第6話
入って来た男こそ、千野碧明(せんのへきめい)。現代日本洋画界の巨星である。
「佐々木君、今回の件では君も色々と大変だったな? だが、こうやって無事に戻れて、何よりだ」
中肉中背。銀髪を肩先に垂らし、和服に羽織をゾロリと引っ掛けている。威風辺りを払うとは、まさにこのことか。一瞬で座敷の空気が変わった。
「はい。このたびは、先生にも多大のご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
佐々木隼(ささきじゅん)は深々と頭を下げた。
綾(あや)夫人も身を真直ぐに起こして、膝に置いた自分の手を見つめている。伏せた睫が白い頬に影を落とす。
「うむ、全くだよ。私の方も、連日警察に纏わり付かれて散々だ」
銜えた煙草にすばやく大槻(おおつき)がライターで火をつける。夫人は身じろぎもしなかった。
「で、そちらの御仁は?」
「紹介が遅れました。こちらは興梠(こおろぎ)君と言いまして――探偵です。今回の面妖な事件で力になってもらいたいと僕が呼び寄せました」
「興梠響(こおろぎひびき)と申します。お会いできて光栄です」
差し出した名刺は大槻が受け取った。
「僕が京都で――先生が送り出してくださった彼の地で――修行中に知り合った友人です。当時、彼は帝大で美学を学んでいました。現在は神戸で探偵社を営んでいます」
「探偵ねぇ」
灰皿を差し出す大槻。灰を落としてから老画家は続けた。
「探偵などと言うものは浮気調査をする輩だと思っていたが?」
夫人が襟の後れ毛を直した。数回、虚ろな瞳で瞬きをする。
紫煙を燻らせながら碧明へきめいは改めて興梠に一瞥をくれた。
「で? その探偵とやらがどのようにして役に立つ――力になるというのかね? 忌々しいとは言え、この種のことは警察に任せる以外、手がないのではないのかね?」
「彼は神戸で数々の難事件を解決しています。彼に依頼すれば、警察に任せて、唯、傍観しているよりも遥かに早く、真犯人を見出してくれる――全てを解決してくれると僕は信じています」
「いえ、それは買い被り過ぎです」
興梠は旧友を遮って首を振った。
「僕としては、安易なお約束はいたしかねます。ただ、ご依頼を請け賜った限りは、全身全霊を傾けて真実を追及する決意です」
「なるほど。そこまで言うなら、任せようではないか」
画伯は灰皿に煙草を押し潰した。
「私も今回の事件に関して君に正式に調査を依頼するから――一日も早く真犯人を見つけ出して、私の安息の日々を取り戻してくれ」
「では、早速ですが――」
探偵は膝を詰めた。
「千野画伯にご協力をお願いいたします」
「私に? 何をしろというのだ?」
「まず、今回の件で、画伯がご存知の事実を全てお教えいただきたい」
「私は、何も知らんっ」
碧明の顔が強張った。
「警察にも繰り返しそう言ったが、今回誘拐された娘たちの名前さえ、私は憶えていなかったのだぞ」
「えええ? そんなぁ!」
素っ頓狂な声を上げる助手・海府志儀(かいふしぎ)少年。
「モデルとして絵を描いたのに?」
「こら、フシギ君、口を慎みたまえ。失礼しました。彼は僕の助手でして――」
不躾な中学生をギョロリとねめつけて、画伯は言った。
「画家とはそうしたものなんだよ。まあ、君たち一般人に話したところで到底理解できないだろうが」
銀の総髪を振りつつ吐き捨てる。
「少女たちは、容姿が気に入ってモデルをお願いした。作品としてカンバスにその美を移し取れば、それまでだ。私にとっては何の意味もなくなる。完成した作品こそが重要なのだ。生身の娘なんぞ知ったことか」
「モデルの方々のお名前やご実家について、その詳細は私が逐一、記録しております」
ここで言葉を挟んだのは大槻祐人(おおつきゆうじん)だった。
座卓の上にファイルを出すと頁を開いた。更に一枚の紙片と、数枚のキャビネ版の写真を並べる。
「こちらの台帳に、先生のモデルをしていただいた方たちの氏名と住所、謝礼金等を控えてあります。先刻、警察にお見せするために、よりわかりやすく抜き書きしたのがこれです」
紙片を指す。
「こちらの写真は――?」
即座に興梠が反応した。
「はい。犯人から送られて来た素描を撮影したものです。それから、封書を写したものが一枚。刑事さんにお願いして、私どもにも複写を分けてもらいました。彼らが言うごとく、今回の事件では、私どもは1番の〝関係者〟ですからね」
自分の言葉に含まれた皮肉に気づいたのか、大槻は言い直した。
「いえ、つまり、この素描から、私どもの方で何か気付くこともあるかと、協力の意味で、お借りしたのです」
探偵は書き出された氏名と写真を交互に確認した。向かって左から順に、
1 飯塚 朱音(いいづか あかね)
2 掘 佳子(ほり よしこ)
3 坂井 小枝(さかい さえ)
4 吉川 美鶴(よしかわ みつる)
「誘拐された順序とモデルをした順序は違うんですね?」
「ええ」
大槻は台帳を興梠の前へ滑らせた。
「モデルをした順番はこの通りです」
大槻の記帳に拠れば、ここ2年の間に碧明は8人の少女をモデルにしている。
モデルの順番としては、1の朱音が3番目、2の佳子が5番目、3の小枝が2番目、4の美鶴が7番目となる。
送りつけて来た封書の宛名の文字は、定規を使用したと思われる、癖の読み取り難い文字だった。
「あれ?」
真っ先にそれに気づいたのは少年だった。
写真を手に取ると、
「これは何?」
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