第40話

 水を打ったように静まり返る一同。


 静寂の中で探偵はゆっくりと目を開けた。


「千野碧明(せんのへきめい)が描く裸婦……! 芸術的には素晴らしいものだったはずだ。だが、時節柄、制約が多い。公序良俗に反する――」


 この時代――1930年代とはどのような時代だったのか?

 日中戦争の端緒となった盧溝橋(ろこうきょう)事件勃発は1937年7月。その年の11月に上海、12月に南京が日本占領下に入った。これに先立つ1936年、米英と対決姿勢を鮮明にする日本とドイツは日独防共協定を締結している。世界戦争の足音は確実に大きくなっていた。

 芸術的観点で特筆すべきはこの時期、ドイツで吹き荒れた〈絵画嵐ビルダーシュトゥルム〉である。

 近代芸術を〈退廃〉〈堕落〉と見做みなしたナチスは多くの芸術家の迫害を開始している。マックス・ベッグマン、国外追放、マックス・エルンスト、アメリカ移住。パウル・クレーは放浪の末、行き着いたスイスでも市民権を拒否された。そのスイスのダボスでエルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナーはピストル自殺で果てた。自分の作品32点が退廃芸術展に選定されたことに絶望したせいである……

 画家を死に追いやった〈退廃芸術展〉は1938年、ミュンヘンを皮切りにドイツ全土で開催された。

 これは近代芸術が人間を道徳的に堕落させるというナチスの芸術観の下もと、企画された展覧会で、展示された作品は賛美ではなく晒しものにされた。文字通り、芸術の公開処刑場であった。

 退廃的としてドイツが押収した作品リストにはゴッホ、セザンヌ、ムンクの名が連なる。芸術家が生き難い時代が到来しようとしていた。

 その悪しき波は確実に日本へも打ち寄せている。自由な芸術活動に対する制限は厳しさを増しつつあった。前述の藤田嗣治(ふじたつぐはる)、小磯良平(こいそりょうへい)ら若き芸術家が従軍画家として中国へ渡ったのも憂慮する事態なのかも知れない――


 そんな中にあっての、少女の裸婦画(ヌード)……!


「まして、今現在、モデルの少女たちが続けて誘拐されたとあっては《少女舞曲》は世間の糾弾の的になりかねない。だから、画伯としては裸婦画の方はなんとしても秘蔵しておく意向だった」


「興梠(こおろぎ)さん、貴方のおっしゃる通りです」

 感服した、というように大槻(おおつき)は両手を突いた。

「今回、画伯が描かれた裸婦画は素晴らしいものでした! 類稀(たぐいまれ)な傑作だ! だからこそ――」

 苅田の土に爪を立てる。

「僕は、そして、画伯ご自身も、それらの作品が貶められるのを恐れた。間違った取り扱いをされ、汚されるのを避けたかった――」

「命に代えても?」

「う」

「そう、命に代えても、ですね? 貴方も画伯も絵を守るために取引を交わしたんだ。命の代償。その結果がこれだ。画伯は戻らず、貴方は犯人の汚名を着ようとした――」


 探偵の言葉の意味が浸透するまで暫く時間がかかった。


 まず志儀(しぎ)が顔を上げた。

「裸婦画の存在を知ったPENDUに画伯は脅迫されてたってこと?」

 続いて隼(じゅん)が憤いきどおって、

「裸婦画を人質にか? なんてことだ!」

 聡さとしが唾を飲み込む。

「画伯はPENDUに金品を要求されたていたんですか?」

「お金なら良かった!」

 叫んだのは大槻だった。 

「それならまだましだ! PENDUの要求は手が付けられなかった!」

 片膝を立てて立ち上がる。

「先生の名誉のために誓って言いいます。裸婦画はそのモデルの少女が望んだんだ。描いてほしいと。未成年だから、面倒なことになってはと僕は反対した。でも先生は……」

 刹那、青年の顔を過った名指し難い表情は、悔恨? それとも、歓喜?

「美を描くことに滾(たぎ)る先生は、抵抗できなかった。結果、本当に素晴らしい作品が生まれた! けれど、弱みを握るPENDUは芸術などお構い無しだ! 傍若無人に振る舞い、手が付けられなくなった――」

 色白の顔が朱に染まる。

「先生を意のままに操り、それを楽しみ、挙句の果てには、大それた事件を起こし、名の売れた探偵を招(よ)んだ」

「招んだ? 聞き捨てならないな?」

 ここで青年画家、佐々木隼ささきじゅんがズイッと前へ出た。

「おい、大槻君、その言い方だと、まるでPENDUが探偵を招聘したみたいではないか! そして、暗にこの僕がPENDUだと言っているようなものだ!」

「まあ、落着きたまえ、隼。ここは大槻さんの言葉を最後まで聞こうじゃないか」

 興梠が押し止める。

「そうよ、兄様」

 金糸子(かなこ)も脇から兄の腕を引っ張った。

「大槻さんがその悪辣なPENDUをどう思っているか、私、とても興味がある。ぜひ、お聞きしたいわ」

「僕が? PENDUをどう思っているか?」

 大槻は青年画家とその妹をじっと見つめた。絞り出すような声で、

「千野碧明の連作絵少女舞曲の構想の元となったモデルの少女……彼女は美の女神ミューズだった。それなのに……PENDUは破壊神だった……!

 《少女舞曲》がPENDUによって地に堕ち泥に覲まみえるのが……僕は耐えられない……!」

 再びがくりと頽(くずお)れた。

 荒い息が収まるのを待って、興梠は新しい質問をした。

「画伯が失踪した夜、画伯はPENDUに呼び出されたのだ。そうですね?」

「はい、多分」

 悔しそうに探偵を振り仰ぐ。

「僕はそのことを知りませんでした。僕が知っていたら絶対、僕も同行した。でも、画伯は呼び出されたことを僕に知らせなかった。その上、あの夜、僕は――」

「――貴方は不在だった」

 唇を噛んで俯いた大槻に替わって興梠が言い切った。

「貴方は綾あや夫人のたっての頼みで彼女を隼の元へ運ぶために車を走らせていたから」

「!」

「!」

「!」

 息を飲む音が3つ重なる。大槻と隼、そして、探偵助手だった。


「そうなんだよ、フシギ君。君が深夜に見た踊る女たち。その最初の一人は綾さんなのだ」

「……あれは……夢じゃなかったのか?」

 ポカンと口を開けたままの助手に興梠は言った。

「あの影は、恋する男、佐々木隼に会いに来た綾さんだったのだ。だから、家に向かって垂直に駆けて来た。そして、隼の部屋へ飛び込んだ――」

 秘書に視線を戻す。

「大槻さん、貴方の真心……と言うか、貴方たち、千野画伯の愛弟子の絆きずなは固いな。日頃は素知らぬふりを装っているが」

 探偵の声は何処までも優しい。

「同年齢で、千野碧明(せんのへきめい)の下(もと)に集(つど)い、若い頃から綾夫人の恋心を熟知していた貴方は、時折、このように綾さんを隼の元へ送り届けてやっていた」

「その通りです」

 大槻ははっきりと頷いた。

「先生は睡眠薬を飲まれるから。お気づきにならない」

「だが、あの夜は違った。画伯は眠らず、頃合いを見計らってPENDUの呼び出しに応じて邸を出た」

 そっと付け足す。

「画伯失踪の朝、綾夫人が取り乱したのは、当夜、画伯は眠っておらず、従って、画伯に逢引の件がばれたと知った、その後ろめたさもあったのでしょう」

「ねえ、興梠さん、じゃあ、あの夜、僕が見たもうひとりは……?」

「ちょっと待ってくれ、フシギ君。それに答える前に、こちらを先に話そう」


「PENDUに呼び出された画伯―

 僕が推測するに、ヴェルナールを持ち出したのはこの時の画伯だ。大槻さん、貴方は嘘をつきましたね? 掛け代えた絵に続く、貴方の2番目の嘘がこれです」

「――」

 大槻が頷いたのを確認してから、

「千野画伯は薬を持参するようPENDUに強要されて、従った。但し、その時点では画伯は希望を抱いていたと僕は思っています。

 画伯はPENDUを説得し、罪の大きさを自覚させ、少女たちを解放させようと決心して会いに行ったのだ」

 悲しそうに興梠は首を振った。

「だが、無理だった。

 PENDUは言うことを聞かず、睡眠薬は奪われ、画伯は帰って来ていない――

 画伯の絶望はどれほど深かったことだろう?」

 ゆっくりと歩き出して大槻の前で足を止める。

「そして、次は貴方だ、大槻さん。貴方も同じことをしようとしている。

 画伯の名誉と素晴らしい芸術作品を守るため、命を引き換えにPENDUの罪を被るつもりだ。だが、貴方のやり方は間違っていますよ」

 ピシリと言い切った。

「真実は変えられない」



「フシギ君、待たせたね? 今こそ君の質問に答えるよ」

 探偵は助手の前へ立った。真正面から瞳を捉える。

「君が夜の庭で見たもうひとりの影は金糸子さんだ。真横に庭を横切って走り去った……

 自宅を出て行った……

 何処へ?」

 自分で問い、自分で答える。 

「画伯と会うために」

 金糸子の方を向く。

「真犯人PENDUは貴女(あなた)です、金糸子さん」


 冴え冴えとした秋風が苅田を吹き過ぎて行った。


「貴女こそPENDUであり、千野碧明渾身の連作絵少女舞曲の第一番目のモデル、僕の言った〝一人足りない少女〟です」






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