第30話
「興梠(こおろぎ)君……」
「画伯?」
いつからそこにいたのか。背後に立っていたのはこの邸の主、現代洋画の巨匠・千野碧明(せんのへきめい)だった。
「これは――絵画教室からお帰りになっていらしたのですね? 僕が面会を申し込んだのは大槻(おおつき)さんでした」
女中の貞(さだ)が間違えたのだろう。恐縮して興梠は詫びた。
「お疲れの画伯を煩わせるつもりは毛頭ありませんでした」
画伯は首を振った。
「いや、君が来訪だと聞いて私から貞にここへ呼ぶよう命じたのだ。君と話がしたくてな」
「それは……光栄です」
「興梠君、君は帝大で美学を修めたと聞いたが、なるほど、いい目をしているな! 君のような人物にこの絵を鑑賞してもらって私は嬉しいよ」
興梠の横にやって来ると並んで連作絵を眺めながら碧明は訊いてきた。
「君には見えるだろう? 私が何を描きたかったか――」
「?」
「いやはや! 君、この絵を前に『ひとり少女がいない』と言ったそうじゃないか! 大槻が教えてくれたよ」
「ああ、それは……言葉の綾でした」
赤面して頭を掻く探偵。
「あの時は、僕は詳しい事情を知らず、思わず口走ってしまったのです。申し訳ない」
「謝る必要はないさ。君の見方は正しい」
きっぱりと碧明は言った。
「その通りなのだ。それが答えだ。もう一人少女がいない……欠けている……」
「!」
「9枚の絵に9人の少女だよ。それこそが正しい勘定だ」
《少女舞曲》を指し示す碧明の指先が震えている。
「この連作絵に、私は持てる限りの情熱と力を注ぎ込んだ。まあ、製作中はいつも、そして、どの作品もそうだが。美を捉えること、封じ込めること。それだけが私の望みだった。私の人生は、全て、それだけに費やされたといっても過言ではない」
碧明は目を伏せた。床を見つめる画家の眼差しは洞(ほら)のようだった。頬が引き攣って見える。
「そのために、実生活では私は能無しだったがね。だめな人間だったな! 折角結婚した妻を幸せにすることも出来なかった」
探偵の返答を拒むように素早く言い切る。
「あれは勘違いしているようだが。私は憐憫や友情の証だけで結婚したわけではないよ。だが、今となっては戯言(たわごと)だな。妻の誤解を正すことはできなかったのだから」
突然気づいて興梠は反対方向を振り返った。
「あの絵は、綾(あや)さんなんですね?」
マントルピースの上に掛けられた一枚。人形を抱いた幼女像。
目を細めて画伯は頷いた。
「そう、私が綾を描いた最初の一枚さ」
乾いた笑い声が漏れる。
「聯(れん)――あれの父の名だがね。聯同様、私もあれの成長が楽しみだった。だから、ずっと見守って来たよ。私のその思いを察していたからこそ、聯は愛娘(まなむすめ)を私に託してくれたというのに。とんだ光源氏もいたものさ!」
画伯は興梠に向き直った。さながら裁判官に相対するように吐露する。
「私は妻を愛していた。だが、芸術へのそれとはまた違う。そして、私は今回、大きな間違いを犯してしまった」
ギュッと瞑目して、
「美を求める余り、美に目が眩み、美に狂った……」
「画伯……?」
若い探偵の困惑を察して碧明は目を開けた。
「これは失敬。美学を修めた君に――君にならわかってもらえるかと、つい、愚痴を零してしまった」
自嘲の言葉とは裏腹に、今度はまっすぐに瞳を覗き込みながら碧明は言った。
「どうぞ、心行くまで見て行ってくれ」
一語一語噛みしめるように、
「そして、全てを」
碧明は繰り返した。
「全てを理解してくれたなら幸いだ」
芸術家の言動は一般人には理解しがたいものだということを興梠は知っている。そんな興梠でさえ、眼前の老画家の言葉は捉え難かった。
画伯は一体何を伝えようとしているのだろう?
高揚感と絶望? あるいは虚無? それとも、自論の芸術論か?
何と応対すべきか戸惑っているうちに碧明はさっと身を翻した。
アトリエにひどく奇妙な声が響く。
「なあ、君? 何故、私が、連作絵にこの名を冠したと思う?」
「は?」
「いいかい? 《少女舞曲》だよ。
希望と情熱に燃えて、私はこの名を選び、描き始めたのだ」
悔恨と慈愛。明と暗。
背反する光と影のように鬩(せめ)ぎあって画家の声は木魂(こだま)した。
「よもや、こんなことになろうとは……」
千野碧明は出て行った。
その後、待ったものの大槻は現れない。先に画伯と面会したこともあり、改めて大槻を呼ぶのを興梠は躊躇(ためら)った。
熱を帯びた画伯の言葉に圧倒されたせいもある。
大槻へはまた日を改めよう。その代りと言っては何だが――
碧明の言葉に甘えて、もう暫く興梠は絵だけを見て、浴びるように、溺れるほどに、絵だけを見て、帰った。
千野碧明が姿を消したのはその夜だった。
事件は最終局面へ――
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