第4話
隼(じゅん)の運転で千野碧明(せんのへきめい)画伯の邸へ向かう。10分経からない距離だった。
お城の濠(ほり)を玄関から広い道の向こうに見るその一帯、塩見縄手地区は、かつて城の家老職の屋敷が並んでいた地域だと云う。なるほど、画伯邸も広大な敷地に白壁を巡らせた豪奢な造りである。
「おっと、先客有り、か」
舌打ちをしてブレーキを踏む隼。
門を潜ったすぐ先、玄関前の車寄せに黒塗りの車が止まっていた。
「おや、これは佐々木画伯ではありませんか!」
ちょうど玄関から出て来た数人、その先頭の一人が中折れ帽を持ち上げて挨拶した。
「自由の身になって早速、恩師にご報告ですか?」
「足立(あだち)警部補……」
「あの人よ。兄様を引っ張って行った警察の人。連続少女誘拐事件の担当なんですって」
後部座席に並んで座っていた金糸子(かなこ)が志儀(しぎ)に身を寄せて囁く。
「嫌なやつ」
少女の身震いが伝わって来た。
年齢は40代半ば。ヒョロリとした長身痩躯。三白眼の鋭い眼に青白い肌が際立って、見つめられると何とも言えない落ち着かない気分になる。何かに似ているぞ。志儀は思った。そう、蛇だ。
「その節はお世話になりました、警部補」
車から下りた隼、皮肉を込めて言葉を返す。
「いやぁ、こちらこそ。おや? そちらは? 見慣れぬお顔だが」
「僕の旧友です。僕の身を案じて神戸から駆けつけてくれました。興梠(こおろぎ)君と言って――探偵業をしているんです。向こうでは名の知れた名探偵ですよ!」
「初めまして。何卒なにとぞ、お見知りおきのほどを」
如才なく興梠は名刺を差し出した。
「ほほう! 興梠探偵社?」
目を細めて名刺を見つめながら足立刑事が笑う。益々、蛇そっくりだった。
「ハイカラな大都会はともかく、この古惚けた地方都市に〈探偵〉は不釣合いだな! 佐々木画伯も、むしろ、お友達なら〈弁護士〉を呼ぶべきだったと思いますがね。その方が遥かに有益だったのでは? では、失敬! ハハハハハ……」
「ね? 嫌なやつでしょ?」
同意を求めるように金糸子はギュッと手を握った。
「むむ、全くだ! 僕も、気分が悪くなった! 今、すっごく最低の気分だよ!」
嘘である。
少年は最高に良い気分だった。頬を薔薇色に染めて女学生の小さな手を握り返した。ここに黒猫がいたら、間違いなく「ニャアア?」と嫌味な泣き声を上げたことだろう。
置いて来て正解だった!
「隼さん――!」
警察の車が走り去る中、玄関から飛び出して来たのは妙齢の美しい女性だった。
「ああ! 隼さん! 隼さん! 良くご無事で……」
薄紫の万筋まんすじの江戸小紋、ダリア模様の帯。
錦紗の襦袢の裾を乱して、しどけなく若い画家の胸に倒れ込む。足元は、跣はだし――真っ白い羽二重の足袋のままだ。
「警察に連れて行かれたとお聞きして……心配で心配で……私、昨晩は一睡もできませんでしたわ」
泣き明かしたせいで? 二重目蓋の麗しい瞳が厚ぼったく腫れている。
「それは――ご心配をおかけして申し訳ない。そのことも含め、ご挨拶に上がりました」
「釈放されたのね? ああ、こうして貴方のお姿を見ることが出来て……本当に良かった……」
しがみついたまま泣き崩れる。この情景に決まり悪げに周囲を見回す隼だった。
「あ、響(ひびき)――興梠君、こちらが、千野綾(せんのあや)さんだ」
「千野画伯のお嬢さん?」
「ご妻女です」
「!?」
冴えた声に一同振り返った。
袴姿の青年が草履を持って立っていた。白皙(はくせき)の端正な面、長髪を一つに束ねて背中に垂らしている。その古風ないでたちが妙に似合っていた。
「綾奥様、これを――」
「あら、ありがとう、祐(ゆう)さん」
我に返って、草履に足を置く千野夫人。一方、隼は口早に言った。
「大槻(おおつき)君、僕は千野先生にお会いしたくてやって来たんだ。取り次いでくれないか?」
青年は無言で頷くと身を翻した。
去って行くその後姿を眺めながら興梠が訊いた。
「彼は?」
「大槻祐人(おおつきうゆうじん)君と言って――先生の、そうだな、〈秘書〉と呼ぶのがいいのかな。まあ、身の回り全般を世話している。有能な男だよ」
探偵の瞳に光が奔った。
「彼もお弟子さんかい?」
「かつては。だが、今は絵の方はやめて、千野画伯に誠心誠意、尽くしている。画伯の信頼も厚い。彼なくしては芸術活動に支障が生じるのではないかな? それくらい先生は大槻君を頼りにしている」
「これはこれは、佐々木様! そして、皆様……!?」
ここで漸く女中頭らしき年配の婦人が駆けつけた。
玄関框(かまち)に膝を突くと丸髷に結った頭を深く下げて挨拶した。
「お迎えが遅くなって相すみませんでした。さ、さ、どうぞ、座敷の方へ……」
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