第22話
和菓子屋の奥、菓子工房があって、その先に、中庭があり、店主の母屋がある。
中庭の一角に立つ倉庫の2階が住み込み職人の住居らしく、智(さとし)はその1室へ案内してくれた。
「申し訳ない。仕事の邪魔をしたんじゃないのか?」
階段を上りながら恐縮して興梠(こおろぎ)が訊いた。
「大丈夫です。もう今日は後片付けを終えたところだったから。さあ、どうぞ、狭くて散らかってますが」
「――」
狭いのは嘘ではない。6畳に満たない畳敷きの部屋。だが、散らかっていると言うのとは違う。
イーゼルが置かれ、壁には数点の絵が飾られている。まさしく画学生の部屋そのものだった。
「これは……」
帝大で美学を修めた探偵は、吸い寄せられるようにイーゼルの前に立った。
「先日、画伯宅へ持ち寄った絵だね?」
「ええ。あの日は、画伯だけでなく、佐々木さんにも見てもらって、的確な指導を受けたので、格段に良くなりました。特に空の色……」
「なるほど! 画伯に可愛がられている訳だ。いい絵を描くなあ!」
「ありがとうございます」
続いて、探偵の視線は壁の絵に移った。
「あ」
興梠は1枚の絵の前で歩を停めた。
思わず零れる感嘆の叫び。
「これは凄い!」
「でしょう?」
頬を上気させて少年は頷いた。
「皆そう言います。やはり、格が違う」
一拍置いて、
「それ、兄の絵です」
「!」
絵からゆっくりと振り返る探偵。
「お兄さん? 槌田篤(つちだあつし)さんの……絵……」
「そうです。そして、その兄について聞きに来たのでしょう、探偵さん?」
ここで、木製の扉をノックする音。
「どうぞ、お茶を」
店先にいた可愛いらしい少女が盆を差し出した。
「あ、これは、お気遣いありがとうございます、お嬢さん」
受け取る智に頷くと探偵たちにも会釈した。
「では、皆様、ごゆっくり」
軽やかに駆け去る足音を聞きながら志儀(しぎ)がため息をついた。
「ここのお嬢さんなんだ、あの子? まさに看板娘だねぇ!」
イーゼルを隅に寄せ、卓袱台(ちゃぶだい)に茶器を置くと、改めて智は口を開いた。
「ご覧のように、僕の絵は兄には敵いません。だから、僕は画家になろうなどと大それた夢は持っていません。絵はあくまでも趣味です。でも」
唇を噛む。その後できっぱりと言い切った。
「兄とは違って、ずっと描き続けようと思います。まあ、いわば、そこが僕と兄の――才能以外では――もう一つの決定的な違いかな?」
智が何を言っているのか、興梠と志儀はその意味をすぐには理解できなかった。戸惑いの表情を見せる二人に微苦笑して、
「兄は絵を捨てたんですよ。こんなに――」
弟は兄の絵を見上げた。
「誰が見ても才能に恵まれていたのに。その未来を易々(やすやす)と捨てた。ほんと、馬鹿だな」
慎重に探偵が訊く。
「お兄さん、槌田篤さんはお亡くなりになったと伺ったのですが――」
「ええ。二十歳で。自殺です。首を括(くく)ったんだ」
「え!? そうなの?」
助手の正直な反応を探偵は止めることができなかった。だが、率直で純粋な言動は時に最強の突破口になる。いきなり話は核心へ至った。
「絵のせいじゃないですよ。行き詰まってたとか、作品に絶望したとか、そんなんじゃない」
「どうして、そう言いきれるのさ?」
もう止まらない。天晴れ、恐れを知らぬ毒舌中学生。
「綾(あや)夫人の言葉じゃないけど、芸術家って気難しい、独特の拘(こだわ)りを持つ人種なんだろ? ゲイジュツの悩みは他人からはわからないんじゃないですか?」
「でも、〈水郷展〉で優勝したのは兄だった。あの日、兄は凄く喜んで誇らしげだった。僕ははっきり憶えている。だから、兄さんが絵のせいで死ぬはずはないんだ」
興梠は姿勢を正した。
「智さん、その辺りの事情を詳しく教えてくださいませんか?」
「僕は誰かを恨んでいるわけではありません。ただ、ありのままを語っているだけです。そこはご理解ください」
「勿論です」
「確かに……才能同様、兄が芸術家の気質を持ち合わせていたのは事実です。つまり、喜怒哀楽がハッキリしていて気性が激しかった。でも、普段は優しくて、愛情溢れる素晴らしい兄さんだった。僕は兄のことが大好きで心から尊敬していました」
「さっき言われた〈水郷展〉とは?」
「ああ、地元で2年ごとに開催される絵画の展覧会があるんです」
誇らしげに智は胸を反らす。
「その最高賞の金賞を受賞したのが兄・槌田篤だったんです」
また助手の方が先に訊いた。
「〈千野(せんの)画伯の三羽鴉〉と言われた佐々木さんや大槻(おおつき)さんは参加してたの?」
「勿論です。佐々木さんが銀賞。大槻さんが特別賞でした。大槻さんの絵は個性的で、特に色の使い方が斬新だと評判になりました。僕も、子供心にも憶えている。ホントに強烈な色彩だったなあ!」
探偵の驚きは別の処にあった。
「佐々木君が……銀……」
「ええ」
その年の水郷展は特別だった、と弟は遠い目をして言う。
「『人生にはいくつかの岐路がある』と常々、千野先生はおっしゃっていました」
その岐路で明白な答えを出せた者が、より遠く、高く羽ばたける……
そこで現代を代表する洋画家・千野碧明(せんのへきめい)は二十歳(はたち)を前に、愛弟子の3人に一つの提案をした。大会で最も成績の良かった者を母校の京都絵画専門学校へ進学させる。つまり、全学費援助が褒美だった。
「待ってくれ、その条件なら京都へ来るのは槌田篤――君のお兄さんだった?」
「そうです。だから、兄は喜んでいた、と言ったんです。喜び勇んで画伯に受賞報告をし、祝福を受けました」
智は淡々と付け足した。
「それなのに、翌日突然、クビを吊ってしまった――」
静まり返る室内。
ややあって、顔を上げると智はもう少し詳しく補足した。
「展覧会の受賞発表後、画伯宅で祝賀会があったんです。弟子たちやその家族だけのごく内輪の宴でした。その席で、兄は京都遊学を画伯から直々に言い渡された。祝賀会に一緒に連れて行ってもらったから、その場面を僕ははっきりと憶えています」
「え? 君もその場にいたのか?」
「いましたよ。言ったでしょう? 弟子やその家族――親しい者だけを招いた祝賀会だったんです。そうだな、総勢で20人くらいいたかな。金賞を取った兄は皆に祝福されてそりゃあ幸せそうだった。おまえの兄さんは凄いって、周りの人たちから僕まで褒めまくられて、晴れがましかったな! 僕たち子供にも一人前のお膳が出て……サイダー飲み放題も嬉しかったっけ!」
「だが、翌日、篤さんは自死された――」
訊くべきか迷ったものの、探偵の性(さが)だろう、興梠は敢えてその先に斬り込んだ。
「その祝賀会についてもう少し詳しく教えてくれないませんか? つまり、最後までお兄さんは機嫌が良かったのですか? 途中で何か変わったことはなかっただろうか?」
「実を言うと」
髪を掻き上げて智は笑った。
「僕も、何度もあの夜のこと思い起こすんです。時間を巻き戻すみたいにね。もし何か変わったことがあったのなら、少しでもそれを僕が気づいていたなら、兄があんなことをする前に僕が止められたかも知れないって」
「いや、それは――」
慰めの言葉を口にしようとした探偵にサッと智は手を振った。
「脱線しました。祝賀会のことを話します」
引き締まった眼差し。凛とした声。
「こんなこと言うのはね、祝賀会の後半部分が僕の記憶にはないからなんです。だから、後ろめたいんですよ」
「?」
「あの夜、画伯邸は、評判通り愛弟子の〈三羽鴉〉が全員入賞したことで盛り上がって……祝杯は深夜に及びました。だから、僕ら子供たちは寝ちゃったんです」
智は照れたように笑って、
「兄に揺り起こされて、一緒に帰るまで、僕は座敷の隅で寝ていました。だから、深夜のことは何もわからない」
智の話はそこで終わったが、その後のことは興梠でも簡潔に要約できる。つまり、こうだ。
槌田篤の葬儀を終えた後、慌しく若者たちの進路は決定された。篤に代わって、佐々木隼(ささきじゅん)が奨学生として京都へ去り、大槻は筆を折って、専属秘書の職に就いた――
なんだこれは?
ここにも語られていない何かがある?
三羽の鴉だけが知る〝何か〟が?
しかも、その内の一羽は既に飛び去り、永遠に口を聞くことはない。
鴉は巣に様々なモノを持ち込むと言う。だとすれば、巣まで探らなくてはならないと言うことか?
だが、待て。
警戒音が鳴り響いた。
俺は道を誤っていないか?
あまりこちらの方向へ踏み込むべきではないのかも知れない。
今回受けた依頼は、あくまでも、少女誘拐犯PENDUの正体を突き止めることなのだから。
炸裂する警戒音……
パパパパパアアァァァァーーーン!!!
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