第2話  第一巻 古都の変 乱雲

 それから十三年の月日が流れた、一九九七年初夏――。

 大阪府大阪市の北方、JR新大阪駅前に建つインテリジェントビルの十五階において、株式会社ウイニットの緊急幹部会議が行われていた。

 ウイニットは、コンピューター・ゲームソフトウェアの製作や、業務用ソフトウェアの開発、販売、保守、そして新しくインターネット関連技術を手掛け始めた、世間でいうところのIT企業である。

 五年前、森岡洋介(もりおかようすけ)が中国古書の論語に倣い、三十歳を機に創業した若い企業だが、時流に乗って飛躍的な急成長を遂げていた。

 現在大阪を拠点としながら東京、札幌、名古屋、広島、福岡にそれぞれ支店を開設している。社員数は二百五十名を超え、百億円の売り上げを計上するなど、二年後の新興市場での株式公開を目指している前途有望な会社であった。

 創業者の森岡洋介は三十五歳。百八十センチを超える長身で、やや細身の体躯をしている。目元が涼やかで鼻、口も整い、見栄えの良い好青年であるが、眼底に僅かながら濁りが澱んでいる。

 大阪の名門浪速大学から、一旦子会社を経由して大手情報機器製造販売会社の菱芝(りょうしば)電気に就職した森岡は、寝る間も惜しんで働き、ひたすらスキルアップに努め、六年後に満を持して独立した。

 私生活では大学卒業と同時に結婚したが、六年前に死別している。子供は居らず、傍目には独身貴族を謳歌しているように見えた。


 この幹部会議はいつもと趣を異にしていた。

 森岡が、ある拠所無い事情から、事の決着が付くまでの間、社長の職務権限の大半を専務取締役の野島真一(のじましんいち)に委託する旨の了解を取り付け、併せて経営企画室課長の坂根好之(さかねよしゆき)を、直属の部下として専任とする了承も得ようとした会議だったのである。

 だが会社は現在、株式公開を前に会計基準をはじめとする様々な改革に取り組んでいる重要な時期であったため、いかな森岡の要望とはいえ、すんなりとはいかなかった。

 直ちに異を申し立てたのは、システム部門を統括する、その野島真一であった。

「社長、率直に申し上げて非常に困ります。これが、平常時ならいっこうに構いませんが、二年後に上場を控えている現在(いま)、社長が抜けられるということは、内外の信用を失いかねません」

 この意見には、管理部門を統括する常務取締役の住倉哲平(すみくらてっぺい)、取締役東京支店長の中鉢博巳(ちゅうばちひろみ)が揃って同意した。

 森岡の指示で、臨時にこの会議の末席に座していた坂根は、この光景を奇妙な心持ちで眺めていた。

 森岡と同年代の幹部たちは、少なからず彼を尊敬していた。森岡は大学生時代から、菱芝電気の子会社である菱芝ソフトウェアで、アルバイトとしてソフトウェアの開発に携わり、無類の才能を発揮していた。

 その能力を見込まれ、社長から直々に請われて入社した彼は、すぐに菱芝電気の柳下システム部長の目に留まり、彼の部署に出向することになったのだが、二年間の出向期間が満了すると、そのまま菱芝電気に引き抜かれた。

 その後、柳下の指揮の下、今や同企業グループの主力商品となっている、業務用の各種パッケージソフトの開発を次々と手掛けた彼の業績は、同社において伝説となっているほど際立つものだった。

 ソフトウェア開発だけではない。二十七歳の若さで、菱芝電気グループ傘下企業の技術者が一堂に会した席で講演したり、同社が開発したコンピューターの操作マニュアルを製作したりもした。

 新入社員の自分たちが、仕事のイロハもわからない頃に、然程年齢の違わない森岡が第一線で活躍している姿を眩しく見ていた幹部たちは、その森岡が五年前に独立したとき、彼を慕って馳せ参じた者たちだった。

 したがって入社以来三年、坂根はカリスマ的な存在である森岡の考えに、彼らが異を唱えたことは一度もないと承知していた。特に重要な案件は、良くも悪くも森岡が独断で決し、彼らはそれに追随してきたはずであった。


 森岡は黙って皆の考えを聞き、全員の意見が出揃うのをしばらく待っていた。

 すると、反対意見が相次ぐ中で、ようやく彼の考えに同調する者が現れた。営業部門を統括する、部長の筧克至(かけいかつし)である。

 筧は三十三歳。肥満体型からか汗掻きの体質だが、茫洋とした外見の印象とは異なり、同じ菱芝グループ傘下の電算機メーカーにおいて、常にトップクラスの成績を上げていた敏腕の営業マンだった。

 三年前、ある仕事を通じて筧と知り合い、その類稀な営業能力に惚れ込んだ森岡は、以来ウイニットの営業部門の強化として、彼を口説き続けた。

 そして昨年の夏、ようやく三顧の礼を持って迎え入れることのできた、森岡が最も期待を掛けている男であった。

「専務のご意見はもっともだと思いますが、私は社長の好きなようにして差し上げれば良いと思います。上場はまだ二年後ですから、半年や一年ぐらいなら、私たち皆がカバーし合えば問題ないのではないでしょうか」

 この意見には、システム開発部長の桑原と、インターネット部門の部長の三宅、ゲーム開発部門の部長の船越、そして総務部長の荒牧と、各部門の長が同調した。

 坂根の目には、これもまた奇異に映っていた。桑原と三宅、船越、荒牧もまた、筧と同様に中途採用者だった。

 つまり、森岡の考えに挙って反対したのが、独立する前からの子飼いの者たちで、賛成したのが途中入社組、と本来逆ではないかと思えたからである。

 筧のこの意見に、住倉が辛辣な言葉を浴びせた。 

「部外者が呑気に無責任なことを言ってもらっては困るで。二年後や言うても、やることは仰山あるんや。時間は有るようで無いんやで」

 社内改革の中心にいて、森岡が抜けることにより最も負担が増すことになる住倉は、あからさまに筧を非難した。

「しかし、社長が中途半端なお気持ちで仕事をなさっても、身がお入りにならないでしょうし、それなら思いっきり神村先生の手助けをなさり、事が成就したあかつきには、上場に向けていっそうの頑張りをして頂いた方が、結果として効率が良いのではないでしょうか」

 筧は、常務の住倉にも臆することなく持論を曲げなかったが、住倉に続き、野島も筧に反駁した。

「ウイニット(うち)における社長の存在はあまりにも大きい。俺たちが頑張ったところで、そう簡単に埋まる穴やない。もう一度言うが、理由はどうあれ、もしこちらの都合で株式公開が延期ともなれば、社会的信用が失墜する可能性が高く、引いてはその後の業績にも影響しかねん」

 野島は筧に向かってそう言うと、顔を森岡に戻した。

「大変申し上げ難いことですが、此度の事はそれほどの危険を冒してまでも、社長がなさらなくてはならないことなのでしょうか」

 野島は、社用と私用のどちらが大事なのか、と問うたのである。

 経営の一翼を担う専務の要職にいる野島にすれば、十分に筋の通った意見だった。

 森岡は目を閉じたまま、口を開かなかった。

 代わって筧が苦言を呈した。

「しかし、そのようなことばかり言っていたのでは、いつまで経っても社長におんぶに抱っこの状態から抜けきれないのではないでしょうか。そんな有様では、たとえ上場したとしても、その先飛躍的な発展は望めないと思います」

 あからさまに野島や住倉ら、森岡を取り巻く現経営陣を痛烈に批判したのである。

 筧の指摘にも一理あったが、あまりに毒舌が過ぎた。公然と痛いところを皮肉られ、面目を潰された形となった野島と住倉、中鉢が血相を変えたのは当然だった。

 行き場を失った険悪な空気が、たちどころに満ち満ちて行った。

――まずい……。

 と、坂根の顔も強張っていた。

「皆の意見は良くわかった」

 重苦しい雰囲気を切り裂くように、森岡の声が響いたのはそのときだった。

「一方が正しくて、他方が間違っているということはない。両方とも、もっともな意見やと思う。しかしだ、この際はっきりと言っておく」

 森岡は、そこで一つ深呼吸をした。

「俺にとって、神村先生はかけがえのない恩人や。その大恩人の重大事に、何の手助けもせんのは人の道に外れている。俺はそんな外道の生き方はしたあない。仮にそれが原因で、上場に支障を来したとしても、何ら悔いはない。それでも尚、俺の考えに反対ならば、遠慮はいらん、ウイニットから出て行ってもええで」

 森岡は幹部社員の顔を一人一人見つめながら、静かに自らの信念を語った。その穏やかな口調の裏に厳然として有る、不退転の意思を感じ取った幹部社員は、それ以上何も言えなくなった。

 神村というのは、森岡が大学時代の四年間寄宿していた寺院の住職である。そして、幹部社員に語った拠所無い事情とは、その神村の身に突然降って湧いたものだった。

 時間は昨日に遡る。

 

 早朝の若葉薫る初夏の陽気が、午後には梅雨の先走りのような霧雨になり、さらに夕方ともなると、雷鳴轟く激しい風雨に変わっていった。

 大阪の高級料亭「幸苑(こうえん)」に向かう車中の森岡にすれば、その乱雲立ち込めた空模様こそが、自身の未来を暗示していることなど知る由もなかった。

 それは、すでに一本の電話から始まっていた。

 森岡は東南アジアに外遊中の神村から、ある依頼の連絡を受けていた。彼は、そのときの短いやり取りで感じた、神村の声の微妙な異変がずっと気に懸かっていた。受話器越しとはいえ、日頃の威厳のある口調に陰りが射し、微かに気弱い印象さえ受けた。

 恩師の、このような話しぶりは初めてであり、それが彼に妙な胸騒ぎを覚えさせていた。

 そしてつい先刻、神村の朋友である谷川東良(とうりょう)から呼び出しの電話を受けたばかりだったのである。

「社長。神村先生についての相談事って、何でしょうかね」

 坂根好之がバックミラー越しに、浮かぬ表情の森岡を気遣いながら声を掛けた。

「それや。俺もずっと考えているのやが、皆目見当が付かんのや」

 森岡は、握り拳で二、三度額を小突き、

「お前は何や思う」

 と気安く問い返した。

 それというのも、坂根好之は一部下ではあったが、森岡の中学時代からの親友、坂根秀樹の実弟で、好之自身も中学から大学までの後輩だったため、森岡は弟に近い感情を抱いていた。

 三年前の夏、中学校の統廃合に伴って催された同窓会に出席するため、久しぶりに島根へ帰郷した森岡は、その足で秀樹の家を訪ねたのだが、その折居合わせた好之と意気投合し、すぐさま勤務先の大手広告代理店から引き抜いたという経緯があった。

「社長がおわかりにならないのに、私などが差し出がましい口を挟むのもどうかと思うのですが、ただ……」

 坂根は途中で言葉を濁した。森岡は当たりを付けているはず、という思いもあった。

「ただ、なんや。良いから言ってみいや」

 促された坂根は、一つ息を呑んでから、

「神村先生ほどのお方が気落ちなさることといえば、本妙寺(ほんみょうじ)の貫主(かんしゅ)の件で、何か不都合が生じたのでは、ということぐらいです」

 と慎重な言い回しをした。


 貫主とは、本山などの住職を指している。

 宗派によって、

 法主(ほっす)

 座主(ざす)

 管主(かんしゅ)

 貫首(かんしゅ)

 管長(かんちょう)

 等の呼称がある。


 神村が所属する仏教宗派・天真宗においては、宗門のトップを法主、大本山及び本山の住職を貫主(かんしゅ)と呼称している。

「本妙寺の件か……それは俺も考えてみた。もしそうだとすると、いったいどういうことやろうか……それに、今頃になって谷川さんが出張って来たのも気になる」

 神村は事実上、京都大本山本妙寺の次期貫主に内定していた。森岡には、その件でどういう差し障りが生じたのか見当が付かなかった。 

 森岡はふっと息を吐き、

「しかし、なんだな。今から気に病んでも仕方ないわな。谷川さんに会えばわかることやしな……それに、そもそもが俺の取越し苦労かもしれんしな」

 と自分自身に言い聞かせるように言葉を継いだ。

 坂根は自身の事以上に気を病む有様を見て、不思議な心持ちになっていた。

「いつものことながら、先生の事となると、社長はまるで人が変ってしまいますね」

「ははは……」

 森岡は、ただ苦笑するしかなかった。坂根の言葉は正鵠を射ているのだ。

 大学の四年間、書生をしていた恩師である神村の事となると、森岡はその想い入れの強さが災いし、新進気鋭の若手経営者としての、気力漲る自信家で、それでいながら冷静沈着でもある日頃の言動が全く影を潜めてしまうのだった。

 

 会社のあるJR新大阪駅前を出て、西中島南方から新御堂筋に入り淀川を渡る。新御堂筋は大阪の中心部と北摂を結ぶ大動脈であり、この時刻は梅田へ向かう南行きの渋滞が酷い。

 それでも普段であれば、淀川に溶けて行く落陽の情景が気を紛らわせてくれるのだが、このときばかりは森岡自身そのような悠長な気分ではなかった。

 そもそもこの日は雨にも祟られていた。光を閉ざす分厚い雲は、早くも大阪の街をすっかり夜の闇と包み、黒く流れる淀川の水面に、商業ビル群の灯りが夜光虫の群れのように屯していた。

――ド、ドーン……。

 という低い爆音が、森岡の腹に響いた。また遠雷が轟いたのだ。

 森岡は、思わず左手で目頭を押さえ前屈みになった。右手で胸を押さえている彼の脳裡には、落雷との距離が少しずつ縮まって、

――いつか俺に直撃するかもしれない。

 という不吉な錯覚が過ぎっていた。

 森岡の異変にも拘らず、坂根の顔に動揺の色はなかった。

「どうかされましたか」

 と、一応声を掛けはしたが、彼には容態の急変ではないとわかっていた。稲光りがすると、森岡はいつもこのような状態になるのを知っているのである。

「たいしたことやない」

 やはり森岡はそう呟いた。

 坂根は、稲妻に対する恐怖とは違う気がしていた。たとえば雷光に纏わる何かのトラウマに苦しんでいるのではないだろうかと推量していたのである。


 淀川を渡り切ってからしばらく進み、梅田新道の交差点で新御堂筋を降りる。おそらく、大阪で最も交通量の多いであろうこの交差点を右折、つまり西へハンドルを切って、一つ目に交差する御堂筋を左折、つまり南に下ってすぐの左手の道を入ってしばらく行ったところにその料亭はあった。

 その幸苑まであと五十メートル付近に差し掛かったときだった。

 前方に、一組の男女と二人組の男が何やら揉めているような光景が目に入った。

 もう少し近づくと、男女は老人と水商売風の若い女性、二人組は二十代のチンピラのような風体とわかった。

「坂根、ここで降りる」

「えっ、まさか仲裁に入るのですか」

「ああ、黙って見過ごすわけにはいかん」

「ですが、思った以上の渋滞のせいで約束の時間ぎりぎりになってしまいました」

「午後に連絡があって、夕方会いたいと言ってきたのは向こうやから、少々遅れても許して下さるだろう」

「では本当に」

 助けに入るのか、と確認した。

「俺の気性は知っているやろう」

 森岡は、もう何も言うなという口調で言った。

 坂根は内心でまたかと思っていた。うんざりというのではないが、森岡と付き合い始めて三年、坂根は幾度となくこういう場面に遭遇していた。

 これもまた、森岡の謎といえば謎の一面だった。

 表現はおかしいが、何かに憑り付かれてでもいるかのように人助けをする。特に女性が絡んでいるとなおさらである。

 といって、決して下心があってのことではない。むしろ女嫌いかと思うほど女性を近づけない。亡妻を愛し、浮気など一度もなかったと聞いている。言うなれば愛する女性に一途なのである。

 独身に戻ってからも、それこそ夜の街を歩けば言い寄る女に事欠かない。三十五歳の青年社長、それも今を時めくIT世界の起業家で資産家、高身長、高学歴しかも容姿も悪くない。女性にもてないわけがないのだが、据え膳すら食ったことがないと承知している。

 女性絡みに弱いと言ったが、そうかと言って誰彼無しに助けるわけでもない。本当に困っているのか、騙して金でも奪おうとしているのかがわかっているかのように選別し、対処する。

 どうしてそのような芸当ができるのか、もしや人の心が読めるのではないかとオカルトチックな妄想まで抱かせる何とも不思議な男なのである。 

「お前はこのまま通り過ぎろ。車を広い道に停め、急いで引き返して来てくれ」

「わかりました」

 坂根は、森岡の意図を察した面で顎を引いた。

 森岡は車から降りて四人に近付いて行った。

 それまでの分厚い雲が一時切れて、辺りは幾分明るさを取り戻し、雨も小止みとなっていた。

「どうかされましたか」

 森岡が長閑に声を掛けると、四人が一斉に視線を向けた。

 老人は八十歳手前ぐらいか、高級スーツを身に着けていて紳士然としている。中小企業のオーナー社長か老舗の店主といったところか。

 女性は二十代後半か、薄闇の中でも相当な美形とわかる。和服に黒髪を後ろに丸めていることから、北新地のママかホステスということだろうが、年齢から言えばホステス、それも高級クラブに勤めていると推察できた。さしずめ同伴出勤ということなのだろう。

「なんや、お前は。この爺と知り合いか」

 二人のうち小柄な方が言った。この男が兄貴分のようだ。

「いいえ。私のようなチンピラが、このような上品なご老人と知り合いなわけがありません」

「なら、女か」

「ああ、そうですねえ、彼女のような別嬪さんが知り合いだったら毎日がどんなにか楽しいことでしょう。ですが、残念ながら私は美人にも縁がありません」

「なら、なんの用や」

「ただのお節介焼きで」

「何だと」

 大柄の年下の男がいきり立った。

「まあまあ、落ち着いて下さい。揉め事の原因は何ですか」

「私の手にしている傘が彼の顔に当たってしまったのです。ですが……」

 と、老人は何か言おうとして口を噤んだ。

「なんだ、そんなことですか」

 森岡は事の次第を理解した。おそらく当り屋であろう。普通は車に身体をぶつけるのだが、ずいぶんと安直な手を考えたものだ。

「そんなこととはなんや。俺の目に当たったんやで、視力が落ちたらどないしてくれんねん」

 弟分の方がいきり立った。

「それで、どうしろと」

「治療費を出してくれたらええんや」

「いくらですか」

「百万円です」

 ははは……と森岡は笑った。

「これはぼろい商売ですな。傘が目に当たっただけで百万円とは……」

「何だと、馬鹿にしているのか!」

 兄貴分の方がいまにも殴り掛かりそうになった。

「その百万円は私が払いましょう」

 へっ、と出鼻を挫かれた格好の小柄な男は脳天から空気が漏れたような声を出した。

「ほんまか」

「もちろん」

 森岡の頭の先から爪先まで舐めるように見た兄貴分の男は、

「金は持っているんやろうな」

 と疑念の声で訊いた。

 森岡の身形が、極普通のサラリーマンのそれと変わりなかったからである。

 森岡はうちチポケットから財布を取り出すと、中の札束を男に向けた。

「ほう。お前も金持ちか」

「とんでもない。預金通帳には一円も残っていませんよ」

 なけなしの金だと森岡は言った。

「それを俺らにくれると」

「仕方がありませんね」

「見ず知らずの者のためにか」

「なにぶん、お節介焼きなもので」

「奇特なことやな。じゃあ、遠慮なく貰おうか」

 兄貴分の男が手を差し出した。

「その前に、お二人からもう少し代償を頂きますが」

「どういうこっちゃ?」

「いくらなんでも傘が顔に当たっただけで百万はないでしょう。もう少し迷惑を掛けさせて貰います」

「何を言っているのか、ようわからんな」

 顔を顰めた小柄な男の後方に坂根の姿が見えた。

――なるほど、そういうことか。

 と、老人は森岡の意図を理解した。

 森岡の口調が変わった。

「そうですね。腕の骨を一本ずつ折らせて貰いましょうか。百万はその分の治療費として差し上げます」

「な、なんやて」

 二人の男が気色ばんだ。

「お前が俺たちの腕の骨を折るってか」

 弟分の方が侮りの声で言った。

「とんでもない。私にできるはずがないでしょう。ですが、後ろの男なら簡単にできますよ」

 二人の男が振り向いた。

「遅くなりました」

「ほんまやで。時間を稼ぐのに苦労したがな。お蔭でアホな話はせにゃならんし……」

「後はお任せを……」

「頼む」

 と、森岡は一歩二歩と後ずさりした。

 坂根はスーツを脱いでネクタイも外し、両腕のカッターシャツを捲り上げていた。準備万端である。靴は元々革靴ではなく、裏がゴム製のスポーツタイプを履いている。こういう場面のためにということもあるが、運転の際ペダルにフィットするのだという。

「お前も仲間か」

「そうだ。俺が相手になる」

「お前一人で俺ら二人をか」

 兄貴分の方が嘲笑した。喧嘩には慣れているようだ。そうでなくては他たとえ老人が相手でも恐喝などしないであろう。

 森岡が思い出したように言う。

「ああ、そうやった。先に言うとくけどな、その男はむちゃくちゃ強いで。なんと言っても、極誠館空手の二段やかな」

「二段?」

 今度は弟分が鼻で笑った。

「あんたらは知らんやろうが、極誠館の二段は他の流派であれば四段に相当するからな。もっとも強い階級やで」

 これは事実だった。

 荒稽古とフルコンタクト、つまり寸止めなしの試合で有名な極誠館空手は、『段数二倍の実力』と言われていた。すなわち初段であれば他流派の二段、二段であれば同四段、三段であれば同師範クラスの六段に相当した。

 森岡が少年の頃、故郷に極誠館空手二段の有段者がいて、仕事の合間に無償で子供たちに教えていた。森岡も坂根も小学校のときから習っていたが、時期は重なっていない。

 森岡は、中学で辞めたため茶色帯で終わったが、坂根は大学時代はもちろん、今日に至るまで大阪の道場で稽古を続けていて二段に昇格していた。

「兄貴、はったりでっせ」

 弟分が強がるように言った。

 その言葉が癪に障ったのか、坂根が奇妙な動作に移った。

 両足を肩幅くらいに開き、両方の爪先をやや内側に寄せる。両ひざを少し内側に締めるように曲げ、ひざ関節は柔らかく保っている。

 両手の拳を顔の前に挙げ、両肘を外側に張っていた。

――ほう、息吹か。

 森岡は思わず目を細めた。

 息吹(いぶき)とは呼吸法の一つである。両手の拳を左右の腰に下ろしながら腹の中の空気を一気に吐き出す。このとき(カァー)という声が出るのだが、有段者でなくては真面な声は出ない。つまり、息吹のときの声の音量で修練の度合いが量れた。

 その昔、地上最強の男と言われた空手家が、動物園のライオンの檻の前でこの息吹をしたところ、背を向けて寝そべっていたライオンがむくっと起き上がり、空手家に向かって闘争心剥き出しの咆哮を上げたという逸話が残っている。

 坂根が息吹を始めた。

 二度、三度、四度とカァー、という戦闘モードの声を出した。

「時間がないので早く済ませよう」

 そう言って坂根は、前足のかかとと後ろ足のつま先が横一直線にそろうようにして、ファイティングポーズを取った。三戦立ちである。

  三戦(さんちん)立とは、文字どおり三つの戦いを示す。つまり三方向、前と左右の敵に対する立ち方という事である。脇を締め、拳を握り締めその構えをとった時、交感神経が研ぎ澄まされ、非情事態の態勢、戦う姿勢が整うことになる。

「あんまり無茶をするな。足か腕の骨の一本でええで」

 森岡が冷たい声で言った。

「お、お前、空手を習っているんやったら、拙いのと違うか」

 息吹に気圧されたのか、一転して兄貴分が泣き言のような言葉を吐いた。

 たしかにボクサーや空手の有段者は、拳自体が凶器と見なされるため、傷害事件の裁判では心証が悪くなる。

「あんたらが心配することやないがな」

 森岡は呆れ顔になった。

「せやけど、傷害事件など起こして有罪になれば、会社を解雇になるで」

「それも御心配なく、この男の雇主は俺やから、懲戒解雇どころかボーナスを弾みまっさ」

 森岡が止めを刺すように言うと、老人が堪え切れないように、ぷっと噴出した。

 すでに形勢は決していた。

「どないするんや。やるのかせんのかはっきりしろや!」

 森岡がどすの利いた声を上げた。それまでの柔和な物言いから一変した恫喝に、二人の戦闘意欲は完全に萎えた。

「いや、もうええわ」

 と訳のわからない言葉を口にして、二人はその場からそそくさと立ち去った。

「ご苦労さん。久しぶりにええもん見せてもろうたわ」

 森岡は笑顔で近付きながら労った。

「様になっていましたか」

 坂根も嬉しそうに応じる。

「おう、俺には出来ん芸当やな」

「ありがとうございます」

 軽く頭を下げた坂根の顔色が変わった。

「それより、遅刻です。急いで下さい」

「せやった。お前は車を幸苑の近くの駐車場に廻せ。俺は歩いて行く」

「大丈夫でしょうか。あの二人がうろついていませんか」

「俺かて一応茶色帯やで、あの二人なら大丈夫やろ。それより、急ごう」

 はい、と坂根は走り出した。

 森岡も幸苑へ向けて歩き出したそのとき、

「もし」

 と、老人の呼び止める声が掛かった。

 そのとき雲の切れ間から陽が射し、一瞬だけ辺りが、ぱあっと明るくなった。

「御怪我は無かったですか」

「お蔭さまで助かりました、礼を言います」

 振り向いてに笑顔を向けた森岡に頭を下げると、

「私は……」

 と、老人が名刺を取り出そうとした。

「いえ、ただの通りすがりです」

 森岡はやんわりと拒否した。

「では、せめてお名前だけでも……」

「いえいえ、私など先程のチンピラに毛の生えたような者ですから」

 それでも、森岡は照れくさそうに顔の前で手を振った。

「失礼ですが、私は……」

 それならば、と名刺を差し出そうとした女性にも、

「それもお断りしましょう。貴女は北新地にお勤めでしょう。どこのお店のママさん、あるいはホステスさんなのかはわかりませんが、私も北新地にはたまに足を運びます。もし、四千軒とも言われる歓楽街で、もう一度顔を合わせるような偶然があれば、そのときに……」

 と、森岡は一礼して踵を返した。


「実に清々しい男だのう」

 老人はしだいに遠ざかる森岡の背を見つめながら呟いた。

「本当に」

 女性も肯き、

「さあ、私たちも参りましょう」

 と老人の手を取りながら、森岡と反対の方向に歩き出した。

「五十年も昔のことだが、わしの若い頃にはああした粋な男も結構いたが、今ではすっかり見られなくなった」

「軟弱か、狡猾な男ばかりです」

「情けない時代になったものじゃ」

 老人は嘆息すると、

「いや、わしもな、初めは何とも小賢しい奴が現れたものだ思っていた。じゃが、それは彼の時間稼ぎだとわかった」

「はい」

「君もわかっていたか」

「物言いが雰囲気と似つかわしくありませんでした」

「さすがはママじゃのう。そうでなくては、その若さで最高級クラブのママはできまいな」

「ありがとうございます」

 と女性が微笑む。

「落としどころも最良だった」

「とおっしゃいますと」

「わしの観るところ、平凡な身形に反して、あ男は相当な金持ちじゃ。腕力の方も、もう一人の若い男には及ばないまでも、あのチンピラ二人ならどうにかなっただろう」

「そうでしたか」

「金で済ますなら簡単じゃった。だが、わしは商売人だからな、損は嫌いじゃ。と言って、もしママに危害が及ぶようやったら百万は出そうと思っていたがな」

「はい」

「あの男が金で済ましていれば、それだけの男だ。後でわしが彼に支払って済むことだった。だが彼はそうしなかった。しかも、暴力にも訴えなかった。喧嘩に及べば怪我をするかもしれないし、あの男も言っていたように治療費に金が掛かる。それも損ゃ。だから、あの男はもう一人の若者を待っていたのじゃ。あの若者であれば圧倒的な力の差がある。必ずや、チンピラどもは委縮して逃げ出すとな」

「では、最初からそこまで計算していたとおっしゃるのですか」

 うむ、と老人が小さく肯いた。

「孫子兵法の『戦わずして勝つ』じゃな」

「言われてみれば、なるほど彼の言動に得心がいきました」

「ところでじゃ、もしあの男ともう一人の若者が喧嘩をしたら、ママはどちらが勝つと思うかな」

「それは若い方でしょう。彼自身が自分は茶色帯と言っていました。対して若者は二段とか」

 いいや違うな、と老人が首を振る。

「二人が戦えば間違いなくあの男が勝つ」

「ああ、わかりました。あの男性は若い方の雇主とか、社長に逆らうことはできませんね」

「わしが言っているのはそういう人間関係を抜きにしての話だ」

「そうであれば、やはりあの男性に勝ち目はないように思われますが」

 女性は首を傾げた。

「のう、ママ。空手の試合ならばママのいうとおり、一分も掛からずに若者の圧勝だろうて。だが、喧嘩となれは話が違ってくる。若者は死の恐怖に慄き、身体が竦んでしまいあの男に言い様に弄られるようだろうな」

「死、とおっしゃいましたか」

「ちらっとしか見ておらぬが、あの男の目には狂気が潜んでいた。何者をも恐れぬ心だ。戦いで勝敗を分かつのは相手を殺さんばかりの気力と、自身の死をも恐れぬ勇気なのだ」

「それをあの人は持っていると?」

 老人は無言で肯くと、

「人体にはの、いくら鍛えても鍛えられない箇所がある」

「急所ですね」

「そうだ。もっともわかりやすいのは目と股間だな。一度喧嘩になれば、あの男はそこを徹底的に狙うだろうな。それこそ、失明という障害を負わせてもな。だが、若者の方にはそれだけの覚悟はできないだろう」

「……」

 女性は言葉が見つからなかった。

 老人の言葉を昔の剣客に例えれば、空手の試合は道場の竹刀稽古のようなもので、怪我はするかもしれないが、滅多なことでは死に至らないため、自力に勝る坂根の圧勝に終わる。

 だが、命のやり取りとなる真剣での勝負になると、場数がものを言うことになる。いくら技量で勝っても、一度も人を斬った経験がない者と、少々腕は劣っても、数多くの修羅場を潜って来た者とでは立場は逆転するのだ。理由は簡単で、胆力が違うからである。

 喧嘩となれば、坂根は技量の半分の力も発揮できず、対して森岡は、腕の一本も切り落とされる覚悟で命を取りに行くということである。言わば身を切らせて骨を絶つの例えである。

「わしは何百何千もの同じような目をした仲間を見ている」

「先の戦争ですね」

 そうだ、と老人は肯いた。

「思い出したくもないが、最後の頃は皆覚悟の据わった目をしていた。それと同じ目をしているとは、あの若さでいったいどのような人生を歩んで来たというのか」

 老人は複雑な表情で言った。

「たったあれだけのやり取りで、そこまでおわかりになるとは、さすがは会長ですこと」

「ママにはわからなかったようだの」

「わかるはずがありません」

 女性は首を横に振った。

「それは良かった」

 老人は安堵したように言った。

「良かった?」

「今でも孫とは釣り合わぬというのに、さらにママが高みに行ってしまえばどうにもならなくなる」

「私のような者をお孫さんの嫁に、と言って下さるのはありがたいことですが、身分が釣り合いません」

「今時、身分など関係が無いだろうて」

「いいえ。会長のお家は代々の名家、私は庶民どころか世間に顔向けのできない家の生まれです」

「わしはそのようなことはいっこうに気にせぬがな」

「失礼ながら、会長が亡くなられば私は後ろ盾を失います」

「それもそうだの。正直に言って息子夫婦はわしの考えを快く思っていない。孫が息子夫婦に逆らうとも思えぬしの」

 老人は嘆息した。

「お付き合いは別にして、一度お孫さんもお店にお連れ下さい」

「それは駄目だ」

 老人は強く拒絶した。

「生憎、今は東京におるし、近いうちに呼び戻すつもりだが、孫に北新地はまだ早い。まずは地場が分相応じゃ」

「なるほど、会長の監視下にも置けますしね」

 老人は目を細め、さすがだという顔をすると、

「ああ、これだけの女性は滅多におらぬというのに……」

 と、もどかしそうに言った。

「それはそうと、彼の素性を確かめなくても良かったのですか。お礼の一つも……」

 と言ったところで、老人が女性の言葉を切った。

「たしか、幸苑と言ったからな、店に行けばわかるじゃろ。是非、もう一度会いたいものじゃな」

「では、明日にでも出向いて確かめて参ります」

「二、三十代の若者二人じゃ。すぐにもわかるだろうて」

「はい、お任せを」

 女性は微笑みながら請け負った。

 

 明治の終わり頃に暖簾を上げた幸苑は、戦後から今日に至るまで、関西政財界のお歴々も足を運ぶという老舗の名店であり、高級クラブが軒を並べていることで有名な『北新地』とは指呼の間であった。

 約三百坪もの一等地の敷地に、総二階の数寄屋造りで西に片寄せて建てられていたため、一階であればどの座敷からでも、四季折々の風情を映し出す日本庭園を眺めることができた。

 当代の女将が始めた、来客に対しお茶室で抹茶を一服献上してから部屋に通すという趣向が評判を呼び、昼時などは女性の人気も博すようになっていた。

 二人がお茶席に着いていると、支配人から連絡を受けた女将が顔を出した。森岡は女将の村雨初枝(むらさめはつえ)とは昵懇の仲だった。

 書生の頃より、神村の随伴で再々訪店していたこともさることながら、その誼から結婚披露宴の場に、この幸苑を用いたことでより親交を深めていた。

「遅刻ですよ、森岡さん」

 女将の咎めるような口調にも、

「会社を早く出たつもりでしたが、雨のせいか渋滞が酷過ぎました」

 と、森岡は少しも悪びれた様子がない。

「今し方、森岡さんが到着されたことをお知らせするため、お部屋にお伺したのですが……」

 女将はそう前置きすると、

「谷川上人(しょうにん)は、何か思うところがお有りになるのか、森岡さんが来られるまでのお口汚しに、とお出しした前菜にはお箸を付けられず、おビールでさえ一口もお飲みになっていらっしゃらないのですよ」

 と緊張の声で言った。

 上人とは僧侶の敬称である。本来は、学徳を供えた僧に対する敬意を払った呼称なのだが、現代では僧侶であれば誰も彼も上人と呼ぶ風潮が蔓延している。政治家であれば、挙って先生と呼ぶようなものである。

――やはり、相当悪い話のようだな。

 森岡は心の中で呟きながらお点前を頂くと、右手の親指と人差し指で飲み口を拭き取り、懐紙を摘んだ後、茶碗を正面に戻した。

 そこへ坂根が到着した。

「それでは女将、別の座敷を一つ用意してもらえますか」

 と頼んだ。

「坂根、お前はそこで食事をしていろ。車は代行を頼むが、後で紹介するから酒はそこそこにな」

 森岡はそう言い含め、女将の案内で足早に谷川のいる座敷へと向かった。

 日頃、森岡や神村が使う座敷は、一階南側の鶴の間と決まっていた。十畳一間で、さほど広くはなかったが、敷地の中心に位置していたため、庭全体が一望でき、風流を好む神村のお気に入りの部屋だった。

 女将は、同伴者が森岡と聞いてこの部屋に通していた。

 失礼します、と女将が一声掛けて襖を開けると、森岡の目に懐かしい顔が飛び込んで来た。まさしく大阪府堺市・雲瑞寺(くもみずでら)副住職の、谷川東良の姿がそこにあった。

 森岡は、座敷に一歩足を踏み入れたところで正座し、

「谷川上人、遅れまして申し訳ありません」

 と深々とお辞儀をした。

「おお、森岡君か。こっちが無理を言うたんやから気にせんでええで」

「お久しぶりです、何時以来でしょうか」

「ほんま、久しぶりやな。まあ、そんなところで畏まらんとこっちに来いや」

 谷川は手招きをしながら気さくに応じた。

 二人は、森岡の書生時代に幾度も顔を合わせていた仲だった。

「最後に会おうたんは、君がまだ神村上人の経王寺(きょうおうじ)にいた頃やから、十二、三年ぶりぐらいになるかなあ。今朝、神村上人から話を聞いたのやが、なかなかに御活躍のようやないか」

 開口一番、谷川は曰く有り気に持ち上げた。

「とんでもないです。まだまだです」

 森岡は軽く受け流し、

「それより谷川さんこそ、アジア諸国を回って研鑽を積んでいらっしゃるそうではないですか」

 と追従した。

 にこやかな顔で、

「それほどでもないがな」

 と謙遜した谷川東良の表情が一変した。

「そんなことよりな森岡君。神村上人から連絡があったやろう」

 はい、と森岡も神妙な顔つきで肯いた。

「谷川上人から詳しい事情を伺って、二人で良く相談をして欲しいとのことでした」

「そうか、それなら話は早い。実はなあ、ちょっと困った事になって君にも力になってもらわにゃならん」

 谷川は深刻な面で言った。

 細長くつりあがった狐目と口髭、パンチパーマの風体から谷川は一見その筋の者かと見間違う外見とは異なり、よく冗談を言うひょうきんな人物だった。

 だが、書生時代からその裏に潜んでいる正体不明の屈託が森岡は気になっていた。彼の努めて明るい振る舞いは、心の陰りを隠すためではないかと勘ぐっていたのである。

 それはともかく、表面上は陽気な谷川の、初めて見せた真剣な眼差しは、不安の剣となって森岡の胸の奥深いところまで突き刺していた。

「私にできることでしたら何でも致しますので、遠慮なくおっしゃって下さい。いったい何があったというのですか」

 森岡に問われて、谷川はいっそう険しい表情になった。

「それがな、森岡君。神村上人の本妙寺貫主就任の話が白紙になった。いや、白紙ならまだ良いが、流れるかもしれん」

「えっ! そんなばかな……」

 一呼吸置いて谷川の口から出た言葉に、森岡は我が耳を疑い、声にならない声を上げた。悪い予感は働かせていたものの、あまりに予想外の宣告だったのである。

 

 森岡の師・神村正遠(しょうおん)と谷川東良が所属する天真宗は、全国におよそ六千の寺院、二万人の僧侶、そして八百万人の信徒を擁する、我が国最大級の仏教宗派である。

 鎌倉時代、天真宗はその聖地を静岡県北西部の妙顕山(みょうけんざん)と定め、総本山真興寺(しんこうじ)を建立していた。

 この真興寺こそ、その後の布教の本拠地となった寺院である。

 現在、真興寺の周辺には六十を超える堂塔伽藍と、四十六もの子院(しいん)が配置され、総本山の宗務一切は、その子院群によって取り仕切られていた。直接的には宗務院の手に委ねられていたが、その宗務院には四十六子院の住職しか入れないため、間接的な影響力を行使しているという意味である。

 また、子院とは本寺の境内にあり、本寺に付属する小寺院のことである。

 妙顕山の背後に位置している高尾山は、総本山をお護りする山、すなわち護山(ござん)としての役目を担い、標高約千二百メートルの高地に、守護神高尾大明神を祀った『奥の院』と、僧侶の荒行修行の場である『妙顕修行堂(みょうけんしゅぎょうどう)』が置かれていた。これらの宗務もまた四十六子院の管轄下にあった。

 さて、これら子院群のほとんどが、副業として参詣客のための宿坊(しゅくぼう)施設を備えており、今日では宿坊名の方が通名となっているので、以後子院個々の名称はこちらを用いたい。

 一方、目を外に向けると、総本山真興寺の下には、全国に九ヶ寺の大本山と三十九ヶ寺の本山が位置し、さらにその下に六千にも及ぶ一般の末寺が連なるという構図になっていた。

 大本山や本山は、宗祖栄真(えいしん)大聖人縁の寺院であり、たとえば得度した寺院、布教のため逗留した寺院、入滅の寺院等々、その濃淡により格式付けられていた。神村が執事長を務める本妙寺も、その大本山の一寺院である。

 権力掌握の順位としては、総本山の法主が第一位であることは言うまでもなく、次いで同総務、同宗務院の宗務総長の順となったが、これは僧階、つまり僧侶としての位付けとは必ずしも一致してはいなかった。

 たとえば、総務は大本山や本山の住職、すなわち貫主と同格であり、新任の宗務総長は格下である場合も少なくなかった。

 総務とは総宗務総長の略称、つまり、全国寺院の宗務総長の長という立場である。多くの寺院は、ナンバー二の執事長が兼任しているが、各大本山・本山やあるいは末寺であっても古刹、名刹と言われる寺院には宗務院がある。いずれにせよ彼らの頂点に立っているのが総務なのである。

 他宗派においては、この総務と宗務総長を兼任する人事が多いが、大宗派天真宗では区別していた。したがって、宗務総長は、あくまでも総本山の宗務を司ることになる。


 天真宗の僧階順位

 大僧正―権大僧正―僧正―権僧正―大僧都―権大僧都―僧都―権僧都

 権とは、準(準優勝)あるいは助(助教授)と言う意味である。


 僧階と職務

 大僧正 ―総本山・法主

 権大僧正―総本山・総務、同宗務院宗務総長、大本山及び本山・貫主

 僧正  ―総本山・宗務院宗務次長、大本山及び本山・執事長、他


 また、一口に大本山あるいは本山といっても、その建立に至った経緯や歴史、伝統といった、いわゆる『縁起(えんぎ)』によって表向きのそれとは微妙に異なる格付けが暗黙の内に存在していた。この現実が、しばしば寺院同士、あるいは僧侶同士のあらぬ確執を生む原因ともなっていた。

 森岡が師と仰ぐ神村正遠僧正は、その天真宗において、明治以来の傑物との高い評価を受けている、紛れもない高僧であった。

 一九七十年の秋、神村は弱冠二十八歳にして、総本山真興寺の護山である高尾山奥の院の経理に就任する。本山格に準ずる、奥の院のナンバー三である経理を二十代で務めるのは、記録が残っている限りにおいて初めてであり、極めて異例なことであった。

 宗祖栄真大聖人の、側近中の側近の家系であり、これまで幾人もの法主を輩出してきた、総本山の有力宿坊の一つ『滝の坊』の住職・中原是遠(なかはらぜおん)が、奥の院の別当(べっとう)に就任した折、十三歳で得度して以来、十五年の長きに亘り手塩に掛けて育て上げ、その稀有な才能に宗門の未来を託していた神村を、半ば強引に引き入れたものだった。

 別当とは、長官すなわち責任者のことで、大本山や本山における貫主と同じ立場である。

 それから二十四年の歳月が流れた三年前、神村はまたしても五十二歳という異例の若さで、京都大本山本妙寺の執事長に就任し、同寺院次期貫主の最有力候補となった。もし五十代にして、大本山の貫主就任ともなれば、これまた明治以降初めての、前代未聞の快挙となった。

 法主ただ一人にのみ与えられる、最高位の称号『大僧正』の次に位する『権大僧正』を授かる大本山や本山の貫主人事は、七十歳を目安とした老僧の花道を飾る意味合い、言い換えれば実質的な引退を間近に控え、功績として与えられる名誉職というべき要素が多分にあった。

 とりわけ、全国に九ヶ寺しかない大本山に至っては、さらにその傾向が色濃く、明治以降六十代で就任した者ですら、僅かに三名しかいなかった。しかもそれは、戦中戦後の貧しい時代、多額の費用が掛かる貫主就任に二の足を踏んだ頃の話であり、現代においては到底考えられない至難の業であった。

 神村は、その偉業を達成すべく、若い時分より長年に亘って粉骨砕身の精進を重ね、ついに手の届くところまで辿り着いていた。

 通常、大本山や本山において、寺院のナンバー二である執事長の座に就くということは、次期貫主内定者と目され、余程の異変がない限り、そのまま貫主に就任する運びとなっていた。

 なぜなら、次期貫主の選任は、当代貫主の推薦――大抵は執事長を推薦する――を総本山の宗務院が承認する形式を採っていたからである。何らかの理由で、現貫主の推薦が無い場合に限り、合議または選挙という運びになったが、その何らかの理由というのもなかなかに生じ難かった。

 次期貫主と同様、執事長の選任もまた当代貫主の専権事項であり、有資格者の中から自身が最も信頼を置き、後継者とみなした者こそをそこに就けたからである。

 神村も本妙寺の当代貫主・山際の意向の下、そのようにして執事長に就任していた。

 故に、その辺りの事情を承知していた森岡にしてみれば、いまさらそれが反故になることなど、到底信じられることではなかったのである。

 

 釈然としない様子の森岡に、谷川東良が事情を話し始めた。

「君が奇異に思うのも無理はない。それがな、森岡君。残念なことに、山際貫主が急逝されてしまったんや」

「貫主が亡くなられた? いつのことですか」

 森岡が驚きの声で訊いた。

「二ヶ月ほど前のことなんやが、脳梗塞で倒れられてな、そのまま永眠されてしもうた」

「そんなことが有ったとは、知りませんでした」

 大学卒業と同時に、神村の自坊である経王寺を出た森岡ではあったが、年中行事に参列するなど、月に一度の割合で神村と顔を合わせていた。独立してウイニットを立ち上げてからは、毎月初めの吉日を選んで、自宅と会社に祭った御本尊に読経を依頼していたことから、その頻度は増していたが、そのような事情は聞いていなかった。

「一週間前に、四十九日の法要を済ませたところやねん。神村上人はそれからタイに旅立たれたんやけど、せめて上人を次期貫主に推薦する旨の遺言書でもあれば、事態はそれほど複雑にはならんかったんやが、奥様の話によると、半年後の勇退に向けて、宗務院に提出する書類の準備に取り掛かった矢先の急逝だったということや」

「間が悪かったのですね」

 とりあえず、事の発端が飲み込めた森岡は、谷川のグラスにビールを注ぎながら気懸かりな点を訊ねた。

「そうしますと、今後の行方はどうなりますか」

「そこなんや。後継に関して一言も公に証言することなく亡くなった場合、前貫主の後継指名が無いと判断され、神村上人が貫主に就任する段取りとしては、まずは六名の署名と捺印が必要となるんや」

 谷川が指折り答えたその六名とは、

 

 天真宗

 京都・本山会会長、法国寺(ほうこくじ)・黒岩上人 

 京都・寺院会会長、清浄寺(せいじょうじ)・大道上人

 関西地区・本山会会長、桂妙寺(けいみょうじ)・村田上人

 関西地区・寺院会会長、雲瑞寺(くもみずでら)・谷川上人

 本妙寺・護寺院会長、華福寺(かふくじ)・相馬上人

 本妙寺・護山会会長、歌舞伎俳優・片山甚左衛門

 であった。

 尚、歴史上の経緯から、京都は関西地区から独立していた。


 神村を次期貫主とする推薦状に、彼らの署名と承認印が必要だというのである。

「えらい面子ですね」

 森岡は思わず溜息を吐いた。一千年の長きに亘り、我が国の都であった京都の大本山ともなれば、錚々たる人物の承認が必要であった。

「もっとも神村上人の話では、それも難しい事ではなかったということや」

 谷川は、さも口惜しそうに口の端を歪めた。

 京都、関西の両本山会の会長とは亡き山際を介して親交があり、口頭ではあったが了承を得ていた。京都・寺院会会長の大道上人は、神村が得度、修行した滝の坊での兄弟子、関西地区・寺院会会長は谷川東良の実兄東顕(とうけん)が務めていたので、両名とも全く問題はなかった。

 護寺院会長の相馬にしても、執事長に就任してから宗務を通じて良好な関係を築いており、残る護山会会長は、関西歌舞伎の大名跡・片山甚左衛門の名を借用しているだけであった。したがって、問題はないと判断し、森岡には黙っていたというのが真相であった。

 護寺院とは、本院を補佐する役目を担った寺院のことで、本院の敷地内または近辺に建立されていた。また護山会とは、葬礼儀式などを依頼する檀家と違い、寺院を支援する組織のことである。従来、寺院の多くは『山』にあったことからこの名が付いた。

「では、どうしてそれが白紙になったのでしょうか」

 谷川の話を聞いて、森岡には不可解な思いが募るばかりだった。

 核心に迫る問いに、谷川は森岡のグラスにビールを注ぎ返しながら、

 ちっ、と舌打ちをすると、

「造反者が出たんや。造反者が……」

 いかにも憎々しげに吐き捨てた。

「造反者?」

「そうや。ここにきて、関西地区・本山会会長の村田さんが、署名捺印を拒否したんや。宗務院の承認を得るためには、前貫主の死後二ヶ月以内に、六名全員の署名捺印のある推薦状を宗務院に提出せにゃならんのや。それを直前になって、村田さんは断ってきたんや。どうやら、神村上人が外遊に出る隙を狙って反旗を翻し、根回しを進めようという腹積もりやな」

 谷川は、村田光湛(こうたん)を他の僧侶のように『上人』という敬称ではなく『さん』付けにした。

 現代日本において、宗教界というのは、僧階による最も厳しい階級社会が残っている世界といえよう。むろんのこと長幼の序はあるが、それは兄弟弟子か、あるいは荒行などの修行時に何らかの深い関わりを持った場合ぐらいである。

 村田は二十歳も年上の大先輩で、しかも権大僧正の僧階を授かっており、権大僧都の谷川より四階級も格上の高僧であった。にも拘わらず、敢えて『さん付け』にしたところに彼の敵意が如実に表れていた。

「今回の外遊は、法主さんのお供ですから、その村田という人も、予定を把握していたということですか」

「そういうことやな。法主さんは、国賓として招請を受けたタイだけやが、神村上人はついでに足を伸ばしてスリランカを訪問される予定やから、帰国は五日ほど先になる。向こうはそこまで調べていたのかもしれんな」

「かなり計画的なようですが、裏切りなど臆面も無くようできますね」

 森岡は呆れ顔で言った。

「留守中に署名捺印を拒否する旨の書面を送り付けてきたことからしても、口頭とはいえ、一旦了承した事を反故にしようというんやから、さすがに面と向かって、というのはばつが悪かったんやろうけどな」

 谷川も眉を吊り上げると、

「それでや……」

 と今後の見通しを述べた。

 署名捺印が一人でも欠落している場合は、その推薦状は無効となり、提出期限後三ヶ月以内に京都を含めた関西地区の大本山と本山の貫主全員による合議で、次期貫主を推薦する形を採る。

 すなわち、京都にある大本山と本山の八寺院から、当該の本妙寺を除く七寺院と、京都以外の関西にある大本山と本山の四寺院、合わせて十一寺院の貫主による合議により、立候補者から一名を推薦し、宗務院の承認を得る形式を採るのである。

「おそらく、話し合いで一人に絞られることはないやろから、最後は当然投票になるわな。一人に纏まるのやったら、端から署名捺印をせえへんということはないからな」

「立候補の条件というのは」

「簡単や。荒行を五回以上達成している者なら、全国の大本山と本山の貫主のうち、一人の推薦があればええ」

 谷川は憤然として言った。

 こうして話が佳境に入ったとき、女将が若女将を連れて挨拶にやって来てしまい、話を一旦中断することになった。

 森岡は、この間を捉えて坂根を部屋に呼び、、これまでのあらましを説明した後、話の続きとなった。

「それで、投票となった場合の勝算はどうなのでしょうか」

 森岡は単刀直入に切り出した。

 もちろん、彼にも情勢の芳しくないことは察しが付いていたが、そこがこの会合の要諦であり、自身の役割もそこにあると直感していたのだった。

「あかん、かなりまずいんや。村田さんが署名捺印を拒否したということは、必ず背後に誰か糸を引いている者がおるとは思っていたんやが、まさかそれが久保さんやったとはなあ」

 谷川はしかめっ面をしたが、森岡は名前に聞き覚えがなかった。

 首を傾げた森岡に、

「そうか、君は知らんわな。いや、久保さんというのは、岐阜県大垣市にある法厳寺の住職でな、実は五年前にも山際上人と本妙寺の貫主の座を争って、一度敗れている人なんや。敗れたとはいえ、非常に手強い相手で、そんときも激しい戦いやった。もう、最後までどっちに転ぶかわからんでなあ、六対五という、ほんまやっとのことで勝ったんや。そのときの功績もあって、後に山際上人は自身の勇退を睨んで、神村上人を執事長にしたというわけや。そやから、久保さんにとってみれば、神村上人は二代に亘る積年の仇敵ということになるな」

 と、谷川は過去の経緯を詳らかにした。

「そういうことがあったのですか。良くわかりました」

 森岡はつい反射的に、そう口に出してしまった。

 谷川は、それが気に入らなかった。

「いや、まだ全然何もわかってへんな!」

 と即座に強い口調で咎めた。

 谷川を苛立たせているのは、六対五という薄氷を踏む勝利を収めた前回選挙時の十一人の貫主のうち、現在は三人が代替わりをしているのだが、その内の二人が、当時山際を支持した上人という事実だった。つまり、三人を除くと、四対四の全くの五分となり、そこから村田が寝返ったのであるから、三対五ということになるのだ。

 ちなみに、十二ケ寺の寺院と貫主は左記のとおりである。


 京都  大本山    法国寺 黒岩 

            傳法寺 大河内

            本妙寺 山際(死去)      

      本山    国龍寺 安田       

            清門寺 戸川     

            顕心寺 酒井        

            桂国寺 坂東 

            相心寺 一色 


 関西   本山 奈良 桂妙寺 村田  

         奈良 龍顕寺 斐川角(ひかわすみ)    

         三重 法仁寺 広瀬  

         大阪 経門寺 北見


 このうち、山際支持だった国龍寺と法仁寺、久保支持だった顕心寺の貫主が、それぞれ安田、広瀬、酒井に代わっていた。

 これらの新しい三人の貫主がどちらに与するかは、まだ明らかになっていないが、久保も五年の雌伏の時を破り、再び決戦を挑んできたからには、前回と同じ轍を踏むまいと、周到な準備をしていると思わねばならなかった。

 森岡の緊張を看て取った谷川は、一転諭すように続けた。

「つまり、その三人もすでに取り込まれていると思わにゃならんし、そうだとすると、形勢は三対八ということや。それにな……」

 谷川は途中で視線を逸らした。

「まだ他に何か」

 あるのか、と森岡は訊いた。

「いやあ、本人が居られんのは、欠席裁判みたいで心苦しいのやが」

 そう前置きすると、

「言うまでもなく、神村上人の僧侶としての実績は素晴らしいものやで、非の打ち所がないほどや。あの若さで大本山の貫主になっても、ちっともおかしくはない。しかしな、それは若い僧侶にとっては尊敬と憧憬の対象になるかもしれんけど、年配の僧侶にとってはどうやろなあ。少なからず、嫉妬の的になるんと違うかな」

 と奥歯に物の挟まったような言い方をした。

 少々鼻に付いた森岡ではあったが、彼に言われるまでもなく、特に自らが七十歳の坂を越えて、ようやく貫主の座に付いた者の中には、二十も年若い五十代の貫主など、とうてい承服できないと思う者がいてもおかしくなかった。前例も無いだけになおさらである。

「そりゃあ、山際貫主の存命中は、貫主の手前、腹に思うことも抑えて神村上人を後継として認めたかもしれんが、貫主亡き現在(いま)なら、村田さんのように反旗を翻す者がおってもおかしいないと思うんや。せやから、最悪の場合を考えれば、味方であるはずの三人かて当てにはできんとうことや」

 谷川はそう言い終えると、喉の渇きを潤すように、一気にグラスを傾けた。

「今度こそ、きちんと受け止めました」

 森岡は、谷川の言葉の意味を心に刻み込んだかのように言った。そして、彼の淡々とした口調が、却って事の深刻さを浮き彫りにし、やるせない思いを募らせていた。

たしかに人間とは嫉妬深い生き物である。他人の成功や幸福を羨み、失敗や不幸を喜んだりする。

 しかしそれは、一般世界に生きる俗人の所業であって、厳しい修行を積むことで精神修養を図り、そのような煩悩こそを遠ざけているはずの宗教人においては、有り得ないことだと思っていた。

 いや、森岡もそこまで純真ではない。

 宗教の世界といえども、少なからず魑魅魍魎(ちみもうりょう)の集まりであることなど、疾うの昔にわかってはいた。ただ、尊崇する神村のこととなると、彼はつい純真な幻想を抱いてしまうのである。

――神村のほどの傑物を前にすれば、皆平伏し、誰一人として敵対する者などいるはずがない。神村の宗教人としての足跡は、嫉妬などという陳腐な劣情を、それほどまでに凌駕しているのだ……という風にである。

 だからこそ彼は、神村とて例外ではない、という現実を突き付けられ、実に嘆かわしく失望していたのだった。

 森岡が語調を強めて訊く。

「では、この先はどうなるのでしょうか? また、私は何をすれば良いのでしょう」

 同時に、彼は打開策に向けて前向きにもなっていた。この怖いもの知らずの若き成功者にとっては、致命的に不利な戦況もまた、闘争心を掻き立てる糧に置き換えてしまう勢いがあった。

 谷川は、その言葉を待っていたかのように、前のめりになった。

「まずは全員に当たりを付けて、情勢分析をせにゃならんが、とにかく、前回山際上人を支持してくれた三人をそのまま味方に固めたうえで、最低でも三人はこっちに寝返らせにゃならん。八人中三人や、難儀なことやで。しかも、誰に話を持って行くかも問題や。そこを間違えると、とんでもないことになる」

――なるほど、そういうことか。

 森岡は、ようやく谷川東良が出張った意味を理解した。

 

 神村正遠と谷川東良は、宗教人として正反対の道を歩んでいた。

 神村の生家は、ごくありふれた地方の末寺だったが、少年の頃より英邁の誉れ高く、総本山の滝の坊に入坊してからは、中原是遠の薫陶によって一気にその才能が開花した。しかも、仏道を究めるべく、死人も出ることのある百日荒行を十二度も敢行し、堂に籠もった日数は、有に千二百日を越えていた。

 天真宗における荒行とは、堂に籠もっての読経や瞑想、水行、観行を繰り返す修行のことを言い、その間の食事は朝夕の二回、共に一汁一菜である。

 荒行挑戦の年齢に制限はないが、最低限の経典を諳んじていることが必須であった。導師の判断で不適格とされた者は、容赦なくその場で退山を命じられ、通算三度の退山を命じられた者は、再度の荒行に挑む資格を失うことになった。

 これは自身と家門の名誉を著しく傷付けるものであり、余程の自信と覚悟がなければ、挑むことの適わない厳しい修行であった。

 導師とは、一般には人々に信仰心を持たせ、仏道に導く者を言い、法要や葬儀などでは中心になって取り仕切る者を指すが、荒行におけるそれは教授と考えればわかり易いだろう。

 さて天真宗の記録によれば、七百年を超える歴史の中で、千日荒行を達成した者は、神村を含め僅かに七名に過ぎなかった。千日荒行といって、百日荒行を十回達成すれば良い、という単純なものではない。

 毎回同じ内容の修行が繰り返されるのではなく、達成回数が増すに従って、読経しながら山野を歩く踏破回峰行(とうはかいほうぎょう)や、滝行といった新たな苦行が加わる。さらに睡眠時間を削り、より長く堂に籠もったり、水行の回数を増やしたりと、過酷さは極まるのである。

 しかも荒行は、正月明けから春先までの、酷寒の時期に実施される。特に踏破回峰行は、白衣の上に簡易の僧衣を一枚だけ纏い、素足に草鞋という出で立ちで積雪の山野を歩かなければならない。

 当然、命を落とす危険に晒されることも多くなり、落伍者も続出することになった。そこで、大抵の者は大本山・本山の貫主就任の資格が得られる五回で打ち切ってしまい、その先の修行に挑む者は極稀なのである。

 七百年を超える歴史の中で、千日荒行を達成した者が、僅か七名しかいないのはそのためであった。

 神村正遠は、その千日荒行を百三十年ぶりに達成したため、宗祖栄真大聖人の生まれ代わりとも、稀代の傑物とも評されているのである。

 これに対して、同じ末寺でも室町時代初期から続く由緒ある名門の寺院に生まれた谷川東良は、恵まれた環境に育ちながら、荒行は若い頃のたった一度切りで、今やどっぷりと世俗の垢にまみれて生きていた。形ばかりの遊学を繰り返し、修行はおざなり、挙句に酒色におぼれ、放蕩無頼に生きて来ていた。

 ただ、その甲斐あってというべきか、純粋培養の神村とは異なり、世事に明るく、人情の機微に通じ、智謀に長けていた。皮肉にも、それがこの度の謀には好都合だといえたのである。

 また、兄東顕が関西寺院会の会長という要職の立場にあり、兄の名代と称すれば、いかなる寺院であっても容易く面会を求めることができ、情報も手に入れ易かった。

 そして極めつけは、神村とは父親同士が兄弟弟子、東良本人も小学校から高校ま五年年後輩という、親子二代に亘って親交を深め、信頼が醸成されている間柄ということである。

 まさに谷川東良は、此度の参謀役にはこれ以上ない打って付けの人物というわけなのだ。

「そこでだ。寝返らせる上人が決まった後には……何だ、その……」

 急に谷川の歯切れが悪くなった。

 すでに自身の役割も察していた森岡は、その先の言葉を奪った。

「私が用意致します。如何ほどですか」

「そ、そうか……そうだな、一億、いやできれば二億ほどかな……署名捺印だけなら、一寺院あたり二百万ほどで済んだが、選挙となると最低でも一桁上の二、三千万ぐらいは掛かるやろうし……相手の出方によってはさらに上乗せせにゃならんかもしれん。なんせ、久保さんも前回の『金の出し惜しみをして敗れた』という苦い経験から、今回は相当張り込むやろうからなあ。それに、味方にもそれなりの配慮もせにゃならんやろ。相手もこちらに手を延ばしてくるかもしれんしな」

 谷川東良は時折目を逸らして、いかにも気まずそうに言い訳をしたが、森岡はあっさりと申し入れを受諾した。

「承知しました。それでは、三億用意しましょう。付け届けの他に、接待など色々物入りになるでしょう。全て私個人の金で用立てますので、入用ができましたら遠慮なくおっしゃって下さい」

「三億、それも個人の金ですと……そうですか、金が必要になったら連絡します」 

 意表を突かれた東良は、思わず丁寧な言葉にあらためてしまった。神村から薄々聞いていたとはいえ、森岡が全く躊躇することなく、しかも一億円も上乗せするという想像以上の気前の良さに、度肝を抜かれたのである。

しかし、すぐに気を取り直し、

「せやけど、単純に金を積めばええというもんではないからな。何しろ宗教の世界やからな、偏屈な奴もおるし、常人には考えられんプライドを持っている上人もおる。それに、人も見抜かにゃならんが、袖の下も慎重にせにゃならん。やり方を間違えると、これもまたとんでもないことになる。まあ、それがわしの腕の見せ所ではあるけどな」

 と己の存在価値を誇示した。

 あはは……と森岡は心の中で笑った。

 子供じみた谷川東良が可笑しくて仕方がなかった。もとより彼にすれば、谷川東良と手柄を競い合おうなどという気は毛頭なく、むしろ神村の役に立つ好機と純粋に喜んでいた。

 神村が、何事も無くすんなりと貫主の座に就けば、就任後の本妙寺の事業にいくら金を出しても、それなりの貢献でしかなかったであろう。他に出資者が現れればなおさらである。

 しかし、敗れれば捨て金となるやもしれぬ金など提供する者は皆無であろう。森岡は、そのリスキーな資金を提供することで、神村の力になっているという喜びを実感したいのである。彼は、もし自身の金の力で神村を貫主に押し上げることができれば、それこそ本望だと思っていた。

 彼はまた、神村の経歴に一つとして傷を付けたくないとも欲していた。神村には、ただひたすら真っ直ぐに、宗門の頂点を目指し王道を歩んで欲しいと願っていた。

 その神村を、こんなところで躓かせるわけにはいかなかった。そのためなら、彼はどんな泥でも被ろうと覚悟していた。汚く醜い仕事は、全て自分が引き受けようと腹を決めていたのである。

「よし。話が一段落したところで、さっさと料理を平らげてしまい、新地にでも行こうか」

 金の見通しが付いたからか、谷川東良は声高に言い、高級料理を口の中にかき込んだ。。

 とりあえず、東良が投票権を持つ各寺院の思惑を探る事と、今後は連絡を密にすることを決めて、話に切りを付けた。

 食事を終えた一行は、東良が馴染みとしている北新地の高級クラブ「ロンド」へ繰り出すことになった。

          

 幸苑を出ると、すっかり雨は上がり、代わって風が出ていたが、雲を払い退けるほど勢いではのなかった。星は南の空の一角で疎らに輝いているだけで、幾層もの薄黒い雲が森岡の心に覆い被さるように低くたち込めていた。  

 谷川東良は、ママの山尾茜(やまおあかね)目当てで、在阪のときは足繁く通っていたが、全く相手にされずにいた。だが彼女には、それでも足を向かせる魅力があるようだった。

 二年前、山尾茜は二十六歳という若さで、北新地でも指折りの最高級クラブをオープンさせ巷の耳目を集めた。北新地の高級クラブでは最年少だったため、誰もが後ろに控えているであろう「パトロン」の存在を詮索した。

 だが、それらしい人物がいっこうに浮かび上がらず、下心のある男たちは謎めいた素性に益々興味を惹かれ、店は彼女目当ての客で盛況を極めていた。

 森岡もロンドの評判は耳にしていたが、彼はわざわざ足を運ぶほど酔狂ではなかった。

 ロンドへと向かう階段の前に来たとき、森岡の携帯が鳴った。道すがら、野島に明朝の臨時幹部会議開催の旨を該当者に連絡させていた。その返事だろうと思われた。

 森岡は谷川東良に先に入店するよう勧めた。


「いらっしゃいませ。谷川上人、ずいぶんと遅かったですね。待ちくたびれてしまいましたわ」

 奥の席に座っていた和服姿の女性が、早足で近づいて来て声を掛けた。ママの山尾茜である。

「いやあ、すまん、すまん。ちょっと込み入った話になってな、思いの外時間が経ってしまったんや」

 東良は片手で拝む仕種をしながら弁解した。

「あら、三名様と伺っておりましたが、御一人ですか」

「いや、あとの二人は外で電話中や」

 東良がそう言ったとき、入口の扉が開いた。

「あっ」

「あら、まあ」

 と、森岡と茜がお互いを見つめ合ったまま言葉を失った。

 森岡の斜め後ろにいる坂根も目を丸くしている。

 なんと目の前に、夕方チンピラに絡まれていた女性が立っているではないか。

 森岡は思わず息を呑んだ。

 何たる奇遇もさることながら、あまりの美形に言葉を失ったのである。先刻は薄闇ということもあって、はっきり窺い知ることはできなかったが、こうして煌々たるライトの下で見ると、その麗しさに目が眩むほどだ。

 噂に違わず、いやそれ以上だった。森岡は一見しただけで、彼女の魅力がわかった気がした。単に美形というだけでなく、垢抜けている割には家庭的な雰囲気も纏っている。そして何よりも。夜の世界で生き抜いているとは思えない清楚な佇まいが、男の心を惹き付けるのだろうと思った。

 これほどの女性ならば、この若さでロンドのような高級クラブを切り盛りすることも頷けたし、それなりの社会的地位にいる男共が、揃って熱を上げることも納得できた。

「どうしたんや。二人とも」

 谷川東良が懐疑的な声を掛けた。

「なんでもありません。あまりに美人なもので」

 森岡はそう誤魔化すと、目配せをした。

 茜は小さく頷く。

「そりゃあそうやろ、北新地一の美形ママやからな」

 東良は自分の彼女が誉められたかのように破願すると、

「ママ、彼がIT企業を経営しとる森岡君で、若いのが部下の坂根君や」

 と二人を紹介した。

「え、森岡様?」

 茜は再び絶句した。東良の目が再び不審な色に染まった。

「なんや、やっぱりママは彼を知っとんのと違うか」

「存じ上げてはいないのですが」

 茜は言葉を濁すと、凝っと森岡の目を見つめた。

 その射抜くような眼差しに、

――昔、この眼を見たことがある。

 と、森岡は思った。だが、いつ、どこでだったのか思い出せなかった。というより、脳が追憶を拒んだといった方が正確かもしれない。過去を辿ることは、同時に忌まわしい少年時代の記憶もまた蘇らすことになるからである。

「おいおい、いつまで見つめ合うとるんや」

 東良の嫌味口調で我を取り戻した茜は、

「失礼致しました、ママの山尾茜です。今後とも宜しくお願い致します」

 と名刺を差し出した。

「やっぱり、知り合いやないのんか。まさか、昔恋人同士やったりしてな」

 なおも懐疑的な谷川東良の嫌味を無視した茜は、

「申し訳ありませんが、お名刺を頂戴できないでしょうか」

 と請うた。

 ところが、

「悪いけど、飲み屋に名刺は渡さんことにしとるんや。勘定は、いつも個人で持つことにしとるし、現金で払う主義やしな。せやから、名刺を渡して来店を請う案内状など送られても鬱陶しいだけやし、会社に訪ねて来られるのは以ての外や」

 と、森岡は酷く不躾な物言いで断った。

 その、ずいぶんと横柄な態度に、東良とその場にいたホステスたち皆が我が目を疑った。

 東良は、大学時代の森岡はそのような不遜な若者ではなかったと記憶していたし、ホステスたちは、茜にこのような無礼な態度をとった客を初めて目にしたからである。

 気まずい雰囲気が漂う中で、坂根ただ一人が、このやり方でママを試すのが森岡の流儀だということを承知していた。 

「では、どちらの森岡様でしょうか。せめて会社のお名前だけでもお教え願えませんか」

 さすがに北新地で名を馳せているだけのことはあった。森岡は気分を損ねたはずの茜が、いつその感情を表に出すかと凝視していたが、顔を顰めるどころか、穏やかな笑みを絶やすことなく、いっそう謙って請うたのだ。 

 彼女の真摯な態度に、森岡もまた身を正すと、内ポケットから名刺を取り出し、言葉もあらためた。 

「大変失礼しました。ウイニットの森岡です。こちらこそ宜しく」 

「まあ、やはりそうでしたか」

 茜は、ほっとした表情でそう言い、

「つい先日、店のお客様から森岡様の噂を耳にしたばかりでしたので、このような奇遇に驚いたものですから、不躾をしてしまいました」

 と熱い眼差しの理由を明かし、恭しく頭を下げた。

――なんだ、そういうことか。てっきり彼女も、俺と同じ印象を抱いたのかと勘違いした。

 森岡は、肩透かしを食った想いになりながらも、

「俺の噂? どなたですか」

 と訊いた。

「菱芝電気の柳下さんです」

「柳下? まさか」

 ロンドは北新地でも最高級のクラブである。いかに菱芝電気といえども、営業であればともかく、システム部長では敷居が高いはず、との思いである。

「取締役に昇進されたそうですよ」

 茜が森岡の疑念を察したように言った。

「へえー、取締役になりはったんか」

「来月から東京本社勤務になるので、送別会の流れで来られたのです」

「それは良かった」

 と懐かしげに言った森岡の面に、ほどなく陰影が宿った。

 茜にはそれが理解できなかった。

「せやけど、どうせ裏切り者とか、碌な噂やないでしょう」

 森岡は大変に優秀な技術者だった。通常、そのような技術者が退職すれば、会社にとっては大きな損失となるため、直属の上司の失点とされることが多い。これは決して大袈裟なことではなく、それほど優秀な技術者はなかなかに育たないのである。

 いわゆるシステムエンジニアやプログラマーといった技術者は、一定の時間を掛けて教育すれば誰でも一流になれるという類の職種ではない。また、学歴もさほど重要な要素ではない。

 たしかにシステムエンジニアは、幅広い知識を身に付けているに越したことはない。だが、プログラマーは知識など無用の長物で、ひとえに『センス』が大きくものをいう。画家や作曲家といった芸術家の感性に通ずると言っても過言ではないほど、異能を必要とする分野なのである。

 当然、森岡も再三再四柳下の慰留を受けたが、それでも彼は我を通した。しかも、数人の仲間を引き連れての独立だったため、

『菱芝電気から遺恨を買った』

 と、森岡は憂慮していたのである。

「いいえ。部長さんたちを連れていらっしゃったのですが、凄く仕事ができたと、それはもうベタ褒めでした」

「ベタ褒め?」

 森岡は耳を疑った。彼には存外なことである。

「それはもう」

 茜は大きく頷いた。

「自分が役員になれたのも、部長時代に、直属の部下だった森岡さんの会社に対する貢献が大きかったからだとおっしゃっていました。そうそう、森岡さんの仕事ぶりは、菱芝では伝説にまでなっているともおっしゃっていましたわ」

「伝説とは、またずいぶんと大袈裟なことを……」

 柄にもなく照れた森岡の傍らから、

「しかし、ママ。名前だけで、ようわかったな」

 痺れを切らしたように、谷川東良が二人の会話に割り込んできた。

「ええ。お名前が同じで、IT企業を経営されていると伺い、もしかしたらと思ったのですが、何よりも話を伺ったときに描いたイメージとピッタリでしたので、確信しましたわ」

「ほおー、どんなイメージか知りたいものだな」

 東良は、冗談とも本気ともつかぬ拗ねた態度を取った。お目当ての茜が初見の森岡に関心を寄せたことが気に入らないのだ。

 だが彼女は、

「谷川上人もごらんの通りのイメージです。でも話を伺ってから、なぜだか近い内にお会いできるような予感があったのです。それが当たって嬉しいわ」

 東良の揶揄をさり気なくかわし、

「そうだわ、噂の森岡社長さんとお近づきになれた印ということで、今日は私の奢りとさせて頂きます」

 と若さに似合わぬ気風の良さを見せつけた。

「おお、ママ。ずいぶんと腹が太いのお。なんか、後が怖い怖い」 

体よくあしらわれた東良は、懲りずに精一杯の嫌味を浴びせたが、

「その代わり、今後とも足繁くお運びのほど、宜しくお願いいたします」

 彼女は開けっ広げに言うと、お茶目にペロっと舌を出してそれをも一蹴した。

 ははは……と東良は力のない笑みを浮かべるしかなかった。

 まるで役者が違った。茜の小悪魔のように愛らしい仕種は、東良の返す言葉を見事に封じ込めてしまったのである。

――なるほど。大変な美人で、気風が良くて、頭の回転も速い。そのうえ少女のような可愛らしさもある。これじゃ、大抵の男は参るな。

 森岡は、あらためて現在の彼女が有る理由の一端を垣間見た気がした。

「ところで、森岡さん。『ウイニット』ってどういう意味ですの」

 それは、茜に感心しきりの森岡の不意を突いた。

「えっ、ウイニット? ああ、ウイニットね。英語で『WN IT』つまり、『勝ったあー』とか、『やったー』という意味です」

「まあ、ずいぶんお洒落ですね」

「いえ。本当のことを言えば、あまりお洒落でもないのです」

 森岡は頭を掻いた。

「八年前、英国に行ったときに、アスコット競馬場に行く機会がありましてね。それまで、静かにレースを観ていた紳士淑女が、馬がゴールした瞬間、何か喚いている様子だったので、何を言っているのかとガイドに訊いたら、『WIN IT』、つまり『馬券を取った』ということだったのです。それが、頭にこびりついていて、会社作ったときに社名にしたのです。我が社も、やったあーと何度でも叫ぶことができる会社にしたいという願いを込めましてね」

 森岡はつい力説していた。

「まあ、そこまで詳しくおっしゃらなくても……森岡さんって、悪ぶっていらしても、意外と素直な方なのですね」

 茜は、凝っと森岡の目を見つめた。彼女の潤んだ瞳に、いつもは平静な森岡も、微妙な心のときめきを覚えずにはいられなかった。


 しばらくして、トイレの用を済ませた森岡を、茜が扉の前で待っていた。何事かと身構えた森岡に、彼女はお絞りを差し出しながら小声で話し掛けてきた。

「また、お会いできましたね」

「ほんまに。偶然とは恐ろしいものですね」

「再会できただけでも奇跡ですのに、これほど早いとは運命を感じます」

「運命というのは少々大袈裟ですが、何某かの御縁はあるのでしょうね」

 森岡は、過去にどこかであっているという想いを念頭に言った。、

「そうそう、あのご老人は」

 老人は同伴の客だったはずである。そうであれば、店にいるはずだったが、姿が無かった。

「一足違いでした」

 森岡らがロンドにやって来たのは二十一時三十分頃だった。老人は食事をした後、二十時過ぎに同伴し、一時間ほどで帰宅したのだという。

「あの御老人はかなりのお方でしょうね」

「はい。新大阪の……」

 と言い掛けた茜を、森岡が手で止めた。

「今は聞かないことにしましょう。いずれまたお会いすることもあるでしょうから」

「そうですわね」

 と同意した茜が意外な言葉を口にした。

「そうそう、森岡さん。週末の金曜日、お店に来て頂けませんか」

「何かあるのですか」

「今日のお礼をしたいですし、実は今週の木曜日が私の誕生日なので、水木金の三日間はお店で誕生会を開きますの。金曜日は最終日なので、最後に打ち上げもするのですが、それにも参加して貰えませんか」

「誕生会ですか。ただでさえ客が多いのに、ママの誕生会やったら、それこそ大勢の客が来るんでしょう」

「ええ、おそらく」

「正直に言うと、あんまり慌しいのは好きじゃありません。できたら、落ち着いて静かに飲みたい方なので……」

「駄目ですか?」

 茜は気落ちした声で言った。

「それより、ママ……」

 と言い掛けて、森岡は思い止まった。

「何でしょうか」

 少し首を傾けた仕種が愛らしい。少女のような好奇心を輝かせる瞳に吸い込まれそうにもなる。

「いや、何でもない」

 と思いを振り切った。

「それに、俺は今日が初めての客ですよ、もっと馴染みの客を呼んだ方が良いのと違いますか」

 森岡は言葉をあらためた。 

 以前どこかで会っていませんかと訊ねて、使い尽くされた陳腐な口説き文句を吐いた、と誤解されたくなかったのである。

「だって、馴染みのお客様は、皆年配者ばかりですもの。森岡さんのように若くてハンサムな男性がいらっしゃると、女の子たちも張り切ると思いますので、是非お願いします」

 茜は、両手を合わせて拝む格好をした。彼女の恋人にでも 甘えるような仕草に、

――なるほど、こうやって客の心を掴むのか。

 森岡は、見え透いた手練手札に少々嫌気が差したのも事実だったが、このときある思惑が浮んでいたこともあって、

「うーん。約束はできませんが、時間が取れたら足を運ぶということで良いですか」 

 と曖昧な言葉を残して席に戻った。


 二十三時近くになってお開きとなった。

 森岡は谷川東良の車を見送ると、今後の段取りを確認するため、坂根を伴い同じ北新地にある馴染みのショットバーに河岸を変えた。

「明日の幹部会議で通達するけどな、お前は今度の件が落着するまで、臨時に俺の直属とする。まあ、畑違いの仕事になるが、これも良い経験となると思うで。おそらくな、色んな人間に会うことになると思うから、顔を覚えてもらえよ。それが将来、お前の人脈になるからな」

 この諭すような助言に、

 わかりました、と気合の籠もった声で応じた坂根は、

「ところで、社長は今後どのように動かれるおつもりですか。谷川上人が仕切るような感じですが、上人は先生とも久しく会っておられないような話でしたし、あの方に任せておいて大丈夫なのですか」

 と訊いた。

 その不満げな物言いに、森岡はにやりと微笑んだ。

「さすがにお前は心得ているな。お前の言うとおり、谷川さんだけに任せておくわけにはいかん。別に金を出すから口も出すというのやあらへんけど、俺は俺の人脈を使って情報を集め、対策を立てるつもりや。そうでないと、どっちに転んでも後悔することになるからな」

 と本音を明らかにした。

 谷川東良の話では、村田から拒否の旨の連絡を受けた神村が、東良の兄、谷川東顕に相談の電話をしたとき、ちょうど東良本人が居合わせており、こういう仕儀になったということであったが、森岡はタイミングが良過ぎると思っていた。

 森岡は疑り深い人間で、滅多に人を信用するということがなかった。彼が心を許しているのは、神村他極々一部の者だけであった。もっとも彼にとっての神村は、取替えの利かない絶対的な存在であり、信用などというありきたりな言葉ではとても言い表せぬほど別格ではあった。

「では、谷川上人は信用できないと」

 坂根は、実兄の秀樹から森岡の生い立ちを聞かされており、良くも悪くもそれが彼の人生観を決定付けたことを知っていた。

「別に疑っているというのやあらへんで。今回の件では力になってくれはるやろ。ただなあ、谷川さんは俺が書生の頃、何度も会ってそれなりに人柄はわかっているつもりやけど、どうも丸ごと信用する気にはなれんのや。それに、谷川さんは別の意味であまり好きにはなれんしな」

「別の?」

 坂根には、森岡の言葉の意味がわからなかった。

「せや。もっとも、それは谷川さんに限ったことではないけどな」

 森岡は苦々しい顔付きをした。

 彼の心の奥底には、

『宗教人は、神村をもって鏡とすべし』

 という信念があった。

 宗教人であるからには、世俗の欲を捨て、己の精神を磨き、衆人の魂を導くのが使命だと考えていた。それに照らし合わせると、この時代、多少の飲酒や家庭を持つことぐらいはまだ許せるとしても、金や権力や女色に固執する生臭坊主が多過ぎると嘆いていた。此度の件にしても、根底に欲が絡んでいるのは明白であった。

 また、恩師だからというのではなく、客観的に見ても、神村が次の貫主になるのが筋であろう。それが、久保という坊主の出世欲が絡んだため、こういう事態になったのだと、憤慨もしていた。

 森岡はその深浅を問わず、欲という意味では谷川東良も例外ではないと思っていた。

「社長が谷川上人を敬遠されるのは、上人が世俗に生きておられるから、とは別の理由があるのですね」

「そういうことや。その、とりあえずは仏道を究める努力を怠っている坊主は嫌いやで」

 森岡は、不精進な坊主は嫌いだが、己の分を弁えて生涯を終えるのなら、仕方がないとも思っていた。寺院の子に生まれ、選択の余地がなかった職業坊主も多いからである。

「俺がもっとも嫌いなのは、何の努力もしない者が棚ボタ式に権力に近付いたり、出世したりすることや」

「谷川上人も今回の件をそういうことの足掛かりにしようとしていると」

「俺の勘に狂いがなければな」

 森岡は吐き捨てるように言った。

「なあ、坂根。お前は、それなら今回の谷川さんと、山際上人が本妙寺の貫主の座を争ったときに先生が尽力されて、その功績で執事長に抜擢されたことと同じではないかと思うかもしれんが、それは全く違うんやで。確かに、先生の場合も恩賞人事という意味合いがあったことは否定せん。けどな、そんな恩賞などなくても、先生の僧侶としての実績そのものが、すでに十分過ぎるほど大本山の執事長に値するものやったんや。けど、谷川さんは違う。これまで荒行修行をおざなりにして、俗人のように生きて来たから、結果として己の出世など、とうてい考えられへんかったはずや。ところが思わぬ好機が訪れた。今回の先生の躓きを己の出世の機会と捉えているのが見え見えや。でなきゃあ、近頃は先生とも疎遠になっていたのに、タイミング良く現れて、しかもあんなに張りきるわけがないやろ」

 坂根はそこまで聞いて、ようやく森岡の心中を理解した。

「社長はそういう意味でも、谷川上人に手柄の独り占めはさせない、ということなのですね」

「そういうこっちゃ。最初はそうでもなかったのやが、話をしているうちに気持ちが変わった」

森岡の勘は半ば当たっていた。彼が推量したほどではないにしろ、谷川東良にも少なからず打算があったのは事実だった。

 宗門世界での出世など、きれいさっぱり諦めていた東良だったが、年を重ねて行くうちに、関西寺院会の会長を務める兄東顕に嫌味を言われない程度には、それを望むように変わっていった。だが、五十路を迎えた今日に至っては、その手立てがないことに苦悩し始めていたのである。

 大本山や本山の貫主になるためには、百日荒行を五度以上達成すること、という内規があった。五十の坂を越えた東良には、体力的に不可能な修行であり、ここに至って望み得るのは、執事長の座ということになった。執事長は貫主の腹積もり一つだからである。

 その矢先に、此度の騒動が持ち上がった。

 谷川東良にとって、神村の頓挫はまたとない好機と言えた。彼は、神村が貫主になったあかつきには、見返りとして一時的にでも執事長に就くことを望んでいた。彼は、大本山本妙寺の執事長の歴史にその名を刻むことができれば、家門の最低限の面目は保てると考えていたのである。

「ただな」

 と言って森岡は言葉を切った。

「ただ……」

「俺がこういうことを言うのはおかしいと思うかもしれんが……」

 森岡は再び躊躇った。竹を割ったような性格の彼にしては珍しいことだった。

「はい」

 坂根は遠慮がちに先を促す。

「先生が本気で本妙寺の貫主の座を目指しておられるのか疑問なんや」

「はあ?」

 坂根は気の抜けた声を出した。この期に及んで何を言っているのだ、と呆れ顔である。

「考えてもみろ。先生は、すでに宗祖栄真大聖人の生まれ変わりとも称されているお方で。今さら本妙寺の貫主の座など何ほどのものでもないと思うんや」

「まあ、それは……」

 神村と付き合いの浅い坂根には返事のしようがない。

「先生の性格からすれば、他になさりたいことがあるような気がするんやけどなあ」

 森岡は首を傾げる。

「まあ、どっちにしろ俺はとことん着いて行くだけやけどな」

 独り言のような呟きを最後に、しばらく会話が途絶えた。坂根にとって森岡と神村の関係性は、到底窺い知れない領域なのである。

「そうだ」

 と、坂根が思い出したように口を開いた。

「それにしても、あのときの女性がロンドのママさんとは驚きました」

 空気を一変するかのように明るい声だった。

「おう、たしかにな」

 と、森岡の声もどこかしら弾んでいる。

「だが、考えようによってはそれほどでもないかもしれんぞ」

「どういう意味ですか」

「普通に考えれば、もの凄い偶然のように映るが、天運地縁によって導かれているこの世の中であれば、必然だったとも考えられる」

「では、社長はあのママさんと縁があるということですか」

「どの程度の深さかはわからんがな」

 森岡は曖昧に答えた。

――遠い昔に、どこかで会ったことがある。

 彼はその想いを強くしていたが、心の奥に仕舞い込んだ。

「さあーてと」

 森岡は大きな伸びをした。

「坂根、明日から忙しくなるぞ」

 こうして戦いの幕は切って落とされたのだが、このときの森岡は、その醜い暗闘がまさか二年もの長きに亘ることなど、想像すらしていなかったに違いない。


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