第43話
***
「お話って何かしら?」
〈水郷(すいごう)展〉受賞祝賀会のその夜。
千野(せんの)画伯邸。
アトリエへ入って来た千野夫人を槌田篤(つちだあつし)は満面の笑顔で迎え入れた。
「綾(あや)さん! 僕は今日、貴女(あなた)に堂々と胸を張って伝えることがあります」
手を口元へ当てて綾は笑った。
「まあ、何をまた畏(かしこま)って? 存じております。先ほども主人ともどもご報告していただきましたもの」
言いながら、綾も〝畏まって〟今一度お辞儀をする。
「篤さん、このたびは水郷展、金賞受賞おめでとうございます」
「いえ、それじゃない。今日こそ、僕は貴女だけに伝えたい」
息せき切って青年は言った。
「僕は必ず戻って来ます。京都へ遊学して、先生に並ぶ――いや、千野碧明(せんのへきめい)以上の画家になって、そして、貴女を救いに戻って来る。だから、どうか、待っていてください」
綾は首を傾げた。
「おっしゃっている意味がわかりません」
「隠したってダメだ。貴女は先生を愛していない。だから、僕が――」
「確かに、私は主人を愛しておりません」
若い夫人はきっぱりと告げた。
「そう、ずっと私、待っているんです。私の愛に応えて……私をここから連れ出してくださる御方……」
「ほうら! だから、僕が」
「でも、私が待っているのは貴方じゃなくってよ」
「僕じゃない? 僕ではダメだと言われるんですか?」
花のような綾の微笑。
「ええ。私がお慕いしている人は、隼(じゅん)さんですもの」
夜風が窓を揺らす音だけが聞こえる。
「そんなはずはないっ!」
拳を握って、篤は顔を上げた。
「水郷展の結果を見たでしょう? 僕の画力……才能は隼より優っている! 貴女を幸せにできるのは僕だけだ! 僕は必ず、絶対に、貴女を世界一の幸福な妻にして見せます!」
「本気でそんなことおっしゃるの?」
長い睫毛が瞬いた。
「貴方って、画伯に似てらっしゃる! そうね、貴方ならきっと画伯のような立派な画家におなりでしょう。でもね、素晴らしい絵を描くこと、卓越した画才と、愛し愛されることは全く別の領域ですわ」
朱い唇が解けて、吐息が零れる。
「画伯は皆さんに絵の描き方を教授なさってる。そうね、それなら、私、貴方に、餞別代わりに教えてさしあげる。ねえ、篤さん、愛は芸術的才能とは全く関係なくってよ」
袂を胸に抱いて、心から嬉しそうに綾は言った。
「金賞が隼さんでなくて良かった!」
「え?」
「だって、これで隼さんは、遠くへ行かないですむ。ずっと傍にいてくださるんですもの!」
「――」
「これが偽らざる私の本心です」
綾は膝に手を置いて丁寧に別れの挨拶した。
「では、これで失礼します。京都へ行っても、お身体にはお気をつけてね、篤さん」
「綾さん――」
遠ざかる背中。扉の前、篤は駆け寄って抱きしめた。
「綾さん!」
「キャ!?」
祝宴の酒も入っていた。何より、この日、同朋を破って勝ち獲った最高賞……証明された実力……揺るがぬ天賦の才……賞賛の嵐……
それらが青年を恐れ知らずにした。
「貴女の愛は間違っている! 僕こそ貴女に相応ふさわしい! 僕こそが貴女の愛に値する――誰よりも――」
「何なさるんです! いや! 放してっ!」
ダン!
ここで、飛び込んで来たのは大槻おおつきと隼だった。
「何をやってる!」
「やめろ! 篤!」
「あ、隼さん! 祐(ゆう)さんっ!」
***
「そうだったんですか……あの祝賀の夜、そんなことが……」
弟、槌田智(つちださとし)は項垂(うなだ)れて唇を噛んだ。
「兄がそんな真似を……」
苅田を見つめたままの大槻(おおつき)。
「皆、酔っていた。篤だけでなく僕や隼……受賞の高揚感もあった……」
地に伏す隼の声は聞き取れないくらい小さい。
「あの夜は特別な夜だった……篤は魔が差したのだ……」
大槻祐人(おおつきゆうじん)は最後の部分を語るために再び口を開いた。
「幸い、踏み込んだのが僕ら同輩――千野画伯の3羽鴉と呼ばれた僕と隼で良かった。僕たちは、座敷から姿が見えなくなった綾さんに気付いて、先生が不機嫌になる前に連れ戻そうと邸内を捜していたんだが。
僕らに引き離されて、篤は自分の行いに気づいた。
我に返ったあいつは号泣した。そんな篤にその場で綾さんははっきりと言ったのだ。
『このことは忘れます。なかったことにしましょう』
まず綾さんが言い、僕も隼も同意した。
更に綾さんは言った。
『私もいけなかった。言葉が過ぎました。私、芸術はわからないけど、芸術家の情熱は理解できます。その熱い思い……血の昂たかぶりなくして創作はできないのでしょう……』
この夜、千野邸のアトリエで起こったことは〝なかったこと〟にする。
それが僕ら3人、いや、綾夫人を入れて4人の秘密となった。
篤は流石に消沈した様子だった。心から自分を恥じていた。
だが、その場では中途半端な言葉は無意味だと僕も隼も思った。
人はあまりにも大きな間違いを犯した時、謝罪の言葉など出てこない。慰めの言葉も。
明日になれば、と僕たちは思った。夜が明けて新しい日が来たら……明るい陽射しの下でなら……
また別の意見、もっとマシな言葉を思いつくだろう。
僕と隼は無言で出て行く篤を見送った。
これが僕らの見た篤の最期の姿だった――」
「ありがとうございます」
智は深々と頭を下げた。
「大槻さん、佐々木さん、全てを教えてくださって、そして、酷い行いをした兄に寛大な対応をしてくださって、弟として、改めて、心から、感謝します」
即座に手を振る大槻。
「いや、僕たちも、君が興梠(こおろぎ)さんに言ったさっきの言葉の通りだ。同じ悔恨を噛みしめて来た。どうしてあの日あの場で、もっと的確な言葉を篤にかけてやらなかったのか――」
篤も叩頭した。
「今でも悔やんでいる。僕たちは力不足だった。すまない、智君……」
「とんでもない! 皆さんは最善を尽くしてくださった! むしろ、もっと罵詈雑言を浴びせられても仕方のない行為を兄はしたのだから。兄は確かに絵は上手かったけど……絵の才能には恵まれていたけど……」
智は空を仰いだ。
「ヒトとしては最低だな! 人間失格だ」
「いや、そうじゃないよ」
ここで進み出た興梠響こおろぎひびき。
凛とした声が苅田に響く。
「僕は二つの理由から篤さんを擁護する」
「いえ、庇(かばっ)ていただかなくても――僕、大丈夫です」
「いいから、聞きたまえ。同情や憐憫ではなく事実に沿って僕は篤さんを擁護するのだ。このことを話すのは辛い。だが、僕は大槻さんに言った。真実は変えられない、と。
だから――僕も、最後まで話そうと思う」
一同を見回して言った。
「これが依頼を受けた本案件の、最後の報告です」
興梠は指を1本、立てた。
「槌田篤さんを擁護する一つ目の理由。僕も同罪だから」
「興梠さん……?」
助手に向かって頷いてから、
「僕もかつて自分を愛してくれない人を力ずく抱きしめたことがある」
最も忘れたいのに、最も頻繁に思い出す光景だった。
洋館の窓辺。揺れるカーテン。午後の光に縁どられて佇んでいた乙女。
こらえ切れずに背後から抱きしめた。モザイクの床にフエルトの草履が摺れてキュッと鳴った。腰に零れる黒髪の冷たさが未だに――
未だにこの身体に沁みついている――
2本目の指を立てると探偵は続けた。
「2つめ。そんな僕よりも――篤さんは過酷だった。〝魔が差した〟と隼はさっき口にしたが、魔が降りて来た、魔に魅入られたと僕は思っている」
「その夜、大槻さんと隼、綾夫人の3人に別れて篤さんはアトリエを出た――
そこで終われば篤さんは死を選ばなかった。僕と同じように傷を抱えて、それでも、生きて行ったはずだ」
青年画家、画伯秘書、弟、三者三様に叫んだ。
「何と言った、響(ひびき)?」
「僕たち――僕と隼が知っているのはここまでだが……?」
「ここで終わりではないんですか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます