第25話

  塔のごとき大画伯のアトリエと並ぶべくもない。

 1階の最奥、8畳に満たない板張りの洋間が青年画家のアトリエだった。

 この部屋は同じく画家だった父から引き継いだのだ、と隼(じゅん)が語る。

 奥の掃き出し窓からは濠(ほり)が、左手の廊下越しに庭と鳥小屋が見える。鳥を描き続けた日本画家はここから直接鳥たちの元へ足を運んだのだろう。


「あ! これは……」


 イーゼルに置かれた描きかけの絵を見て、興梠(こおろぎ)は軽い驚きを覚えた。

 そこに描かれていたのは自分と助手の少年だった……!

「今度の件で、妹は名所案内がお礼だと言ったが、画家の僕としては、まあ、これ、〈肖像画〉かなと思ってね」

「お心遣い感謝するよ、隼。いや、全く光栄だ、ありがとう! 僕の探偵事務所に飾る日が待ち遠しいよ!」

 心から礼を言う興梠だった。

「でも、よく、僕の顔をここまで丹念に――」

 言いながら、探偵は気づいた。カンバスの片隅に置いてある小さな紙片。

「ああ? 雑誌の写真から拝借したんだよ。探偵特集に出てたやつ」

「――」

「でも、この程度では驚くに値しないさ! 見たまえ」

 得意げに画家は書棚からスクラップブックを引き抜いた。そこにはぎっしりと探偵の記事が貼ってあった。

「どうだい? 君の活躍は全て網羅しているよ。何しろ、君は僕の自慢の友人だからな!」

 探偵は赤面した。

「畏れ多いよ。君こそ、僕の誇りだ。我が国の未来を背負って立つ新進画家を友に持てるとは……!」

 感激で胸をいっぱいにして、今一度、振り返ってイーゼル眺める。

 この構図。描きかけの絵と隅の写真……

 懐かしい光景に重なった。

 あの日、古都の坂道で同じようにイーゼルを立てて描いていた画学生。片隅にはパリの絵葉書…

 あそこで出会う以前に友には友の日々があり、また、自分にも、生きて来た日々があった。

 それぞれが背負っている思い出。人はそれを〈過去〉と呼ぶ。当たり前のことなのだが。

 その当時、探偵は恋を失ったばかりか、筆舌に尽くしがたい魔の体験をした後だった。才能溢れる新しい友との交流はどれほど心の傷を癒してくれたことか。

 だが、今、自分は奇妙な縁でここに立ち、友の過去へと踏み込んで行こうとしている。

 自分が胸の奥に抱える〈過去の傷〉を他人に曝(さら)したくないように、友もまた、そんなことを望んではいないのではないだろうか?

 今なら間に合う。手を引いて神戸へ帰るべきかも知れない。

 この案件、どうも嫌な匂いがする。かつて一度だけ嗅いだソレと同質の匂いだ。

 死臭? それとも獣の肉と皮の匂い?

 いづれにせよ、阿修羅の匂いだ。俺が挑もうとしているのはただの犯人ではない。明らかに魔物、モンスターなのだから……!

 逃げ出すなら、今だぞ、響(ひびき)。


「響」


 自分の声ではない。友の呼びかけに我に返った。

「どうした? まだそんなに見蕩みとれるほどには描きこんでないぞ?」

「あ、失敬。何だか……色々と思い出して……考え込んでしまった」

「ハハハハ……!」

 画家は豪快に笑い飛ばした。

「ところで、今日はこれからどうする? 俺達、大人二人?」

「そうだな、もし、君さえよかったら、ちょっと行ってみたい場所があるのだが」

「いいとも! 何処へ行きたいんだい? 今回の事件で参考になる場所か?」

「そうだよ」

 賽は投げられた。俺はもう戻れない。

 一度引き受けた案件は最後までやり抜く。これが興梠探偵社のルールだと、常日頃、助手にも言っている。

 たとえ、どんな結末が待っていようと……

「では、行こうか、名探偵!」

「名探偵はよせよ!」







 一方の少年少女、若者組。

 広いお濠端(ほりばた)に佇たたずんでいる。

 言うまでもなく旧家老住居の一画、塩見縄手(しおみなわて)の千野(せんの)画伯邸の前である。



「大丈夫みたい。自家用車が見えないもの。今、画伯は不在よ」

 双眼鏡を覗いて呟く金糸子(かなこ)。

「ほら、あなたも見てみて」

 渡された双眼鏡で志儀(しぎ)も確認した。車庫は空っぽだし玄関前の車寄せにも止まっている車はない。

「それにしても、凄いや、金糸子さん、この装備! 本格的だねぇ!」

 志儀は感心して呻った。双眼鏡を撫でながら、

「天祐6X30……藤井モデルじゃないか!」

「あら、いやだ、そんなに凄いものなの?」

 逆に金糸子の方が吃驚した顔をする。

「これ、父の形見なの。これを使って野鳥をスケッチしてたのよ。でも今は誰も使わなくて……棚に置きっぱなしだったから、こんな時こそって持って来たの」

「ああ、そうなんだ」

「それに、種明かししちゃうとね、今日、画伯が不在なのはわかっていたの。第2日曜は市内の若者に絵画指導するのが、郷土の誇り、千野碧明(せんのへきめい)画伯の何十年来の習慣だもの」

 ペロッと桃色の舌を出して、

「フフ、私の兄様も、その教室で画伯の目に留まったのよ」

「へえ! ッてことは――他の人たち、つまり、大槻(おおつき)さんや亡くなった槌田篤(つちだあつし)さんもそうなの?」

「ええ」

 頷いた後で、少々声を潜める。

「その上、この絵画教室の日は、綾(あや)夫人も出かけることが多いの」

「あれ? 昨日の画家の懇親会の日は、夫人は家にいたのに? それに――何だって、そんなことまで知ってるのさ?」

「お馬鹿さん。法則があるのよ。気づかない?」

 女学生の瞳を過ぎった翳は憐みの色? それとも悲しみの色?

「綾さんと兄様がこっそり会えるのは〝この日〟しかないからよ」

「!」

 この指摘に少年はショックを受けた。

「じゃ、二人は……この日を……〝画伯不在の日〟を選んで……逢引きしてるってこと? そして、君はそれを知ってたのか?」

「二人っきりの兄妹ですもの。わかるわよ」

「でも、今日は違うだろ? 隼さん――君の兄さんは興梠さんと行動を共にするはずだから」

「そうだけど、絵画教室の日はいつも出かけるってアリバイを作るためにも、綾さんも何処かへ出かけるんじゃないかな? 私はそう読んでるけど?」

「……」

 女学生の頭の回転の速さに中学生は舌を巻かざるを得ない。

「まあ、どっちにしろ、綾さんは絵画には興味ないからアトリエには近づかないと思うわ。だから、大丈夫よ。じゃ、計画実行! 行きましょうか?」

「う、うん」

 ( なんか、違うぞ? この展開……)

 一瞬、眉を寄せる志儀。

 ( 明らかに主導権が僕じゃない気がする。この作戦の提案者は僕なのに……)

 とはいえ、すぐ思い直した。ブルブルと頭を振ると、

 ( でも、ま、いいか。〝姉さん女房〟ってこんなカンジなんだ、きっと!)



 志儀と金糸子は玄関を避け、木戸を擦り抜けて庭に廻ると、座敷の広縁から邸内に侵入した。



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