第8話

「では、いよいよ、君の推理を聞かせてもらおう!」


 佐々木家に戻って、夕食をとり、風呂に浸かった後のこと。

 今日は色々あって女学校を欠席してしまった金糸子(かなこ)は早々に自室に引き上げた。明日はちゃんと登校すると言う。

 念のため断ると――神戸の中学生志儀(しぎ)は風邪を拗(こじ)らせたことになっている。大事をとって完治するまで向こう1週間は欠席の予定。大丈夫、猫の世話同様ノートは大親友が取ってくれるから。まさしく持つべきは善き朋輩(とも)である。

 そういうわけで、旧友同士ビールを酌み交わしている座敷――千野(せんの)画伯邸と違い〝茶の間〟と呼ぶのが相応しい――に同席している志儀だった。

 若い画家宅はちょうど真裏を濠(ほり)が廻っている。時折、漣(さざなみ)が月の光に煌くのが縁側越しに見えた。切り取られたような鳥小屋の影(シルエット)。草叢(くさむら)からしきりに虫の声がする。

「響(ひびき)、君は、素描に記されていたサインに凄く反応していたよな? あれはどういう理由(わけ)だ?」

「うむ」

 冷えたビール瓶から滴る雫(しずく)に指をつけて探偵は座卓の上に件の名を綴った。


  PENDU


「僕はね、今回の事件は〈サイコパス〉の犯行だと思っている」

 画家はビールを注ぐ手を止めた。

「サイ……何だい、そりゃあ?」

「まだ日本ではさほど知れ渡っていないが、欧米では認識されつつある特殊な精神病質者をこう呼ぶのだ」

 崩していた膝を正すと興梠(こおろぎ)は説明し始めた。

「この人格の最初の提唱者は19世紀のフランス人精神科医フイリップ・ピネルだと言われている。良心や慈悲心に依る呵責や自制力の一切が欠如している反社会的人格が存在することにピネル医師は気がついた」

 目を瞠って聞いている画家と少年の顔を交互に見て、

「君たちの知っている名を挙げて具体的に言うなら――青髭のモデル、ジル・ド・レイや切り裂きジャックなどが該当する。〈犯罪〉それ自体を最高の遊びとして遊戯(ゲーム)感覚で罪を犯し享楽を覚える、そんな人間がこの世に生まれつくのだ」

「まさか! 信じられない……!」

 画家は笑い飛ばそうとした。

「それに、それは西洋の話だろ? 僕たち東洋人には関係がないんじゃないのか?」

「そんなことはない。この日本(くに)で、かつて僕は遭遇したよ」


 阿修羅どもめ……


「興梠さん?」

 平生と違う暗鬱な眼差し。慣れ親しんだ探偵の顔を時折過(よ)ぎるこの種の翳(かげ)を少年は気づいていた。それが、今また……

「あ、いや、何でもない」

 すばやく興梠は話題を現在のそれへ戻した。

「明らかに今回の犯人はその種の人間だ。それがこのサインから読み取れるのだ」

「え?」

「連中(サイコパス)は言葉遊びや謎掛けを好む特異な傾向がある」

 興梠は雫で書いた名前を指差しながら、

「ところで、この名を見て君は気づかないか? 画伯邸では言及しなかったが、君なら――思い当たるはずだぞ」

「ほ、本当かい? 僕が知っている?」

 ビールを呷(あお)る手を留めて隼(じゅん)は口の中で呟いた。

「PENDU……PENDU……」

 すぐに頭を振った。

「いや、全く、わからないが……?」

「では、これならどうだ? オーヴェール=シュル=オワーズ……」

「あ! あ! あ!」

「?」

「ポール・セザンヌ!」

「何? 二人して盛り上がって? 僕にはさっぱりだよ?」

「待っていてくれ、確か、まだ置いてあったはずだ――」

 青年画家は部屋を飛び出して行った。程なくカンバスを抱えて戻って来た。

「これだろ!?」


 坂道の果ての家。遠景に村の家々が見える。更に遠く、紫がかった空……


「ポール・セザンヌオーヴェール=シュル=オワーズ別名首吊りの家

「げっ」

 少年は急き込んだ。慌てて画家が補足する。

「勿論、これは僕の模写だよ。ホンモノじゃない」

「いえ、そうじゃなくて――」

 志儀は自分のサイダーのコップを引き寄せて喉を潤してから、改めて口を開いた。

「僕が驚いたのはタイトルだよ。《首吊りの家》だなんて、それ、物凄く……不吉じゃないですか!」

 絵自体は明朗なのに?

「ああ、懐かしいな!」

 片や探偵はカンバスを受け取ると感慨深げに目を細めた。

「僕たちが出会った日に、君が描いていた絵だ……」

「憶えていてくれたのか?」

「あたりまえだろ?」


 京都は東山、産寧(さんねん)坂。

 カンバスを立てて熱心に絵を描いている画学生がいた。法観寺(ほうかんじ)で五重塔の麗容さを堪能して戻って来た帝大生が足を止める。興味津々に覗いたところ――



「何てこった! よりによって君は、塔でも京の町並みでもなく、〝これ〟を描いていた――」


 

 よく見ると画学生のカンバスの端に一枚の絵葉書が置かれている。

 それこそ、セザンヌ作、〈オーヴェール=シュル=オワーズ〉……〈首吊りの家〉……



 画家は真っ赤になって頭を掻いた。

「まあな、あの頃、僕は、そりゃあパリに憧れていたからなあ!」

 遠い目をして言う。

「できれば行って見たかった! だが、渡欧など夢のまた夢。京都に遊学できたのも千野先生の援助あればこそなのだから。それで、せめて気分だけでもパリに立っているつもりで――ああして描いていたわけさ」

「だが、君の実力のほどは充分にわかったよ!」

「響……」

「あのお、僕たち、サインの話をしてたんだよね?」

「失敬。つい、思い出話に花が咲いた」

 咳払いをして、興梠は探偵の顔に戻った。

「フシギ君、さっき君がいみじくも口にした『不吉なタイトル』……〈首吊りの家〉。そこが重要だ。実はこのタイトルは正しくない」

 興梠は模写の絵の向かって左側の家を指し示した。

「この家の主(あるじ)の苗字が〈PENDU〉だからこの題がついたと言われているが。実際の処は、〈PENDU〉に似た響きで、それを聞き間違えて――あるいは面白がって意図的にこの名にしたという説がある」

 皮肉っぽく微笑む。

「フランス人らしい洒落っ気、esprit(エスプリ)から、かくも不吉な題が定着してしまった、というわけさ!」

 一旦息を継いで、先を続けようとした探偵の言葉を助手が遮った。

「あ! PENDU? それ、誘拐された娘たちを描いた絵に記されていたサインと同じだ!」

「そう。気づいたね?」

「響?」

 唇を引き締めて興梠は友と助手の顔を見つめた。

「現段階では、少女たちを拉致した者の正体は全くわからない。だが、これだけは断言できる。

 一つ、真犯人はサイコパスである。

 二つ、その人物は絵画に造詣(ぞうけい)が深い。

 素描の腕は勿論、偽名としてサインに使ったこの名、PENDU……

 明らかにセザンヌの絵とその裏話を知っているのだ……! そして、わざと不吉な名を選択した……」

 虚空を睨んで興梠は言い切った。


「〈PENDU〉とは、正確には〈絞首刑〉の意味だ」


「……なんだか」

 洋館で黒猫がよくそうする様に少年はブルッと身を震わせた。

「チョットだけ解けた謎、それを聞いただけで、僕、逆にますます混沌として来た。凄く嫌な、落ち着かない気分だよ。背筋がヒューヒューするカンジ」

 その思いは興梠も一緒だった。

 否応なく、得体の知れない輩が仕組んだゲームに引き摺り込まれた、そんな気がしてならない。

 しかも、狩り出された猟場は、領主自身が仕掛けた罠でいっぱいだ。


「そのとおりだよ」

 助手に向かって、改めて強く、探偵は頷いた。

「異常性格者、愉快犯、サイコパス……魔物(モンスター)……

 どんな名で呼ぼうとこの種の犯人がどれほど性質(たち)が悪いか、嫌と言うほど僕は知っている」

 それこそ、骨の髄から、身に染みて……

 探偵・興梠響(こおろぎひびき)も身震いした。


 今また、新しい悪夢の幕が開く――?








「興梠さん、興梠さん…」


 闇の中で声が響いている。

 興梠は目を開けた。


「?」


 糊の効いたシーツの感蝕。ここは旧友の画家宅の二階だ。

 並べて敷いてある隣の布団へ顔を向けて問い返した。

「どうした、フシギ君? 眠れないのかい?」





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