第26話

 志儀(しぎ)と金糸子(かなこ)は玄関を避け、木戸を擦り抜けて庭に廻ると、座敷の広縁から邸内に侵入した。

 二人ともリュックを背負っている。脱いだ靴はそこに入れて、裸足で廊下を進む。


「こっちよ」


 金糸子と一緒で本当に良かった!

 自分ひとりなら絶対迷っただろう。それほど画伯の屋敷は広く、廊下は折れ曲がって続いていた。


「さあ、こっち……」

「……こっちだわ」


 漸く、庭を横切る屋根つきの廊下、アトリエへと伸びる回廊が目の前と言う矢先――


「そこ、誰かいるのか?」


 パタパタと軋る足音とともに声が響いた。

 折れ曲がった廊下が幸いして、姿は見えないが、誰か、人が近づいて来る気配は感じた。

「あの声、大槻(おおつき)さんだ!」

 志儀は総毛立った。

「嘘! やだ! どうしてあの人がいるの?」

 金糸子も動転して跳びあがる。

「彼、画伯と一緒に外出したんじゃなかったの?」

「ど、どうする? やばいよ」

 これは想定外だ。志儀は即座に善後策を口にした。

「謝っちゃおう!」

「それは最後の手段よ。こっちへ」

 金糸子は志儀の腕を掴むと声と反対方向へ駆け出した。

 またまた幾度か右に左に折れて廊下を奔る。

「流石、金糸子さん! 逃げ道も知ってるんだね?」

「そんなもの、知らないわ!」

「えええーーー?」

 もはや、万事休す。

「うひゃっ! 行き止まりだっ!」

 パタパタパタ 秘書の足音は執拗に追って来る。

「誰かいるな! 誰だ! 出て来い! 警察を呼ぶぞ!」

「まずいよ。僕たち、泥棒と勘違いされてる? ここは早いとこ――謝っちゃおう!」

「ここへ!」

 電光石火の行動だった。金糸子は眼前の襖を開くと志儀を押し込んだ。

「うわっ?」

 すぐに襖を閉じる。自身は反転して、来た道を引き返す。

「ヒッ!」

 転げ込んだ部屋で、志儀は叫び声を何とか飲み込んだ。

 中は真っ暗。

 よろめいて膝を突いた場所に布団らしきものが敷いてあって助かった――

 いや、違う。全然助かっていない。

 置いた手に伝わって来る冷たい水のような感触。これ、何だ? アレだろ?

 ヒトの長い髪――

 (ぎゃああああ!)






 一方の金糸子。なんとかこの場から逃げ切ろうと全速力で駆け続ける。が、廊下を曲がった先で大槻に正面衝突した――


「つ! あ? 君は、佐々木君のところの――金糸子さん!?」

「大槻さん……」

 画伯の秘書は愕然とした表情で腕の中の少女を見つめる。

「君、こんなところで何をやってるんだ?」

「あ、大槻さん、私、私ね……」

「何の騒ぎです? すわ、泥棒!?」

 背後から声がした。

 箒(ほうき)を握りしめた女中頭だった。引き連れた女中たちも手に手に箒(はたき)やバケツ、金盥(かなだらい)等で武装している。

「あ! 貞(さだ)さん!」

 金糸子は飛びついた。

「良かったぁ! 私、またお菓子を作ったので、持って来たんです!」

 リュックを探って包みを取り出す。早朝から焼いたクッキーとパウンドケーキだ。こういう時のために用意したのだ。

「綾あや夫人や画伯に召し上がって頂きたくて。はい、これ」

「それはそれは! いつもありがとうございます」

 箒は配下の一人に渡し、恭しく両手で押し頂く貞。

「それで、厨房を覗いたらどなたもおられないので……」

 大槻の方を振り返って女学生は声を張り上げた。

「折角ならこうして、手渡ししたくて――貞さんを探していたのっ」

「そうでございましたか。でしたら、さあさ、戻りましょう、佐々木様のお嬢様。この貞が美味しいお茶を淹れますわ」

 ふくよかな体を揺すって微笑する。

「奥様は、今日はお出かけになっていてご不在ですが、金糸子様のお菓子をいつも楽しみにしていらっしゃいますよ」

 じっと凝視している秘書に気づいたようで、女中頭はそちらへも笑顔を向けた。

「あ、大槻さんの処へもすぐにお茶と一緒に、この、美味しい金糸子様お手製のお菓子、お持ちしますよ。お待ちくださいな」

「いえ、僕のことはお構いなく」

 納得したらしく大槻は踵(きびす)を返すと、長い廊下の先に消えて行った。

 女中にくっついて歩き出しながら金糸子は肩越しに去って行くその後姿を見届けた。






「志儀君? 志儀君? 大丈夫?」


 中学生を隠したその部屋へ女学生が戻って来るまで多少時間がかかった。


「大丈夫じゃないっ……!」


 威厳も何もあったものではない。少年の返事は涙声に聞こえる。

 それもそのはず――


「ゴメンナサイ。貞さんをやり過ごすのに時間がかかって。でも、もう安心していいわよ。大槻さんも上手く巻いたし」

 襖越しに金糸子は遅くなったことを詫びつつ新しく入手した情報を報告した。

「吃驚したわねぇ? まさかあの人が邸にいるなんてね。貞さんから聞いたんだけど、今日は大槻さん、茶会に行くという綾さんを送るよう画伯に言われたらしいわ。だから、彼、さっき帰って来たところだったのよ。ホント間一髪、危なかったわ!――って、志儀君、どうしたの? もう出て来ていいのよ? 大丈夫だから」

「だから、大丈夫じゃないったら!」

「え? 大丈夫じゃないって――何かあったの?」

 襖をこじ開けて、足を踏み入れた金糸子。

「あら、真っ暗? 電気くらいつけてもいいんじゃない?」

「いや、ここ、電気をつけた方がもっと耐えられないから……」

 暗闇の中、少年はしゃがみ込んでいるらしい。地を這うように響くその声が震えている。

「で、で、電気……僕も1度はつけてみたよ。でも、我慢できなくて……消した……」

「何わけのわからないこと言ってるのよ、志儀君ったら!」

 金糸子は壁を手探りして電燈のスイッチを押した。途端に漏れる叫び声。

「きゃっ! 何、これ? この部屋……」


 その部屋にあったものは――






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