第7話


「ねえ? これは何?」


「なんだい?」

 助手が差し出した一枚を覗き込む探偵。

「この隅の――文字だよ」

 少年は他の写真も救い上げた。

「こっちも! あ、これもだ、全部、ある!」

 別段、興味を示さず淡々と大槻(おおつき)が応えた。

「サインでしょう? その種の素描には大抵ありますよ。作者が書き込むのです」

 興梠(こおろぎ)が、この男としては珍しく興奮した口調で叫んだ。

「サインが入っていたのか! それは初耳だ! 新聞紙上ではわからなかった……!」

 探偵の驚嘆に、逆に、隼(じゅん)も吃驚したようだ。

「え? このサインがそんなに重要なのか? 僕も警察署でこれら素描の実物を見せられて、その際、サインにも気づいたが――どうせ偽名だろ?」

「多分ね。でも、真犯人に迫る重要な鍵だよ!」


「PENDU」


 完璧な発音で志儀(しぎ)は文字を読み上げた。広く海外と貿易する会社の社長を父に持つ少年は幼少から外国人に囲まれて過ごしている。

「ふうん? フランスの苗字だ。……ってことは、犯人はフランス人なのかな?」

「いや、それはない」

 即答する興梠。

「外国人ではないと思うよ。隼――佐々木君が言ったように、これは偽名だろう。だが、犯人が〝何故〟この名を選んだのか、考える余地はある。物凄く興味深いよ!」

 ここから犯人像に迫れる可能性があるのだ。しかもこの名は……

 興梠は自分の手帳にその名サインを書き留めた。その際、座卓の下で、千野(せんの)夫人の手がまた友の手に重ねられているのを見た。

 パタンと手帳を閉じる。

「千野画伯、もう一つ、お願いがあります。最新作の連作、《少女舞曲》を見せていただけませんか?」

「そうだ、僕からも、お願いします。真犯人を見つけ出すために、先生のあの作品を、ぜひ、興梠君に見せてやってください」

 暫く黙考した後、組んでいた腕を解いて画伯は立ち上がった。

「いいだろう。ついて来なさい」



 座敷を出て、長い廊下を歩く。

 右に曲がり左に折れ、広い母屋から離れのアトリエへと続く渡り廊下へと至った。

 皆、同行した。

 画伯を先頭に、興梠、志儀、隼に綾(あや)夫人、金糸子(かなこ)。最後尾は大槻祐人(おおつきゆうじん)と言う長い列だ。

 庭を横切る渡り廊下を風が吹き抜ける。秋の短い日は暮れかけていた。

 廊下から一段降りるとアトリエだった。観音開きの扉の前で千野壁明(せんのへきめい)は足を止めた。大槻が走り寄って、扉を押し開ける。


 

 ギギィィ——



 真っ先に足を踏み入れた興梠響(こおろぎひびき)。吸い寄せられるように絵が飾られている壁の前へ進む。


 庭から遠望した時とはまた趣きが違った。

 扉から入って、右側の壁に連作絵は掛けられていた。

 サイズは15号。三つづつ、三段に分けて並んでいる。 

                   ※15号=約652×530mm.

 陽が影って来た。気をきかせて大槻が扉横の電気のスイッチを押そうとした時、怒号が響いた。


「出ろ! 皆、今すぐ、出ろ!」


 千野画伯が顔を歪めて絶叫している。


「早く! 出ろ! 出て行けっ!」

「で、でも、先生――」

「先生が、お許しになったこと――」

「あなた?」

「五月蝿い! いいから――出ろ!」 

 その剣幕に気圧されて、一同出口へ後ずさった。押し出すようにして全員を扉から外へ出すと画伯自身も外へ出て、後ろ手で扉を閉めた。銀色の髪が掛かる肩が激しく上下している。

「先生……?」

「帰ってくれ! 誰も……皆……とっとと、帰れっ!」



「一体、どうしたと言うのだろう?」

 渡り廊下を引き返しながら一同は小声で言葉を交わした。肩越しに窺うと碧明は一人アトリエの扉の前に仁王立ちになってこちらを睨んでいた。

「凄い剣幕だったね?」 

「何か気に障ることがあったのかしら?」

 女学生に問われて志儀は唇を窄すぼめた。

「あ、あの、僕――」

 言いかけた少年の言葉は夫人の冷笑で掻き消された。

「驚くことはなくってよ」

 パリ風、最新流行のパーマネントの髪に手をやって、大き過ぎるタメイキをひとつ。

「先刻もお話したように、あの人はいつもあんなものよ。気難しくて気性が激しくて、しかも、コロコロ変わるわ。芸術家ってほんっと、大変。嫌ぁね。もっとも」

 潤んだ瞳が青年画家に移る。

「全ての芸術家がそうではないけれど。お優しい御方もおられますわ」

「今日の処は、これで失礼しようじゃないか」

 低い声で興梠は隼に言った。




「綾さんはああ言うがね、千野先生は、そりゃ、癇症ではあるが――今日のあれは異常だった。あんな先生を僕は初めて見たよ」

 帰路、車を運転しながら頻しきりに首を振る準だった。

「君、気づいたかい? アトリエに入ったあの瞬間、先生は、宛さながら何かに気づいた、と言うか、何かを見たって感じだった……」

 申し訳なさそうに興梠は頭を掻いた。

「いや、それが、僕は絵に気を取られていて千野画伯の方を見ていなかったので何とも言いえない。フシギ君、君はどうだ? あの場面で何か変わったことに気づいたかい?」

「え? 僕? ええと、その――」

 いつになく歯切れの悪い助手。

「どうした?」

 若い画家も少年の言動に違和感を覚えたらしくバックミラーを覗きながら訊いた。

「先生が豹変する前後の事で何か気になること、気づいたことがあるなら、遠慮なく言ってみてくれ」

「えっと、画伯は見たんだと思う……」

「何を」

「そ、それは……」

 少年の瞳が揺れた。

「そう! た、たとえば、少女たちの幽霊とか?」

「フシギ君、不謹慎だぞ」

 探偵は優しく嗜めた。

「攫さらわれたお嬢さんたちはまだ亡くなったとは限らないんだからね」

「わ! ゴメンナサイ! 反省してます! 悪気はなかったんです」

 隣に座る女学生効果か? いつも以上に素直に謝罪する志儀だった。

「ぼ、僕も、女の子たちが無事でいることを心の底から祈ってます! 本当だよ、金糸子さん! そう、今頃、皆で楽しくワイワイ過ごしてたらいいな!」

「……フシギ君」

「あ? また僕、馬鹿なこと言っちゃった?」

「あら、でも、案外正しいかも」

 意外にもそれまで口を噤んでいた金糸子がここで助け舟を出した。志儀を庇うように、

「いなくなった人たち、ぴんぴんして仲良くお喋りしているかもね」

「金糸子、おまえまで非常識なこと言うんじゃないよ」

「いや、待った」

 叱ろうとする兄を興梠が制した。後部座席を振り返る。

「興味深い視点だ。金糸子さんは今回の被害者たちと同年齢なのだから――貴女(あなた)の意見は大いに参考になる。ぜひ、貴女の考えを聞かせてくれたまえ」

 金糸子は頬を赤らめながら頷いた。緊張してお下げ髪を引っ張る仕草も可愛らしい。

「つまり……私、思ったんです。ひょっとして、これはちょっとした〝悪戯〟かもって」

「ふむ? と言うと?」

「女の子たちは自分の意思で、示し合わせて身を隠したとしたら?」

「何故? 何のために?」

 呆れ顔で質す兄。妹は小首を傾げて、

「そうねぇ、たとえば、モデルの代金が不満だった、とか?」

「いや、それはないな」

 即座に隼は否定した。

「僕は知っているが、モデルをした娘たちは、皆、良家のお嬢さんたちだった。親御さんたちも、モデル代云々より、むしろ、郷土の誇る大画伯に描いてもらえることを光栄と思っていたからね」

「ああ、なるほど」

 頷いた探偵の目は車外の闇と同じ色をしている。




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