第36話

 これからの行程を確認しようと車を停めた隼(じゅん)が指し示しているのは路傍の地図だった。

 半畳くらいの大きさでかなり昔に作られたものらしく木造の地肌は風雨に晒されてペンキが剥げている。それでも島根半島北岸一帯の地形と地名、湾や村落の名が読み取れた。

「見たまえ、ここ。この表記」

 一同、下車して隼が指差している部分を見る。

「鵜鷺(うさぎ)地区――この先の峠、鵜峠(うど)から鷺浦(さぎうら)一帯を指すんだろうが……」

 急き込んで隼は繰り返した。

「鵜鷺だと! 響(ひびき)、君は前に指摘しただろう? 古代大和朝廷は鳥の名を好んだ。初代出雲国造(いずものくにのみやつこ)も鳥の名が入っている……僕は写生で幾度もここを走ったが地名の表記までは気を配らなかった」

 興奮を抑えきれない様子で、

「う・さ・ぎ と音(おん)だけで聞いたら、普通、出雲神話から大国主命(おおくにぬしのみこと)と因幡いなばの白兎の連想で〈兎〉を思うだろう? まさか〈鳥〉――鵜(う)と鷺(さぎ)だとは!」

 金糸子(かなこ)が笑う。

「あら! 兄様は鳥に詳しいくせに」

「まぜっかえすなよ、金糸子。鳥に入れ上げていたのは僕じゃなく、親父だ。僕は受け売りさ。それより、僕が言いたいのは」

 髪を掻き上げると真剣な顔で続ける。

「PENDUは最初の絵手紙で鳥を克明に描いていた。我が家の苗字、佐々木の正式な表記、〈鷦鷯〉にも詳しかったし……あいつも鳥に拘(こだわ)っているんじゃないか? だとしたら、この一帯はPENDUと繋がりがあるとは思えないか、響?」

 確かに。サイコパスが好みそうな言葉遊びではある。

「見せてもらいましたが、画伯が興梠さんに残した手紙の中の絵も鳥――孔雀(クジャク)と雀(スズメ)でしたよね?」

 智(さとし)が一歩前へ出た。鋭い眼差しで看板を見つめる。

「鳥の影がちらつくのは偶然だろうか?」

「そう言えば――」

 腕を組んで興梠(こおろぎ)、

「前に話題にしたヤマトタケルの最期だが」

「僕、憶えているよ!」

 得意そうに鼻を蠢かす助手。

「ヤマトタケルは死んで白鳥になって出雲の方角へ飛び帰ったんだ! ね、金糸子さん?」

「ええ、私も憶えているわ」

「その白鳥だが、単に〈白い鳥〉の意味で、現在の白鳥を指すのではないと主張している学者もいる。その説で言うと、白い鳥は〈鷺〉らしい」

「なるほど! この辺りでは白鳥はあまり見かけませんものね。鷺の方がしっくりくる」

 智が強く頷いた。続いて金糸子、

「私もそう思うわ」

 慌てて志儀しぎも、

「ぼ、僕もっ!」

「この島根北岸ですが――42浦巡りという特異な風習があるんですよ」

 大槻祐人(おおつきゆうじん)の言葉に皆、一斉にそちらを振り返った。

「汐汲(しおく)みをしながら浦々の神社を巡る。その岬や湾の数が42だからこう称されているそうです。この辺りはその地域なんです」

「へえ? 僕は初耳だよ。恥ずかしながら」

「現在は廃れてしまったそうですからね。僕も幼い頃、曾祖父に聞いただけで今回の騒動がなかったら思い出さなかったでしょう……」

 智と志儀、少年たちが口々に訊いた。

「ひょっとしたらPENDUはその風習を知っている可能性がある?」

「だから、意図的にこの地域を選んだ?」

「昨日、言おうとしたのはこのことなんですね?」

 興梠は昨夜、画伯邸の座敷で何事か言いだそうとして口を噤んだ大槻を思い出した。

「大槻さんが逡巡なさったの無理ないわ。だって、浦巡りのその数……42って――〝死に〟に通じていて不吉なカンジですものね」

 身震いをする金糸子。

「うむ、42浦巡り――死に浦巡りか……」

 ますますサイコパスの好みそうな隠喩(メタファー)だ。興梠もゾッとした。今日の日没に殺される4人しにんの少女たちの42(しに)浦巡り……死を(汐)を汲みながら……?

「やはり出て来て良かったな! 別の見方をすれば、こりゃあ大いに希望が持てるってことじゃないか!」

 青年画家はどこまでも前向きだった。

「こっち、海岸線にはPENDUの気配を強く感じる。早速、この鵜鷺一帯を探索してみよう!」

「どうしたの、興梠さん?」

 凍り付いたように直立したままの興梠に気づいて志儀が訊いた。

 違う。探偵の目は別のものを捕らえていた。

「おい、これ――」

「え?」

 探偵が指差した文字。鵜峠や鷺浦より下。小さいながらも妙にくっきりと記された地名。



  猪目洞窟(いなめどうくつ)



「これはなんだ!」

「こんな場所があったのか!」

「いやだわ、兄様、早く言ってよ!」

「うん、鵜鷺よりこっちの方がドンピシャだ!」

「待て、僕も全く気付かなかった! 言ったろ? 普段僕は写生が目的で走ってる。景色を見るためで地名など気にかけない。大体、〈猪目〉などという言葉も今回、こんなことがあって初めて注目したんだ」

 青年画家は改めて看板を凝視して驚きの声を上げた。

「まさか、こんな名の洞窟があったとは!」

  ( 洞窟……これは考えなかった!)

 驚愕は探偵も同じだった。 

 そうか、海岸にはこの種の天然の隠れ家がある。少女たちの監禁場所としては最適じゃないか!

 ひょっとして――そこに少女たちがいる……?


「兎に角行ってみよう!」


 一気に沸き立つ一同だった。





 地図で見ると猪目洞窟がある猪目湾は鵜峠や鷺浦湾の先にある。皆、逸はやる心を抑えられず真っ先にそこを目指すこととなった。


 ますます細く、険しくなる断崖に沿った道。

 遂ついに車を止めて徒歩に切り替えた。




「標識の通りならこの辺りのはずなんだが」


 轟とどろく海、切り立った断崖絶壁、生い茂る樹々にさざめく葉……

 画家の目にはこの上もなく美しいハーモニーだろうと洞窟を探して歩きながら興梠は思った。

 旧友が足繁く写生に通うのが理解できる。青と緑の諧調、光の乱舞。印象派たちが挑んだ世界が眼前に広がっている。蘇る名画の数々。

 モネの絶壁アヴェルの門、クールベの《波》、シスレー《舟遊び》、シニャック《ロッテルダム、蒸気》、ヴェラマンク《川の上のヨット、シャトー》、 フェルナン・コルモン《海を見る少女》……

 海を見る……少女……



 暫しばらく一帯を歩き回ったが洞窟らしきものは見当たらなかった。地元の人間に尋ねてみようと近くの集落へ降りた。




「洞窟だあ?」


 20戸に満たない小さな漁村。家の前で網を繕っていた男が顔を上げる。

「あんたら、都会の学生さんたちかい? わざわざ奇特なこった!」

 前にも大学の偉い先生や学生たちが数回、調査に訪れたことがあると言う。

「その先生が洞窟だと確認したんだ。なんでもイズモフドキとかって難しい古書に書いてある〈黄泉の国への入口〉だってさ。たまげたねえ!」

 漁師は豪快に笑った。

「大社裏の標識を見た? うん、あれにも学者先生が最近書き入れたんだ」

「ああ、そうなんですか」

 道理で、猪目洞窟の文字だけが妙に新しかったわけだ。ひょっとしてPENDUが書き込んだのかと興梠は思ったのだが。

「わしらはそこが洞窟だとはとんと忘れていたんだよ。年寄りの中には憶えていた者もいたがよ。場所? ほれ、ここを上がって行くと神社がある。そのすぐ前の海岸さ」

「へえ! そんなに近いんですか!?」

 思わず上がる歓声。

「やったぁ!」

「良かったぁ!」

「うむ、近いさ。近いのはいいんだが――」

 一方、申し訳なさそうに男は目をしょぼつかせた。

「あそこはとうの昔に崩れて……埋まっちまっとるよ」

「え?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る