第31話
「それは本当なのか? 画伯が失踪したって?」
「本当だよ」
松江市滞在7日目の早朝。
大槻祐人(おおつきゆうじん)に電話で知らされて、急遽、画伯邸に馳せ参じた興梠響(こおろぎひびき)、佐々木隼(ささきじゅん)以下、一同だった。
邸には、やはり連絡を受けて駆けつけた足立(あだち)警部補、他数名の警官がいた。
その警部補の特別の計らいで一同も現場――画伯の寝所に通される。
広い邸内の2階、東向きの洋室が主、千野碧明(せんのへきめい)の寝室だった。
板張りの床に段通が敷かれ、樫材の寝台、小箪笥、窓際の猫足テーブル……
衣類を置く衣装室は別にあるということで室内に大きな家具はほとんどない。
綾(あや)夫人は放心状態で寝台横の肘掛け椅子に腰を下ろしていた。傍らには女中頭の貞(さだ)が付き添っている。
その貞が、朝、6時、いつものようにお茶を持って寝所に入った時、夜具は蛻(もぬけ)の殻からで碧明の姿はなかった。
足立警部補が確認した。
「カーテンは? この状態だったんですか?」
「はい。私は一切触ってはおりません」
ジャガード織りの厚いカーテンは大きく開け放されていた。
「ふむ。画伯自身が開けたか? 何かを見たのかな?」
窓辺へ寄る警部補。覗くと庭が一望できた。勿論、アトリエも。
「誰かに強引に連れ去られたと言うのではないのだな?」
「それは、わかりかねます。でも、大きな物音を聞いた者もおらず、お部屋が荒らされた様子もありませんでした」
オロオロと両手を揉み絞る女中頭。
「ただ、何処を捜しても画伯の御姿が見えません。気配さえまったく感じられないのでございます」
画伯は結婚後、早くから夫人とは寝室を別にしている。別室で寝ていた綾は異変にはまったく気づいていなかった。血相を変えて駆けこんだ貞に起こされて、初めて事の仔細を知ったそうだ。
「持ち出された物や見当たらない物、紛失した物は?」
「それも、詳しくはわかりかねます」
「財布とか旅行鞄とか、着替え――衣類はどうなんだ?」
特別に失くなった物はないとのこと。
「と言う事は……画伯は身一つで失踪した……?」
「……ひとつだけ、見当たらないものがありますわ」
「綾夫人?」
「奥様?」
ここで初めて、綾が口を開いた。絞り出すような声で、
「ヴェロナールが……主人が常用していたあの薬が、錠剤の瓶ごと見当たりませんの」
白い指で指差した。
「いつもそこの、枕元の小箪笥の引き出しに入れてあるのに……」
「睡眠薬ですな?」
足立が質した。
「画伯はそれを服用なさったおられた?」
「ええ。私も、時折、分けて貰っていたので置き場所は存じております」
息を継ぎつつ綾は言う。
「私……貞に主人の姿が見えないと聞いて……驚いてこの部屋へ駆け入って……真っ先に確認したんです」
「薬の在処をですか? それはまたどうして?」
「嫌な予感がしたからに決まってるでしよっ」
ワッと夫人は泣き崩れた。
「ああ! なんてこと……? あの人、薬瓶だけ持って……一体何処へ行ったというの?」
とりあえず足立警部補は警察署に引き上げた。
通いの運転手をはじめ女中や男衆ら使用人にも詰問したが、昨夜から今朝に至って画伯を目撃した者は一人もいなかった。
果たして事件性があるのかないのか――
現時点では微妙だ。確かに画伯の姿は見えないものの、成人男性である。無断外出もありえないことではない。血痕が見つかった等、明白な危険性があるわけでもなかった。
今現在、綾夫人に付き添っているのは隼(じゅん)だった。
夫人お気に入りの洋風の応接間で涙に咽(むせ)ぶ夫人を励ます青年画家。
気を利かせたのか、貞は厨房へ引き取り、金糸子(かなこ)と志儀(しぎ)もついて行ってしまった。
興梠(こおろぎ)は大槻に目で合図を送った。
『僕らも、出ませんか?』
二人、ロココ調の部屋から廊下へ出たところで、
「大槻さん、お尋ねしたいことがあります」
咄嗟に、順序を変えて、興梠は訊いた。
「アトリエに2階はありますか?」
「ありますよ」
拍子抜けするほどあっさりと秘書は首肯した。
「画伯の作品の保管場所として使っています」
「見せていただけますか?」
「ええ、いいですよ」
何のことはない。アトリエに入ってすぐ、右手の絵を掛けてある広い壁の奥に階段があった――
室内と戸外の両方へ少しづつ張り出して圧迫感を与えない巧みな設計の階段部屋である。
そこを上って至った2階。
入るや否や、白い手袋を渡される。
「これをどうぞ。万が一、先生の作品に傷がつくと困りますから。ここでは僕も必ずはめています」
「――」
やや天井は低いが、全域に棚が設えてあってカンバスが収納されていた。
ここも大槻が管理しているとのこと。
窓がないのは、作品の退色を考慮したためだ。必要に応じて電気をつける。掃除もしっかり行き届いて埃一つなかった。
「
「ええ、こちらがそうです」
棚の一つへ案内される。
「これで、全部ですか?」
探偵の質問に怪訝そうに大槻は眉を顰めた。
「そうですが、何か?」
そこに《秋の絵》はなかった。
意を決して、興梠は訊ねた。
「実は、綾夫人が、先日、連作絵を見た際、それまで見たことがない一枚、《秋の紅葉》を背景にした絵が掛かっていたと言われたのです」
探偵は畳み掛けた。
「大槻さん、あの日の後で、画伯は絵を掛け替えられましたか?」
「いえ」
きっぱりと大槻は否定した。
「絵は掛け替えてはいません。それに、《少女舞曲》に秋の絵はない。こう言ってはなんですが、多分、綾夫人の見間違いだと思います」
逆に、探偵に問い返した。
「貴方はどうなんです? その秋の絵とやらを、貴方もご覧になったのですか?」
「いえ、それが」
興梠は正直に応えた。
「余りに圧倒されてしまって……細部まで記憶していないんです」
記憶していたら――自分のこの目で見たことなら、もっと強く問い質せるのだが。
大槻は薄く笑った。安堵したように見えなくもない。
「では、やはり綾さんの錯覚ですね。元々綾さんは絵にそれほど興味はお持ちでないから、いい加減に見たんでしょう」
一階へ戻った時、ふいに大槻が言った。
「そうだ、これを」
「?」
大槻が差し出したのは白い封書だった。
「色々あって……バタバタしていて、お渡しする機会がなかった」
「なんです?」
「昨夜、先生がお休みになる前に申し付かったんです。これを貴方にお渡しするよう」
秘書は無念そうに唇を噛む。
「僕が先生を見た最後でした。朝になって……まさかこんなことになるなんて……」
「僕に? 画伯が?」
興梠は受け取るとその場で封を開けた。
「なんだ、これは!?」
そこには――
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