第34話
千野(せんの)画伯から託された絵手紙の謎も未だ解けていないというのに。
新たに受け取ったその日3通目の〈謎の手紙〉を携えて興梠(こおろぎ)と志儀(しぎ)は千野画伯邸へ戻った。
座敷へ入ると、秘書の大槻(おおつき)、続いて隼(じゅん)もやって来た。
「お帰り、響(ひびき)、志儀君」
「綾(あや)さんの方は?」
「係り付けの医者が安定剤を処方してくれた。今は落ち着いているよ。傍には貞(さだ)もついている。それより――」
心配そうに旧友を見つめて、
「君の方が具合が悪そうだぞ。顔が真っ青だ。何かあったのか?」
「これを受け取った――」
《 最後通牒
お嬢さんたちの命は 明日の日没まで。
お嬢さんたちは 何処にいる?
お嬢さんたちを 見つけよう!
謎を解いて お嬢さんたちを見つけてね?
謎は全てこの手紙の中にあります。
PENDU 》
流石に隼も息を飲んだ。
「〝謎は手紙の中〟にって? で、――謎は解いたのか?」
興梠は首を振った。
「いや。皆目わからない……」
「警察へは?」
それは済ませた、と興梠。
「これはコピーだよ。実は先に警察へ寄って実物の方は足立(あだち)警部補に渡して来た。封筒や便箋の化学的分析、それから、文の中に隠されている暗号や隠喩に至るまで、警察の方でも総力を挙げて謎の解明に当たるそうだ」
何としてでも少女たちの居場所を見つけ出さねばならない。でなければ少女たちは明日の日没には……
静まり返る室内。
口をへの字に曲げている志儀、腕を組んで端座している大槻。座卓の上に置かれた紙片は不気味な白い穴に見える。
隼は興梠の肩を叩いた。
「だが、まだ時間はある。君一人が担う必要はないよ。警察もそうだが、こちらはこちらで皆で知恵を絞ろう。きっと、上手く行く。謎は解けるさ!」
「そうだな」
落ち込んでいる暇はない。時間があると友は言ったが、逆に言えばこれからが、時間との闘いなのだ。
画伯の〈孔雀と雀〉より、取り敢えずは(PENDUの手紙〉の文章の解読に専念しようということになった。
PENDUの引いた線(ライン)、最後通牒は明日の日没までだ。
「ねえ、確認していい? 〝明日〟っていつさ?」
手を上げて少年が訊いた。
「そりゃ、文字通り明日に決まってるだろう?」
吃驚した顔つきで隼が言う。
「今日の夜が明けたら明日だ」
「いや、いい質問だ、フシギ君。それは、僕も気にかかったところだ」
探偵も気づいたのだ。
手紙に記された〈明日〉の設定。
「これは僕が今日、猪の絵手紙に反応して即座に歴史資料館へ来ることをPENDUが想定しているということだ。ここから真犯人像について何か読み解けないだろうか?」
「つまり、PENDUは興梠さんの行動を監視できる人物だ、ってこと? 案外身近にいる、とか?」
「確かにその推察は成り立つ。だが、そのことがそれほど重大か?」
青年画家は首を傾げた。
「今は、PENDUの正体より少女たちの居所を読み解くことの方が重要だぞ。少女の命を奪うと宣言している以上PENDUは少女たちと一緒にいる――同じ場所にいると言うことだろ? ならば、少女たちを見つければ、同時にその場でPENDUも捕まえることができる」
佐々木隼(ささきじゅん)はきっぱりと言い切った。
「僕は素直にここに記された〈明日〉は明日だと読む」
ちょっと悪戯っぽく笑って、
「君は名探偵だから、手紙を受け取ったら即座に謎を解いて、歴史資料館へ確認に駆けつけるだろうとPENDUが予測しても何の不思議もない。僕がPENDUでもそう考えるよ」
「――」
「だから、猪目(いのめ)の暗号絵が届いた日が〈今日〉で、明日はまさに〈明日〉だ」
真剣な表情に戻ると、
「明日の日没が期限だということは揺るぎない箇所だと僕は思う。その点に拘(こだわ)るより、もっと文中の他の部分に注意を払う必要があるんじゃないか?」
「――僕はこの手紙の文章では〈お嬢さん〉の羅列がひどく気になってしょうがないのですが」
そう言ったのは大槻だった。即座に隼も同意した。
「うむ。僕もそれは思った」
「むむむ? 〈お嬢さん〉か?」
志儀が鼻の頭に皺を寄せて唸る。
「お嬢さんは……言い換えるなら……美少女……采女(うぬめ)……?」
「なるほど」
頷く探偵。隼もハッとした様子で、
「前にも話したが、ここ出雲は采女献上を最初に始めた土地だ。志儀君の読みは悪くないぞ。ところで――采女から連想する死に場所は何処だろう?」
青年画家は探偵の顔を覗き込んだ。
「博学の君ならどんなイメージを思い描く?」
「……水際だな」
「あ」
ユラリ、大槻の体が揺れた。
「どうしたの、大槻さん? 水際に何か心当たりがある?」
「いえ、僕は――」
秘書は姿勢を正した。
「興梠さんの学識に驚嘆しただけです。どうか、先を続けてください。水際だと言った理由を教えてほしい」
「いや、僕もそれほど大した根拠があるわけではない。唯、僕が知っている限りでは――」
興梠は説明した。
「采女に関する伝承に2つばかり似通った話がある。奈良と陸奥(むつ)――現在の郡山(こおりやま)に伝わる話だ。登場人物の名称が重なっているので同一の話が別々に伝承されたのかも知れないが。
奈良の方は《大和物語》に載っている。葛城王(かずらきのみこ)と采女・春姫(はるひめ)の話で、寵愛を失ったその采女が世を儚んで猿沢の池に入水した。もう一つは陸奥国に巡察に来た葛城王が阿積(あづみ)の里長の娘・春姫を見初め采女として都に連れ帰る」
「その采女も猿沢の池に飛び込んだんだね?」
「こちらは、もう少し複雑だ。こっちの采女はね、猿沢の池に飛び込んだふりをして陸奥の里へ逃げ帰った。なぜなら故郷の許嫁(いいなずけ)を忘れられなかったからだ。
だが、許嫁は娘を想うあまり既に山の井に身を投げてしまっていた。それを知った娘もまたその泉に身を投げた」
「〈山の井〉……〈泉〉……」
口の中で繰り返す志儀。隼も眉間に皺を寄せて頷いた。
「うむ。最初の猿沢の〈池〉といい、どれも水がチラつくな」
「采女たちの哀れな最期は万葉集にも詠まれているが、水面に広がる藻を黒髪に見立ててひどく生々しい……」
吾妹子(わぎもこ)が 寝くたれ髪を 猿沢の 池の玉藻に みるぞ悲しき
実際、興梠はラファエロ前派の画家たちが描いたオフィーリアを思い出してしまった。
美しい水死体たち――
静まり返る座敷。
陰鬱な沈黙を破ったのは隼だった。
「短絡的かもしれないが、この辺りで〈水際〉と言うと――宍道湖(しんじこ)か島根半島の海岸線だな」
采女を漂わせる波のイメージでは島根半島北岸がぴったりくる、と画家は言うのだ。
「出雲大社(いずもたいしゃ)から美保関(みほのせき)までの日本海沿岸だよ。わが県は、これら海岸風景と内陸部のそれがネガのように違う。僕は写生で車を走らせるから痛感するよ。穏やかで田圃の続く出雲平野から、ひとたび海沿いの海岸線へ出ると景色が一変する。そうだな、まるで、門を潜っただけで異世界へ突き抜けた感じだ」
大槻を振り返ると、
「君もそう思うだろう、大槻君? 君も車を運転するんだから、あっちを走ったことがあるはず」
画伯の秘書は寡黙だった。言葉少なに相槌を打った。
「そうですね」
「しかも距離的にはさほど離れていないんだぜ。切り立った断崖、吹き付ける風、渦巻き、砕け散る波……荒々しい野性的な光景だよ」
暫く口を噤んでから青年画家は顔を上げた。
「日没まで、一日は長い。どうだろう、明日は海岸線を探って見ては?」
一同を見回しながら、
「他に何か決定的な案があれば別だが」
「あの」
声を発したのは、意外にも、これまで黙しがちだった大槻だった。
「何か思いつきましたか、大槻さん?」
「気が付いたことがあるなら、ぜひ聞かせてくれたまえ」
その時、襖が開いて、
「お茶をお持ちしました! 一息おつきになってはいかが、皆さん!」
明るい声で入ってきたのは金糸子(かなこ)だった。夫人に付き添っている貞の代わりに若い女中を伴っている。
「綾奥様を少しでも元気づけられたらって、私、お台所をお借りしてお菓子を作ったの。さあ、どうぞ!」
「ヒャッホー! そりゃいいね!」
「ああ、道理で……いい匂いがすると思った」
「私にできることはこのくらいですもの」
志儀はさっそく金糸子得意のマドレーヌに齧かぶり付いた。
隼も菓子に手を伸ばしながら、
「そうだ、大槻君、何か言いたかったのでは? 話の途中だったが?」
「いえ、なんでもないです。大したことではなかった」
袴の上で拳を握る大槻に金糸子は紅茶を差し出して微笑んだ。
「大槻さんもどうぞ!」
「あ、いえ、僕は甘いものは苦手なので――」
「興梠さんもいかが?」
「そうだよ。遠慮するなよ、興梠さん! 槌田智(つちださとし)君が働く老舗の和菓子も美味だけど、こちら、佐々木画伯のところのお嬢さん、金糸子嬢特製の西洋菓子はサイコーだよ!」
もう2個目を、どっさり盛った菓子の皿から掴み取る少年。
「僕なんか、この先一生、松江のイメージを聞かれたらお城やら水濠(すいごう)やらと一緒にマドレーヌを思い出すよ。そのくらい印象深いんだから!」
「いやだわ、志儀くんったら! 大袈裟よ」
「?」
ふいに、興梠は紅茶茶碗を持つ手を止めた。何かを思い出しかけた。
( 何だろう? )
俺は何に反応したんだ? とても大切なことのような気がする。
この情景か?
馥郁(ふくいく)たるお茶の香りと盛り上げた焼き菓子……
それとも言葉?
お嬢さん…洋菓子……西洋……印象……
うず高く積んだ菓子の山を凝視して探偵は考えた。
風が吹き抜けたように、今、〝何か〟が、確かに心の琴線を騒(ザワ)めかせた――
だが、この時はその見え掛けた糸はプッツリ途絶えてしまった。
綾夫人の強い希望でその夜は佐々木兄妹と、興梠と志儀も千野邸に泊まることになった。
きっとまんじりともできない一夜になると予測していたのだが。過度の緊張と疲労のせいだろう、一同、座敷で、PENDUからの謎の手紙を広げた座卓に突っ伏して寝入ってしまった。
気づくともう夜が明けていた。
こうして、興梠響(こおろぎひびき)にとって山陰滞在8日目の朝がやって来た。
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