第37話
漁師の言ったとおりだった。
洞窟とは名ばかり、渚に沿った崖の斜面は土砂や岩石で完全に埋まっている。人を隠すどころか、奥へ入ることすらできない。
「なんてこった!」
「では、ここではないのか?」
糠喜(ぬかよろこ)びだったのだ……!
興梠(こおろぎ)はハッとした。歴史資料館での助手の言葉を思い出す。
『PENDUが、今、この場面を見ていたら――』
そう、見ていたら、落胆する我々の姿に飛び跳ねて喜んでいるだろう。
嬉しがらせておいて地に落とす。まったく……!
欣喜雀躍(きんきじゃくやく)とはよく言ったものだ。雀が喜んで踊り廻っている情景が瞼にちらつく。
それから? 画伯の手紙の絵を見て助手はこうも言ったっけ?
『踊っているようだね? この雀たち……』
では、孔雀は? 踊るのは雀だけなのか?
いや、今の時点では踊らされているのは俺たち自身だ! クソッ、PENDUめ!
「興梠さん?」
金糸子(かなこ)の白い指が肩に触れた。
「兄が訊いています。どうします?」
「え? あ、失敬。つい、画伯の残した手紙のことを考えていて――」
「響(ひびき)、こうなったらやはり計画通り、行ける限り――全ての海岸線を巡ってみようじゃないか。落胆するのはまだ早い」
「そうだよ、そうがっかりすることはねえ! 鷺浦(さぎうら)へ行ってみなよ、学生さん!」
聞き覚えのない声にギョッとして振り返る一同。
さっきの漁師が立っていた。心配して付いて来てくれたようだ。
「あんたら、洞窟が見たいんだろ? あそこなら大丈夫、ちゃんと洞窟だ。おまけに、昔から言われてるんだがよ、この猪目(いなめ)洞窟と繋がっているんだとさ」
「!」
こうして車まで戻り、漁師に教えられた鷺浦を目指す。
鷺浦湾は、古く江戸から明治にかけて銅山で栄えた四十二浦有数の港である。
とはいえ、北前船が発着した賑やかな光景も今は昔。銅山も昭和10年に閉山し、翡翠色の漣(さざなみ)が優しく打ち寄せる長閑(のどか)で静かな湾に戻っていた。そして――
ここにも囚われた少女たちの気配はなかった。
塞がっていた猪目洞窟とは違い、こちらの洞窟はちゃんと在った。が、空っぽの伽藍洞(がらんどう)だった。
「ここら海岸端の集落は小さい」
出会った村の人たちは口を揃えて教えてくれた。
「知らない人間が入って来たら、すぐわかるよ」
言われればその通りだ。猪目湾もそうだったが、半島沿岸部の地形は畝(うね)っていて狭い。洞窟は人家の目と鼻の先にある。隠れ家にするのは無理だと興梠も思った。
その後、心を奮い立たせて浦々を訪ね歩いた。興味深い名称が多かった。
十六島(うっぷるい)浦、唯(ただ)浦、恵曇(えすみ)浦、手結(たゆ)浦、片句(かたく)浦……千酌(ちくみ)浦、七類(しちるい)、諸喰(もろぐい)……
中でも二か所ばかり、ここではと期待を抱いた場所があった。
片江(かたえ)浦。
ここの方結(かたえ)神社の〈浦安の舞い〉は、村の少女たちが巫女装束に身を包んで歌い舞う美しい祭事だと聞いたからだ。まさに千野碧明(せんのへきめい)の
だが、違った。ここにも少女たちはいない。
北浦は、白砂青松(はくしゃせいしょう)、遠浅の渚は避暑地として人気があるそうだ。その地の伊奈頭美(いなづみ)神社の神事のひとつに一同注目した。
神社前の海岸に森に見立てた枝木を積み上げ、八咫烏(やたがらす)を描いた的を掲げて弓矢で射るのだ。
カラス……鳥繋がりで、もしや、と鼓動が早くなった。が、ここも違った。少女たちはいない。
このように四十二浦を巡って知ったのは、この地域には忌明けに汐汲みをして身を清める風習があったということ。
〈汐汲み〉は、死を汲む……死を払い、浄化させる儀式だった。
だとすれば、今回少女たちに死を与えようとするPENDUの邪悪な企みとはかけ離れているのではないか?
この場所は違う。興梠以下、皆がそう悟った時、無情にも秋の短い日は傾き始めた。
2台の車は美保関(みほのせき)を経て帰路に就いた。
( 俺は負けたのか、また?)
そう、また、だ。繰り返される失敗。苦い敗北の味。
俺は阿修羅どもには勝てない。過去の悪夢がどす黒く興梠の胸を塗り潰す。
前回は俺が一人の女性を失っただけだ。だが、今回は4人、しかも命まで?
「興梠さん?」
「探偵さん?」
「響?」
探偵の苦悶に気づいて車内で声が上がる。
「君のせいじゃないぞ、響」
ハンドルを強く握って青年画家は言った。
「僕は確かに君に今回の件を依頼したが、だが、責任を担うのは君一人ではない。この後、何が起こっても」
一旦言葉を切ってから、
「PENDUの宣言通りお嬢さんたちに何かあっても、それはおまえのせいじゃない」
「ちがう」
俺のせいだ。最後の手紙を託されたのも俺だし、ハナからPENDUは俺に挑んでいた。明らかに俺を標的ターゲットにして――
俺を?
そうだ、妙な違和感はここから来ている。
今回の一連の事件は始めから俺を意識していないか?
―― この事件では興梠さんだけが〈捕食者〉じゃない! 喰われる側なんだよ!
助手の明瞭な声。鴫(しぎ)は灯を掲げる、か。
そのとおりだ。
この案件、最初から違和感があった。背後から覗かれているような……纏(まとわ)り付く視線を感じていた。
俺は獲物。
招かれて、最初から仕組まれていたように次々掲示される謎。それらは俺に投げかけられていた? 挑み、競うために?
巻き戻せ。今一度、全ての記憶を。
そして、見落とした鍵を探すんだ!
いや、鍵というより欠片(かけら)だ。真実の欠片。俺はちゃんと集めている。あとは嵌め込めばいいのだ。
正しい順序、正しい場所に。
『これがその手紙だよ』
そこから幕を上げた今回の案件。
『ああ! 興梠さんの大学時代からの友人で、助けを求めて来たって言う――その人、新進の画家なんでしょ?』
『父様が生きていた頃はあの小屋に美しい鳥たちがいっぱいいたのよ』
『ご明察。そのとおりだよ、響』
そうだ。そう言って、あの日、青年画家と妹は認めた。
『僕の――というか、我が家の苗字は正式にはそう書く。佐々木隼(ささきじゅん)は 鷦鷯隼だ』
『そうよ、当ててみて! 私の名の中にも鳥たちがいるわ』
それから? 足立(あだち)警部補の言葉――
『綾(あや)夫人のご実家は美保関さ。今は廃業した木嶋(きじま)酒造のお嬢さん。偶然だろうがね」
その綾さん。
『私たちの盛大な結婚式を見届けて、父は首を括(くく)りましたわ』
『ええ。二十歳で。自殺です。兄は首を括ったんだ』
これは槌田智(つちださとし)君だ。
『誰が見ても才能に恵まれていたのに。その未来を易々やすやすと捨てた。ほんと、馬鹿だな』
『でも、兄さんが絵のせいで死ぬはずはないんだ』
智君はこうも言った。
『もし何か変わったことがあったのなら、少しでもそれを僕が気づいていたなら、兄があんなことをする前に僕が止められたかも知れない』
『あの夜、画伯邸は、評判通り愛弟子の〈三羽鴉〉が全員入賞したことで盛り上がって……祝杯は深夜に及びました。だから、僕ら子供たちは寝ちゃったんです』
『僕たち子供にも一人前のお膳が出て晴れがましかったな!』
『カナちゃん!? 見違えたなあ!』
『まあ! 智ちゃんこそ! こっちに戻って来られたのでまた画伯の元に通っていらっしゃるんですってね!』
『槌田(つちだ)君の家は画伯邸にも近かったし、何より、ウチとは同じ町内だった。ほら、篤あつしがあんなことになったので、槌田家は引っ越したんだよ』
『フフ、これ、綾奥様の服なの』
『綾さんも洋装するんだね? ちょっと意外だな』
助手の言葉で何といっても印象的なのは夢の話だった――
『庭のちょうど鳥小屋の前辺りに女の人の影が見えた。洋装でね、スカートをヒラヒラさせてスッ-ッと縦に駆けて来て……消えちゃった!』
『また女の人が見えたんだ! しかも、今度はさっきとは違って、真横の方向へ髪を靡かせてスゥーーーッと消えて行く。なんだか、フシギな舞踏を見てるようで、布団に逃げ帰ってからも、目を瞑るとね、暗い庭をあっちこっち駆け回る女のヒトの影がちらついて、そりゃあ、もう、恐ろしかったな! 夢だろうけど』
他に助手は何と言っていた? 何か心ザワめかせることを言っていなかったか?
『松江のイメージを聞かれたらマドレーヌを思い出すよ。そのくらい印象深いんだから!』
そう、少年は画伯の絵の前でもマドレーヌだけを見ていた。困ったものだ。
その、素晴らしい連作絵に関する様々な言葉――
『あれは《秋の絵》でした』
『いえ、掛け代えてはいません。飾ってある以外はここに収納してあるものが全てです』
『君の言葉は正しい』
こう言ったのは画伯本人だった。
『少女が一人足りない? その通りだよ』
『九枚の絵に九人の少女。これが正しい勘定だ』
『いいかい、《少女舞曲》だよ。私が、何故、この名を選んだと思う?』
孔雀と雀……西洋……印象……お嬢さん……マドレーヌ……首吊り……
サイコパスは騒がし屋だ。謎をかけて、解いてもらいたがる。そして、引っ掻き廻し狂喜乱舞する。
原点へ戻ろう。
孔雀と雀。その共通点は?
どちらも一番美しい鳥だった?
そうだ、孔雀は勿論のこと、雀だって、実は、天界で一番美しい鳥だった――
『私は美を捉とらえることに人生をかけて来た。美に狂い道を誤った……』
『残念だよ。情熱に燃え、心躍らせて描き始めたのに、こんなことになるとは』
錯綜する言葉。駆け巡る残像。
窓硝子に額をつけて興梠は喘いだ。
( だめだ。わからない―― )
もう時間がなかった。
苅田に赤々と燃える夕陽。《印象・日没》……
違う。正しくは《印象・日の出》だ。モネの描いたあの絵が印象派の由来となった――
興梠の顔に自嘲の笑みが広がった。
こんな時まで俺は絵のことを?
いいさ。探偵は辞めて、明日からは美術館を巡って生きて行くとしよう。歌を忘れた金糸雀(カナリア)が裏のお山に捨てられるなら、謎が解けない探偵も同様だ。
燃える空の色は、今や自分の屍を焼く荼毘(だび)の炎に見えた。
おや? 今の稲わらはそのモネの《積みわら》に似ているな? あの絵を所蔵しているのは岡山県……大原美術館だ。山陰からの帰り道に寄って行くかな?
PENDUが突きつけた刻限の日没まではあと少しだが、廃業した探偵にはこの先、腐るほど時間があるのだから。
長い一生になるな! たった一人で病院跡の洋館暮らしか。ちっともなつかない黒猫は助手にあげよう。最後の給料代わりに。
どのくらい窓の外を飛び去る風景を眺めていただろう。
「車を」
興梠は乾いた声で言った。
「車を止めてくれ」
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