第4話  第一巻 古都の変 諜報

 東京での所用を無事済ませた翌日、夕方の新幹線で大阪に戻った森岡の足はそのまま北新地に向かっていた。幸苑で遅い夕食を取った後、閉店間際のロンドに顔を出そうというのである。

 大阪市北区・曽根崎新地にある、通称『北新地』は東西が御堂筋、四ツ橋筋間の約三百五十メートル、南北が国道二号線、堂島通り間の約百五十メートルの範囲にクラブ、ラウンジ、料理店など約四千軒の飲食店が集中している大阪最大の繁華街である。

 幸苑を出た森岡と坂根は、御堂筋の横断歩道を渡り、映画館の角を横切って、本通りを西に向かっていた。

 北新地は、北から『永楽町通り』、『新地本通り』、『堂島上通り』の三本の主な通りが東西に貫いていた。本通りは文字通り中心の通りである。

 五月とはいえ、夜風は肌に冷たく、それは酔い覚ましを超えて肌寒いほどだった。

 森岡は少し背を丸め、ネオンシャワーの中をロンドへと急いだ。

 ロンドは本通りのほぼ中央に、近年建て替えられた真新しいビルディングの地下一階にあった。広さは七十坪ほどもあろうか、大小のテーブルボックス席が十席とカウンター七席、そして間仕切りされたVIP席があった。

 森岡は、三十五歳という若さのわりには、こういう場所の遊びには通じていた。日の出の勢いのIT企業を経営しているからというのは後付けで、実際は神村の書生をしていた恩恵というべきか、饗応のお相伴に預かる機会が多かったのである。クラブ遊びだけでなく、京都の花街では芸妓や舞妓を傍らに侍らす御茶屋遊びも幾度となく経験していた。

 彼がそういう場所で初めて口にした洋酒が『ヘネシーX・O』という、ボトルキープが十五万円前後もする高級酒だったことからしても、書生修業と併せ持ち、如何に世間一般の学生生活とはかけ離れた環境に居たか察しが付くであろう。

 ビルディング前に着くと、地下へ降りる階段からロンドのエントランス一帯に掛けて、ママの茜の誕生日を祝う白やピンクの胡蝶蘭が、まるでホステスたちがその艶やかさを競うかのように陳列されていた。

 店外ですらこのような有様では、中は推して知るべしであった。通路の壁伝い、ボックス席間、照明が組み込まれている壁棚など、ありとあらゆる余間に所狭しと花鉢が置かれ、森岡は密閉された空間に放り込まれたような圧迫感を受けた。

「まあ、嬉しい。森岡社長さんが約束を守って下さるなんて」

 森岡の姿を見つけると、茜は接客していた席を立って歩み寄り、腕を森岡のそれに絡ませた。傍から見れば、まるで恋人を迎えるような仕種にも、当の森岡はそれが商売上の所作だということは承知していた。

「約束なんかしとらんで。時間があったら、って言うてたやろ。さっき、東京から帰って来たところで、閉店までに時間が残っていたから寄っただけや」

 愛想の欠片もない言い草だったが、

 茜は、

「でも、こうして来て頂けたのですから、嬉しいわ」

 とそれが照れ隠しだとわかっているかのように、絡ませた腕に力を込めた。

「それとな、社長はよせ。名前だけでええ」

「どうしてですの」

 茜は上目遣いで訊いた。

「これまでもそうやったが、社長という言葉に反応して、他の客がこっちを振り向く。そして、なんや若造か、どうせちっちゃな会社か成金やな、という蔑んだ目で見やがる。間違ってはいないだけに、余計に腹が立つ。まして、ここの客は大企業の偉いさんが多いからな」

「承知しました。これからはお名前でお呼びします。でも、そんなことを気になさるなんて、子供みたいですね」

 揶揄うような茜の言葉に、

 そうやな、と森岡も自嘲の微笑を浮かべた。

「俺には子供みたいな肩肘張ったところがあるな。そうやって、人を見下したような態度を取る年長者に対しては、『現在のあんたに負けていても、俺はあんたの三十五歳のときには勝っている。もし負けていても、俺があんたと同じ年になったときには、あんたより力を持ってやる』と言いたくなる。何が勝ち負けなのか、ようわからんのにな、可笑しな話やで」 

「でも若いときには、それぐらいの負けん気がないとつまらないと思いますわ。私だってこの店を出すとき、どうせやるなら北新地で評判になることをしなくては、と思い『最年少ママ』という称号を得るために、無理してオープンしたところもあるのですよ」

「おっ、そうや」

 最年少という言葉に、森岡の脳が反応した。

「そう言やあ、ママの後ろには誰が付いとんねん」

「……」

 茜は返答に詰まった。動揺の色も浮かんでいる。森岡の口からそのような言葉が出るとは思ってもいなかったのだ。

 しかし、これまでに同じ事を何度も訊かれ、その度に適当な言葉で煙に巻いていた彼女だったが、森岡にはそれが通用しないという気がしていた。取って付けた言い訳で誤魔化したくないという本音も心のどこかにあった。

「誰もいません」

 茜はきっぱりと言った。

「それは信じられんなあ。こんな店一人で出せるわけがないやろ。それぐらいのことは俺にもわかるで」

 森岡は少し大仰に言った。すると、馬鹿にされたと誤解したのか、茜は顔を紅潮させて、

「嘘なんか吐いていません! 森岡さんが想像しているような人は誰もいませんから」

 と怒った語調になった。

 森岡は、彼女がこれほど感情を露にするとは思ってもいなかった。

 当の茜も、むきになった自分自身に戸惑いを見せている。

「ようわかった。じゃあ、飲み物を用意してくれるか」

 森岡は話に蓋をするように言った。

 たとえ、その先を詮索したところで、彼女が正直に話すはずもなく、また話されたところで自分には関わりのないことだった。そうだとすれば、これ以上無粋なことは控えようと思ったのである。

「あっ、ごめんなさい。つい話しに夢中になっちゃって。谷川さんのボトルをお出ししましょうか?」

 ばつが悪そうにした茜に、森岡は悪戯っぽい眼つきを向けた。

「いや、そういうわけにはいかん。そうやな、ロマネ・コンティを十本出してくれるか」

「えっ! ロマネ・コンティを十本……ですか?」

 やり手ママである茜も耳を疑い、思わず聞き返してしまった。他のホステス達も当惑顔で聞き入っている。

 そうだ、と森岡は肯くと、

「他にドンペリのゴールドを二十本と、ルイ十三世は、これは五本でええかな」

 驚き顔の茜を楽しんでいるかのように、さらに高級酒の注文を連発した。

「もう、森岡さんったら、ご冗談は止めて下さい。そんなにどうなさるというのですか」

 茜の目が少し怒っていた。そこまで言われると、揶揄われているとしか思えなかったのだ。

 だが、森岡は真顔で続けた。

「冗談やないで。この後、打ち上げを兼ねて、本当の誕生日パーティーをするんやろ?」

「そうですけど」

「それやったら、皆で飲んだらええやん。まあ、これが俺の誕生日プレゼントや思うてくれたらええ」

 戯言だと思い込み、少し嫌味を滲ませた茜に向かって、森岡は泰然と言った。

 そして、

「勘定なら心配いらんで、この前言ったとおり、現金で払うから」

 と、坂根に合図をしてアタッシュケースを開けさせると、中の現金が見えるように向きを変えさせた。

「わあ、凄い!」

 大金を目の前にして、一斉に驚きの声を上げたホステスたちとは違い、茜は落ち着き払っていた。この程度の札束は見慣れているという様子である。

「いえ。お勘定のことは心配しておりませんけど……」

「一応三千万ある。これで足りるやろ? もし足らんかったら、来週現金を持って来るわ」

「とんでもない。それはもう、十分ですけど、本当に宜しいのでしょうか」

 さすがの茜にしても、この森岡の豪気さには肝を潰されそうになっていた。

 森岡の悪戯っぽい目が、いっそう光を帯びた。

「ああ。それより、俺の気が変わらんうちに、急いで電話した方がええんとちゃうか。なんぼこの店かて、全部は用意できんやろ」

 茜は、はっと気付いたように腕時計を覗き込んで時刻を確認した。

「おっしゃるとおりです。今二十三時過ぎでしょう。大変だわ、急いで掻き集めなくては……」

 と黒服に指示をして、知り合いの店に次々と連絡をさせた。

 だが森岡の忠告も虚しく、ロマネ・コンティは六本しか集められなかった。

「すみません、森岡さん。ロマネ・コンティが六本しか集まらなくて」

 茜は、ずいぶんと気まずそうに詫びた。

「そんなん、何も気にせんでええがな。その分、安うついて助かるわ」

 森岡は、全く気にする素振りもなく冗談を言ったが、茜の表情は硬いままだった。

「それに……」

「なんや」

「実は、お酒を借りたお店のママたちが、お店を引いたら、ここへ来たいと言っているのですけど、宜しいでしょうか」

 茜は、森岡の表情を窺いながら訊いた。

「別に俺は構わんよ。そのママたちも、誕生会のことを知っているのやろう」

「そうですけど、別の目的があるらしいのです」

 彼女にしては、珍しく歯切れが悪かった。

「別の目的ってか」

「どうやら、森岡さんに興味があるようです」

「俺に? なんの興味や」

「それが、バブルのときならいざ知らず、不景気な今時、そんな豪遊をする人がいるのかって。しかも、三十五歳という若さなのに……」

「なんや、そないなことか。それでママは、俺に気を使って浮かん顔しとったんやな」

「ええ」

「構へん、構へん。酒を借りた手前、断り難いやろ。ママにしても、大勢の方が賑やかでええわな」

 森岡は満面の笑みを浮かべた。

「よし、この際や。打ち上げの勘定は全部俺が持ったるから、来たい者はみんな来させたらええ」

 本来、人混みが苦手であるはずの森岡の、一見馬鹿げた大盤振る舞いの裏には、ある思惑が働いていた。

 森岡は内心こう考えていた。

 

 おそらく神村の件で、今後饗応接待のためクラブを利用することも多くなるであろう。それも、その中心は渦中の京都を避け、この北新地になる。そうであるなら、中途半端に金を使っても意味はない。

 例えば、毎月二百万円飲んだとしよう。年間で二千四百万円という多寡は、特定の店であればかなりの額だが、数店の合算であれば、個々の店にとってこの程度の客はざらにいる。

 その後、三年ほども足が遠くなれば、良くて並みの客扱い、悪ければ顔や名前を忘れ去られていることであろう。そして、馴染みになるためには、再度の関係構築を余儀なくされる。

 それでは死に金である。同じ金を費やすのなら、これまで誰もが見たことも聞いたこともない度派手な事をやらかし、一気に名を売った方が永らく皆の記憶に残るだろうし、後々都合が良いと。

 この閃きは、過去の実体験によるものだった。

 七年前の、森岡が起業する二年前のことである。

 仕事で北海道苫小牧市へ出張の後、札幌の歓楽街「すすきの」に足を延ばしたのだが、ひょんな成り行きから一晩で七百万円も散財する羽目になった。とはいえ、当時すでに二十億円の資産家だった森岡にとって、その程度の浪費など痛くも痒くもなかったので、気にも留めはしなかった。

 ところが、一夜に七百万円を使い切る真の値打ちを彼は翌日の夜に知ることとなる。お大尽遊びの噂は、瞬く間にすすきの一帯に広がっていたらしく、彼は行く先々で、驚くほどの厚遇を受けたのである。


 森岡の脳裡に、その記憶が浮かんでいた。

 そこで、今度は三千万円を用意し、一晩で使い切ろうとしたのである。閉店時間になると、茜の誕生日パーティーと称して店を貸しきり、それまで残っていた客を仲間に入れた。

 そのうち、酒を貸し出した店のママやホステスなども集まったため、仕舞いには総勢四十人が、翌朝東の空がすっかり明るくなるまで飲み明かしたのだった。

 結局、一晩で一本百万円もするロマネ・コンティ六本をはじめ、ルイ・十三世やドン・ペリニョンのゴールドなどの高級酒を、合わせて四十本近くも空けたため、代金は千八百円ほどにもなったのだが、森岡はホステスと黒服のチップや車代を含めて、切の良い二千万円を支払ったのである。

 はたして、この豪遊話は翌日疾風の如く北新地を席巻した。

 場所は違えど、夜の世界に生きる人々は、等しく景気の良い話が大好きなのだろう。同席したママや、ホステス、黒服たちが口々に話を広げていったのである。

 噂は噂を呼び、途中から一晩で二千万を使うのは良くあることだの、いつも五千万円の現金を持ち歩いているだの、挙句には何処かの財閥の御曹司だのと、あらぬ尾ひれが付くなどして、虚像が一人歩きをしていった。

 まさに森岡の狙い通り、彼はたった一夜で北新地の時の人となったのである。

 だが何事も、過ぎたるは思わぬ波紋も生む。この馬鹿騒ぎが古い因縁を掘り起こす呼び水となり、引いては生命に関わる災難に見舞われることを森岡は知らない。

 

 数週間後の週末の夕方である。

 森岡は榊原壮太郎の呼び出しを受け、彼の自宅を訪れていた。榊原は、阪神間にある芦屋市の『六麓荘(ろくろくそう)』という、全国でも有数の高級住宅街に住まいしていた。

 都会の猥雑さから隔離された静謐な空間の中、小高い丘の山頂近くまで車を進めて行くと、一区画二百坪前後の豪邸がひしめく中でも、ひときわ豪奢な建造物が出現する。

 純日本建築の母屋と、絵本に描かれているような洋館、そして藁葺きの屋根が特徴の寂びたお茶室と、異文化が絶妙なバランスを保って佇んでいる。

 これが榊原の邸宅だった。

 榊原はかなりの資産家であったが、その影には母の愛情があった。

 ナショナル・モーター日本代理店の社長時代、高度経済成長の恩恵で、会社は大いに繁盛し巨万の富を得たが、彼はその金の殆どを大阪の北新地やミナミ、京都の祇園や先斗町、木屋町などで散財していた。

 当時の金で、年に五千万円は下らなかった。

 その破天荒で不摂生な生活ぶりに、金のことより我が子の身体を心配した母親は一計を案じ、飲み代を減らすべく強制的に給料の半分を取り上げることにした。

 榊原は、その後不摂生が祟り、胃を全摘出する病に冒され、併せて肝臓と腎臓も患い、生死の境を彷徨うことになる。奇跡的に一命は取り留めたものの、二年にも亘る闘病生活の間に、会社は人手に渡る羽目になり、遊蕩三昧でろくに貯蓄をしてこなかったツケも廻ってきた。

 榊原はとうとう無一文になったと思った。

 そのような後悔と失意に暮れる彼の眼前に、母親は約十万坪の山林の権利書を差し出した。実は、息子の給料を取り上げた彼女は、その金で神戸市北部の山林を榊原壮太郎名義で購入していたのである。あるときは数ヶ月、またあるときは数年間貯めた金で、こつこつと買い求めていった土地は、これほどの広大なものになっていたのだった。

 その後、神戸の北地区は住宅開発が進み、榊原の所有する土地の価値は数百倍にも跳ね上がったばかりか、その一部の五千坪の平地は、先年阪神地区を襲った未曾有の大災害時、被災者の仮設住宅として提供されるという慈善にも貢献した。

 榊原は、親の有難みと一度死んだ身の上を思い、恩返しとばかりに寺院を助ける現在の事業を始めることになるのだが、これにはある宿縁も関わっていた。

 元を辿れば、榊原家は室町時代、毛利氏に滅ぼされるまで、中国地方から九州北部に跨る大守護大名だった大内氏縁の菩提寺の末裔だったのである。

 彼は生死の境を彷徨って、初めて自らの本分というものに気づいたのかもしれなかった。

 森岡は、何度か洋館の客間に泊まったことがあった。

 深夜、遠くに見える神戸の街明かりを目にする度に、彼は寂寥感で胸を痛めた。

 生まれ故郷を思い出してしまうのである。

 森岡の生まれ育った村は、彼が離れるまではまだ土葬だった。村の北西に広がる田園の先に小さな丘が有り、その東斜面が村の共同墓地となっていた。

 お盆になると、先祖の霊を導くため、一斉に灯篭が灯った。その数は三百余りと、然したる数ではなかったが、それにいまにも降り掛かるような夥しい数の星々が加勢した。都会の息絶え絶えの光とは異なり、狭い空間に押し合いへし合って燦然と放たれる輝きは、灯篭の炎と反応し、妖気すら漂わせるほど眩しく潤んだ。

 森岡の生家からは、その蛍火の群生にも似た、夢幻的な光の造形が一望できた。彼は神戸の夜景を眺める度に、幼い頃の心象風景を瞼の裏に浮かべ、涙していたのである。


「洋介、今日は晩飯を食っていけ」

 応接間に入って来るなり、榊原が声を掛けた。

「なんや、いきなり飯の話か」

 呆れ顔の森岡に、

「まあ、そう言うな。跡継ぎの件、女房に話したら大喜びでな、今度会うときは自宅に呼べって、うるさかったんや。娘夫婦も呼んである。あいつ等も榊原商店の株の大半を譲ることに同意した。もっとも、あいつ等が跡を継がんからこうなったんやから、文句は言わせんけどな。時間はあるんやろ」

 榊原は上機嫌で捲し立てた。森岡が会社の後継を承諾し、先の見通しが付いたことがそうさせていた。

 榊原荘太郎は、榊原商店の他に賃貸ビルディングや賃貸マンション、駐車場など不動産業も手広く経営し、一ヶ月の賃貸料は二千万円にも上った。それらを相続すれば、税金を差し引いても、毎月十分なものが手元に残る。

 反して榊原商店は、世間への報恩という奇特な考えが基本であるから、ほとんど利益を計上していない。それを自分たちの代になって、十分な利益を確保しようなど、自殺行為にも等しいことなどできるはずもない。つまり、二人の娘夫婦にしてみれば、山林の管理や時間を浪費し気も使う全国の寺院巡りなど遠慮したいということらしい。

「時間は大丈夫やけど、坂根も居るし、ええの?」

「いっこうに構わんがな。坂根君はお前の会社の将来にとって、重要な男やいうことはわかっとるんや。せやから、わしも坂根君を大事にせんとあかんと思っとんのやで」

 榊原は莞爾として笑った。機嫌の良いときは、まさに好々爺である。

「それやったら、遠慮なくご馳走になるわ。ところで、例の件は何か掴めたん」

 森岡が話しを本題に向けると、榊原の表情が一瞬にして曇った。

「ぼちぼちやな。まず、向こうに付いたのは八人や。つまり、神村上人を支持するのは法国寺の黒岩、清門寺の戸川、経門寺の北見、この三人の上人だけや」

「そうか、谷川さんが言っていたとおりやな。でも、それやったら最悪のケースは免れたな。三人も支持してくれれば御の字や」

「なんや、洋介も予想しとったんか」

 榊原は、ほっとした息を吐く。

「それなら、ええわ。わしは、お前がもっとがっかりすると思っとったから、心苦しかったんや」

 とツルツルに禿げ上がった脳天を擦った。

 榊原が調べ上げた神村支持の状況は、左記の通りである。



 京都 大本山      法国寺          黒岩   支持 

             傳法寺(でんぽうじ)   大河内 不支持

             本妙寺 ――――――――――――――――

     本山      国龍寺(こくりゅうじ)  安田  不支持   

             清門寺(せいもんじ)   戸川   支持 

             顕心寺(けんしんじ)   酒井  不支持     

             桂国寺(けいこくじ)   坂東  不支持 

             相心寺(そうしんじ)   一色  不支持 


 関西  本山  奈良  桂妙寺(けいみょうじ)  村田  不支持  

         奈良  龍顕寺(りゅうけんじ)  斐川角 不支持     

         三重  法仁寺(ほうにんじ)   広瀬  不支持 

         大阪  経門寺(けいもんじ)   北見   支持 


「他には?」

「おう。久保上人から、見返りに渡る金は二千万や」

「二千万か。さすがに、今回は張り込んだんやな」

 森岡は、谷川から前回の本妙寺貫主選挙のとき、久保は金の出し惜しみをしたため、惜敗の憂き目にあったことを聞いていた。

「それとな、二、三おもろい話を耳にしとるけど、これはもう少し裏を取ってから話すわ」

 榊原は、含みを残して話しを打ち切ろうとしたが、森岡がそれに待ったを掛けた。彼にはある目算があった。

「爺ちゃん。詳しい話はまたの機会でもええけど、誰の事かぐらいは教えてくれんかな」

「ええで。桂国寺の坂東貫主、相心寺の一色貫主と、龍顕寺の斐川角貫主や」

「斐川角?」

 森岡が疑念の声を上げた。

「なんや、知っとるのか」

「いや。珍しい名や思うてな」

 そう言葉を濁すと、

「桂国寺と相心寺、それに龍顕寺やな。おおきに。こっちでも調べてみるわ」

 と巧みに話を打ち切った。

 森岡が未確認の情報にも拘わらず、榊原に提供を求めたのは、彼の脳裡に警察庁内閣官房審議官の平木直正から紹介された探偵の顔が浮かんでいたからである。

 夕食は、百グラムが三千円もする特Aランクの神戸牛のすき焼だった。森岡も、このときばかりは暫し本妙寺の件を忘れ、滅多に口にすることができない特上の味に舌鼓を打った。

          

 翌日の夕方、森岡は帝都ホテル大阪の一室である男と会っていた。手元には榊原からの情報が置かれていた。

 年齢は四十歳手前といったところであろうか。柔和な表情とは裏腹に、時折見せる寒気のするほどの冷徹な目つき。背は森岡よりやや小柄だが、肩幅が広くスーツの上からでもはっきりと鍛え上げていることがわかるほどに胸板が分厚いその男こそ探偵の伊能剛史(いのうたけし)だった。

 警察庁内閣官房審議官の平木直正と面会した一週間後には彼を紹介され、森岡はすでに依頼の概要を伝えていた。

「伊能さん。この七人の身辺を調査して下さい。特に桂国寺の坂東と、相心寺の一色を重点的にお願いします」

 と岐阜法厳寺住職の久保に与した七人の僧侶の名前、貫主を務める寺院と住所、さらに個人所有の寺院とその住所をも記した書類を差し出した。

 手にとって、チラっと目を通した伊能は、

「了解しました。それで、依頼の内容は前におっしゃっていたのと変わりはありませんか?」

 と確認した。

 同じです、と森岡は肯き、

「どんな些細なことでも、徹底的に調べ上げて下さい。ただ、そうはいうものの、とりあえずの期間は二週間しかありません」

 と言葉を続けた。

 時間は三ヶ月ほどあったが、敢えて急がせた。籠絡する時間を十分に取りたかったのである。

「七名を二週間で調査するとなりますと、一度に人を掛けなければなりませんね。優秀な探偵に限るというご要望ですので、とても我が社の手だけでは足らないのですが」

 伊能は遠慮がちに言った。

 森岡は、秘密の保持のために、できるだけ他者に洩らしたくはなかったが、そうかといって調査が不十分になるのはもっと拙いと考えた。

 森岡はしばらく思案した後、

「仕方ありませんね、貴方にお任せしましょう。伊能さんの信用の置ける会社であれば、使ってもらって結構です」

 と他の興信所が加わることを了承した。

「森岡さんのご心配の点は、重々承知しておりますので、信用の置ける者だけを使います。ただ、そうなりますと費用は割高になりますが、宜しいでしょうか」

 伊能は、今度は恐縮の体で訊いたが、

「もちろんです。金に糸目は付けません。とにかく、あらゆる手立てを講じて、万全の調査をお願いします」

 との力強い言葉を受けて、俄然意欲的な表情になった。

「では、さっそく取り掛かりますが、とりあえず一週間後に中間報告を致します」

「よろしく」

 森岡は小さく頭を下げた。伊能の素性を全く知らなかったが、ゆくゆくは警察庁長官との呼び声も高い平木の、太鼓判を押す人物であれば不安が過ぎることはなかった。

「では、これを」

 話が付いたところで、森岡は傍らに用意していた紙袋から、一千万円の塊を無造作に取り出し、伊能の前に置いた。

 これは……と伊能が戸惑いを見せた。

「着手金です。当座の軍資金としてお使い下さい。足らなくなったら、何時でもおっしゃって下さい」

 森岡はそう言うと、顔を突き出し、

「この金は私個人の金ですので、領収書などは要りません。ですから、好きなようにお使い下さい」

 と因果を含めた。

 目の前に詰まれた札束の多寡は、先ほどの森岡の言葉を裏付けるに十分なものだった。並々ならぬ覚悟の程を受け止めた伊能は、

「では、遠慮なく収めます」

 と厳しい顔つきで現金を受け取り、胸ポケットに挟んでいたサングラスを掛けて、部屋を出て行った。

「ふうー。これで、後は何が出てくるか楽しみに待つばかりやな」

 ソファーに背凭れ、深い息と共に吐いた独り言は、まるで他人事のようであった。

 このときの森岡には、打つべき手はすべて打ったという充足感があった。谷川東良と榊原壮太郎、そして伊能剛史、この三者三様の調査で耳寄りな情報が掴めなければ、諦めも付くという開き直りの境地にいたのである。

 

 そうは言っても、森岡が動きを中断したわけではない。彼はまず、故郷島根に飛んだ。

 森岡が奈良龍顕寺の斐川角貫主を調査対象から外したのには理由があった。

 榊原からこの珍しい名を耳にしたとき、彼の脳裡には高校時代のある友人の顔が浮かんでいた。

 島根県の『斐川(ひかわ)』という地名出身の『斐川角学』という同級生である。彼の生家は、天真宗の寺院だと聞いた記憶が頭の片隅に残っていた。

 まさかと思いつつ、校友名簿で電話番号を調べ、掛けてみた。すると、森岡の勘は当たっていた。

 斐川角学、現在は得度して天真宗僧侶・斐川角雲栄(うんえい)と名乗っているのだが、龍顕寺貫主の斐川角雲水(うんすい)は、彼の伯父だということまで判明したのだ。

 ここまでわかれば、わざわざ伊能に調査を依頼する必要もない、と森岡は考えた。まさか、旧友の伯父をいきなり姦計に陥れるわけにもいかない。

 森岡は斐川角雲栄を介して、雲水と直談判に及び、不調に終わった場合に善後策を講じれば良い、と心に決めていたのである。

 

 森岡は、さっそく松江市内のホテルで斐川角雲栄と会った。

 湖畔に建つホテルから宍道湖を眺めたとき、思わず、うーんと森岡は心の中で唸った。

 いまさらながら、その美しさに見惚れてしまったのである。

 松江は大変に美しい水都である。

 宍道湖と中海に挟まれた清楚な城下町で、市内には大橋川をはじめ多くの掘割があり、風光明媚な景勝地に恵まれている。

 特に宍道湖の夕映えは垂涎もので、夕陽が湖内に浮かぶ唯一の島である嫁ヶ島と重なりながら沈む情景は、例えようもなく優美で、その哀愁は胸に沁み入って止め処がなかった。

 嫁ヶ島には、数十本の松ノ木が植えてあるが、現在のそれは、島根が生んだ最初の宰相若槻礼次郎が枯死していた松を悲しみ、地元の植木屋に依頼して、密かに植え替えさせたものである。

 松江はまた、街自体が日本庭園のようでもある。

 中心となる池は宍道湖、池中に設けた小島が嫁が島、掘割や大橋川がそのまま水路で、築山が茶臼山の古墳群、借景が松江城あるいは大山(だいせん)である。

 森岡は、この街の北部にある松江高校に通っていながら、毎日バス停から校舎までをただ往復するばかりで、この美しい風景を見逃していたのだった。

 

 斐川角雲栄は耳寄りな話をした。

 二十八歳にもなる斐川角雲水の次男勇次が、いわゆる引きこもりの状態で、頭を悩ませているらしいのだ。勇次は高校卒業後、定職に付かずアルバイトを転々としていたが、とうとうそれも辞めてしまい、マンションに引き籠っているというのである。

 勇次は部屋で一日中パソコンを触っているようだ、と斐川角雲栄から聞いたとき、森岡の頭に、彼をウイニットに入社させようという思惑が浮かんだ。

 パソコンに興味があるなら、ソフト開発に携わらせれば良い。インターネット関連でもゲームソフトでも、と考えた。ウイニットの勤務シフトは自由が利くし、当面は委託契約にし、自宅で仕事ができるように便宜を図っても良い。ともかく、どうにかして勇次を抱き込もうと考えた。

 雲栄の紹介で、奈良に出向き斐川角貫主と面談した森岡は、虚心にその想いを述べた。

 瞑目して話を聞いていた雲水は、おもむろに口を開くと、勇次への説得次第だと返答した。勇次がその気になり、森岡が面倒を見てくれるのであれば、神村に協力するというのである。

 思いの外の色好い返事に、森岡は違和感を覚えなくもなかったが、それだけ息子に愛情があるのだろう、と然して気にも留めなかった。

 雲水からお墨付きを得た森岡だったが、当の勇次とは会わずに、一旦大阪に戻った。

 斐川角雲水から、勇次が引きこもりに至った経緯を聞いているうち、彼が高校時代、暴走族に入っていた事実を知ったからである。

 森岡は、総務課長の南目輝(なんめあきら)を社長室に呼んだ。

 南目は三十一歳。高校時代に、故郷の山陰で最大の暴走族グループの総長だった男である。

「兄貴、何か用すか」

 南目は砕けた物言いをした。

 森岡は、二人きりあるいは坂根と三人のときは、これを許している。森岡は、野島と住倉、中鉢の三人は『義』で繋がったいわゆる同志、坂根と南目は『情』で繋がった義兄弟という感覚を抱いていた。

「おう。お前にちょっと訊きたいことがあってな」

「なんすか」

「お前、斐川角勇次という男に覚えがないか」

「斐川角?」

 南目は首を捻った。

「お前の暴走族時代の頃や」

「そういやあ、そういう珍しい名前のメンバーがいたような気がしないでもないすね」

 南目は面倒臭そうに答えた。

「こら、真面目に思い出せ」

 森岡に叱責された南目は、肩を落として訊いた。

「なんすか、兄貴。その男がどうかしたんすか」

「大事なことや。お前の下にいたかどうか、はっきりと思い出せ」

 森岡は命令口調で言った。

「なら、ちょっと良いすか」

 そう言うと、南目は携帯を取り出した。

 

 南目輝は、森岡にとって神村の経王寺での後輩であった。

 宗教上の弟子ですら持たない神村が、ましてや一般の誰かを自坊に寄宿させることなどありえないことだった。

 その経王寺に、初めて住み込んだのが書生の森岡である。一般人としては、おそらく彼が最初で最後の寄宿人だと思われたが、三年後の彼が大学の四回生の夏、突然南目が経王寺に転がり込んで来た。

 南目は、神村正遠が伯父である鳥取県米子市・大経寺の住職神村正善(しょうぜん)の断っての依頼を断り切れず、やむなく引き受けた男だった。

 南目の生家は米子市に本店を置き、中国地方の主だった都市の他、札幌、仙台、東京、大阪、名古屋、福岡といった大都市のデパートにも出店している、創業二百五十年という老舗の和菓子屋・彩華堂(さいかどう)である。

 輝の実父南目昌義(まさよし)は、大経寺の檀家役員で、併せて護山会の役員も務めており、有力な支援者だった。

 神村正遠が幼い頃、大経寺には家族共々世話になっていたこともあり、伯父に頭を下げられると、断わり切れない義理があったのだ。

 昌義は息子が不憫でならなかった。輝が非行に奔ったのは、昌義の後妻、すなわち継母との折り合いが悪かったからである。

 継母は自分が生んだ子、つまり輝にとっては腹違いの弟を溺愛し、彼に彩華堂を継がせるよう昌義に催促し続けた。輝自身は弟に情愛があり、会社は譲っても良いと考えていたが、継母のあまりの偏愛と理不尽な振る舞いを目の当たりにし、反抗的になったのである。その心情を知っていた昌義は、輝に強い態度で出ることができず、それが彼の非行を増長させたのだった。

 だが、高校三年生のとき、輝は傷害事件を起こし、とうとう少年院送致なってしまった。輝の先行きを危惧した昌義は、一年後の輝が少年院を出た折に、天真宗開祖栄真大聖人の生まれ代わりとも評される神村正遠に預ければ、息子を正道に戻してもらえるのではないかと期待し、神村正善に懇請したのだった。

 経王寺は小さな末寺だったので、空き部屋が幾つもあるわけではなかった。そこでしばらくの間、森岡の部屋で同居することになった。卒業後、経王寺を離れる予定だった森岡は、半年のことだと思い、快く南目を迎え入れた。

 

 当初、南目は斜に構えて森岡と接した。彼は、坊主でもない大学生が寺に寄宿していることに、森岡も自分と同じような境遇を経て、ここにいるのだと思っていた。

 ところが、日が経つにつれて、南目は森岡の不思議な人間力に引き込まれていった。

 経王寺に寄宿するからには、これまで森岡が行っていた掃除、洗濯、草取りなどの雑用は分担するのが当然だったが、南目は何もしなかった。にもかかわらず、森岡は文句一つ言わず、嫌な顔一つ見せなかった。

 南目は、自分が暴走族の元リーダーで、少年院にも入っていたことを知り、恐れているのだと思ったが、森岡の行動を注視していると、そうではないように思えてきた。嫌々行っている様子が全く無く、それどころか喜々としてさえ映るのだ。

 あるとき、南目は森岡に疑問をぶつけてみた。

 森岡の答えはこうだった。

「私は、何事も前向きに考えることにしている。掃除や洗濯は面倒なことではない。掃除や洗濯だけではなく、この世のあらゆる事、つまり森羅万象は『宇宙の法則』、宗教でいえば『神の摂理』に則っているから、私が掃除や洗濯をするのには、何らかの意味があるのだと考えている。それが何であるかは、今はわからない。わからないから、それが今の私の役目なのだと思っている。だがら、毎日の雑用は楽しい。何時この世の真理に気づくかわからないのだから」

 南目は一笑に付した。

 まるで禅問答のような言い草に、単なる言い訳に過ぎないと侮った。だが、まもなく南目は森岡の言葉が決して強がりではないことを目の当たりにする。

 ある日のこと、南目は森岡と古びた作業着を着た老人の二人が談笑しながら、本堂の拭き掃除をしているのを目にした。南目は初めて見る老人を、下働きに雇われている近所の信者だと思い込んだ。

 ところが、彼が一旦部屋に戻り、間を置いて再び部屋を出て、渡り廊下から庭を眺めたときだった。

 帰宅する老人の姿が一変していた。作業着から高級スーツに身形を整え、数人の男性に囲まれながら、ベンツのリムジンに乗り込もうとしているではないか。

 我が目を疑った南目は、すぐさま森岡に老人の正体を訊ねた。

 森岡は、その老人を所有資産が五百億円の実業家・榊原荘太郎だと教えた。

 そのような資産家がなぜ掃除を? と訝った南目だったが、仕事が寺院関係だと聞いて、掃除は商売上のことだと自分に言い聞かせた。

 だが、榊原だけではなかった。

 その後も、一部上場の有名企業の社長といい、大銀行の幹部や府会議員、市会議員といい、挙って同様の行動に出るのだ。

 挙句の果てに、大臣も務めたことのある国会議員の雑巾掛けまで目の当たりにしたとき、南目は森岡の言葉の意味が理解できたような気がした。いや、理解はしていなかったが、久々に胸の奥から込み上げる熱いものを感じた彼は、その場で雑用の分担を森岡に願い出た。


「兄貴。昔の仲間に聞いたんすけど、たしかに斐川角勇次というのが下っ端にいました」

「そうか。じゃあ、明日俺と一緒に奈良へ行くぞ」

「俺が、すか?」

「せや。これはお前にしかできん重要な仕事や」

 南目に緊張が奔った。

「重要? 何をするのですか」

 思わず言葉をあらためていた。


 天真宗本山・相心寺の山門に初老の男性の姿があった。

 一口に京都といっても、相心寺は市内の喧騒から離れた山深いところにあり、三方を渓流に囲まれた豊かな自然の中にあった。

 というのも、相心寺は昭和の初期まで、関西地域における僧侶の修行堂だったからである。その後、交通手段が整備されたことにより、荒行の場は総本山の妙顕修行堂に集約され、相心寺はその役割を終えたのだが、その折本山に格付けされた。

 現在でも車が通れるのは麓までであり、そこからは徒歩となった。立地条件の悪さから参拝客などはほとんどなく、主な収入源は社員研修の場としての施設提供であったが、昨今はスピチュアルブームもあって、一般人の体験修行などの企画で、それなりにの賑わいを見せていた。

 山門を潜った初老の男は、庶務受付で大本願人の申込用紙を受け取ると、願目を記入して三十万円を手渡した。

 受付の若い僧侶は酷く驚いた様子で、小走りに奥の部屋に入ると、しばらくして壮年の僧侶が応対に来た。

 差し出された名刺には執事長の肩書きがあった。

 執事長は愛想良く、男性を本堂へ手招き入れた。それもそのはずで、この相心寺において三十万円という祈祷料は、個人に限っていえば一年に一度あるかないかという高額だったのである。通常は千円か二千円、高額であっても精々五千円というのが祈祷料の相場であった。

 祈祷料に応じた品質のお札を受け取り、そこに願目を書いて渡せば、読経のとき願目と氏名を読み上げてくれるという段取りである。

 相心寺の祈祷規定だが、金額が一万円未満の場合は、毎日夕方に行われる読経の際、まとめて願目と氏名を読み上げて祈祷する。

 一万円以上の祈祷料になると、希望によりその場で本堂に上がることができ、その日の当番僧侶が即時に祈祷する。

 祈祷料が五万円以上になると、当番僧侶に代わって執事長が祈祷を行い、以降一週間に亘り当番僧侶が毎夕の読経時に祈祷する。

 さらに十万円になると、大本願人とされ、貫主自らが祈祷し、以降一ヶ月間読経の際に祈祷してくれるのである。

 十万円以上は、額によって一ヶ月以上から数年間祈祷の対象者とされた。

 初老の男性は三十万円の祈祷を申し込んだのであるから、当然貫主自らが読経するのが慣わしであった。

 本堂で待つこと十五分、受付で応対した執事長を従えて、細身の僧侶が姿を現した。執事長より格上の僧侶であるから、この僧侶こそ、第三十五世桂国寺貫主の一色魁嶺(いっしきかいれい)と思われた。

 その瞬間、初老の男性は内心でほくそ笑んだ。この男の目的は、まさに一色に謁見することだったのである。

 この男、元は警察庁・犯罪行動科学部・捜査支援研究所の主任研究員を務めていた男である。日本警察において、プロファイリングの草分けの存在であった。定年退官後、雑貨貿易商という表看板を上げていたが、その裏で警察当局の要請により、ときに捜査協力をしていた。

 今回、男は伊能剛史の依頼に応じ、一色魁嶺の性格分析のため、直に会おうと出向いたのである。

 むろん、この日一色が在院していることを確認したうえでの訪山であった。貫主自らの読経には十万円で事足りたのだが、念を入れるためと、読経後の雑談を当てにして増額したのである。

 はたして男の期待通り、一色は祈祷の後、男を応接室に誘った。

 応接室には簡単な酒宴の用意がしてあった。

「あらためまして、当山貫主の一色です」

 一色は名刺を渡しながら挨拶すると、ビール瓶を手にし、

「お一ついかがですか」

 と勧めた。一瞬、グラスを手にするのを躊躇った男に対して、

「車ですか」

 ビール瓶を置いて、一色が確認した。

「車は車ですが、運転手を待機させております」

「そういうことでしたら、お付き合い下さい」

 一色は、再びビール瓶を手に取り、もう一度勧めた。

「では、少しだけ頂きます」

 男はあまり酒が強くなかった。そのため、一色の分析に差し障りが出ることを懸念したのだが、二度も勧められて断ったのでは、一色の心証を悪くしてしまう恐れがあった。

 一色は自らのグラスにもビールを注ぎ、一口含むと、

「東京で雑貨商を営んでおられるとか。相心寺はどのようにしてお知りになったのですかな」

 と訊ねた。

 相心寺は、関西でさえ世間に知られた存在ではない。まして、東京にその名が知れ渡っているはずもなかった。

「知人に天真宗の敬虔な信者がおりまして、このお寺は世にあまり知られてはいないが、隠れた名刹であると聞きました」

「それで、わざわざ東京からお見えになったのですか」

「ええ。元は僧侶の修行の場と伺って、自分の目で確かめたくなりました」

「それはそれは、奇特なことで」

 一色は上機嫌になった。

「雑貨商とは、どのような物を輸入されておられるのですかな」

「食器、アクセサリーなど、気に入った物を取り寄せておりまして、とくに決まったものはありません。そうですね、骨董なども扱っております」

骨董?」

 一色の目が興味の色を滲ませていた。

 男は、しめたと思った。

 性格というのは、興味のある話をしているときに顕著に現れるからである。

「中世ヨーロッパの作品や中国の書画なども好きですね」

「ほう。では現代の書画はどうですかな」

「もちろん、大いに興味があります。貫主さんもお好きなのですか」

 一色の頬が思わず緩んだ。

「興味といいますか、知人に画家がおりまして、後援しております」

「ジャンルはどのような?」

「山水画です」

「山水ですか」

 男が、当てが外れたような仕種をすると、

「興味は無いようですね」

 一色は咎めるような物言いをした。

――気難しい性格のようだな。

 男は苦笑いをしながら、

「いえ、興味が無いわけではないのですが、何分造詣が浅いもので」

 と言い繕うと 、間髪置かずに言葉を繋いだ。

「ご指南を頂ければ有り難いのですが」

「そうですか。では一幅持って参りましょう」

 そう言い残して応接間を出て行った一色は、数分後桐箱を手にして戻って来ると、

「これなどは、良い物ですよ」

 と取り出した掛け軸をテーブルの端で広げた。

「これはなかなかの物ですね」

 男に良し悪しを見る目などなかったが、如才なく相槌を打った。

「どうです。宜しければ、この掛け軸をお求めになりませんか」

「恐縮ですが、おいくらでしょう」

「五十万です」

「五十……」

 男は躊躇いのある振りをした。一色の金銭感覚を探っているのである。

「本来は百万の値打ちがある物ですが、奇特な貴方ですから、半額にしたのですよ」

 一色はいかにも押し付けがましく言った。

「作者は貫主さんの縁者でしょうか」

 落款に『色翁(しきおう)』とあったことから、作者は一色本人ではないかと疑ったが、わざと遠まわしに訊いた。

「ええ。まあ、そのようなものです」

 思いも寄らぬ問いだったのであろう、一色の歯切れが悪くなった。どうやら、触れて欲しくない様子である。

――やはり、臭う。

 男はそう思ったが、ここで詮索を止め、

「わかりました。これも何かのご縁でしょうから、この掛け軸を頂戴します」

 と申し出た。

 一色の相好が崩れた。

「おっ、そうですか。では、当院の風呂敷に包みますので、このままお持ち帰り下さい。代金は後日振込みで結構です」

――振込みだと? なぜだ……。

 疑念抱いた男は鎌を掛けてみた。

「領収書を頂ければ、代金はただいま現金でお支払い致しますが」

「いえ。画家本人の領収書を取ったり、それを送ったりするのも面倒ですから、御手数ですが、振り込んで貰えませんか」

 男には、一色は現金払いを拒んでいるようにさえ映った。

 周知の如く、布施などの宗教本分に関わる金銭は無税の優遇措置がなされている。書画などの、いわゆる揮毫料は免税ではないが、現金で受け取りさえすれば、税務署もお手上げとなる。

――作者は本当に縁者なのだろうか。

 男の疑心は晴れなかった。

 仮に、作者が一色本人だとすると、痕跡が残る振り込みにしているということは、むしろ税金を正しく支払っているのだから、本来は疑念を抱く方がおかしいのであるが、一色本人から受ける印象とは掛け離れていたのである。

 一色が指定した口座名は『亀井一郎』となっていた。


 伊能に調査を依頼してから一週間後の夜――。

 坂根を伴った森岡の姿が、祇園のクラブ『ダーリン』に見られた。

 伊能の中間報告を元に、現場に足を踏み入れたのである。

 扉を開けると黒服が近付いて来た。

「一見やけど、ええかな」

 森岡が断りを入れた。ダーリンは『会員制クラブ』を謳っていたからである。

 もっとも、クラブの会員制というのは、主として暴力団関係者の入店を拒否するための方便であり、たいてい場合が入店可能である。このあたりは、同じ京都の祇園や先斗町などの御茶屋のそれとは意味合いが異なる。

 黒服は、二人を舐めるように見ると、奥に戻って五十絡みの女性を連れて戻って来た。どうやらこの店のママらしい。

「どなたかのご紹介でしょうか」

 女性は丁寧な口調で言った。

「いえ。たまたま、祇園を歩いていてこの店を見つけたのです」

 森岡も穏やかな口調で答えた。

「……」

 女性もまた、品定めをするかのように凝視した。身形はそれなりに整っているが、高級店で遊ぶには、何分若過ぎるのである。金持ち風の若者といえば、大概は暴力団関係者と相場が決まっている。

 外見は堅気に見えるが、それでも慎重になった。

「これが身分を証明できませんか」

 森岡は、財布からダイナースのプラチナカードを取り出して見せた。遊びなれている彼は、こういった店側の懸念は熟知している。

 その瞬間、女性の面に安堵の色が奔ったが、

「申し訳ありません。当店では、このカードを取り扱っておりません」

 と丁寧に頭を下げた。その様子から、暗に入店を断っているのではないと理解した。

 関西でも、特に京都の言い回しを理解するのは難しい。

 たとえば、迷惑な来客を早く帰したいときは、

『ぶぶ漬はどうおすえ?』と言う。

『ぶぶ漬』とは茶漬けのことで、『茶漬けをご馳走になる』と思い込むと、顰蹙を買うのがおちである。

「では、このカードは?」

 今度は、アメックスのプラチナカードを取り出した。

「まあ」

 女性は驚嘆の声を洩らした。

 この頃、プラチナカードは高額の年収以外に、一定の資産を所有するものにしか発行されなかった。その相当に敷居の高いプラチナカードを、ダイナースとアメックスの二枚も所有していることは、かなりの資産家であるばかりでなく、社会的信用の担保がなされていることの証明だったのである。

 森岡は正体を隠すためにも、現金で精算するつもりでいた。したがって坂根好之に二百万円持たせ、自身も三百万円持参していたが、それを見せることはしなかった。飲食代の精算の懸念ではなく、身分保証を求められたときに、現金は何の役にも立たないのだ。

「アメックスは扱っております」

 ママらしき女性は、快く中に入れた。

 席に着いた二人は、下にも置かない接遇を受けた。店にとっては、またとない上客でありこの先常連客にでもなってくれれば、と皮算用をしてのことであった。

 森岡は、さりげなく店内を見渡した。四十坪ほどの広さは、祇園では上位の部類に入る。出勤しているホステスは十四名。その中に、あるいはこれから同伴出勤してくるホステスの中に、森岡のお目当ての女性がいるはずであった。

 

 森岡は、谷川東良ともしばしば会って、榊原壮太郎や伊能剛史からの情報と照合、精査もした。

 森岡の提案で、この会合に神村は同席しなかった。

 最たる理由は、神村には宗教人として高みの道を歩んでもらいたいと願っている森岡が、醜い談合から彼を遠ざけるためだった。また、万が一の場合のことも考え、神村は何一つ知らない方が安全である、と先を見据えた配慮もあった。

 森岡は、もし何時の日か直接対峙する機会が訪れたなら、神村にはただひたすらに、己の信念、信条により相手を説得してもらえればそれで良い、と考えていたのである。

「あかん、現状はええことないな。予想通り安田、広瀬、酒井の三人の新貫主は、久保さんに取り込まれとるから、三対八ということやな」

 谷川は眉間に皺を寄せて言った。

「では、前回山際上人に味方された上人方のうち、村田以外の方々は変わりなく先生を支持して下さるのですね」

 谷川の思惑とは違い、榊原の情報と一致したことに、森岡は胸を撫で下ろしていた。

「今のところ、そういうことや。黒岩、戸川、北見、この三人のお上人方は山際上人のときもそうだったが、私利私欲がなく、筋目というものを大事になさる方々やから、多分大丈夫とは思うけど、それでも気を付けてしっかり捉まえておかんとあかんわな」

「では、その三人の貫主さんには、前もって三千万円ずつ渡しましょう」

 谷川の慎重な物言いを受けて、森岡が提案した。

「えっ、三千万……もか?」

 谷川は上ずった声を発した。

「金は成功報酬として渡すんやないんか? もし、神村上人が負けたらどうするんや。全くの無駄金になってしまうんやで」

 谷川は、俄には信じることができなかった。すでに味方の上人たちを引き止めておくために三千万円もの大金を、しかも前もって渡すという森岡の真意を計りかねていた。

「成功報酬というのは避けましょう。先にお渡しすることで、その方々の意志を縛っておいた方が得策です。この三名の方々は、山際上人の頃から味方になって頂いています。もしかしたら、久保上人側から誘いの話があったかもしれないのにも拘わらず、です。そのお気持ちに対するお礼という意味合いもあるのです」

「それにしても、三千万もか」

 谷川は、もう一度同じ言葉を呟いた。

 彼は、久保の工作金が二千万円であることを知らなかったし、まして森岡がそれを知っていることなど、微塵も思わなかったのである。

 驚きが冷めやらない谷川に向かって、森岡はさらに言葉を付け足した。

「もし足らなければ、いくらでも上積みしましょう。谷川上人の言われるとおり、この三名の上人方はこちらの命綱です。相手からこちらに寝返らせようにも、この三名から引き抜かれたのでは計算が立ちません。まず、この三名の支持をしっかりと強固なものにしてから、寝返らせる上人の的を絞りましょう」

 えっ、と細い釣り目がさらに点になった。

「三千万にまだ上乗せをするやと? それやったら、金がいくらあっても足らんようになるで」

「この際、金は問題ではありません。必要なら五億でも六億でも用意致します」

「六億ってか……」

 谷川東良は思わず唾を飲み込んだ。完全に言葉を失い、二十歳近くも年下の若者の豪胆さに、不気味なものすら感じ始めていた。

「では、谷川上人には金の運び役をお願いします。これは、私などにはとうていできない重要な役目ですので、宜しくお願いします。それと、引き続き相手に付いた八人の上人の身辺の情報を集めて下さい。私も、それなりに調べてみますので……」

 一転して、森岡は下手に出た。

 正直にいえば、谷川東良をそれほど頼りにしていたわけではなかったが、さりとてへそを曲げて離脱されても困ると思っていた。現在はどのような些細な情報でも必要としていた。そういう意味からすれば、谷川東良に気を使いながら、上手に動かすことが肝要だと考え直したのだった。

 わかった、と谷川は頷いた。

「せやけど、合議までには二ヶ月半足らずしかないから、急がにゃならんなあ」

 せっかくの森岡の心遣いにも、毒気に当たったかのように力のない声で答えるのが精一杯だった。

――少しやり過ぎたかな。

 と、森岡が後悔をしたときだった。

 二人のやり取りを見ていた坂根が、咄嗟の機転を利かせた。

「ところで、谷川上人は修行されながら、アジア諸国を旅されたと伺っていますが」

「お、おう。断続的にだが、この六年間アジアを廻っていた。まあ、修行というほどのことではないがな」

 谷川は背筋を伸ばすと、身体を少し前のめりになった。その仕種は、彼が話題に興味を示したときの癖だった。

 それを看取った坂根は、さらに訊ねた。

「アジアはどこを回られたのですか」

「せやな、東南アジア近辺は大体廻ったが、長期に滞在したんはスリランカとタイかな」

「両国とも敬虔な仏教国ですね」

「そやねん。この両国は僧侶の社会的地位が高いやろ。国民は皆僧侶を敬愛しとる。同じ僧侶としては、羨ましく思ったで」

「そうでしょうね。でも、日本だって仏教伝来の当初は、それらの国々の僧侶と同じぐらい民衆から敬われていたのではないでしょうか。いったい、何時頃からこんな風になったのでしょうか」

 坂根にしてみれば素朴な疑問だった。

 その昔、ある宗派の法主が地方へ巡教に出掛けると、地元の信者たちは生き仏である法主が浸かった風呂の湯を飲んだという逸話が方々に残っている。むろん、どこまでが真実かは定かでないが、少なくとも村の重役たちは、羽織袴の正装で迎えたというのは事実である。

 また、農村部では秋に収穫された米が、漁村では春の一番漁で取れた魚が、それぞれまず神社や寺院に奉納されたというのも、至極ありふれた神事であった。

 坂根がそういう事実を知っていたかどうかはわからないが、急所を突く問いであることに違いなかった。 

「うーん」

 谷川は再び言葉を失ってしまった。

「おそらく同じ仏教でも、その二ヶ国と日本では、大きく系統が異なるからやろうなあ」

 森岡は真実を言い当てていた。

 インドで開かれた仏教は、その教えの学び方によって顕教と密教にわかれたが、もう一つ釈迦の没後五百年を経て、思想的な考えの違いによって、小乗(しょうじょう)仏教と大乗(だいじょう)仏教にわかれた。

『乗』とは教えのことで、乗り物に例えているのである。すなわち、小乗とは小さな乗り物を指し、出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけが悟りを開き救われるというという意味である。したがって、修行をした僅かな人が救われ、一般の人々は救われない。釈迦の没後の、長い間この思想が定着していた。

 対して、釈迦は全ての人々を救いたかったはずである、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教である。大きな乗り物というのは全ての人々を救うことを目的としているという意味である。

 しかしながら、全ての人を救うというのは、高邁な思想である反面、堕落を招きかねない。全ての人が厳しい修行などできないからである。しかして、一般人だけでなく肝心の僧侶まで怠惰な生活に落ちてしまった。

 日本に伝えられた仏教は、この大乗仏教が基本になっている。つまり、タイやスリランカのように、今でも僧侶が厳しい戒律を護っているのと異なり、日本の僧侶は妻帯し、飲酒し、肉を食う。これを堕落と言われても仕方がなかった。

 尚、小乗仏教という呼称は、大乗仏教側から付けられた差別語なので、最近では『上座部(じょうざぶ)仏教』といわれている。

 図らずも、彼のこの言葉を最後に、しばらくの間会話が途切れてしまった。


「谷川さん、ずいぶん意気消沈されていましたね」

 谷川と別れると、坂根は申し訳なさそうに謝った。

「せやな。俺も最初は一発かましておこうと思い、金の話をしたんやが、ちょっと薬が効き過ぎたと反省しとったんや。お前が機転を利かせてくれたお陰で助かったわ」

「でも、私も余計なことを訊いたために、最後はまた気まずい雰囲気になってしまいました」

「気にするな。お前は当たり前のことを訊いたまでや。この国は、宗教が放浪しているような国や。世界のどこにクリスマスも正月も同じように祝う国民がいるやろか。嘆かわしいことやが、結局日本人というのは宗教というものの本質を理解せず、所詮金儲けのイベントとして捉えているに過ぎんのやな」

「でも、それは日本人の許容量の深さを表していると言う者もいますが」

「それは詭弁というもんや」

 森岡の語気が強まった。

 明治維新によって、一気に西洋文化が流入したのにも拘わらず、日本人がその精神を失うことはなかったが、その理由は、当時は日本人の心の中に、確固たる規範があり、精神レベルが高かったからで、残念ながら現代はそれが極端に薄れている。

――資源のない国が世界と伍して行けたのは、ひとえにその精神性の高さ故だったというのに、こんなに精神劣化した民族の先行きは明るくないな。

 と、森岡は憂いていた。

 日本人が急速に宗教観念を失ったのは、明らかに太平洋戦争後だといえよう。

 元来、八百万の神々というように、日本は古の昔から自然神を崇めてきた多神教の国である。全国各地に民話や祭りがあるのはその名残で、しかも山一つ隔てただけなのに、祭りの風習は全く異なっていることが多い。一神教の国では到底考えられないことである。

 多神教は、突き詰めれば無信心に陥る危険性を内在しているが、戦前までは恥の文化と天皇制が抑制していたと考えられた。この二つが、日本人の規範の中心だったのだ。

 奈良時代の昔から、日本は村社会だったので、人は皆、いわゆる「世間体」というのを気にして生きてきた。後に、村八分という厳しい罰則制度が確立したこともあって、この世間体が自己規律の中核を担って来たのである。現在でも、日本人が相手の自分に対する評価というのを人一倍に気にするのは、そのDNAが残っているからともいえる。

 恥の文化とは少し外れるが、外交などでも、とにかく相手国ともめたくない、丸く収めたいと主義主張を通さないのも、村社会の中で生きてきた悪い面が歪に表面化した結果であろう。

 天皇制は、いまさら言うまでもなく、立国から今日に至るまで、そこはかとない神聖なものであり、日本民族の精神的支柱であった。そうでなければ、千数百年も続くはずがない。

 政権が武家に移ってからも天皇制が存続したのは、民が天皇を敬っていたため、もし天皇制を打破すれば、民の信は離れて行き統治が難しくなる、と時の権力者たちが考えたからに他ならない。

 戦後の占領軍も同様に捉えた。

 だからこそ、当初天皇に求めようとした戦争責任を不問に付し、天皇制を維持させることに政策転換したのである。歴史を振り返れば、明治時代から戦中まで、憲法によって神格化が図られていた時期の方が例外なのである。

 それが、戦後復興を遂げるにつれて、その代償を払うかのように地域社会が破壊され、家族は離散した。結果、世間の目から逃れた人々は、水に流されるように破廉恥になり、天皇という存在も心から離れていった。その心の空洞に入り込んでしまったのが、経済中心主義という概念、俗にいう物欲である。

 これが人生の価値の中心に居座ってしまい、いつの間にか物欲を満たすことがの最高の幸福だという低俗な観念が日本人を支配してしまった。

 絶対神を持たない民族の弱点が露呈したのである。

「しかし、社長。世界には狂信的なものもありますよね」

「そうやな」

「それはそれで、困ったものではないのですか」

「たしかに、日本人のように宗教観の薄いのも問題やが、行き過ぎるとそれも厄介なものにはなるな。難しい問題やな」

 森岡はそれ以上の明確な返事をしなかった。

 彼は神村の教示により、確固たる宗教観を培っていたが、同時にそれは他人に強要すべきものではないということを含んでいた。森岡は強要することはもちろんのこと、他人の宗教観に影響を及ぼす発言すらも、避けようと心に決めていたのだった。

 坂根もそのことは良く承知していた。彼は、以前神村との関係を訊ねたとき、森岡から神村に心服する理由を聞いていた。そのとき、二人の出会いの経緯こそ聞き出せなかったが、森岡の宗教に対する考え方と、書生時代のある会話を教えてもらっていた。

 

 出会いの経緯の他に、森岡が神村に深く傾倒して行った理由の一つは、神村が森岡に対して天真宗への入信を一切勧誘しなかったことである。神村が、森岡家は禅宗系であり、天真宗への改宗を進めても断るだろうと遠慮したためではない。この頃の森岡は、そのような熱心な信者ではなく、むしろ無信心に近かった。

 まして、家を捨て故郷を離れ、古いしがらみから解放された彼のこと、大恩ある神村からの勧めとあれば、改宗することに躊躇いはなかったといえよう。

 だが神村は、最後まで一言もそれと察せられる言葉を口にすることがなかった。

 森岡は、そこに神村の誠意と善意と見識と人徳を観た思いになった。

 森岡が、そのことに人一倍拘ったのは、ある憤りと悲しみの経験をしていたことによる。

 それは、父の死に際してのことだった。葬儀に参列するため、父の一番下の妹が、二年ぶりに帰郷していた。森岡は兄弟がいなかったため、一回りしか年が違わず、高校を卒業して上京するまで、一緒に暮らしていた叔母を姉のように慕っていた。

 だがそのとき、彼女はもはや彼の知る叔母ではなかった。

 彼女はある新興宗教に入信していたのである。

 そして事件は起こった。通夜の晩、彼女は森岡にこう言ったのである。

『世界は近いうちに破滅に向かい、人類もまた滅亡に向かう。そのとき生き残っているのは、私たちの宗教の信者だけである。だから洋介も私たちの宗教に入信しなさい』

 このとき、森岡はまだ十一歳だったが、腸が煮え返るような怒りが込み上げ、叔母を容赦なく罵倒した

「叔母さんはいったい何のために帰郷したのか。禅宗系宗派のしきたりに則り、父の魂を弔い、喪に服すべきときに、己の信じる宗教を押し付けるとは何事か。時と場所をわきまえろ! しかも、その宗教の教義の素晴らしさを説くならまだしも、相手を恐怖に落とし入れて勧誘するなど言語道断、人倫の道に外れている。僕がそのような邪宗に入信するはずもないし、このような勧誘を他の親戚たちにもしようと思っているのなら、即刻この家から出て行ってくれ!」

 もちろん、少年の彼にこのような理路整然とした言葉遣いはできるはずもなかったが、目に涙を浮かべての必死の抗議に、森岡の言わんとしたことを理解した叔母は、以後東京へ帰るまで、一言も宗教の話はしなかった。

 森岡は悲しかった。弟のように可愛がってくれていた叔母の、あまりの心変わりに、もう一人肉親を亡くした喪失感があったのである。                

 この事件以来、森岡は叔母の心を奪った宗教というものに警戒心を抱き、人の弱みに付け込んで、入信を進める所業を忌み嫌うようになった。

 このような悲しい経験をした彼にすれば、神村の誠真な態度が心を捉えて離さなかったのも、当然といえば当然だったのかもしれない。

  

 もう一つの理由は、神村の実直な性格に、人間としての器の大きさを感じたからである。

 森岡は、書生に入って間もなくの頃、神村にある事を問うた。

「先生、本当にあの世は存在するのですか」

 いきなり大命題を問われた神村は苦笑いをした。

「君も、ずいぶんと思い切った事を訊くねえ。仏教徒の私に訊ねるようなことではないよ」

 一旦前置きをすると、

「そうだね、天真宗僧侶・栄麟として答えるならば『是』だが、神村正遠個人として答えるなら『非』だね」

 と答えた。

 森岡には、全く意外な答えだった。個人としては、という断りがあったとはいえ、まさか師の口から「あの世は無い」という答えが返ってくるとは思ってもいなかったのである。

 森岡は続けて問うた。

「では、守護霊とか悪霊といった類のものはどうでしょうか」

「それも、世間一般が認知しているようなものは無い」

「そうしますと、テレビで見かける霊能者は皆偽者で、霊を見たというのは嘘を付いているということですか」

「いや、そうではない」

 神村は首を横に振った。

「個々の霊能力者の真偽は別として、いわゆる心霊現象というものはある」

「……?」

 森岡にはわけが解らない。

「森岡君、私が考える霊というのは、人間自身が作り出す現象なのだと思っている」

「はあ」

 森岡には神村が何を言っているのか理解できない。

「人間の脳というのは、その約九十パーセントが未開発なのは君も知っているね」

「はい」

「となると、その未開発の領域にはどのような能力が備わっているのか、興味が湧かないかい?」

「ええ、まあ」

 森岡には曖昧な返事しかできなかった。

「つまりね、テレパシーとか透視といった超能力といわれるものも、本来全ての人間に備ている能力かもしれないということ。もちろん、霊能者と同様、マスコミに登場する超能力者の真偽もまた別だがね」

「……」

 思わぬ話の展開に、もはや森岡には言葉が無かった。

「そういう考えの延長で言えば、いわゆる霊というものも、自己あるいは相手の脳の中にある思考や記憶を、視覚化する能力の産物ともいえるのではないかな。しかもそれは、遺伝子レベルで考えると、本人だけでなく、先祖に遡って蓄積された思考や記憶を視覚化することもできるかも知れないという壮大なものになる」

 神村は森岡をまじまじと見つめた。

「森岡君、そう考えた方が、ロマンがあるとは思わないかい?」

 言い終えた神村の目が笑っていた。

 後々になって考えてみれば、神村一流の「からかい」だったのかもしれないが、森岡はずいぶんと新鮮な空気に触れた気がした。

 人間の脳に関することを、科学者ではなく、その対極にあるはずの宗教人の口から聞いたことが、いっそうその思いを強くしていた。

 高僧らしいもっともな説を聞かされると思っていた森岡は、この気持ちの良い裏切りによって、神村の哲学、思想の一片に触れただけでなく、人間としての謙虚で真摯な一面も窺い知ったのだった。


「ところで、社長。前から一度お伺いしたかったことがあるのですが」

 御堂筋の信号待ちをしているとき、坂根はずいぶんと遠慮がち言った。

「なんや、お前らしくもない」

「それがその、社長はいったいどれくらいお金をお持ちなのかと思いまして」

「そんなことか。そうやな、三十億ちょっとかな」

 森岡はあっさりと答えた。

「ええー、そんなに」

 坂根は目を見張った。彼の想像を遥かに超えた額だった。

「でも、私の見るところ、ウイニットの株は手放されていませんよね」

「そうや。幹部社員やお前と南目に譲った以外は、最小限しか手放してへんし、それらの金は会社のために使っとる」

「では、いったいどのようにして……」

「お前が、不思議に思うのもわからんでもない。間単に言うとな、俺の財産は株で儲けたもんなんや」

「株? 株式投資ですか」

 坂根の声には疑心の色が滲んでいた。無理もない。彼の見たところ、森岡が株式投資をしているという気配はないし、三十億円もの金を儲けることが、並大抵の所業でないことは、誰にでもわかる道理だ。

 むろん森岡の才能であれば、できない相談ではないだろうが、それにしてもあまりに唐突な話であった。

「中学生のときな、ある老婆から相場の手ほどきを受けたんや」

「ちゅ、中学生……」

 唖然として言葉が続かない坂根に、森岡が意味ありげな笑みを向ける。

「ただの老婆やないで。相当な霊能力者でな、テレビに出ているような連中とはレベルが違うんや」

「……またまた、いや、なるほど」

――何を突拍子もないことを言い出すのか……。

 と思った坂根だったが、次の瞬間、

――いや、この人なら有り得る。

 と思い直した。

 坂根好之は実兄の秀樹から、森岡の生家について話を聞いていた。

 凋落したとはいえ、島根半島随一の分限者で権勢家だった灘屋である。どこにどのような人間関係があっても不思議ではない。

 また、実際に三年間付き合ってみて思い知らされたことは、森岡には謎の部分が多く、容易にその人物像を推し量れないということだった。

 森岡は事実を言っていた。

 彼はあるきっかけがあって、中学三年生のときに株式投資で生計を立てている老婆から株式投資の手ほどきを受けた。

 それ以来、中学・高校と勉強そっちのけで、株式関連の本ばかりを読み漁った。

 そのうち、新聞紙上で売買のシミュレーションをするようになり、高校のときには短波ラジオを学校にまで持ち込んで、昼休みや終業時間になると、校舎の片隅に隠れて株式放送を聞くという有様になった。

「お前、休み時間や昼休みに何をしていたのだ。気味が悪くて近づけなかったぞ」

 後年、友人の斐川角雲栄が語った言葉である。

 ところが、そのような所業に明け暮れていたあるとき、株の値動きには一定の法則のようなものがあることに気づいた。それは、既存の『ケイ線』や『チャート』とは別物だった。

 つまり、彼なりの売買の法則を発見したのである。

 さっそく、その法則に照らし合わせて売買シミュレーションをしてみると、一度に大利を望むことはできないが、ローリスク・ローリターンで、割りと着実に稼げることがわかった。

 そこで、大学に入ってから忠実にそれを実践し、儲けたのである。

 ちょうどバブル景気が始まる直前で、日経平均はずっと右肩上がりだった。数年後に、史上初めて一万円台の大台に乗せるや、それから三、四年で、史上最高値の三万八千円強を付けることになった。日経平均は、僅か十年ほどで十倍にもなったのである。

「そういう次第でな、余程の下手を打たんかったら、何を買っても儲る時代やった」

 株式の法則を発見したことに加えて、運が良かったと森岡は付言した。

「それに比べ、現在は散々たるものですね」

「そういうことやな。坂根、バブルは株だけやなかったことはお前も知っとるやろ」

「不動産ですか」

「そうや。不動産はもっと凄かったんやで。結婚した時、新居として六千万のマンションを買ったんやけどな、二年後には二億になっとった。不動産バブルはな、大阪は東京に遅れてやって来たからな、わかり易いことこの上なかったんや」

「では社長は、不動産でも儲けられたんですか」

「いや、儲けたといっても株に比べればたいしたものではなかった。手持ちのマンションが値上がりしたといっても、住んでるとこやから売ることはでけんしな。仮に売っても他も高いんやから一緒やろ。土地なんて、その筋が絡んでいるから、とても手が出せへん。結局、セカンドハウスとして買ったマンションで少し儲けただけや」

「では、たったそれだけで?」

 坂根はつい言葉を滑らした。株式相場とは全く無縁の彼にしても、今の話だけで三十億の金が集まるとは思えないのである。

「ほう。お前にもわかるか。そりゃあそうや。そんなことぐらいで、三十億も儲けられたら、人生楽なもんや」

 森岡は自身を皮肉るように言い、

「正直に言うとな、書生に入って二年目の頃やった。先生の晩酌の相手をしていて、つい株の話をしたんや。するとな、後日一人の老人が寺を訪ねて来てな、先生から紹介されたんやけど、それがとんでもない人物やったんや」

 と言葉を継いだ。

「いったい、誰ですか?」

 坂根の目が好奇に輝いた。

「是井金次郎(これいきんじろう)や」

 平然と言った森岡を、坂根は、まさかという顔で見た。

「是井金次郎? もしや、『北浜の鬼神』との異名を取り、最後の大物相場師とも言われた、伝説の相場師では?」 

「そうや、その人や。お前でも知っとんのやな」

 森岡は茶化したように言った。

「株に興味のない私でも、それくらいは知っています。一連の仕手戦で大儲けをして、その年の長者番付で一位になり、マスコミで話題になったこともありましたから」

 坂根は口を尖らせた。

「そういうこともあったな。まあ、あの類の人種は仕事柄神仏を尊ぶ人が多いからな。先生とも昵懇だったらしい」

「たしかに、相場師なんて常に命を張っているようなものですからね」

「それでだ。何のことはない、その後度々情報を貰って、是井さんの相場に提灯を付けさせてもらったんや」

 と、森岡は裏事情を明かした。

 提灯をつけるとは、有力な大手筋に付和雷同して売買することで、鯨に吸着するコバンザメみたいなものである。

「その後、今お聞きしたやり方で、少しずつ増やしていったのですね」

 坂根が悟ったように言った。

「そういうことやな」

「それで納得しました。しかし、社長。株をするにしたって元手がいるでしょう? それはどうされたのですか」

 坂根の核心を突く問いに、森岡の面が引き締まった。

「それは、またの機会に話するわ」

 そう言って、坂根の肩をポンと叩いた。ちょうどそのとき、二人はロンドに着いていた。

 森岡はロンドへ向かう階段の前で立ち止まり、

「そういうわけで、俺の持っている金は、ほとんどがあぶく銭や。せやから、気前よく使えるんやろな。これが額に汗水流して稼いだもんやったら、さすがに多少は躊躇するやろな」

 と言って、自嘲の笑い声を上げながら階段を下りて行った。

 徐々に沈んで行く森岡の背を見つめていた坂根は、それが彼の照れ隠しであることを看破していた。恩師神村のためなら、たとえどのような金であろうと、全てを注ぎ込むことがわかっていたのである。

 だが、その坂根にしても、いかに恩人とはいえ、何故森岡がこれほど神村に尽くすのか、の答えには行き着かなかった。

 このときの彼にできたことは、森岡はまるで親の敵のように金を使うことでしか得られない『何か』を欲している、それだけ心の闇が深いのだろうという想像だけだった。







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