第44話
「その夜、アトリエを出てすぐ、千野(せんの)画伯邸の暗い廊下で、槌田篤(つちだあつし)さんは自分を見ている二つの瞳を見た――」
身じろぎもない一同へ向かって興梠(こおろぎ)は語り始めた。
「物言わず、じいっと見つめている円らな瞳……
篤あつしさんは悟った。自分の行いが全て見られてしまったことを。
そして、諒解した。闇に煌めくその瞳こそ自分を裁くために遣わされた審判者だと。
暗闇の中で一部始終を目撃し、今、また自分を見つめる無垢な天使。
その穢れのない眼差し。
彼にそう思わせたのは、容貌のせいだ」
興梠は金糸子(かなこ)を振り返った。
「その悪魔は少女の姿をしていた。そうでしょう、金糸子さん?」
「え?」
「なんだって?」
「どういうこと?」
「それは――」
戸惑う一同。その中で興梠の視線は槌田(つちだ)少年の上で止まった。
「祝賀会の晩、子弟やその身内も参加したと、智さとし君、君は繰り返し言っていたね? 〝僕ら子供たち〟と」
「ええ。確かに――あ!」
顔色を変えた智。興梠は頷くと続けた。
「その子供たちの中には当然、隼(じゅん)――佐々木(ささき)君の妹、金糸子さんもいた。
夜更けて祝宴の続く座敷で、智君は早々に寝入ってしまったかも知れないが、金糸子さんは違った――」
金糸子の方を向く。
「貴女(あなた)は起きていた。そして、座敷を出て行く綾(あや)夫人に気づいて、こっそりついて行き、アトリエで起こったこと、若者たちの行動の全て目撃したのだ」
早春の闇の中で明滅する二つの小さな瞳。
―― 何をしてたの?
―― あれはなあに?
「篤さんは思ったことだろう。
仲間たちがどんなに思いやり深く庇ってくれても、愛した人が寛容に許してくれても、少女の純真な眼差しからは逃れることは出来ない――」
腕を上げて興梠はさざめきを遮断した。
「それだけではない。少女の形をした悪魔は執拗だった。
その夜、当時〝近所だった〟槌田家へ、自宅を抜け出して悪魔は訪れた――」
「そんな……」
「まさか……」
「うそだろ? そこまで……」
「……」
庭草を踏み分ける小さな足音を篤は聞き洩らさなかった。待っていたからだ。
良く茂った樗オウチの樹の下で顔を上げる。
―― やあ、来たね? カナちゃん。
そこにいるのは知っているよ。
そうとも。
僕は穢れた人間だ。
絵を描くどころか、生きていく値打ちもない。そうだろう?
君はそう思っている。
ああ、そんな風に嗤うなよ?
わかっているさ。だから……
さあ、見届けるがいい。
僕が出来ることはこれだけ……
「それが、君が見た〈最初の死〉だった」
探偵・興梠響(こおろぎひびき)はこう言って全ての報告を締め括った。
「そう、それが、私が見た〈最初の死〉――」
顔を輝かせ金糸子は頷いた。
「私が覚えた最初の――快感だった」
心から残念そうに溜息を吐く。
「残念だわ。3番目は貴方のはずだったのに」
兄が呻いた。震えながら、
「3番目だと? ど、どういう意味だ? ……金糸子……おまえ……」
先が続かない。
「うわああああああああああーーーー」
ドサッ
隼の、血を吐くような慟哭に重なったくぐもった音は、再び大槻(おおつき)が膝を折った音。
「……先生……」
「そうよ」
一方、ハミングするように金糸子は言った。
「あんなおじいちゃんじゃなく、貴方が揺れているところ見たかったのに、探偵さん!
PENDUに負けて、4人の少女を救えず、絶望の探偵、首を括る……
さぞ、素敵だったでしょうに!
ゆっくりしたリズムで、
月下の枝でスゥイングする貴方。
私、歌って差し上げてよ?
♪首吊りの歌をカナリアが歌うよ~ネンネコ、ネンネコ、ネンネコよ~~
あ~、面白い!」
ホトリと足を止めた。
瞳の底から透かすようにして探偵を見つめる。
「でも、もっとピッタリな調べがある。ご存知? このリズムとメロディ……」
新しい旋律が少女の唇から零れた。
「画伯の前で私、何度も踊って見せたわ。画伯が首を吊ったその枝の下でも。
画伯が連作絵に選んだタイトル……《少女舞曲》……
そのステップとリズムはこれよ。うふふふふ。
美学を収めた探偵さんでも、これは気づかなかった?
孔雀はこの世で一番美しい鳥、そう言ったのは画伯。
雀は天界で一番美しい鳥、これを教えてくれたのは貴方。
両方とも私は持っている。それは全部、私の中にある。私の名の中に……!」
〈舞曲〉――その別名には、〈孔雀舞曲パヴァーヌ〉がある。
少女の口遊むメロディは……
《 死せる王女のための孔雀舞曲 》
やがて、黒塗りの警察車輌がタイヤを軋ませて急停車し、足立(あだち)警部補が跳び降りて来るまで、PENDUは軽やかにステップを踏み続けた。
いつのまにか陽は落ちて、月が皓皓と輝いている。
少女の舞踏を見つめる無言の人影は、苅田に細く、歪いびつに伸びて、奇妙な稲わらに見えた。
☆ブリタニカ国際大百科事典 より
パヴァーヌ
pavane
16世紀初頭のフランス宮廷舞踊の一つ。スペインを起源とし,孔雀 pavoの優美さをまねた威厳に満ちた面もちで,ゆっくり,列を作って踊られる組舞。
☆ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」
https://www.youtube.com/watch?v=t3Jv2L7l5p0
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