第12話

薄暮の昨日と違い、日中の陽光に満ちたアトリエ。


 広さにして20畳はあるだろうか?

 昨日は細部まで見ることはできなかった探偵だが、今日は違う。室内の隅々まで刮目(かつもく)して眺め渡した。

 塔の形をした、天井の高いこの建物は元々アトリエとして建てられたのだろう。採光についてよく考えられていた。絵を掛けてある右手の一画だけが窓のない壁で、他はずらっと高窓が一定間隔で並んでいる。

 唯一の出入り口は今通って来た観音開きのそれ。その扉の正面にマントルピースが設置されていて、そこの上方にも絵が飾ってあった。

 こちらは大型30号。人形を抱いた10歳前後の少女の肖像だ。絵画愛好家の興梠こおろぎだが雑誌等でこの絵は見た記憶がなかった。画伯個人蔵の作品ということか。

 一旦、視線を戻す。

 入口左手にはソファと椅子が2客。間のテーブル、ここに昨日、助手が〝盗んだ〟焼き菓子が置いてあったのだ。もちろん、今は何も置かれていない。奥の窓際にイーゼルが3つ並んでいる。窓下に寄せた小さな丸テーブル。

 室内中央に目を転じると、イーゼルと、絵の具類を乗せたワゴン、革張りのアームチェア。

 庭から眺めた際、画伯が座していたのはこれだろう。つまり、ここが画伯の定位置と言うわけだ。

 このようにしっかりと見回した後で、落ち着いて右手の壁の連作絵に真向かう。

 《少女舞曲》は3列3段に並んでいた。


「……」


 どれも、素晴らしかった……!

 癇症とか気難しいとか、性格などどうでも良い。

 やはり千野碧明(せんのへきめい)は日本の宝、我が国が誇る天才画家なのだ……!


 何故、この場所に来たか、何をしなくてはならないか、自分の職業、名前、いや、存在すら忘れて、馨かぐわしい9つの笑み、18の瞳の前に興梠は立ち尽くした。


 清涼な風が森の中から吹いて来る。

 確かに探偵はその新緑の中にいた。少女たちの柔らかな息遣いを聞きながら。



 《舞曲》と言うが、少女たちは踊っているわけではない。

 あくまでそれはイメージ、言葉の綾なのだ。

 装束もまた、同一ではなかった。

 洋装、和服、それぞれ一番似合う姿で、思い思いの仕草で、樹々を背景に屹立している。

 燦ざめく光……

 否、光は少女たちの内にあり、少女たちが放っている?


 触れてはいけない。

 これ以上、近づいてはいけない。

 許されているのは、見る ことだけ。


 過ぎ去った日々のように、儚くて、気まぐれで、自由で、高貴な微笑が、ほら、あそこに――







「どうかね? これで満足してくれたかね?」

「!」


 どれくらいの時間、絵を眺めていたのだろう?

 背後からの碧明(へきめい)の声で興梠は我に返った。

「え、あ? ……素晴らしいです」

 嘘偽りのない真直ぐな眼差し。探偵の瞳に煌く無垢の感動に、むしろ画家の方が戸惑ったように見えた。いつも以上に厳しい表情で睨み返す。だが、それは一瞬で、晴れ晴れとした清明な笑みが顔いっぱいに広がった。

「そうか! それは……良かった!」


「何がどう素晴らしいのか、私にはわからないわ。みーんな同じに見えてよ。でも、あら? この絵――」

 壁に近寄って綾(あや)夫人が首を傾げたのとドアが開いたのはほとんど同時だった。

「先生、足立(あだち)警部補が到着されました」

 入って来た大槻祐人(おおつきゆうじん)。

「ウッ」

 絵の方へ視線を向けた刹那、大槻も声を漏らした。ギクリと肩が震えたたように見える。

「? どうかされましたか、大槻さん?」

「あ、いえ、チョット」

 探偵の問いに秘書は顔を伏せて瞬まばたきした。

「埃が目に入って――」

「警察がお出ましか。では、行くとするか!」

 碧明は一同を見まわした。

「ああ、君たちは好きなだけここにいたらいい」

 探偵の真摯な感動に接したせいだろうか? 画伯は和やかな表情で歩き出した。

と、後を追おうとした大槻を興梠が呼び止めた。

「あ、大槻さん、よろしければ、少々お尋ねしたいことがあります」

「僕に?」

「時間は取らせません。ほんの2、3分で結構です。少しばかり確認したいことがあるんです」

「かまわんよ」

 振り返って肩越しに画伯が言った。

「君は残って探偵の相手をしてあげなさい。警察の応対は私だけで充分だ」

 懐手のまま皮肉を込めた微笑を零す。

「意味不明のあの手紙について『私は全くわけがわからない』と本当のことを話せばよいだけだからな」

 碧明はさっさと出て行った。



 きっちりと扉を閉めてから大槻祐人は探偵の前へ立った。

「何です? 僕に聞きたいこととは?」

「お手間を取らせて申し訳ない。画伯にお尋ねするのも何だと思いまして」

 丁寧に断ってから、興梠は壁の絵を指し示した。

「この絵の〝数〟についてです。素晴らしさに圧倒されて、つい失念していましたが、眼前のこの《少女舞曲》は、3列3段――計9枚です」

「?」

 訝しげに眉を寄せる大槻。一方、探偵が何を言おうとしているのか、居合わせた者たちは一様に緊張して耳を澄ませた。

「ところで、画伯の連作絵のモデルのお嬢さんは全員で8人とお聞きしました。昨日、見せていただいた貴方の台帳にも8人の氏名しか記されていなかった」

 興梠の声が響く。

「数が合いませんよね?」

 探偵は再度尋ねた。

「と言うか、お嬢さんが一人足りない……」

「アハハハハ……」

 アトリエに谺こだます乾いた笑い声。

 背に垂らした長い髪を揺らして秘書は哄笑した。

「ハハハハハハ…… これは、失礼。なんだ、そんな事ですか!」

 唇を噛んで笑いを堪えながら、

「そんなくだらない質問を画伯になさらなくて賢明でしたよ、興梠さん! 私が説明しましょう」

 簡単な話です、と秘書は言うのだ。

「先生は、一人に付き一作描かれているわけではないのです。

 元々、先生は好ましい顔容かおかたちのお嬢さん方を選んでモデルを依頼しました。その中でも特に気に入ったお嬢さんなら、二枚三枚とポーズ等変えて描かれておられる。

 従って、現在ここに飾られている作品は先生ご自身が厳選した会心の作と言うわけなのです」

 重ねて秘書は言った。

「今後、正式に《少女舞曲》として、どれを何点発表するおつもりなのかは、まだ未定のようです」

「ああ、そうだったんですか。納得しました」

「芸術家とは細部にまで拘る。独特の美意識――というのでしょうか」

 大槻は雲州絣の襟を整えた。

「僕などが言うのもなんですが、先生もまさにそれでしてね。一般の人は8人のモデルで描いたなら8作飾るべきとお思いでしょう?」

 ですが、と苦笑して頭を振る。

「この壁の大きさに、4列2段や2列4段の計8作では並べ方が気に食わない、もうひとつピンと来ないと、先生は御不満で――何度も掛け替えた未、結局、この飾り方になったんです」

 壁の絵を眺める秘書の双眸は澄み切っていた。

「完成された自作を暫く御自分で鑑賞なさって、その後、発表する、と言うやり方も、先生のいつもの流儀です」

「では、連作少女舞曲の創作自体は、もう完了したと考えてよいのですね?」

「はい。その通りです。先生は既に次作の構想を練っておられるようです」

「ありがとうございました。おかげでスッキリしました」

「それは良かった。では、僕はこれで。先生お一人で警察の相手は大変でしょうから」

 一礼すると大槻は去って行った。


「ふう、脅かすなよ、響(ひびき)。『お嬢さんが一人足りない』なんて言うから肝を潰したぞ!」

 ドッと椅子に腰を下ろす隼(じゅん)。

「そうだよ、僕もだよ!」

 いつも探偵に自分の言葉使いを注意される助手はここぞとばかり責め立てた。

「その言い方だと、まるで、何処かにもう一人、女の子が隠れているみたいじゃないか!」

「失敬、失敬。つい口から出てしまったんだ。うん?」

 ここで、いきなり扉が開いた。

 秘書が戻って来たのかと思いきや、そこに立っていたのは――


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