第5話

「警察に酷い仕打ちをされなかった? お身体は大丈夫?」


 奥座敷に上がった後も、千野(せんの)夫人は隼(じゅん)から離れなかった。ぴったりと寄り添って座り、白魚のような手を若い画家のがっしりした褐色の手に重ねる。

「そうだったわ! 私、手作りのお菓子を持って来たんです。以前、千野画伯や奥様に誉めていただいた焼き菓子……マドレーヌです。よろしかったら、どうぞ」

 包みを差し出す金糸子(かなこ)。

「それはようございます。では早速、お紅茶の用意をいたしましょう」

「あ、私もお手伝いするわ、貞(さだ)さん!」

 勝手知ったる、という様子で女中と一緒に女学生も出て行った。

「それにしても――遅いな、先生」

 居心地が悪そうに落ちつかない様子で周囲を見回す隼。

「さっきまで警察の人たちにシツコクあれこれ訊かれていたから、ご機嫌を悪くしたんでしょう。とはいえ、いつものことよ。ほんとに芸術家って気難しいんだから」

「綾(あや)さん……」

「大丈夫、祐(ゆう)さんが巧うまく取り成してくれるわよ。私などより、よっぽど老画伯の扱いはお上手なんだから」

「お庭を拝見してもよろしいですか?」

 興梠(こおろぎ)が声を発した。

 首を動かさずにチラとその方向へ視線を向けて夫人が応える。

「ええ、どうぞ、ご自由に。そこ、沓脱(くつぬぎ)石の上に庭下駄がありますわ。お使いになって」

 興梠は座敷の広縁から直接庭に降りた。志儀(しぎ)もすぐ後について来た。

「ふうーーっ」

 思いっきり深呼吸をして、少年は言う。

「なんか……ビミョーな雰囲気だったよね、あそこ」

 座卓の下で絡まっていた夫人と若い画家の手。

「興梠さんが間違えて当然だ。〝娘〟にしか見えないよ、あの千野夫人とやら。画伯は60代なんでしょ? おまけに、どう見たって、あの奥さん、隼さんのこと――」

「しっ」

 探偵は助手に目配せした。

「OK、観察はしてもいいけど、口は出すな、だろ? 心得てるよ、僕」

 下駄を鳴らして背伸びをする。

「あそこがアトリエかな?」

 鯉の泳ぐ池を挟んで、櫟(イチイ)、冬青(ソヨゴ)、八手(ヤツデ)の見事な植栽の向こうを少年は指差した。

 屋根付きの長い廊下で母屋から繋がっているその建物――

 細長い円筒型のそれは、なにやら西洋の塔じみている。明らかに後から増築した部分だとわかった。

「だけど、ほんと、やり手だな、我が探偵は」

 肘で突いて少年はクスクス笑った。

「何がだい、フシギ君?」

「とぼけないでよ。庭から画伯邸を観察しようって魂胆だろ? 居辛い雰囲気の座敷から逃げ出したふりをして、さ」

 探偵は微苦笑した。

「いや、実際、それもあるがね」

 目のやり場に困ったのは事実だ。




「こらこら、それ以上は近づかない方がいい」

 庭を散策する風情で漫そぞろ歩いていた探偵と助手。アトリエへの更なる接近を試みる助手を探偵は諌(いさ)めて足を止めた。

 レースのカーテン越しに室内が見える。

 向こう向きに椅子に座っている千野画伯らしき人影。その傍らに立っているのが玄関で会った〈秘書〉の大槻祐人(おおつきゆうじん)だろう。

 二人の後ろの壁に数枚の絵がモザイクのように並べて掛けてある。

 庭に立つ探偵と助手にもそこまでは見ることが出来た。


 (では、あれが、連作少女舞曲だろうか?)


 この位置からは、絵柄まではわからない。ただ、全体の色のトーンは窺えた。どれも淡い緑色……

「ねえ、その、何とかって連作の絵、興梠さんは見たことがあるの?」

「いや」

 興梠は首を振った。

「千野碧明(せんのへきめい)が、ここ数年来、《少女舞曲》と題した連作を描いていると美術雑誌で読んだことはあるが。千野画伯は全て完成してから公表する意向だとも記されていた。だから、僕もどんな絵なのか、実際には見たことはないよ」

「そうなんだ? じゃ、今回、〝現物〟を見ることが出来たら、絵画好きの興梠さんのことだから、凄く嬉しいだろ? これぞ役得ってヤツだね?」

「まあね」

「お茶の用意が出来ました」

 女中が縁から顔を出して声を張り上げた。



 座敷に戻っても、夫人はまだ隼にしだれかかっていた。


(なるほどな)


 新進気鋭の画家・佐々木隼(ささきじゅん)が最近、恩師である千野碧明から距離を置いて、独自で活動し始めた――

 これもまた美術雑誌で知った情報だったが。その理由はこの辺りに起因しているのか? 師である画家の〝年若き夫人〟との禁断の恋?

 おっと、興梠は唇を引き結んだ。助手にも固く戒めたはずだ。


〈 探偵は内偵はしても、口は挟んではいけない 〉

  ただ、見つめよ。


探偵の鋭い視線の中、馥郁(ふくいく)たる香りが座敷に満ちて行く。

女主人のふるまいは全く目に入らないというように、女中は慣れた手つきでカップに紅茶を注いだ。

「あれ? お菓子はまだ?」

 いつもとは逆に探偵がニヤニヤして言った。

「ふむ? この場合、お菓子とお嬢さんと、君はどちらを待っているのかな、フシギ君?」

「ブッ」

 お茶を勢いよく吹いたのも――今回は助手の方である。

「お待たせしました!」

 その待望のお嬢さん、盆に手作りの菓子を山盛りにして入って来た。

「こりゃ凄いや!」

 志儀が叫ぶのも無理はない。こっくりと狐色。貝の形をした、見るからに美味そうな焼き菓子は一つ一つセロファンで包んで、小さな赤いリボンが結ばれている。

 夫人も顔を綻ばせた。

「金糸子さん、お菓子作りがお上手だから……」

「うん、料理の腕も最高だしね! じゃ、さっそく、いただきまぁ――す」

 志儀が手を伸ばしたその時、襖が開いて、大槻の声が響いた。


「千野先生がいらっしゃいました」





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