
「さすがに、良い目をしているのう」
まず松尾が誉めた。
「野心を剥き出しにするわけでも、さりとて隠すのでもなく、涼やかで力強い」
「重ね重ね恐縮です」
森岡は、今度は頭を下げた。上気した顔を隠すためである。天下の松尾正之助に誉められ、気分の悪かろうはずもない。だが、そうかといって彼が心浮かれることはなかった。
『人たらしの名人』
松尾正之助は、俗にそう言われている。彼と会った者は、必ず彼の信奉者になるからだ。
――なるほど、こうやって心を掴むのか。
森岡は冷静に判断していた。
批判したのではない。その手に乗った振りをしても良いし、無視しても良い。松尾正之助にとっては、極々ありふれたことであろうし、そもそも彼が人たらしだけの人間でないことは明白である。
「茜が申しておったとおりの男じゃの。肝も据わっているらしい」
と言葉を付け加えた。
「茜と一緒になるそうだの」
「はい」
「一応わしも後見人だからの。あの娘が選んだ男をこの目で見ておきたかったのじゃ」
松尾は凝っと森岡を見つめた。
「念のために言っておくが、わしとあの娘との間には何もありゃせん」
「承知しております」
森岡も松尾から目を逸らさずに応じた。
「もっとも、どうこうしようにも、もう役にたたんわい」
松尾は、わははは……と大笑いしたかと思うと、一転真顔になり、
「茜は辛い宿命を背負い、苦労を重ねた不憫な娘じゃ。森岡君、わしからも頼む。あの娘を幸せにしてやってくれ」
と両手をテーブルに置いて頭を下げた。
「頭をお上げ下さい。会長が申されるまでもありません」
森岡は、全身から汗が吹き出るのを感じていた。天下の松尾正之助が自分に頭を下げている。一人の女性、しかも赤の他人のために、である。
「そこでだ」
頭を上げた松尾の目が鋭くなった。
「婚姻の祝いに託けるわけでもないが、どうだね、森岡君。わしとこと組んでみないか」
「はあ?」
森岡は瞬時には言葉の意味が呑み込めなかった。。
「わしとこのグループに『松尾技研』いうのがある。ここと業務提携をしてもらえんかの」
とんでもない、と森岡は即座に遠慮した。
「松尾技研さんと申せば、業界大手です。私のところとは釣り合いが取れません」
松尾技研は社員数が三千名、売上高が二千億円の規模を誇る、ソフトウェアー業界では最大手の部類に入る。
いやいや、と松尾は顔の前で手を振りながら、
「恥ずかしながら、わしとこはこの分野では出遅れての。図体ばかりでかくて、あまり上手くいってはおらんのじゃ。そこで、技術力のある君のところを巻き込んで立て直したい。正直に言えば、そういう企みじゃ」
と決まりが悪そうな顔をした。
森岡が経営するウイニットは、現在資本金が五億円。額面は一株五万円であるから、発行株数は一万株である。このうち、八十パーセントに当たる八千株を森岡が所有している。
森岡は、上場時にそのうちの半数を売却するつもりでいる。それにより、彼の持ち分比率は四十パーセントに低下するが、霊園造成の費用捻出のため、榊原に五パーセントを売却しており、他に野島ら幹部役員が合わせて十パーセント所有しているので、経営権を奪われるようなことはない。
松尾正之助は、森岡の持ち分の中から全体の十パーセントに当たる一千株を、一株当たり二百万円で購入したいと申し出た。一株が五万円の株を四十倍の二百万円で購入したいというのは、一見高値買いのように映るが、実はそうではない。
前途有望な株は、上場する前に市場外取引において値が跳ね上がることは良くあることで、事実昨今はIT関連企業というだけで、未上場の株式が実態以上の評価値で取引されていた。それらに比べれば、ウイニットは断然有望な株式だといえた。
ともかく、松尾の申し出により、森岡は二十億円の現金を手にすることになる。
「承知致しました。宜しくお願いします」
森岡は座布団を外し、少し後ろに引き下がると、両手を付いて頭を畳みに擦り付けた。
「うん、うん」
松尾は破顔して何度も肯くと、
「大事なことじゃが、仲間に諮らなくても良いのかの」
と気遣った。
「はい。皆も私と同じ気持ちだと信じています」
森岡は明瞭に言った。その表情は、清々しい自信に溢れていた。
「よし、決まった。では、仕事に話が済んだところで」
松尾正之助はそう言うと、ちょうど料理を運んできた女将に、
「女将、連れを通してもらえるかの」
と頼んだ。
――会長の連れ? いったい誰だ。
森岡が訝っていると、やがて座敷に姿を現したのは榊原荘太郎と福地正勝であった。
「あっ……」
森岡は驚きのあまり言葉にならない。
「何をそんなに驚いているんや。松尾会長には、昔親しくさせてもろたって話したやろ」
榊原は、楽しげな笑顔を浮かべている。
たしかに、世界的大企業ナショナル・モーターの日本代理店を経営していた頃、榊原は松尾電器にも売り込みに成功していた。だが、今でも親しい交わりがあるとは承知していなかった。
「実はな、洋介君。後になってわかったことなのだが、過日須之内が私の代表取締役の解任動議を提案したとき、彼の懐柔にも拘わらず、誰一人として同意しなかったのは松尾会長のお陰やったんや」
福地も松尾に頭を下げながら謎解きをした。
「……」
それでも、戸惑いを隠せない森岡に向かって、
「臨時取締役会の二週間ほど前やったか、神村上人の経王寺での集まりのとき、福地さんの顔色があまりに悪かったんで、声を掛けたんや。福地さんから、須之内の造反を聞いたわしが、勝手に松尾会長に相談したところ、その場で東京菱芝銀行の瀬尾会長に連絡されてな、その瀬尾さんが味一番の取締役一人一人を説得されたんや」
榊原が経緯を説明すると、
「東京菱芝銀行は、味一番(うち)のメインバンクでな。瀬尾会長は『福地社長を解任したら、今後いっさい手を引く』と最後通告をされたということや」
と、福地が補足した。
味一番はここ数十年間、増収増益を達成している超優良会社である。内部留保金は一兆円もあり、余程のことが無い限り、資金繰りに窮することはない。しかし、我が国最大手の東京菱芝銀行から三行半を下されることの意味が、味一番の役員連中にもわかったのだろう。
松尾と榊原、そして瀬尾も自身の手柄や善行を吹聴する男たちではない。そのため、福地正勝が堅く口を閉ざしていた自社の取締役たちから事情を聞き出し、ようやく裏の真相が判明したのだった。
「では、榊原さんがお義父さんのために、松尾会長へ願ったのですか」
「何を言うとるんや。当たり前のことやないか」
榊原は、何をいまさらとばかりに笑った。
榊原と福地の関係は、森岡が思っていた以上に親密なものだった。
福地正勝は阪神間の御影(みかげ)という、これまた高級住宅街に住んでいるが、父の代までは大阪府堺市に住んでいた。
菩提寺は、堺市の正宝寺(しょうほうじ)という浄土宗の古刹である。
浄土宗の信者である福地正勝が、天真宗寺院の護山会役員を務めるのは、決して奇異なことではない。菩提寺というのは、葬式一切を委託する寺院であり永続的関係を保つが、護山会というのはあくまでも僧侶個人の支援組織であり、一代限りで終わることが多いのである。
また一般家庭においても、たとえば森岡家の菩提寺は禅宗系道臨宗でありながら、天真宗の御本尊も祭っていて、祖母のウメは両方に経を上げていた。このようなことは、全国に多々見られることで、日本人の宗教に対する寛容と曖昧の功罪相半ばする実態である。
神村が三十歳で総本山を下り、父親が開山した経王寺に戻ったとき、収入の当ては全くなかった。神村の父は、極々平凡な僧侶だったので、大阪府の天王寺に経王寺を開山したといっても、檀家など集まるはずもなく、収入は専ら谷川兄弟の自坊雲瑞寺の宗務を手伝った折の手間賃であった。
神村自身が開拓した収入源も、真鍋家からの布施が唯一だった。真鍋家は代々の天真宗信者で、総本山真興寺へ参拝した折は滝の坊に宿泊していた。その縁から中原是遠が餞に紹介したのである。
下山した当初、現在に比べれば時間的融通の利いた神村は、毎月二回、真鍋家と会社に祭ってある観音様への読経を行い、合わせて四十万円の布施を受けていた。むろん、非課税とはいえこれだけでは生計は立たない。
これを支援したのが、榊原荘太郎である。
榊原は仕事柄、全国の目ぼしい僧侶に詳しく、天真宗において宗祖栄真大聖人の生まれ変わりとも評されていた神村の名も当然耳にしていた。
榊原はさっそく経王寺に、下山したばかりの神村を訪ねた。神村は三十歳という若さだったが、十九歳で初めて挑戦して以来、ほぼ隔年で百日荒行を達成しており、すでに大本山あるいは本山の貫主になるための資格を有していた。
榊原は顔を合わせた瞬間、神村に魅了され、一時間も話をすれば虜になった。彼が神村に惹かれたのは、荒行達成で身に付いた神通力だけではなかった。中国哲学・思想に対する造詣の深さ、また清廉で高潔な人徳に惚れ込んだ。
榊原は直ちに経王寺の護山会を組織し、知人や友人に神村を紹介して回った。その中に福地正勝もいたのである。二人が知り合うきっかけは、言うまでもなく榊原が車の売り込みで味一番を訪れたことによる。
松尾正之助が頬を緩めて、
「いやな。わしが先月体調を崩して入院していたとき、榊原さんが見舞いに来てくれたのじゃ。そのときな、森岡君。彼が十歳も若返ったように生き生きしているのを見て、どうかしたのかと訊いたところ、ようやく意中の人物だった男から後継の承諾を得たと、そりゃあもう喜色満面でな。わしは昔から彼を知っているが、そのような顔を初めて見た。それこそ、車の売り込みに成功したときよりも嬉しそうな顔をしておった。この頑固で偏屈な爺さんの眼鏡に適った男に興味を持ったわしは、失礼ながら君を調べさせてもろた。その結果が、先ほどの提携話ということじゃ」
と噛み砕いて説いた。
「するとな。会長から連絡があり、同席しないかとお誘いになられてな。わしも、例の宝物の一件が気になっておったのじゃが、お前からは何の連絡もありゃせんから、遠慮のう顔を出したという次第じゃ」
「私も、あらためて松尾会長にお礼がしたい、と榊原さんに伝えてあったので、お声が掛かったというわけだ」
榊原と福地がそれぞれ言い足した。
「良くわかりました。あの一件、妙な雲行きになっていましたので、ついご無沙汰しました」
森岡はそう言って榊原に頭を下げた。
「しかし、会長。この男は、私共の後継に決まっていますので、妙なちょっかいを出さないで下さい」
榊原は笑顔で釘を刺した。
「わかっておるわい」
松尾正之助は煙たそうに口を尖らせた。
「それより、榊原さん。早々に、神村上人も紹介してもらえるのだろうな」
「本妙寺貫主の一件が決まりましたら、その手筈になっています」
榊原は神妙に答えた。
――天下の松尾正之助が、神村先生と交誼を結びたがっている。仕掛けたのは、榊原の爺ちゃんか……おそらく、この席も爺ちゃんが段取りしたに違いない。
森岡は、久しぶりに心を震わせていた。あらためて、榊原の交誼の広さ、濃さを実感し、彼の温情に感激していたのである。
「森岡君、もう一つ願いがあるのだが、聞き届けてくれんかの」
酒宴が進んだところで、松尾正之助が切り出した。
「どのようなことでしょうか」
「榊原さんから聞いたところによると、三人の会社の持ち株会社を設立するそうだの」
「二年後を目途に考えております」
「ならば、そこにわしのも入れてくれんかの」
「とんでもございません。松尾電器グループさんは大企業ばかり、三社でも私の手に負えるかどうか悩んでおりますし、業務提携だけでも恐れ多いことです」
と、森岡は丁重に断りを入れた。
「いや、松尾電器グループの企業ではない。わしの個人的な会社や」
松尾正之助がにやりと笑った。
「と、おっしゃいますと?」
「わしの趣味が高じて創った全くの個人会社での、三つほどある」
松尾があくまでも個人会社と強調した三社は、
釣りの趣味から、
『釣り道具の製造販売会社』
ゴルフの趣味から、
『七ヶ所のゴルフ場の運営会社』
ワイン嗜好が高じての、
『葡萄園とワイナリー』
であった。
さすがに商売の神様と謳われる松尾正之助だけあって、年商はそれぞれ八百億円、二百四十億円、百八十億円で、利益も五パーセントから十パーセントを生んでいる優良会社だった。
「これなら問題なかろう」
松尾が催促するように言うと、
「洋介、ここは黙ってお受けしろ」
榊原が有無を言わせぬ面で言ったものだから、
「承知致しました」
と、森岡は頭を下げざるを得なかった。
二時間後、幸苑を出た四人は、いや他に松尾正之助の共の者が三人、福地正勝のそれが一人、さらに坂根と蒲生、足立を加えた十一人はロンドへ顔を出した。九頭目ら影警護の者たちは、さすがにロンドは遠慮し、近くの神栄会の息の掛かったショットバーで待機した。
さすがは天下の松尾正之助である。新地の本通りを歩いていると、見るからに身形の良い紳士たちが次から次へと松尾に声を掛けて来る。松尾は挨拶を終えると福地を傍らに呼んで紹介した。上場していないとはいえ、味一番は食品業界大手で超優良会社である。松尾の紹介に十分に足る人物である。
森岡と榊原は、その度に松尾らとは距離を置いたところで足を止め世間話をした。
「洋介、例の鴻上がそろそろろ返事を貰いたいと言ってきたが、断るで」
鴻上への返事とは、榊原の人脈を利用して、簡易の仏壇や霊園をパソコンのネットワークを駆使して販売しようという事業計画話である。
「爺ちゃん、断るのはちょっと待ってくれへんか」
「なんや、なんかあるんか」
榊原は意外という顔をした。
「今調査中なのやが、この話には裏があるような気がするんや。せやから、背後の鼠を炙り出すまで話を引き延ばして欲しい」
「背後の鼠やと。また誰かがお前を陥れようとしていると言うんかいな」
おそらく、と肯いた森岡は、東京で偶然耳にした情報を話した。むろん、美佐子と名乗った謎の女性のことは伏せたうえである。
「なんと、鴻上の背後にあの筧が蠢いているというのか。また難儀なこっちゃのう」
と、榊原は渋面をした。
「ただ、鴻上が俺と筧の関係を知っているかどうかはわからんがな」
「その口ぶりだと、場合によっては鴻上という男は使えるということやな」
「さすがは爺ちゃん、わかりが早い」
「こら、馬鹿にするな」
榊原はおどけるように森岡の額を小突いた。
「それやったら、もう少し詳しい計画書を出せとでも言っておこうか」
「それで、頼んまっさ」
森岡は片手拝みをして笑った。
そのとき、一人の男がすーと近づいてきた。蒲生と足立が森岡と榊原の前に立ち塞がる。
「蒲生、心配いらん。知り合いや」
森岡に近づいた男は、あるクラブの黒服だった。
「森岡社長さん、これからロンドですか」
「そうやが」
「偶には、うちの店にも顔を出して下さい。ママが首を長くして待っていますので」
「そういやあ、しばらくママの顔を見ていないな。よっしゃ、今日時間が有ったら顔を出そう」
「本当ですか」
黒服は飛び上がるように喜んだ。
「今日は偉いさんと一緒やから時間は確約はできんが、閉店間際ぐらいには行けると思う」
「偉いさんとは、そちらのお方ですか」
黒服は榊原を見た。
「おう。この爺ちゃんも相当な偉いさんやが……」
と言いながら、森岡は松尾に視線を送った。森岡の視線の先を見た黒服は、あっと小さく叫んだ切り地蔵になった。
松尾正之助は、夜の街はすっかりご無沙汰だったが、今でも折に触れ経済ニュースなのでテレビ画面にその姿を露出している。若い黒服でもその顔には見覚えがあるらしい。
松尾の姿を見たときの、茜の驚いた顔といったらなかった。茜だけではない。とんでもない大人物の来店に、ホステスや黒服らは仰天し、店内は騒然となった。
松尾から、一度森岡と食事をしたいという旨は聞いていたが、今日だとは知らされていなかった。
また森岡から、
『同伴及び予約客以外は貸切りにして欲しい』
との連絡を受けてはいたが、まさか松尾正之助の来店があるとは思ってもいなかったのである。
幸いにも開店前に連絡を入れたので、客はホステスに同伴した七名だけであった。茜は、すぐさま入り口に臨時貸切りの紙を張り出し、さらに黒服を立たせて、来店客を丁重に断わらせた。
また、同伴客も気を利かして、早々に腰を上げたため、森岡一行が来店した十時頃には全くの無人となっていた。
森岡は、榊原と福地を茜に紹介した。茜は、森岡の亡妻奈津実の実父との初顔合わせに、一瞬動揺を見せたが、すぐに平素と変わらぬ接遇に戻った。
榊原と福地は、共にロンドは初めてだった。二人は共に資産家だが、榊原は大病以来飲酒を控えていたし、学者肌の福地は料亭より小料理屋、高級クラブより家庭的なスナックを好んだ。
「ところで、森岡君、茜。二人のことは話しても良いかな」
松尾正之助が、いきなり言ったものだから、
「どうしましょう」
茜が森岡の顔を窺った。二人はお互いの眼で確認し合い、
「結構です」
と、森岡が答えた。
「会長、どういうことですか」
榊原が訊ねた。
「二人は所帯を持つのじゃよ」
「ええー」
驚いたのは、榊原と福地だけではない。ホステスや黒服も思わず声を上げた。むろん、ホステスや黒服たちは二人が親しい関係にあることは知っていたが、まさか結婚まで考えていたとは思ってもいなかったのである。
「会長はなぜご存知なのですか」
福地が訝しげに訊いた。さもあろう、自身はともかく榊原ですら知らない密事なのである。
「茜、もう良いだろう」
松尾は了解を得ると、
「茜はな。わしの孫娘なのじゃ」
松尾正之助があまりに真顔で言ったものだから、皆が凍り付いたように身を固め、一斉に茜の顔を窺った。
「血は繋がっておらんが、わしは本当の孫娘だと思い、可愛がっておる」
松尾の一言で、その場の緊張がようやく解けた。
だが、
「なあんだ、隠し子ならぬ隠し孫かと思ったわ」
とのホステスの呟きに、
「わしは大真面目に孫娘だと思っておるし、遺産の分配もするつもりでおる」
と、松尾が断言したため、一同は再び息を呑んだ。
「それもあって、洋介に興味を抱かれたのですね」
榊原が腑に落ちたように訊いた。
「まあ、そういうことじゃ」
「そうか、洋介君は再婚するのか」
福地が寂しそうな顔をした。
「お義父さん、以前にも申しましたように、私が彼女と再婚しましても、お義父がお義父さんであることに変わりはありません」
森岡が気遣うように言った。
「となると、わしは森岡君の義理の祖父みたいなものじゃの」
松尾正之助が言うと、
「会長、私も同様ですぞ」
と、榊原が口を尖らした。
「あらあら、私の旦那様になる人は、とんでもない『爺殺し』のようですね」
茜が呆れ顔で言うと、座がどっと沸いた。
「私にも、このような文質彬彬(ぶんしつびんぴん)の娘が一人増えるのですな」
その中で、福地正勝が亡き娘の面影を偲ぶようにしみじみと呟いた。
和やかな談笑が一時間ほど続いた頃、ロンドへと向かう階段を降りて行く初老の女性がいた。薄紫の加賀友禅に、つづれ織りの帯を締めた出立ちは、思わず息を呑むほどの風格に溢れている。
彼女の姿を看とめた氷室の表情は、一層強ばったものになった。店先に立ち、来店客に対して丁重に断りを入れているロンドの支配人である。
「貸切りと聞いたけれど、氷室、お前自ら表に出ているのですか」
初老の女性は、少し驚いた声で言ったが、顔には笑みが浮かんでいた。
「茜ママのご指示で……」
支配人の氷室は視線を落として言った。
「なぜ私が知っているのか不思議ですか」
女性は氷室の心中を見透かしたかのように訊いた。
「は、いえ、その……」
口籠った氷室に女性は言葉を被せた。
「松尾会長がいらっしゃるのでしょう」
氷室が目を剥いた。
「なぜ、それを?」
ふふふ、と女性は微笑んだ。
「大島建設の志方社長が教えて下さったのよ。ロンドを出た後、私のお店へ来られたのだけど、途中で松尾会長をお見掛けしたので、挨拶をされたらしいの。会長が北新地に足を運ばれることなど、珍しいことだから秘書に命じて行き先をお調べになったのよ」
ああ、そういうことかと、氷室は納得した顔をした。
「会長なら、私は入っても良いでしょう」
いや、と氷室は当惑の表情を浮かべる。
「あら、何か都合が悪いことでも?」
「松尾会長にはお連れがいらっしゃいます」
「連れ? では、無理強いはできないわね」
落胆の声で言った女性に、
「少々、お待ち頂けますか。茜ママに伺って参ります」
氷室は軽く頭を下げ、女性に背を向けて扉を開けた。
ほどなく、松尾の快諾も得て戻った氷室は、女性を案内して中に入った。
「よう、ママ。久しいのう」
松尾が鷹揚に声を掛けた。
「お邪魔して宜しいでしょうか」
女性は艶然とした笑みを浮かべながらそう言うと、一同を見回した。
女性の気遣いに、茜は、
「ママでしたら、何も遠慮は要りません」
と席を立って松尾の横を譲ろうとし、榊原と福地はその貫録に圧倒されている中で、
「あっ、貴女は!」
森岡が驚愕の声を上げた。
暫し森岡を凝視していた女性は、やがて薄い記憶が蘇ったように目を見開いた。
「まあ、あのときの新入社員さん?」
「はい」
「お名前は、確か……そう、森岡さんでしたね」
「そうです。憶えて頂いておりましたか」
森岡が目を輝かせる一方で、
「何や、森岡君はママと面識があるんかいな」
と、松尾は悪戯を見破られた子供のようにつまらなそうな顔をした。
「何と申し上げたら良いのか……」
森岡は複雑な表情を浮かべ、
「失礼ですが、どちらのママさんでしょうか」
と問い返した。
「森岡君、彼女が花崎園子さんじゃ」
松尾が何食わぬ顔で紹介した。
そう、この初老の女性こそ北新地でも指折りの老舗最高級クラブ花園のオーナーママ・花崎園子である。松尾電器会長・松尾正之助のかつての愛人であり、レストランでアルバイトをしていた茜を見出した恩人でもあった。
また、茜がロンドを開店した際、花園の副支配人だった氷室を補佐役として遣わしたのも園子であった。彼女の親心である。
「まさか、あのときの恩人が花園のママさんだったとは……」
嘆息交じりの声を上げた森岡に、
「恩人?」
と、皆が一斉に目を向けた。
森岡が入社した菱芝ソフトウェアーから親会社である菱芝電気に出向してまもなくのことだった。十二年前である。
部長の柳下は、出向者新人歓迎会の二次会として、北新地のラウンジバーに河岸を変えた。
北新地には約四千軒の飲食店が軒を連ねているが、このラウンジバー『生駒(いこま)』は、カウンター席が六席と、ボックス席が二つしかない小さな店で、堂島上通りの御堂筋側端に建つビル内にあった。有体に言えば、ラウンジとは名ばかりの場末のスナックである。
そうはいうものの、いかに菱芝電気の部長とはいえ、営業部でもない柳下に潤沢な接待費があるわけではない。それをまがりなりにも、課長を含む八名を引き連れての北新地となれば、かなりの大盤振る舞いであった。
さて、乾杯をしてまもなく、お決まりのカラオケ大会となった。他の七名は、皆意気込んで選曲していったが、ただ一人森岡だけが陰鬱な表情で選曲本と睨めっことなった。
森岡は音痴だった。
生まれてこの方、人前で歌など歌ったことがない。いや、学校の音楽の実技テストで歌ったことはあるが、大抵は教師と二人きりだった。
森岡の額に脂汗が浮き始めた。歌える歌が見つからないのだ。それでも、ようやく神村の自坊経王寺で大学受験の勉強をしていたとき、幾度となくラジオから流れていた曲に目が留まった。大都会の生活で味わう不安と寂しさを慰める曲だった。
急かされた森岡は、迷わずその曲を頼んだのだが、それが間違いだった。
バラード曲だったのである。アップテンポの曲であれば、音痴でもそれなりに聴かせることはできるが、バラードであれば誤魔化しは全く利かない。柳下を含め、新人の皆は誰もが下を向いて失笑した。森岡にもそれがわかった。森岡は初めて味わう種類の屈辱感に身を震わせながらも、どうにか歌い終えた。
それから二時間ほどして、地獄のような宴会はお開きとなったのだが、とうとう森岡はその一曲しか歌わなかった。いや、歌えなかった。
店を出るとき、トイレへ行っていた関係で最後尾となった森岡に、カウンターに座っていた中年女性から声が掛かった。女性の年齢など、森岡にわかるはずもなかったが、神村とは異なる一種独特の風格に圧倒された。
「貴方、明日の十九時にこの店へいらっしゃい」
優しげな眼差しだったが、有無を言わさない迫力があった。
森岡は思わず、はいと返事をした。
店を出た森岡は、いったい何者だろうかと想像した。生駒のママは七十歳近い老婆である。そうだとすると、あの五十歳絡みと思われる女性は何者なのか。そして、何の用があるというのだろうか……。
北新地の店の多くは二十時開店であるし、生駒もそうであった。
――開店前に何をする気なのだろうか。
人間として全く格の違う女性であることは森岡にもわかった。まさか、色事とは思えないし、取って食われるほどの器ではない。
森岡は不安と好奇の交錯する、得も言われぬ奇妙な心持ちのまま次の日を迎えた。
十九時、森岡は指示通り生駒に顔を出した。中年の女性はすでに店の中にいたが、ママの姿はなかった。
女性は冷蔵庫からビールを数本取り出すと、
「飲みなさい」
と命令口調で言った。一滴も飲まない彼女を横目に、
――俺を酔わせてどうする気だ。
森岡の猜疑心は深まっていった。
十分ほどで、中瓶二本を無理やり空けたときだった。
「さあ、二十時まで練習よ」
と、昨夜森岡が歌ったバラードの曲をカラオケに入れた。
そして、女性から発声方法を含む懇切丁寧な歌唱指導を受けた。何度も何度も繰り返し、同じ曲を入れ、徹底的に練習させられた。
二十時前になって、生駒のママが出勤したところで終了となった。
女性は、翌日も同じ時刻に来店するようい言い残して店を出て行った。
森岡は生駒のママに彼女の素性を問うたが、首を横に振って答えてくれなかった。また、代金の支払いを申し出たが、それも断固として受け取らなかった。
そのような日が土日を挟んで一週間続いた。そのお蔭で、森岡は課題曲のバラードがそれなりに歌えるようになった。
人というのは不思議な生き物である。たった一曲マスターしただけで自信が付いたのだろうか、森岡はカラオケに興味が湧いた。同僚とスナックへ行くと、積極的に他の曲も歌うようになった。こうして森岡は現在のように人並み以上の歌唱力を身に付けたのである。
森岡はレッスン最終日、密かに中年女性の後を着けて正体を暴こうと試みたが、その企みはあっさりと見破られてしまった。その後、森岡は何度か生駒に通ったが、女性が姿を現すことはなかった。
半年後、生駒のママは病気入院し、それから三ヶ月後に他界したため、とうとう素性のわからないままとなってしまったのである。
「なるほどのう、そのようなことがあったか」
松尾は納得したように肯くと、
「しかし、ママはなぜそのようなお節介を焼いたのかな」
と、園子を窺うように見た。
「感じたからですよ」
「感じた? 何をかな」
「あら、松尾会長のお言葉とも思えない。女が感じると言えば此処しか有りませんでしょう」
と、園子は艶めかしい笑みを浮かべ、下腹部に手を当てた。
「うう……」
松尾だけでなく、榊原と福地も唸った。森岡が、まさかという面で首を捻る中で、茜ただ一人が顔を薄く赤らめて俯いた。
園子の心理は男にはわからない領域である。
男は、建前は性格と言っているが、現実は外見や損得で女を選ぶのがほとんどである。
その一方で、女は外見や損得より子宮で男を選ぶ。自分自身に自信があればあるほどその傾向が強まる。動物のメスは、本能により優等なオスの精子を選択すると明らかになっている。種の繁栄のため、劣等な精子を排除する傾向が強いのは自然の摂理なのだ。
進化した人間には理性と感情が備わったため、本能のまま行動することは少なくなったが、それでも進化以前のDNAは残っている。
園子は本能的に、
――森岡を抱きたい、彼に抱かれたい。
との衝動が奔ったのだと、恥ずかしげもなく公言したのである。
「ママほどの者がのう」
松尾はどこか満足げな顔をした。
「でも、どうして森岡さんがこの場にいらっしゃるの? 会長のお知合いですか」
あらためて園子が訊ねた。
「実はな、茜と所帯を持つのじゃよ」
「あらまあ、本当に?」
園子が茜を見た。茜は黙って肯いた。
「なるほど。会長は茜の相手を見定めるために、とんとご無沙汰だった北新地(ここ)に、久々足を運ばれたのですね」
園子はたちまちにして松尾の魂胆を見破った。
「まあ、それもあるが、わし自身がこの男に惚れてのう。このお二方との共同事業に加えて貰ったところじゃ」
松尾は遅ればせながら、榊原と福地を紹介しながら言った。榊原は世間に隠れた人物だが、味一番は誰でも知っている一流企業である。
園子は目を見開いて、森岡を見た。
「会長と共同事業? 森岡? ということは、もしかして貴方がウイニットの……」
「はい」
「あの馬鹿騒ぎの」
園子の声には少し棘があった。
「なんのことじゃ」
松尾が興味深げに訊いた。
「初めてロンド(ここ)に来た夜に、彼はいきなり二千万も散財したらしいですよ」
園子が耳にした限りの顛末を話した。
厳密に言えば、谷川東良に連れられて来たのが初見であるが、自分の意志で来店したのが初めてという意味である。
「一晩で二千万じゃと」
「本当か、洋介君」
榊原と福地が同時に訊いた。
「なんと愚かなことをしたと、後悔しております」
森岡はいかにも決まりが悪そうに答えた。
「ほほほ……」
急に園子が口に手を当てて笑い出した。
「どうかしたかの」
松尾が怪訝そうに訊いた。
「失礼しました。いえ、私の目に狂いがなかったと思いまして」
園子が自慢げに松尾を見た。
「たしかに、たしかに」
松尾は何度も肯き、
「二人と偶然出会ったのもママだけなら、唾を付けたのもママだけじゃからのう」
と称賛した。
「それで、茜は水商売から身を引くの」
「はい。近々ご報告するつもりでした」
背筋を真っ直ぐに伸ばした茜の表情に、迷いは一切なかった。
茜は園子に見出されてこの世界に入っていた。財界の大立者である松尾正之助を後ろ盾にしてくれたのも園子である。茜はそれほど園子から可愛がられていたし、期待をされていた。
それを、いかに結婚が理由とはいえ、水商売から身を引くということは、どのように非難されても抗弁の許されない背信行為なのだ。そのことを痛いほどわかっている茜が敢えて意志の固さを示したのである。
「目を掛けて頂いたママには申し訳ないと思っています」
茜は丁重に詫びた。
「しょうがないわね。いずれ花園を任せようと思っていたけど、一度言い出したら利かない娘だから……それに、相手が彼だったら無下に反対もできないわ」
諦め顔で言ったその目は、愛娘を見るような慈愛に満ちていた。
「さてさて、縁結びの女神様のご来店じゃ。賑やかに飲み直そうかの」
松尾が乾杯の音頭を取り、酒宴の再開を宣した。
日付けが変わった深夜三時過ぎ、森岡の携帯が鳴った。
受信を確認すると片桐瞳からであった。大阪都島にある茜のマンションのベッドに横たわっていた森岡は、躊躇う事なく携帯を繋げた。瞳がこのような時刻に電話してくることなど尋常ではないからである。
「洋ちゃん……」
はたして、森岡の耳に瞳の悲痛な声が漏れ伝わった。
森岡は、蒲生亮太一人を呼び起こすと、茜に事情を話し、京都中京区の瞳のマンションに向かった。瞳とは決してやましい関係ではないし、茜はこのようなことで悋気する女性でもない。
瞳のマンションに到着した森岡は、玄関先まで護衛した蒲生を車に返し、一人で彼女の部屋に入った。
玄関のドアを開けて招じ入れた瞳の姿に、森岡はただならぬ異変を感じた。
「何があった?」
森岡は慎重に声を掛けた。
「……」
だが、瞳は口を開こうとはしなかった。
「言いたくなければ言わんでええで」
森岡は子供をあやすかのように言った。
「私……私……」
瞳は尚も躊躇った。
「無理するな。けど、俺にできることやったらなんでも力になるで」
森岡は優しく囁いた。
すると、ようやく重い口が開いた。
「私、二人の男に乱暴されたの」
「な……」
乱暴という言葉の意味を理解した森岡は言葉を失った。このようなときに掛ける、気の利いた言葉など浮かぶはずもない。
しばらく重苦しい沈黙のときが流れた。
やがて、瞳は搾り出すように話始めた。
この夜、彼女は0時過ぎに店を閉めた後、男性客とのアフターに付き合い、深夜二時頃までカラオケで遊んだ。男性客とホステスを残し、先に自宅マンションに戻ったところ、玄関先に止まっていた車から降りてきた二人の見知らぬ男に呼び止められた。
二人は、彼女が片桐瞳だと確認すると、突然一人の男が口を塞ぎ、取り出した刃物を咽元に付き付けた。彼女は車に押し込められて、山科辺りの山奥まで拉致されると、車中で強姦されたのだと言った。
彼女はいつもの気心の知れた個人タクシーを呼び、マンションに戻ると、身体を洗浄した。警察に被害届を出そうと思ったが、なぜだか森岡の顔が頭に浮かんだというのである。
森岡は、瞳が落ち着いたのを見計らって、犯人の手掛かりとなる材料を聞き出した。
悪夢のような惨劇の中で、瞳は気丈にも冷静に二人の男の特徴を観察していた。
一人は四十歳半ばの小太りで禿頭、もう一人は三十歳過ぎの長身で男前。
二人とも関東弁を話していたが、若い方は言葉の端々に、時折関西弁が混じっていたということ。
車のナンバーが目黒だったということ。
そして、二人の会話に中に『やっちゃん』という言葉が出たということであった。
関東弁ということから推測すると、東京から京都へやって来ての凶行であり、素顔を晒しても、自分たちまでは辿り着けないとの読みだと思われた。
森岡はしばらく思案した後、
「もしかしたら、俺のせいかもしれん」
と呻くように言った。
「え? どういうこと」
瞳は怪訝そうな顔をした。
「はっきりとは言えんが、もし俺のせいだとしたら、落とし前はきっちりと俺が付ける」
「……」
「だから、だから間違っても馬鹿なことは考えるなよ」
森岡はやさしく肩を抱いた。
「これぐらい、へっちゃらよ」
瞳は悲しみを仕舞い込むような笑顔で言った。
一人の女性として、辛酸を舐めながら生き抜いてきた両眼には凛とした力強さが残っていた。
――この分なら、大丈夫だな。
森岡は安堵の呟きを漏らした。
森岡は、瞳を吹田市の北摂高度救命救急センターに隣接する千里総合病院へ連れて行き、処置を受けさせた。彼が凶刃に倒れ、入院していたとき懇意になった医師に連絡を取り、信頼できる女医を待機してもらったのである。
診察の間、森岡は事件を推量した。
男たちが瞳の本人確認をしたということは、突発的ではなく、計画的だったということになる。瞳の話から、彼女自身が恨みを買うとすれば、坂東明園ぐらいであった。しかし、男たちの言葉が関東弁だったということを考慮すると、その可能性は低くいと見るべきで、森岡が瞳に、自分のせいかもしれないと言ったのはこのためである。瞳に比べれば、 彼の方が恨みを買う可能性は断然高い。
森岡の脳裡に真っ先に浮かんだのが筧克至である。
彼であれば、人生を狂わされた恨みを抱いていたとしてもおかしくはない。しかも、あれほど恫喝されたにも拘らず、天真宗総本山をうろついたりしている。森岡は、筧が何を企んでいるのか気になった。気にはなったが、ここで森岡は残る手掛かりが心に浮かんだ。
――やっちゃん……。
二人の男の、どちらかの呼び名なのか、それとも第三者のそれなのか。森岡は脳の深層部に、どこかで見聞きしたような引っ掛かりを憶えたが、どうしても記憶を呼び起こせなかった。
名古屋のキャッスルホテルの一室で、筧克至は何度も何度も唾を飲み込んでいた。緊張のあまり、喉の渇きが収まらなかった。彼の目前には、瑞真寺第三十八世門主・栄覚権大僧正が座っていた。
瑞真寺は、宗祖栄真大聖人の末弟・栄相上人の血脈継承のために建立された、いわば宗祖家の寺院である。室町時代、総本山の護山の役目を担う高尾山の、標高千メートルの高地に平安様式で建立された。敷地は約一万二千坪と、決して広くはなかったが、紛れもなく本山格を有する寺院である。
本来、天真宗も妻帯を厳禁とする戒律があったため、宗祖栄真大聖人自身の直系子孫は存在しない。ところが、大聖人の末弟・安倍恒興(あべつねおき)は、世俗にあったとき男子を生しており、その後出家して大聖人の直弟子栄相を名乗った。
栄相上人は智略に富んだ人物で、浄土真宗が妻帯を容認していることに倣い、いやそれどころか宗祖親鸞上人の子息が、それこそ生き仏様のように信者から畏敬の念を集めていることに着目し、戒律の裏でこの世に自らの子孫を残すことを思い立った。
すなわち、一旦婚姻し男子を生してから出家する方法で脈々と血脈を繋ごうと画策した。しばらくの間は隠密裏に実行されていたが、室町時代に入り、時の総本山上層部が容認、加担したことにより瑞真寺の建立に至ったのである。
これを栄相上人の深謀遠慮と読み取るか、歴史の壮大な浪漫と受け取るかは別として、栄相上人の企てを読み取った栄真大聖人は、天真宗の将来を憂い、栄相上人のみならず彼の子孫を遠ざけるため、
『後継は一等優れた者にすべし』
との遺言を残して逝ったのである。
事実上の血脈者拒否宣言であった。よって、高尾山に瑞真寺が建立されたとはいえ、栄相上人の子孫から法主に上がった者は一人としていなかった。
「筧君と言ったな」
「はい」
「会うのは二度目だな」
「以前、勅使河原会長とご一緒致しました」
「うむ、そうだった。聞くところによると、私のためにウイニットへ潜り込んでくれたということだったが、今はどうしているな」
筧は苦々しい顔をした。
「森岡に見破られて、会社を追い出されましたので、この際自分で事業を始めようかと思っているところです」
「そうか、何か困ったことがあれば遠慮なく言いなさい。といっても、起業ということであれば、勅使河原会長の方が頼りがいがあるがな」
「ありがとうございます。その折は宜しくお願い致します」
筧は丁重に頭を下げた。
筧は立国会会長の勅使河原公彦の指示を受けてウイニットに入社した。
栄覚は、神村正遠が自身の最大の宿敵だと見定めたとき、彼の身辺調査をした。
その結果、有力な支援者として榊原壮太郎や福地正勝の名も挙がったが、経済人が高僧の庇護者となることは珍しいことではない。むしろ栄覚の目は、大学時代に神村の書生をしていた森岡洋介に注がれた。
このあたりは、さすがに栄覚もただ者ではないといったところか。
勅使河原とは距離を置いていた栄覚だったが、神村の懐刀である森岡の動向を内偵する必要に迫られ、やむなく彼の力を借りることにした。すなわち、ウイニットにもいるであろう立国会会員の中から適当な者を選んで内通させ、情報を得ようというのである。
実際、ウイニットには八名の立国会会員がいた。とはいえ、森岡と言葉も碌に交わすことのない一般社員では役に立つはずもない。重役か秘書のような側近である必要に迫られた。
一人だけ該当者がいるにはいた。
南目輝である。彼自身は立国会会員ではなかったが、父昌義が中国地区の幹部を務めていた。
だが、部下から調査報告を聞いた勅使河原公彦は首を縦に折らなかった。南目昌義は、先代勅使河原公人時代からの重鎮の一人ではあったが、自身には何かと注文を付ける、煙たい存在だったのである。
ちょうどそのような折である。
関西支部の幹部である筧克実が子息の克至を伴い、東京本部に勅使河原を訪ねて来た。雑談の中で、関西で同じコンピューター関連の仕事をしているということから、勅使河原は何気に森岡の名を出した。
すると克至が、森岡とは面識があり、しかもヘッドハンティングされ、只今思案の最中にあると言うではないか。
勅使河原は、諜報員として筧克至に白羽の矢を立てた。
筧家とは克至の祖父の代から親交があったし、何より克至本人が森岡の信用を得ているのだ。しかも、ウイニットの要職に就くということは、森岡と接触する機会も格段に多いはずである。
筧克至は、将来の起業への援助を条件として勅使河原の提案を受諾したのである。
「ところで、今日は呼び立てて済まなかったの」
栄覚は労いの言葉を掛けた。
「とんでもございません」
「君を呼んだのは他でもない。あらためて、森岡という男について詳しく訊ねるためだ」
「承知しております」
「勅使河原会長を通じて君からの報告を受けていたが、少し様子が違うようだ」
「とおしゃいますと?」
筧は腑に落ちない顔で訊いた。
「たしかに、すこぶる頭の切れる男のようだが、それだけではないようだの」
「……」
筧には、門主の言いたいことがわからなかった。
「人徳だよ」
「人徳?」
筧は思わずオウム返しをした。
「森岡という男、ずいぶんと人に好かれる徳が備わっているようだ。この人徳というのは、努力したから身に付くといった類のものではない。生まれ持った素養と分別が付く前の幼年時の薫陶が大きくものをいう」
「では、森岡の過去を調べよと」
筧は機転を利かしたように言ったが、
「そうではない」
栄覚はやんわりと否定し、
「そのようなことは、探偵にでも依頼すれば良い。君には、森岡と接した折の彼の言動を余すことなく話して欲しいのだ」
と言葉を継いだ。
「そのようなことで」
筧は疑いの目で栄覚を見た。
栄覚とて荒行を六度達成した高僧である。話を聞いただけで真実に触れる法力は身に付けている。俗人の筧には、理解できない仏界の真理であった。
「直に会って確かめるのが一番なのだが、なかなかそうもいかない。そこで、君を呼んだのだ」
栄覚はもどかしそうに笑った。
催促された筧は、自身との出会いの経緯から、神村正遠、久田帝玄、真鍋高志らとの交流、大阪パリストンホテルでの神栄会を背景にした恫喝の様子まで全てを詳らかにした。
黙って聞いていた栄覚の表情は除々に強張り、つれて色を失って行った。
「門主様、如何されましたか」
話し終えた筧が問い掛けたが、栄覚は何も答えなかった。
「うーん。ますますこの目で見たくなった」
しばらくして栄覚が呟いた言葉であった。
その日の夕刻、前杉恭子から緊急連絡を受けた森岡は、南目輝と蒲生亮太、足立統万の三人を伴い、会社のオフィスがあるビルディングの一階に急行した。
前杉母娘に営業を一任した喫茶店は二週間前に開業していた。
店名は、以前彼女らが経営していたときと同じ『エトワール』である。
大阪梅田のホテルで二人の危難を救った森岡は、奥埜清喜から権利を買取り、彼女らに運営を委託した。元はレストランだったものを喫茶店に改装したもので、森岡の温情である。
喫茶店は開業して間もなかったが大繁盛していた。前杉母娘は、以前南目が通った京都の立志社大学の近辺で喫茶店を営業していた。正門前の大通りから脇に入った辺鄙な場所にも拘らず、多いに賑わっていた。
その理由は、ひとえに美由紀の美貌にあった。
そのうえ今度は、立地条件が格段に良かった。JR新大阪駅前のオフィスビルの一階にあり、隣接しているホテルとは往来ができるように一階部分で繋がっていた。むろん、ホテル内にも喫茶店はあったが、美由紀の美貌が評判になり、オフィスビル勤めの会社員以外に、ホテルの宿泊客も取り込んでいた。
だが、花岡組の嫌がらせが予想できたため、緊急の連絡網を敷いていた。キッチンの横に、秘書室の蒲生と繋がる直通電話を設置していたのである。彼らが不在のときは、野島または住倉が代わって対応することになっていた。
店内に足を踏み入れようとしたとき、怒声が耳に飛び込んで来た。初老の男性とチンピラ風の男性に二人が口論している様子だった。
「ついに来たか」
森岡が呟くように言うと、
「そのようやな」
南目が苦々しい顔で反応した。
南目と前杉美由紀は交際を始めていた。御互いに大学時代から好意を抱いていたが、行き違いによって実ることのなかった恋であった。それが、偶然にも梅田のホテルで難儀にあっていた彼女と再会し、燻っていた火種に油が注がれた、言わば必然の流れであった。
森岡が、ついにと言ったのはある理由からである。
本来、立地条件の良いレストランが閉店に追い込まれた原因はただ一つ、暴力団の嫌がらせだった。この地域を縄張りとしていたのは『花岡組』という、元は的屋を稼業していた戦前からある古い組織で、関西地域においては、神王組の息の掛かっていない独立独歩の暴力団だった。
条件の良い店舗にも拘らず、新しい借り手が見つからなかったのは、この経緯が知れ渡っていたからである。森岡が、そのような曰く付きの店舗の権利を買い取ったのは、何も前杉母娘のためだけではなかった。彼はこの店舗を含むオフィスビルディングのオーナーである奥埜家の御曹司から懇請されたこともあった。
かつて森岡は、奥埜家が西中島南方に所有する飲食ビルの店子の十一店舗のスナックを一晩で梯子飲みをするという馬鹿遊びをしたのだが、その折偶然にも奥埜家の嫡男清喜と出会い意気投合していた。
二ヶ月前、森岡はその奥埜清喜からある相談を受けていた。それが花岡組という暴力団の嫌がらせである。
暴力団対策法の施行以来、これまで公然体と行われていた『見ケ〆料』は目に見えて減少した。この花岡組にしても例外ではなった。
神王組のような巨大な組織であれば、たとえば関連事業を通じてとか、他の方法で上納させることもできたが、弱小組織である花岡組ではそれも適わないことであった。そこで、これまでどおり裏で現金を強要していたのである。
しかし、前のレストラン経営者は、正義感が強いうえに、暴力団に資金提供をしていた事実が発覚すると、事実上営業停止となるため、断固として拒否し続けていた。
そこで、花岡組は嫌がらせを始めるようになった。むろん、組員の行為は法に触れるため、堅気の連中を雇い、種々の嫌がらせを指示した。嫌がらせはエスカレートして行き、とうとう経営者の家族にまで災いが及んだとき、閉店を決意したのだった。
奥埜家が経営する不動産会社には、全国のビジネスビルや飲食ビル、賃貸マンション、駐車場等の賃貸料が月額にして五億円ほど入る。一店舗の未入居など痛くも痒くもなかったが、問題のレストランは目抜き通りに建つビル一階の、正面入り口のすぐ横にあった。ガラス張りで通りから中の様子が窺えた。そのような目立つ店舗が、閉店のままではなんとも印象が悪い。
西中島の縄張りは神王組傘下の組織も一枚噛んでいるが、オーナーである奥埜家が直接暴力団と接触することはない。
奥埜清喜は、祖父の徳太郎から耳にしていた森岡の人となりに加え、実際に一晩酒を酌み交わしてみて、その底知れぬ人間力に感服していた。故に、森岡こそ頼りに足る人物と期待を抱き、花岡組の嫌がらせの実情を吐露したのである。
ただ森岡は、賃貸ではなく権利譲渡という条件であれば検討する、と返答を留保していた。飲食店経営など、あまりに門外漢だったからなのだが、その権利を前杉母娘のために買い取ったのである。
開店してから二週間、これまでは何事もなかったが、ついに花岡組が動いたのだと察せられた。しかも、灰色世界の住人に依頼するのではなく、組員自ら出向くという大胆極まりない不敵な行動だった。裏を返せば、それだけ切羽詰まった焦りの表れということになる。
さて、初老の男性と二人の極道者との口論は激しさを増し、一触即発の雲行きとなった。
森岡は、急ぎ足で両者に近づくと、
「どうかされましたか」
と長閑に訊いた。いかにも場違いな声だった。
「この二人が、嫌がるお嬢さんを無理やり外へ連れ出そうとしたので、注意していたのです」
初老の男性が説明し、美由紀の方に視線をやった。
「こら、おっさん! 何を言うとんねん。彼女も同意のうえやろ」
若い方が息巻いた。
「まあまあ、落ち着いて下さい。ここでは他のお客様にご迷惑が掛かりますので、別の部屋でお話できませんか」
「お前は、何者やねん」
中年の男が訊いた。
「これは失礼しました。私は、この店のオーナーの森岡と申します」
森岡はどこまでも丁重に対応した。
「おお、あんたがオーナーか。それなら話は早い」
中年の言葉に森岡は、
「では、こちらでどうぞ」
と言いながら、南目に、
「お名前と連絡先を伺っておけ」
と耳打ちし、南目を留め置いた。
このとき、足立統万の脳裡には、
――もしや……。
との思いが浮かんでいたが黙って後に従った。
森岡が案内したのは、隣接するホテルの二階の事務室である。会議や商談等に利用される部屋であった。
二人は、花岡組若頭補佐の桐生と若衆の矢野と名乗った。
「さて、花岡組の方が直接出張って来られたのですから、まどろっこしいことは止めましょう。そちらの要求はなんですか」
「わかっているやろう」
桐生が木で鼻を括ったように言った。
「今どき見ケ〆料なんて古臭いですよ。第一、暴対法でこちらの首が危なくなります」
「断るなら、これまでどおりを続けるだけや」
「それは困ります」
「だったら、四の五の言わんと出すもの出せや」
矢野が焦れたように怒鳴った。
「出しても構いませんが、そちらは私どもに何を提供されますかな」
「そりゃあ、トラブルを解決するがな」
「トラブルなんて、こちらで解決しますよ。それより、もっと斬新なことを考えたらどうです」
「なんやて」
矢野が再び恫喝した。だが、森岡は落ち着いたもので、
「やり方を考えませんか、と言っているのです」
と諭すように言った。
「金を出す気はあるんやな」
桐生が念を押した。
「話によっては」
「どうせえ、言うんや」
「それは、次の機会にしませんか。それまでにお互いが方策を考えておく、ということでどうでしょう」
「せやけどな」
不満顔の桐生に向かって、森岡は蒲生からセカンドバッグを受け取ると、中から帯封の付いた束を一つ取り出して、テーブルの上に置いた。
「これは些少ですが、足代です。今日は時間がありませんので、お引取り願えませんか」
と頭を下げた。
「うっ」
桐生は言葉に詰まった。過去に足代と称して百万円も差し出されたことなど一度もなかった。話次第で金は出す、と言った言葉に嘘はないのだろう。そう思った桐生ではあったが、ここであっさり引き下がっては沽券に関わると、
「話はまだ終わっとらんで」
と凄んで見せた。
「良い案が浮かびましたら、連絡を下さい。ただし、直接会社に来られては困ります。もし、そのようなことをされましたら、今後一切話しには応じません」
森岡は有無を言わせぬ体で、桐生を見据えた。
獲物を狙う鷹のような眼つきだった。
その瞬間、
――この男、いったい何者なのだ。極道者にも、このような眼つきの鋭い者は少ない。
と、桐生は背筋が凍るような戦慄を覚えた。
そのときである。
「昇兄ちゃん、久しぶりです」
突然、足立統万が親しげな声を掛けた。
「昇兄ちゃんだと?」
訝しげに足立を見た桐生は、
「わしの名を知っているわれは誰や」
と嘯いた。
「足立の統万です。憶えていませんか」
「足立……の統万?」
まじまじと見つめていた桐生は、見知った面影に辿り着いた。
「足立のぼんでっか」
「久しぶりです。まさか、こんな形で再会するとは思ってもいませんでした」
「ぼん、大きくなられましたな」
桐生は懐かしげに言った。
「十五年も経っているのですよ」
「もう、そないになりますか。しかし、なんでまたぼんがここに?」
いるのか、と訊いた。
「私は今、森岡社長の許で修行中です」
「へっ、修行?」
桐生はどういう意味かわからなかった。その昔、自身が世話になった足立興業は、境港の裏世界を牛耳っていたと承知していた。その跡継ぎのはずの統万が、なぜに堅気の許で修行をしているのだろうか。
統万は、桐生の困惑顔を他所に、
「それより、この方を誰だか知っているのですか」
と親身な言葉を掛けた。
「どういう意味でっか」
「何も知らずにゴロを撒くつもりなのですか」
足立の言葉に、桐生はようやく己の間違いに気づいた。
「森岡さんはどういうお方で」
言葉をあらためて訊いた。
「説明するのも面倒です。社長、あれをお見せなったらいかがでしょう」
足立が進言した。
「これか」
森岡は背広の内ポケットから、蜂矢六代目から渡されたプラチナバッジを取り出した。
「それは桐の紋章、まさか神王組ですか」
驚いたように言った桐生の顔が、次の瞬間凍り付いた。
「プ、プラチナ」
「若頭、いったいどうしたというのです」
矢野が不安げな面で訊いた。
「森岡さんは神王組の最高幹部?」
桐生は呻くように訊いた。
「とんでもない。私は堅気ですよ」
森岡は笑ったが、その余裕がまた、桐生を恐怖の底に叩き落した。
「それより、二人は知り合いでしたか」
森岡は奇縁を訊いた。
「十五年も昔、商売のため年に何度か境港を訪れました。そのとき、足立万吉さんや万亀男さんにお世話になったものです」
桐生は足立家との関係を話した。
京都や奈良といった神社、仏閣の多い地域を抱える関西は、祭りや縁日に事欠かないため、大組織の的屋は繁盛していた。だが、中小組織となるとそうも行かず、関西の的屋であれば西日本、とくに中国地方の街に出張することが多かった。
その中でも島根は、出雲大社の存在もあって、格好の稼ぎ場所となっていたのである。境港は鳥取県だが、島根とは県境の街であり、大きな港街だったので祭りは盛大だった。
そこに狙いを付けた花岡組が、境港の裏社会を仕切っていた足立興業に筋を通すのは道理だったのである。
得心のいった森岡は、
「桐生さん、さっきの言葉は嘘ではないですよ。合法であれば、私も考えますので、一度組に戻り、組長さんと相談してもらえませんか」
と頭を下げた。
「わ、わかりました。今日のところは引き上げます。なんぞ思い付きましたら、連絡します」
森岡の貫録に圧倒された桐生は、百万円を押し返し席を立った。
花岡組と話を付けた森岡はエトワールに戻った。
美由紀の難儀を助けに入った初老の男性は、まだ店内に残っていた。南目が名前と住所を訊ねたところ、男性は然したることはしていないと断った。
そこで機転を利かした南目は、それでは自分が叱責されると、話し相手となって引き止めていたのである。
「先ほどは、我が社の者がお世話になりました。森岡洋介と申します」
森岡は名刺を差し出し、礼を言った。
「これはご丁寧に。生憎名刺は持ち合わせておりませんが、高井と申します」
と初老の男も恐縮して頭を下げた。
「高井様は、御仕事で大阪へ」
来たのか、と訊いた。
「はい?」
高井は怪訝そうな顔をした。
「失礼ですが、言葉もイントネーションも大阪弁ではありませんでしたので、東京のお方かと推察致しました」
「ああ、なるほど。御賢察のとおり、東京から参りました。古い友人と会う約束でしたが、急用とかで明日に変更となりましたので、こちらで時間を潰していたのです」
「では、この後のご予定はないのですね」
「ええ、まあ」
「ちょうど良かった。お礼に一席設けたいのですが、どうでしょう」
「とんでもない。然したることはしていません。お礼などとんでもないことです」
高井は、恐縮そうにしたが、
「いえ。最近は人の難儀を見ても、見ぬ振りをする世知辛い世の中になりました。私は高井様の勇気に感銘を受けました。是非とも、お近づきの印に一献受けて下さい」
森岡は腰を折って深々と頭を下げた。こうまでされると、時間を潰していると言った手前、高井には断る理由が見つからない。
森岡は、高井に只ならぬ人間力を感じていた。いかに正義感が強くても、極道風の男たちに注意をするなど有り得ないことなのだ。
後日、森岡と神王組との関係を知った花岡組は、見ケ〆料の要求を引っ込め、良好な関係構築を願い出た。
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