第3話  第一巻 古都の変 人脈

 話は幹部会議の終了後に戻る。

 会議を終えた森岡は、すばやい行動に打って出た。

 何しろ彼に与えられた時間は、推薦書類の提出期限までの残り十日ほどと、その三ヶ月後に行われる合議までの、合わせて三ヶ月余しかなかったのである。

「坂根、神戸へ向かってくれ」

 車に乗り込んだ森岡が命じた。

 彼が真っ先に足を運んだのは、神戸に会社を構えている七十歳半ばの老人の許であった。

「社長、妙な会議でしたね」

 車を発進させた直後、坂根が口を開いた。

「ほう。どこが」

「社長のお考えに対する皆の賛否が逆のような気がします」

 坂根は率直な感想を述べた。

 ところが、

「なるほどな。そう言われればそうやな」

 と、森岡は全く気のない返事をしたきり、黙り込んでしまった。

 出鼻を挫かれた格好の坂根は二の句が継げない。

 そこで、

「社長。これからお会いする榊原(さかきばら)さんとは、いったいどういう方なのですか?」

 と話題を転じた。

 彼は初めて紹介される、その老人が気になっていた。森岡から聞いた大まかな話では気難しい性格で、強面の印象しか残っておらず、自分のような若輩が相手にされるかどうか気が気でなかったのである。

 しかしこれもまた、

「悪いが、止めとくわ。これ以上俺の話を聞いて、下手な先入観を持たん方が ええやろ。自分の目で確かめろ」

と、森岡は冷たく突き放した。書生時代、彼もまた幾度となく神村から同様の指導を受けていたのである。

「……わかりました」

 にべもない返事、に坂根の不安はいっそう強まった。

 森岡は、坂根好之を幹部候補生として目を掛けていた。だからこそ、二十八歳という若さながら、ウイニットの将来ビジョンを立案する経営企画室の課長に抜擢しただけでなく、最近は自身のプライベートな部分、特に神村本人や神村に繋がる人物に会うときなど、人脈を拡げるような機会には、可能な限り同席させるようにもしていた。今回、彼を手足としたのも、その思惑の一環であり、これから出会うであろう人物の人となりを見抜く目を養わせようとしているのだった。


 榊原は神戸市の中心部、商業ビルが立ち並ぶ目抜き通りに、八階建ての自社ビルを構えていた。ワンフロアーは二百五十坪である。

 森岡が一階の受付の前に立つと、用件を述べる前に、受付の女性がにこやかに席を立った。

「いらっしゃいませ、森岡様。社長がお待ちかねです。どうぞ、ご案内致します」

 彼女は丁寧なお辞儀をすると、右手をエレベーターの方に広げながら先導した。

 この会社で、森岡はその顔を十分に知られていた。特別な感情を持って迎えられていたと言っても良い。社員は皆、森岡と榊原の特別な関係を知っているのである。

 八階の社長室の扉が開かれた。

 椅子に腰掛けていた榊原は、手にしていた新聞を横にずらすと、眼鏡の上端からレンズを外すようにして森岡を見た。

「爺ちゃん、元気にしとった?」

 森岡は、まるで血の繋がった実の祖父に接するかのように声を掛けた。

「おう、洋介か。わしは元気じゃ。今日は何の用や。急に会ってくれと連絡してきよって、予定が狂うがな」

 榊原もぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、心底情の有る口ぶりである。

 坂根は、その簡単なやり取りだけで、二人の親密さを窺い知ることができた。

「ちょっと爺ちゃんに頼みごとがあんねん。いや、ちょっとのことやない。大変な頼み事があんのやわ」

 榊原は、およそ日頃の森岡らしくない神妙な言い回しに、彼自身もまたすでに笑みを消し去っていた。

「わしで力になれることやったら、何でもしたるから言うてみいや」

「おおきに、爺ちゃん」

 森岡は軽く頭を下げると、その前に……と坂根に目をやった。

「彼は坂根好之と言って、これから俺の手足になって動くことになるんやわ。せやから、俺に連絡が取れんときにはこいつと繋がるようにしとくんで、頼んますね」

 わかった、と軽く肯いた榊原は、椅子から腰を上げて坂根に近づき、 

「坂根君とやら、洋介はわしのことを『爺ちゃん』と呼ぶんやが、わしは七十六歳やから、年からいうと遅い子供のようなもんなんや。まあ、これから宜しゅう頼むわ」

 と右手を差し出した。

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 握手を求められ、手を差し出そうとした坂根は、そのとき初めて手のひらの汗に気づき、あわててハンカチで拭き取り、あらためて榊原の手を握った。

 坂根はこれまでに味わったことのない、異様な緊張の中にいた。それは森岡から出された課題、つまり榊原という人物を見極めねばならないという重圧ではない。

 森岡が真っ先に訪れたことから推察すれば、今眼前にいるこの小柄な老人こそが、最も頼りとする人物であり、ある意味此度の戦いの鍵を握っている男だと、直感していたことによるものだった。

「爺ちゃんに、ある情報を取って欲しいねん」 

 ソファーに腰を下ろした森岡は、いきなり本題に入った。彼は回りくどい言い方はしない性質だった。

「情報? 何の情報や」

 そう問い返した榊原の目には、余裕があるように坂根の目には映った。

――社長が求めておられることを、この人はすでに察知している。

 坂根はそう感じた。

 森岡は、榊原の目を見据えた。

「天真宗・京都大本山本妙寺の次期貫主の件についてやねんけど」

「そうか、神村上人やな。相手は岐阜の久保上人というやないか。あれは手強いで、山際上人も苦戦されたからな」

 榊原は事もなく言うと、

「正直に言うとな、その件でそろそろお前が現れる頃やと思ってたんや」

 と口元を緩めた。

 にやり、と笑みで応じた森岡が探るような目つきになった。

「何や、もう耳に入っとんのか。さすがは爺ちゃんやな。それやったら、俺が欲しい情報もわかっているんやろ」

 ああ、と榊原は自信有り気に肯く。

「京都と関西の大本山及び本山貫主十一名の腹の内やろ」

「当たりや。まずはそれやけど、向こうに与した貫主の性格や趣味、懐具合に……そやな、できたら家族状況や女性関係も調べて欲しいんやけど」 

「そこまで調べたら、まるで興信所やな」

 榊原は葉巻に手を伸ばしながら、自嘲の笑みを浮かべた。

「爺ちゃんにそないなことをさせるのは忍びないんやけど、爺ちゃんの持つ広大な情報網と諸寺院からの絶大な信用を持ってすれば、そこいらの興信所でもできへんことかて可能やろ。申し訳ないのやけど、お願いするわ」

 森岡は、両手をテーブルの上に置いて頭を下げた。

 その様子に、榊原は包みを破って取り出した葉巻を、火も点けぬまま灰皿に置くと、何かを思い定めたのかのように一段と真剣な顔つきになった。

「よっしゃ。わしのできる限りのことをしたろ」

 そう言うと、一転縋るような眼差しを森岡に向けた。

「その代わりと言っちゃあ何だが、洋介もそろそろわしの頼みを真剣に考えてみてはくれへんかなあ」

 榊原の懇願にも似た言葉を受けて、今度は森岡が腕組みをして目を閉じた。

 森岡はすこぶる頭の回転が速く、即断即決を身上としていた。

 坂根は、日頃目にすることのないその姿に、

――榊原の言葉には、余程の意味が込められているのだろう。

 と目を凝らしているうち、しだいに息苦しさを感じ始めた。二人の間に広がる緊迫感は、知らず知らずのうちに、第三者の坂根の息までも詰まらせていたのである。

 やがて、森岡は迷いを振り切るように、ふっと気合を入れて立ち上がると、スーツの前ボタンを閉じ、ネクタイを締め直して身なりを整え、言葉も丁寧なものにあらためた。

「承知しました。ですが、すぐには無理です。ウイニットの上場を二年後に予定していますから、その後の移行期間を含めまして、最短でも五年、もしかすると七年後になります。それで宜しければお引き受け致します」

 森岡は腰を折って、深々と頭を下げた。

「そうか……そうか……」

 榊原には予想外の返事だったのか、初めは信じられないといった様子だったが、そのうち涙を流さんばかりに顔を崩し、

「ほんまにええんやな? ほんまやな?」

 と何度も森岡に念を押した。

「本当です」

 森岡が、その都度間違いない旨の返事を繰り返すと、

「おおきに。おおきに洋介、いや森岡君。こっちは五年後でも七年後でも、よしんば十年後でもちっとも構やせん。君が引き受けてくれさえすりゃあ、それでわしは本望なんや。嬉しいなあ……こんな嬉しいことは久しぶりやなあ。ようーし、わしもそれまで長生きせにゃならんな」

 とまるで童子のように喜んだ。

 そして、

「そうと決まれば、本妙寺の件はわしに任しとき。とにかく、どんな些細なことでも調べ上げて、丸裸にしたるわ」

 年甲斐もなく張り切って見せたのだった。

「よし!」

 森岡の小さな歓声が坂根の耳に届いた。

 榊原のその一言こそ、森岡が喉から手が出るほど欲しかった言葉に違いなかった。彼にとって、榊原の全面的な協力こそが万人力だったのである。

 坂根が推察した通り、全国津々浦々から齎される情報の詳細、且つ正確さから森岡が大いなる期待を寄せていたこの老人こそ、天真宗を中心として、全国のおよそ五千二百にも上る寺院に卒塔婆、お札、お守り、護符、護摩木、経典、数珠など様々な仏具、物品を納入している、榊原商店社長・榊原壮太郎(そうたろう)であった。

 榊原はその昔、世界的大企業・ナショナル・モーターの日本代理店を経営していたことがあり、松尾電器の松尾正之助や京阪セラミックの飯盛和彦ら、関西経済界の大物経営者たちへの売り込みに次々と成功し、順調に事業を拡げていったが、大病を患ったのを機に今の職に替えた。

 以来、三十年にも亘り、彼は全国の寺院を訪ね歩き、一つ一つ丁寧に縁を結んで行った結果、その数はとうとう五千を超えるまでになったのである。その精神は、現在の地位を築いた後も何ら変わることがなく、暇を見つけては自ら足を運び親交を保っていた。

 頑固で偏屈な性格だが、森岡を目に掛け、嫁に出した二人の娘夫婦がどちらも跡を継ぐ意思が無いことから、秘かに自分の後継者にと思い続けていたのだった。

 

 会社に戻る車中、坂根は不安の種を抱えたままでいた。

 彼はバックミラー越しに、大阪の街並みを眺めながら思案に耽っている様子の森岡を何度も窺っていた。

「そんなに俺が何を引き受けたか知りたいか」

 森岡は坂根の気配を、そして胸の内も察していた。

「見当は付いていますが、社長の口からはっきりと伺いたいのです」

「なら、言うわ。ただし、誰にも言うなよ。皆にはいずれ折を見て俺の口から話すからな」

 森岡はそう念を押すと、

「爺さんの会社を引き継ぐんや」

 と告白した。

「やはり、そうですか。多分そうではないかと思っていました」

 坂根の面が落胆の色に染まった。推量が当たった失望感を隠し切れなかったのである。

「もう、ずいぶんと前から出ていた話でな。俺がまだ菱芝にいた頃からやから、十年ぐらい前からやな」

 森岡は記憶を辿るように言うと、

「畑違いやからな、ずっと断ってきたんやけど、先生が絡んでしまっては、背に腹は代えられん」

 と苦渋の決断であることを付け加えた。

「十年も前からですか。なるほど、榊原さんのあの喜びようも納得できますね。お知り合いになったのはその頃ですか」

「いや、先生の書生をしていた頃や」

では、神村先生の御紹介でお知り合いになったのですね」

「それが、そうやないんや」

 森岡はそう言うと、ふふふ……と含み笑いをした。

「どうされたのですか」

「爺さんと初めて出会ったときのことを思い出してな。つい可笑しくなったんや」

「いったい、何があったのですか」

「それがな。今から十五年も前のことや……」

 森岡は、懐かしそうに昔語りを始めた。

 

 十五年前、二人は森岡が寄宿していた経王寺に、榊原が自社商品を売り込みにやって来たことで知り合った。

 このときの出会いが実に絶妙だった。

 経王寺に出向いた榊原に、森岡が神村の不在を伝えると、榊原は突然広い庭の草取りを始めた。

 榊原が帰ったと思い、離れの部屋に戻ろうとして、渡り廊下でその様子を目撃した森岡は、その予期せぬ行動に驚き、庭に飛び出した。

「榊原さん、お止め下さい。これは私の仕事です。初めて来られた方にこのようなことをさせたことが師の耳に入れば、私が叱られてしまいます。いや、師の耳に入らなくとも、このようなことをして頂く謂われがありません」

 草取りは書生である森岡の仕事だった。それを、初めて寺に訪れた見知らぬ榊原が行っているのを、黙過するわけにはいかなかったのである。

 榊原は、近頃の若者にしては珍しく殊勝な物言いをする青年に興味を持った。

「師? ということは、貴方はここの御住職のお弟子さんですか」

 はい、と森岡は頷く。

「ですが、宗教上の弟子ではなく、何と言えば良いのか……人生上の弟子、とでも言うべきでしょうか」

「人生上の弟子? これはまた珍しい。今時、そのようなお弟子さんがおられるとは……しかし、弟子というからにはお師匠さんから何かを学ぶのでしょう。ちなみに、貴方は何を学んでおられるのでしょうか、良ければ教えて貰えませんか」

「一言で言えば、師の思想、哲学ということになりますが、とてものこと私ごときでは、一生掛かっても無理でしょう。それでも、少しでも学び取ろうと、今は師の手ほどきで四書を学んでいます」

「四書? 四書って、中国の古書の論語、孟子、大学、中庸ですか」

 榊原は、一瞬我が耳を疑った。まさか、今の時代に四書などという、俗にいうところの帝王学を学ぶ学生がいるとは、俄かには信じられなかったのだ。

「その四書です。しかし、本音を言いますと、とても難しいですね」

 森岡は頭を掻いた。

「それはそうでしょう」

 榊原が同意する。

「意味も難しいし、現代とは価値観も違う。日本語文であっても、言葉遣いなども現在とはずいぶんと違うでしょうから」

 と半ば励ましの意味を込めて同調したのだが、

「いえ、文章そのものは理解できるのですが、それらの教えを、どのようにして日常に生かして行くのかが難しいことだと思っているのです」

「何と……」

 榊原は言葉を失った。見事に真理を突く答えに、彼はますます森岡に興味が湧いた。

「貴方は、先ほど草取りは私の仕事、と言われましたね。普段はそういう雑用もしているのですか」

 森岡は、はいと肯き、

「精神修養として草取り、雑巾がけ、洗濯、トイレ掃除は私の仕事です」

 ときっぱりと答えた。

「ほう、そのような事までしているのですか……では、もう一つ訊いて良いですか」

「どうぞ」

「貴方は、何故書生をしようなどと思ったのですか」

 核心を問うた榊原だったが、

「申し訳ありませんが、それは師と私の御縁に関わることですから、お答えできません」

 と、森岡は頭を下げた。

 それまでの柔和な物言いから一変した、断固たる意思表示に榊原はそれ以上の詮索を控えざるを得なくなった。

「わかりました。では、質問を変えましょう。書生の仕事は苦になりませんか」

 森岡が苦笑いを浮かべる。

「最初は苦になるというより、とても考えられなかったですね。それまでやったことがなかったですから。洗濯でも、師の下着は風呂に入ったときに手洗いするのですから。洗濯機があるにも拘わらず、です」

 それは、大阪にやって来た初日のことだった。

 神村の後に風呂に入ると、湯船の横にパンツを浸した洗面器が置いてあった。

 森岡は首を捻った。脱衣所に洗濯機があるのだ。

 森岡は、それこそ蝶よ花よ、と育てられた。

 彼の故郷は、島根県東部・島根半島の日本海に面した『浜浦(はまうら)』という漁村である。その辺りは、いわゆるリアス式海岸で、それぞれの入江ごとに村落が作られていた。

 その数は三十にも及んだ。

 浜浦は、その中では一、二を争う大きな村であった。といっても、三百数十世帯、千五百人程度の村ではある。

 生家は代々の網元で、界隈一の分限者であった。

 屋号を『灘屋(なだや)』と称し、森岡は長男として生まれた。

 つまり総領である。

 当然の如く、腫れ物に触るように大事に育てられた。生まれてこのかた、食事の支度や掃除はもちろんのこと、洗濯しかも手洗いなどしたこともない。

 ところが、森岡の手は自然と洗面器の中に伸びていた。このとき彼は、神村から試されているなどとは露ほども思ってはいなかったが、何かに背を押されるように手が動いていたのである。

 翌朝、神村に呼ばれた森岡は、師の満足そうな表情を見て、洗面器の意味合いを漠然と悟ったものだった。

「正直に言いますと、何でこんなことをするのだろうと思ったことがありました。でも、今は違いますよ」

 決然と言葉を継いだ森岡の目は、紺碧の空のようにどこまでも澄んでいた。

「何故気持ちが変わったのですか」

 榊原の声は、明らかに興味の域を超えていた。

「そうですね……」

 森岡は、神村から受けたある試練話を、まるで宝物の思い出のように話し始めた。

 

 森岡が経王寺に寄宿してから間もなく、一旦神村の許を離れたときのことだった。

 森岡を書生にした神村だったが、そのことで信者や知人から度重なる抗議を受けていた。

 それは至極筋の通った抗議であった。

 神村の人徳を知る周囲の者は、皆自分の子息を彼に預けて、人としての修行を積ませたいと望んでいたが、神村は忙しいことを理由に、それら全てを断り続けていた。

 ところが、いつの間にか森岡という、彼らにして見ればどこの馬の骨とも知れぬ青年が書生として入り込んでいるではないか。納得のいかない彼らが憤慨するのも道理だった。

 思案に窮した神村は、森岡に事情を説明し、ほとぼりが冷めるまで一旦外に出したのだった。その間、森岡は在院のときに限り、神村の許へ通っていたのだが、ある日奇妙なことが起こった。

 その日、森岡に東京へ出向いているはずの神村から、すぐに寺に来るようにと連絡が入った。急遽予定を変更して、指定された時間に駆け付けた森岡だったが、玄関の鍵が閉まっており不在の様子である。

 疑問に思った彼は、電話をしてみるが繋がらない。仕方なく、近所の喫茶店で三十分ほど時間を潰し、もう一度訪ねて見るが、やはり不在である。もちろん電話も繋がらない。

 このようなことを三度繰り返したが、状況の変化がないことに業を煮やした森岡は、神村の予定が変わったのだろうと勝手に判断し、アパートに帰ってしまった。

 翌日、神村に再び呼び付けられ、経王寺に出向いた森岡は烈火の如き叱責を受ける。

 森岡は再び試されていたのだった。呼び出されたものの、不在のときどのような行動を取るのか、観察されていたのである。

 神村は、後に首相になった竹山中(たけやまあたる)がまだ官房長官の時代、師匠の田上角蔵(たうえかくぞう)首相の私邸に呼ばれると、すでに政府の要人の身であるにも拘わらず、新人の頃と変わりなく、進んで雑巾掛けをしたという逸話を例に挙げて、不在とわかったとき、庭掃除すらせず、そのまま立ち去った森岡を厳しく戒めたのだった。

 森岡は泣いた。取留めもなく涙が出た。

 温厚な神村に、初めて叱責されたということもあったが、神村の許での半年余りの書生修行はいったい何だったのか。寄宿生活の初日、洗面器の下着に手をやった心根はどこへ行ったのか。師から受けた様々な教えの意味を全く理解していなかった自分が情けなくて涙が出たのだった。

 それを機に、森岡は心を入れ替え、率先して雑用をこなすようになったのである。

 苦い試練を経験していた森岡は、初めて訪ねた寺の、しかも目的を達していない榊原が草取りを始めたのを見て、当時の自分を思い出し、庭に飛び出て来たのだと話した。

 榊原は、正直にしかもさわやかに過去の失敗談を話した森岡を、まるで異性に対するかのように一目惚れしたのだった。


「深い話ですね。神村先生の社長に与えられた試練もそうですが、社長と榊原さんの出会いも、何か因縁めいたものを感じます」

 坂根は、神妙な面で言った。

 そうやろ、と森岡は満足そうな顔をする。

「もしあの日、先生がご在宅だったら、間違いなく今ほどの親密な関係にはなっていないやろな。おそらく、後日先生から紹介されたやろうけど、そうなると俺も自分の立場というものを弁えにゃならんだろう。今回の件かて、俺が勝手に榊原の爺さんに頼みごとをするなんて、とてもできんかったやろうな」

「とおっしゃると、神村先生には今回の件をお知らせしないのですね」

「そうや。先生には余計な心配をお掛けせん方がええ。それに、榊原の爺さんの素性を御存じなのかどうかもわからんしな」

 後日、神村と榊原は顔を合わせることになったが、当時の神村は多忙を極めていたため、大阪を離れることが多く、稀に在阪したときでも、所用で外出することが多かった。それこそ、一日中寺院に居たのは、仏教の年中行事のときぐらいで、一年を通じても両手の指で十分足りた。

 その年中行事には榊原も顔を出してはいたが、傍目からは特に深い親交があるようには見えなかった。そのため、榊原との親密な関係は神村の耳には入っていないと森岡は思っていた。

「榊原の爺さんは、己の力を吹聴したり、誇示したりする人やない。せやから、先生だけやなくて、敵も味方も誰一人として、爺さんの情報網の凄さも、爺さんと俺との関係も知らんやろうから、これほど都合の良いことはないな」

 森岡は不適な笑みを浮かべた。

「誰もということは、野島専務や住倉常務もご存知ないのですね」

 坂根は念を押すように訊いた。

 そうだ、と肯いた森岡は、

「お前が初めてや。せやから、お前も爺さんのことは誰にも言うな。たとえ、野島でもあかんで」

 と厳しく言い渡した。

「ああ、誤解するなよ。野島や住倉を信用してへんということやないからな」

「もちろん、承知しています」

 坂根も、森岡が公私混同を避けていることはわかっていた。

 二人の因縁を知って、得心した坂根だったが、気掛かりは残ったままだった。

「今のお話で、榊原さんの社長に対する想い入れもわかる気がしました。立場は違いますが、野島専務や住倉常務も同じような想いでしょうし、私にしても前の会社を辞めてウイニットに入ったのも、同じようなものですから……今回の件を聞いたら、皆気落ちするでしょうね。ウイニットはどうされるおつもりなのですか」

「お前も聞いとったとおり、五年から七年の猶予があるやろ。予定通りウイニットを二年後には上場させ、その間に後継者を育成せにゃならん。まあ、榊原商店を引き継ぐといっても、完全にウイニットから離れてしまうわけやない。筆頭株主として相談役に留まり、目配りをするつもりや」

 そこまで言った森岡が、一呼吸間を置いた。

「ええか、坂根。この際言うてまうから、よう聞けよ」

 と一段とあらたまった物言いになった。

 坂根は咄嗟に身構えた。

「俺は、後継者は野島にするつもりやが、その次は筧かお前や。せやから、そのつもりで精進してや」

「えっ! 私……」

 坂根は、あまりのことに声を詰まらせた。

「そうや、お前や。俺はお前を引き抜いたときからそう考えていた。といっても、野島の後やから、二十年ぐらい遠い先の話やし、筧は強敵やぞ」

 森岡は、あははは……と笑い飛ばした。

 坂根にとっては思いも寄らぬことだったが、それも致し方ないことであろう。このときの坂根は、森岡が寄せる期待の中に、彼の能力の他にも、ある特別な想いが籠もっていることなど知る由もなかったからである。

 坂根は身の引き締まる思いになっていた。そして、森岡の信頼に応えるためにも、彼の理念や価値観といった経営哲学を学び取ろうと心に誓った。

 

 ちょうどそのとき、森岡の携帯電話が鳴った。

 着信を確認した彼は、

「おっ、日原さんからや」 

 と弾んだ声を上げた。

――もしもし、森岡です。今朝はどうも……はい……はい……明後日の午 後三時に御社ですね、承知しました。はい、それで結構です。どうも、ありがとうございました。それでは、明後日の午後二時には御社に参りますので、よろしくお願いします。それでは失礼します。

 森岡は携帯を切ると同時に、

「よっしゃ!」

 坂根に向かって親指を立て、事が首尾良く運んだことを示し、

「今朝、日原さんにお願いしといた件の返事やった。明後日、東京に行くぞ。帝都ホテルのスイートを予約してくれ」

 と命じた。

「東京ですか」

「そうや。東京では二人の人物に会って、今回の件の協力を頼む」

「お二人とはどちら様でしょうか」

「一人は、今電話のあった日原さんの知人。もう一人は、知人というか何というか……まあ、飲み友達というところかな」

 森岡は悪戯っぽい笑みを溢した。

「何をなさっている方々でしょう」

「せやな、お前にも教えとこうか。まず、日原さんやけどな。この方は三友物産の専務さんや。日原さんは神村先生の一つ年上なんやけど、米子の実家が大経寺の近所で、しかも檀家でもあったんで、二人は幼馴染やったんや。七年前、大阪支社長時代に紹介されて以来、お付き合いを頂いている。その日原さんの知人というのは、警察庁・内閣官房審議官の平木さんや。日原さんはな、大阪支社長時代、パチンコ店のプリペードカード導入に際して、当時大阪府警の本部長に就任したばかりの平木さんと一緒に仕事をしてはったんや。平木さんには、以前ある相談事があって一度お会いしているが、日原さんを差し置くわけにはいかん」

「えっ。社長は今回の件で、警察権力を使おうと思っておられるのですか」

 坂根は驚嘆の声を上げた。

「あほなこと言うな。いくらなんでも、俺にそんなことができるはずがないがな。平木さんには紹介してもらいたい人物がいるのや」

「そうでしょうね。正直、驚きました。でも、現職の警察幹部に紹介してもらいたい人物って何者ですか」

「わからんか」

「……」

 坂根には見当が付かなかった。

「興信所や、興信所」

「興信所ですか」

 坂根は、どうして? という顔をした。

「榊原の爺さんを信用していないとか、頼んないとか思っているのやあらへんけど、爺さんは言わば身内や。情報や状況を客観的に分析できん場合もあるかもしれん。せやからな、第三者の冷静な目で集めた情報も必要やと思うのや。絶対に負けられん戦いやからな。念には念を押さんとあかん。となると、興信所が一番やねんけど、ただの興信所ではあかんがな」

「はあ……」

 坂根は生返事をするしかない。

「考えてもみいや。何と言っても宗教の世界やで。先生の貫主就任後のことも考慮に入れて、この先決して裏切ることのない探偵を雇う必要があるやろ。そうなると、最も信頼がおけるのは、現職の警察庁幹部から紹介してもらうことやとは思わんか」

「なるほど」

「警察官は警備会社や興信所に天下りしているやろ。その中から、優秀な探偵がおる興信所を紹介してもらうのや。中でも一番ええのは公安出身やな。何しろ、公安は調査のプロ中のプロやからな」

――これが社長の社長たる所以か。

 坂根は気分が高揚していた。

 森岡が今回の話を耳にしたのは、つい昨夜のことである。然るに、この短い間に様々な考えを巡らし、二重三重の手を打ち始めている。この思慮深さは、彼の天賦の才なのか、あるいは神村の薫陶の賜物なのか。

 いずれにせよ、思わぬ形で森岡の真骨頂に触れた思いの坂根は、異様な興奮に血を滾らせていたのである。

「もう一人の飲み友達はな、これは会ったらわかるわ」

 森岡が意味深い言葉を残したとき、ちょうど会社に到着してしまい、そこで二人の会話は終わりとなった。














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