第20話
5日目の遅い朝。
探偵と助手は濠(ほり)沿いの道をゆっくりと歩いていた。
この日は地元画家の定例懇親会があるとか。先の逮捕騒動に関する説明や心配してくれた仲間への謝罪も兼ねて隼(じゅん)は出席するとのこと。
そういうわけで、今日は別行動となった。
水郷(すいごう)のお嬢さん、金糸子(かなこ)は部活――合唱部だそう。まさにその名にピッタリではないか!――の朝練のためにいつもより早く女学校へ登校している。
「本当に……何処を歩いても風情のある綺麗な街だねえ……」
晴れ渡った秋空の下、濠に写る紅葉を眺めながら志儀(しぎ)は大人びた口調で言う。
「で? 今日はこれから何処へ行くの?」
「千野(せんの)画伯邸だよ」
「へえ? でも、地元画家の定例会なんだろ? 画伯も出席するなら、留守なんじゃないの?」
「だからさ、今日、僕が会いに行くのは画伯じゃない」
「まあ、探偵さん? 今日は主人は出かけています。画家の皆さんの会があって――隼さんもそうでしょう?」
探偵たちと一緒に青年画家の姿が見えないのを露骨に残念がる夫人だった。
「いえ、今日お会いしたくてお伺いしたのは、貴女(あなた)です。どうしてもお尋ねしたいことがあって」
画伯夫人は驚きを隠さなかった。襟元に手を置いて、
「え? 私?」
夫人が好むのだろうか? 今日、興梠(こおろぎ)たちが通されたのはいつもの座敷ではなく洋間の応接室だった。
厚い絨毯、家具、調度に至るまで欧風はロココ調の優雅な趣味で統一されている。
花柄の肘掛け椅子に座った夫人は絵から抜け出たかと見紛うばかり。金糸子がルノアールなら、こちらは頽廃の美。クリムトの艶めくアデーレ・ブロッホ=バウアーかな?
興梠は改めて瞠目した。洋家具に和服と言うのも、なんと心蕩(とろ)かすモチーフではないか!
その〈美〉に気づいて先取りしたのは小磯良平(こいそりょうへい)だった――
大正15年(1926)、まだ美大生だった彼は洋椅子に座る和装の少女を描いて帝展特選を獲得した。《T嬢の像》。あの絵は本当に素晴らしい。窓硝子にぶつかった蜂の音に驚いて視線をずらした少女の、その一瞬を見事に画布に捕らえている。
現在、小磯良平は藤田嗣治(ふじたつぐはる)とともに陸軍省嘱託の従軍画家として中国にいるそうだが、我が友、佐々木隼(ささきじゅん)といい、日本には続々と新しい才能が開花している。美術界もこの先、大いに楽しみだな。
「ちょっと、興梠さん、興梠さんってば!」
「ん? あ」
思わず趣味の世界へ飛んでしまった探偵を助手が肘を突いて我に返らせる。
現実世界では、女中頭の貞(さだ)がお茶を置いて出て行ったところだ。フッチェンロイター・エステール、純白の茶器から立ち上る湯気の向こうで画伯夫人が探偵の言葉を待っていた。
「それで? 私に何をお聞きになりたいの?」
「佐々木君にも言ったのですが――探偵とは、どうも業腹(ごうはら)な職業でしてね」
興梠は決まり悪そうに視線を泳がせて話し出した。
「ちょっとしたことが気にかかって仕方がないのです。実際、確認してみると、何でもでもなくて、笑い飛ばしてお終い、と言うことの方が多いのですが」
「あら? 何かしら? 私、探偵さんの前で変なこと申しまして?」
「先日、画伯のアトリエで《少女舞曲》を拝見した際、奥さん――」
「綾(あや)、でよくってよ。どうぞ、そうお呼びくださいな」
「では、綾さん、貴女は飾られた9枚の連作絵の前で、一瞬、戸惑った素振りをされませんでしたか? 僕の勘違いなら謝ります」
『何がどう素晴らしいのか、私にはわからないわ。みーんな同じに見えてよ。でも、あら? この絵――』
「流石、探偵さんね? あの場でお気づきになったの?」
夫人も憶えていたようで、即座に頷いた。
「ええ、確かに、私、ちょっと、不思議な気がして首を傾げましたわ」
「それは何故です? 何がフシギだったのですか?」
「私、絵には全く興味もないし、知識もありません。だから、アトリエに入ることもほとんどなくて、あの連作絵も1、2回しか見てはいないのだけど」
カップを持ち上げてお茶を飲む夫人。
「前に見た時と絵が違っていたから、アレっと思ったんですわ。尤も――」
テーブルに紅茶を戻して探偵をじっと見つめた。
「あの連作絵は時々入れ替えているって、あの場で、祐(ゆう)さんが探偵さんに説明なさったでしょう? だから、今は不思議でも何でもないですけど」
「以前見た時と、明らかに絵が違っていたんですね? 何枚でしょう?」
「一枚。自信を持って言えるのは一枚。だって」
クスクスと夫人は笑った。また17歳の少女に見えた。
「言ったでしょ? 私、絵はわからない。だから絵柄についてではないのよ。色が違ったの」
「色?」
「そうよ。女にとって色は大切よ。私は着物は柄よりも色で選びます。だから、すぐわかったの。あら、違う絵に変わってる、って」
ちなみに眼前の夫人が今日、身に着けているのは、青灰色の無地の袷(あわせ)。帯は花十字文のミモザ色。渋い退紅色(たいこうしょく)の帯揚げを絞めて、帯締めは勿忘草(わすれなぐさ)色である。
(お見事ッ!)
探偵の瞳に映った感嘆を感じ取ったのかどうか、夫人は薄っすらと微笑んで、
「前に数回見た際、あの連作絵の背景は全て緑……初夏の若葉の色、萌黄(もえぎ)色と言うのかしら? ううん、違うわね、鶸(ひわ)色? それでした。若いお嬢さんたちを描いているんですもの。当然のことと思います。でも」
人差し指の爪を噛む。
「あの日、皆さんとご一緒させていただいて、見た《少女舞曲》には1枚だけ秋の絵が混ざっていたわ」
逆に婦人が問い返した。
「そうでしょう?」
「いや、僕は気づかなかった! というか、あの時が初見だったから、唯々素晴らしい力作に身も心も……魂ごと持って行かれてしまった……」
「まあ、情熱家でいらっしゃるのねえ、探偵さん? 素敵な表現ですこと!」
興梠は顔を伏せた。
「あれぇ、興梠さん赤くなってる!」
「君は黙っていなさい、フシギ君」
まずは助手を叱ってから、
「秋の色、か。なるほど。奥さ……綾さんこそ、上手い言葉を使われる」
確かに。少女たちの青春の息吹には早春の若葉が似合う。だが、そこに一枚だけ混ざった秋の色? 紅葉した木々?
実際、興梠自身はその絵について思い出せなかった。だが、言われて見れば……あったような……
興梠響(こおろぎひびき)は眦(まなじ)りを決して申し出た。
「よろしかったら、今一度、《少女舞曲》を見せていただけませんか?」
夫人は快諾した。
アトリエへの長い廊下を歩きながら、ふと気づいて興梠は訊いた。
「大槻(おおつき)さんは?」
「祐さんも主人と一緒に出かけました。主人が外へ出る時は、大概同行しますのよ」
「大槻さんが車を運転なさる?」
「いえ、運転手は別におりますわ」
千野画伯級の画家ならこれは当然だろう。
「あ、そうか!」
合点が行ったとばかり助手が声を上げる。
「綾さんが出雲大社へ僕らを追いかけて来た時、タクシーだったのは、あの日も画伯と大槻さんが出はからっていたから――つまり、自家用車と運転手ともども何処かへ行っちゃってたからなんだね」
「そうよ。でも、祐さんも車を運転できてよ。いざと言う時、便利だからって、祐さんが筆を折って秘書に転身した際、早々に主人は免許を取らせています」
「僕が開ける!」
気が付くともうアトリエの前だった。志儀が飛びついて観音開きの扉を押し開けた。
荘厳な響きとともに開く入り口。
ギギギギィ……
足を踏み入れて、3人は一様に眉を寄せた。
「!」
一番最初にその事実を口にしたのは少年だった。
「あれぇ? 全部、緑だ! 秋の色なんか何処にもないよ!?」
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