第28話

 千野綾(せんのあや)はドアを潜ると不安げに周囲を見回した。


 先刻、庭で風呂を準備する志儀(しぎ)と金糸子(かなこ)のにぎやかな声が響いてくる中、電話をかけた興梠(こおろぎ)だった。

 綾はちょうど外出先から帰宅したところだった。至急大事な話があると告げると綾の方から落ち合う場所を指定して来た。松江の繁華街からやや離れた大橋川の川端のカッフェ。

 先に到着して待っていた興梠はさっと手を上げて場所を示した。歩み寄る夫人を立ち上がってボックス席へ招き入れる。

「御無理を言って、申し訳ありません」

「それはかまいませんのよ。今日は主人も不在ですし」

 茶会の帰りだと言う葉通り、この日の綾は渋い装いだ。一つ紋の、赤茶の色味が薄っすらと浮く灰色の色無地に塩瀬の袋帯。ショールとクラッチバッグを脇に置いて、コーヒーを、とウエイターに注文してから向き直った。

「それより――お話って何かしら、探偵さん?」

「実は僕の助手のしでかしたことで貴女に謝らなければならないことがあります。こういうことは早い方が良いと思いました」

 興梠は頭を下げた。

「謝罪します。申し訳ありません。今日、助手が千野邸に侵入し貴女の部屋を覗いてしまった――」

 暫し時間を置いてから綾は返答した。

「《人形のおうち》のこと? あら! そんなこと、全然かまいませんわ。あの部屋は秘密でも何でもない。貞(さだ)や女中たちは勿論のこと、主人だって知ってます」

 声に笑いが滲んでいる。

「だって、お嫁に来る時、持って来たんですもの。あれ、子供の頃からの私のコレクションなの」

「では、助手の罪は不問にして頂けるのですね? 安心しました」

 興梠は伝票を掴んで立ち上がった。

「寛大な対応感謝いたします。では、これで」

「寛大な対応は貴方の方じゃなくって?」

 夫人の手が探偵の腕を掴んだ。

「お優しいのは私じゃなくて、貴方でしょう、探偵さん?」

 探偵の目を覗き込むように見つめて綾は言った。

「貴方、アレにお気づきのくせに。そうでしょう? そのことを確かめたくて私を呼び出した。さあ、本当のことをおっしゃって」

「――」

「私、その件で貴方に何か言われるだろうと覚悟して出向いて来ましたのよ? それなのに、貴方ったら、触れずにさっさと帰ろうとなさるするなんて。本気?」

 探るような挑むような眼差し。昔、誰かがこんな目つきをした――

「ヒトの心理ってフシギねえ!」

 はしゃぐように綾は言った。

「私ね、貴方が執拗に問い質してきたなら、絶対話さないつもりだったのよ。でも、こんな風にされると――

 却って全て話したくなってよ」

 上目遣いで、

「それともこれは一流の探偵が用いる高尚な手管なのかしら?」

「とんでもない! 僕はそんなつもりはありませんよ。助手の失態をお許しいただけたのなら、それで退散するつもりでした。ですから――失礼します」

「お待ちになって」

 綾が椅子へ引き戻す。袖口から香水の香りが揺れた。

「貴方の推察のとおりです。そして、安心なさって。この件では、隼(じゅん)さんは――貴方の大切なお友達は全く関わっていませんから。と言うより、隼さんは、一切、このことを知ってはいません」

 千野綾は決定的な言葉を吐いた。


「堕胎は私一人の判断で決断したことです」


 興梠の表情に変化はなかった。

「ほうら、驚きになりませんのね? ええ。私も察していました」

 綾は一度も目を逸らしていない。

「あの部屋を見て――正しくは助手さんから詳細を聞いて――貴方はおわかりになったはず。貴方の推理は正しいわ」

 探偵の返答を綾は必要とはしていないようだ。矢継ぎ早に続ける。

「そうよ。私は隼さんの子を身籠りました。でも、まさか、今の状態で産めないでしょ? 他人の子を千野碧明(せんのへきめい)に育てさせるほど私は堕落していません。自分の過ちは自分で地獄まで持って行きますわ」

 ここで初めて視線を泳がせた。

「あの赤ちゃんの人形は身代わりですの。どうぞ笑ってくださって結構よ。さぞかし愚かな女とお思いでしょう?」

「いいえ」

  興梠は首を振った。

「僕は貴女を誤解していました。そのこともお詫びします。貴女は馬鹿な人なんかじゃない」

「あら? いいのよ。私は馬鹿で弱い女ですわ。でも、そうね、少しでも強くなったとしたら……愛を知ったせいだわ」

「ああ、女のヒトはよくそれを言うな!」

「貴方の知っておられる身近な女かたもそうおっしゃって?」

「――」

「不貞を働く人妻が愛を語るな、とお思いね?」

「いえ、僕は――」

「嘘がお下手ね、探偵さん!」

 コーヒーを一口飲むと唐突に綾は言った。

「貴方がお察しの通り私は主人を――碧明(へきめい)を愛してはおりません」

 指輪を回しながらため息をつく。

「最初から私たちの結婚に愛はなかったの。笑わない花嫁の私を見て、ポリーヌの方がまだ愛想があると画伯は苦笑したわ」

 確かに。そういう名の名画があった。ジャン・フランソワ・ミレーポリーヌ・V・オノ 黒衣の幼な妻……

「世間では私のこと千野碧明の〈お飾り〉って言ってるみたいですけど、でも、それは違うの。お飾りなら、まだいいわ。私はハナから〈お荷物〉だったのよ」

「?」

 探偵が問う前に綾は明かした。

「どういうことかと言うとね、画伯は同情心から……もしくは約束を果たすため、友情の証として、私を貰ってくれたんです」

 華奢な肩を竦める。

「あの人は独身主義者よ。彼が愛するのは、芸術だけ。あの人こそ結婚などすべきじゃなかった。

 それなのに……

  画伯と私の父は幼馴染の親友だったんです。

 父は旧家の酒屋の息子で心優しい人だったのですが、商売の才はなくて多額の借金をこしらえて破産してしまいました。母はお産で他界しています。それで、一人娘の私の行く末を案じた父が画伯に頼み込んでお嫁さんにしてもらったというわけ」

 白くて細い指を立てて、

「この不釣合いな結婚は父の計略ですの。『これでおまえはお金に苦労することなく一生安泰だぞ』と父は胸を撫で下ろして私に言いましたわ。私が女学校4年生の秋でした」

 千野夫人は息もつかずに言いきった。

「私、今でも思っていてよ。画伯が断ってくださったら良かったのに! でも、男の友情とやらで画伯は父の申し出を受け入れてくださった……」

「お父様は御安心なさったことと思います。僕のような若輩者がこう言うのもなんですが。それも一つの娘を思いやる男親の愛情かと」

「そうね。父としたら安心して荷を降ろした思いでしょうね。だって」

 女の顔に広がる嘲笑の漣(さざなみ)。

「私たちの盛大な結婚式を見届けた後で――さっさとクビを吊って死にましたわ」

「――」

「では、私はこれで」

 夫人は席を立った。




 なんてことだ! 一つ謎を解くとまた次が出て来る……

  興梠は呻いた。

 確かに揺り籠の隠喩は俺はわかっていた。フシギ君に聞いた瞬間に読み解いたさ。夫人の不穏で不安定な言動は満たされぬ愛が理由だと納得した。

 だから、これで夫人は〝外してもよい〟と思ったのに。

 またしてもここで繰り返されるメタファー。

 首吊り、首括りの家、処刑人、PENDU……

  (クソッ!)

 深く椅子に背を預けた探偵の前にマーティニーが置かれた。


「?」


「あちら様から――」

 ウェイターの指す方向へ顔を向けると、なんと、カウンターに足立(あだち)警部補が座っていた。



☆ミレーポリーヌ・V・オノはこちら↓

http://matome.naver.jp/odai/2128600614919556201/2128600975019562203

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