第21話

 少年は叫んだ。

「あれぇ? 全部、緑だ! 秋の色なんか何処にもないよ!?」


「あら? 本当だわ。ないわね」

 夫人も首を傾げて、

「この前は、私、見たと思ったのに」

「それはどの辺でした?」

「この辺りよ」

 夫人が指差したのは9枚ある絵のちょうど真ん中だった。

「――」


 綾(あや)夫人の見間違い――錯覚だろうか?

 あの日、アトリエは秋の陽光に満ちていた。まぶしい光が、却って夫人の目を眩くらませ幻覚を見せた?

 それとも、(こちらの方がより可能性が高いが)また絵を掛け代えた?

 後者なら、改めて秘書の大槻祐人(おおつきゆうじん)がいる時に出向いて訊いてみればはっきりするだろう。


 この場ではもうこれ以上確認する術がない。興梠(こおろぎ)は引き上げることにした。

 ところが――

 一旦玄関を出てから、足を止める。

「悪い、フシギ君、ちょっと待っていてくれ。夫人に訊き忘れたことがある。すぐ済むから」

 そう言うと探偵は身を翻して邸へ戻って行った。

「ふうん?」

 志儀(しぎ)は暫く玄関前に佇んでいたのだが、せっかくなのでまた庭を歩いてみることにした。

 手入れの行き届いた美しい庭だ。志儀の実家、〈海部レース御殿〉は総煉瓦の洋館で、庭も英国風だったので少年の目に純日本庭園は興味深かった。

  (池の錦鯉が特に面白いや!)

 近づくと気配を察してワッと寄って来る鯉たち。宛ら、宝石の浪のようだ。水際に浮上して来るものは背鰭(せびれ)をヨシヨシと撫でられそうだった。

「フフフ、よく懐いてるなあ! 誰が餌をやってるんだろう? おっと」

 パシャン。

 跳ねた一匹の飛沫(しぶき)を避けて仰け反った志儀。

「?」

 秋空を刺す塔が視界に入った。

 アトリエと言う名の尖塔(ミナレット)。ほっそり尖って、と云うより、頑強な要塞に見える。

 違和感を感じるのは日本家屋にニュッと湧いて出た異物だから?

 いや、文明開化以来、この国に和洋折衷の建物はワンサカある。あの塔に抱く妙な感じ――心がザワツクのはもっと別の何かではないかな? 例えば構造上の。

 ハッとして顔を顰める。少年助手はもう一度口に出して呟いた。

「構造?」

 2、3歩下がって、改めて塔を眺めた。

「周囲にぐるっと巡らせた高窓だろ? そしてその上……あれれ? これって、ちょっと……」

「お待たせ」

 背後から探偵の声がした。

「やはりこっちだったのか。探偵助手としては何か新発見があったかい?」

「ううん、別に」

 大きな声で(実際、かなり大き過ぎた)応えるとくせ毛の髪をプルプル振る。

「僕、な~んにも、見つけていないからねっ」

「そうかい。では行こう」


 庭を出る木戸を閉める際、もう一度、志儀はその建物を振り返った。




 二人は水濠沿いの道へ戻った。すぐに探偵は旧友の家とは違う方向をに向けて歩き出した。

「帰らないの?」

「うん。せっかくだから、街を散策してみようじゃないか」




 殿町(とのまち)から大橋川(おおはしがわ〉方向へ。

 古雅な家並の中、一際目立っている建物に行き当たる。

「へえ! ハイカラで堂々たる建物だな! 何これ、ホテル……じゃなかった、銀行?」

「日本銀行松江支店さ。この春、コンクリートに総改築されたばかりだ。その改築の理由が豪気だぞ」

「え? 聞きたい。何? 何?」

「地下の金庫が重すぎて沈下したんだとさ!」

「うへぇ! どのくらいお金詰め込んだんだよっ!」

 更に歩いて、橋を渡る。

 興梠が和菓子屋へ入るのに志儀は驚いた。

「何故、ここに? 金糸子(かなこ)さんにお土産?」

「それもある」

 日本の誇る城下町だけあって松江は和菓子も有名だ。ほとんどの店が明治創業の老舗である。中には藩政以来の暖簾を誇る店もある。そんな一軒。看板には月雲堂と書かれている。

「僕はこういうのはわからない。フシギ君、君が選んでくれたまえ。どれが食べたい?」

「ちょっと、興梠さん! 人を食いしん坊のように言わないでよ。でも、そうだな、みんな美味しそうだ!」

 硝子張りの棚を覗き込んで、

「じゃあ、これと、これとあれ、あ、あっちも食べてみたいな! そっちも!」

「……」

 どこが食いしん坊じゃないんだよ? 興梠心の声である。

 会計の際、綺麗に包装された菓子箱を受け取りながら興梠は尋ねた。

「あの、こちらに槌田智(つちださとし)君が働いておられると聞いたんですが……」

「まあ、サト君のお知り合いですか?」

 パッと微笑む売り子の少女。その娘も色白で可愛らしかった。美しい水は美しい菓子と美しい娘を育む。けだし、名言である。

 その可愛らしいお嬢さんが槌田少年を呼びに店の奥へ小走りに駆けて行く間に、助手は探偵に訊いた。

「じゃ、ここ、あの少年が働いてるって場所?」

「うん、画伯夫人に教えてもらったのさ」

「ああ、邸へ引き返したあの時か!」

 奥から出て来た槌田智は画伯のアトリエで会った時と少し感じが違った。

 頭には白い帽子。同じく白い上着と前掛け――菓子職人の装束だった。そのせいで大人っぽくみえたのだ。

「吃驚したよ! こちらで働いていると聞いて来たのだが……売り場ではなかったのか!」

 率直に驚きを伝える興梠。

 驚嘆したのは槌田も同じだ。

「貴方(あなた)は、画伯邸でお会いした――探偵さん? 僕に何か御用でしょうか?」

「いや、2、3教えて欲しいことがあって……」

「それなら」

 少年の顔に戻って槌田智は笑顔を煌かせた。

「僕の部屋へどうぞ。店先で立ち話もなんですから」




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