第9話
「どうした、フシギ君? 眠れないのかい?」
暗闇の中、くぐもった声が返って来た。
「うん。名探偵の興梠(こおろぎ)さんなら、その理由がわかる?」
興梠はうつ伏せになって枕を抱えた。
「ああ、わかるよ。恋の悩みってやつだろ?」
「はずれ」
「え? 僕はてっきり、君がここのお嬢さん――金糸子(かなこ)さんに一目惚れして……ソレで鬱々としているのだとばかり思ったんだが」
「それもあるけど。あ、いや、今、僕が眠れないのは――罪の意識ってやつ」
「なんだって?」
志儀(しぎ)は起き上がって布団の上に正座した。
「僕は馬鹿な真似をしてしまったんだ。物凄く、反省してる。ゴメンナサイ」
「???」
「あのね、千野(せんの)画伯があんなに激怒したのは、実は、僕のせいなんだ」
思いがけない告白に、興梠も起き直った。
「何のことか見当も付かないが――とにかく、話してごらん」
「うん。僕、今日、画伯のアトリエへ入るなり、人としてやってはいけないことをしてしまった」
持参したパジャマの裾を引っ張りながら、一気に告げる。
「盗みを働いてしまったんだ。ほんの出来心だった。でも、我慢できなくて、とっさに手が動いてしまったんだ」
唾を飲み込むと、
「きっと画伯はそれを見たんだ! だから、あんなに怒り狂った! 全て僕のせいなんだ、ごめんなさいっ!」
「君が盗みを働くなんて僕には信じられないが――」
流石に探偵は面食らった。
「うん。渡り廊下を引き返してる時や車の中で、何度も正直に話そう、そして、謝ろうと思ったんだけど……恥ずかしくて……どうしても言い出せなかった」
なるほど。画伯邸を辞去した後の少年のぎこちない言動の理由はそれか?
「君の気持ちはわかった。出来心なら仕方がない。で、一体何を盗んだんだ?」
興梠は真摯な面持ちで質した。こういう時の探偵の声は魂に沁み渡るようで、心を落ち着かせてくれる。
「明日、僕も一緒に行って謝ってあげるよ。だから、盗んだものを見せなさい」
少年は立ち上がると鴨居に掛けてあった上着(ジャケット)のポケットから問題の盗品(それ)を取り出した。興梠が座す布団の上にそっと置く。
「はい。これです」
「うっ? これは……」
海府志儀(かいふしぎ)が布団の上に置いた物は――
「マドレーヌ!?」
「そう」
ギュッと目を瞑って説明する。
「あの時、皆でアトリエに入ったよね? 興梠さんは吸い寄せられるように絵の掛かった壁の前に進んだ。だけど、僕の目は絵じゃなくて、ソファの前、テーブルの上に置かれたこのお菓子に釘付けになった。だって、座敷では食べる暇がなかったんだもの。それで、我慢できずに失敬して――ポケットに入れたのさ。その行為を千野画伯は目撃した……」
「――」
「隼(じゅん)さんも言ってたろ? 『画伯は何かを見て激怒したのではないか』って。つまり、これが真相なんだ――あれ? どうしたの?」
様子を窺おうと薄っすらと目を開けた少年が叫ぶ。
「興梠さん、顔が真っ赤だよ? ああ、興梠さんまで怒らせたんだね? 本当に悪かったよ! 許して!」
次の瞬間。
「あはははは――」
興梠は布団に突っ伏すと、笑い出した。
「興梠さん――」
「あーはははは……あはははは……あはははは……」
どのくらい笑い続けただろう。
脇腹を押さえて、漸く興梠は口を開いた。
「失敬。でも、あんまり可笑しくて……クク、こんなに笑ったのは久しぶりだ。ああ、苦しい」
少年は涙目になって抗議した。
「酷いや、興梠さん。僕は物凄く苦悩して告白したのに。それを笑い飛ばすなんて――」
「いや、罪の告白は正しい。どんな小さなものでも盗みは犯してはいけない。もう二度と……ぷぷ、やってはいけないよ、フシギ君」
「わかっています」
「では、その君の正直さと反省の深さに免じて、教えよう」
姿勢を正した助手にきっぱりと探偵は言い切った。
「画伯の怒りの原因は君の盗みのせいではないから安心したまえ」
「ほんと!?」
まだ時折り肩を震わせながらも、探偵は論理的に弁証して見せた。
「いいかい? 〝君〟はそうだったかもしれないが、あの時あの場に居合わせた〝君以外〟の全ての人間は、お菓子など気にかけてなかった」
「そ、そうかな?」
「そうとも。大の大人が、しかも、画伯ほどの人物が、たかが焼き菓子一つでああも怒り狂うはずがない。これは歴然たる真実だ。だからね、今回の件――〈画伯の激昂〉と〈君の行為〉は全く関係ないんだよ。以上、Q.E.D(証明終了)!」
「興梠さんがそう言うんなら――安心したよ!」
少年は心底ホッとして息を吐いた。
「ありがとう、興梠さん! 僕は救われましたっ」
「さあ、だから、もう、お休み」
助手による〈盗難事件〉はこれにて一件落着。
笑い話で済んで良かった。
サイコパスの話をした後だったので、ささやかな罪に苛(さいな)まれる真っ当な少年の姿に興梠は瞠目した。
(救われたのは僕の方だ、フシギ君……)
胸の奥に暖かな明かりが燈って揺れている。
この灯りを目印にしよう、と興梠は思った。どんな暗闇の中でも、この瞬きを道標(みちしるべ)に歩けばいいのだ。きっと、迷うことはない。
晴れ晴れとした気分で布団を被る。
闇に慣れた目で見上げた天井に今日の画伯邸でのアトリエの光景が蘇った。
お菓子ではなかったが千野壁明(せんのへきめい)が〝何か〟を見て、気分を激変させたのは事実だ。
一体、何を見たのだろう?
さっきの志儀の言葉通り、僕は絵の方へ吸い寄せられた。つまり、僕が皆の一番前にいた格好だ。画伯は僕の背後に立っていた。と言うことは、画伯の視線もまた壁――絵の方角にあった……?
ならば、やはり、絵か。
あそこに飾られていた絵――自らが描いた
その場にいた全員を慌てて外へ追い出すほど、誰にも見られたくない〝何か〟を?
隣から穏やかな寝息が聞こえて来る。
少年はもう熟睡していた。
これが山陰の城下町滞在の一日目。
翌日、予期しない展開が探偵とその助手を待っていた。
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