第1章 卒業危機

 セレスは焦っていた。誰にも理解できないアートのような寝癖頭をぼりぼりかきながら郵便受けにある封筒を手に取り、それを開封した。それは2回生終了時点での成績証明書であった。


 完全に開ききっていない目でざっと成績を見ていく。


魔法属性基礎論 B

魔法薬学概論 C

黒龍戦役史 A

クローセル文明史 A

基礎能力開発 E

魔術基礎演習 E

対人魔法実践 E

近接戦闘演習 E

途中までは良し良しと満足そうに頷きながら成績を見ていく。だが途中からセレスの表情がどんどん暗くなっていく。


炎属魔法開発 E

水属魔法開発 E

雷属魔法開発 E

要指導学生対象 卒業試験受験資格 無


 「うがあああああ!」


 最後の通達はセレスの心臓を華麗に撃ちぬき、セレスは床にばたりと倒れてしまった。4月に入り、セレスは3回生へと学年を上げた。これまでも何度か進級が危ぶまれる危機に立たされてきたが、なんとか凌いでここまでやってきた。


 セレスの成績表を見ると、座学に関しての成績は悪くはない。むしろ学年全体から見たら上位に入る。座学だけ見たら、セレスは優秀な学生だった。


 セレスが通う、クローセル中央魔導院はクローセル王国の中でも精鋭された将来有望なエリートが集う場所であり、通称「中央院」と呼ばれている。


 ここでの成績の評価の観点は3つ。


一つは座学。そして個人演習。もう一つが集団演習だ。


 セレスの場合、絶望的なまでに個人演習と集団演習の成績が悪かった。2回生前期までは座学の評価割合が大きいのだが、2回生後期から個人演習、集団演習の成績配分が大きくなっていく。


 そのため、3回生になったセレスは座学だけでなく、個人演習、集団演習の成績も底上げしなければいけない状況となっている。


 「俺は・・・こんなところで足踏みしていられないんだ」


 セレスはムクッと立ち上がり、顔をパンパンと叩いて気持ちを奮い立たせた。


 「まずはパンツを履く!」


 セレスは大股でベッドの下に落ちている洗ったか洗ってないのかさえ不確かなパンツを見つけそれを履いた。ベッドとその隣に小さな机が置かれているだけのシンプルな部屋だ。ここは中央院の旧学生寮。広大な敷地面積を誇る中央院の隅に位置しており、同じ敷地内にあるにも関わらず、中央院まで行くのに徒歩で30分はかかってしまう。

 

 新学生寮は中央院まで歩いて5分の距離に位置する。エリートの上流貴族出身が中央院の大半を占めているため、旧学生寮のようなボロ屋敷にはセレス以外誰も住んでいない。 

 

 服が散らかる部屋の中、制服を見つけ出ししわくちゃなシャツに袖を通した。洗面所で寝癖を直し、鏡の前でキメ顔をした後、すべての準備が整った。ここまでノーパン状態から僅か2分。


 「よし、今日から新たな始まりだ!」


 セレスはカーテンを勢い良く開けた。部屋全体に太陽の光が差し込み、薄暗くじとっとした部屋が別人のように明るく変化した。扉の向こうには、錆び付いた時計塔が見える。


 時刻は13時10分。


 「あれ?」


 今日の受講科目は、総合戦術実践演習。開始時刻は13時00分。すでに講義は始まっていた。


 「あれ?」


 セレスは焦っていた。


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 中央院講義棟401講義室。13時40分。


 前方の巨大な黒板を前に、半円型の机が段を成して設置されている。50人ほどが座ることのできる中規模の講義室には、僅か3人だけが座っていた。3人の間には、ピリピリとした空気が漂っている。


 「他のグループはとっくに解散してるんだけど」


 窓際の席に座る女性は、頬杖をつきながら先ほどから何度も舌打ちをしている。神秘的な夕日を彷彿させるような緋色の髪をしている。つり上がった目は彼女の強気な性格を象徴しているように見えた。


 「まだ一人、セレス=フーマーが来ていない。今後の演習のためにも、顔合わせは必ずするべきだ」


 最前列の中央に堂々と座っている男性は、石のようにさっきから全く微動だにせず、腕を堅く組んでいる。緋色の髪をした女性からの提案をきっぱりと拒否した。女性はまた小さく舌打ちをした。


 「リタイアしたんじゃないのー?フーバーって、あのド田舎フーバーのことでしょ?」


 最後列の入り口付近の席に座っている女性は机に寝そべり面倒くさそうに呟いた。肌は褐色で髪は灰色。だるそうな雰囲気を漂わせていた。


 3人とも意思は全くバラバラな状態で、誰一人としてチームワークを深めようなどと考えていない。時計の針がカチカチと進む音だけがとてもクリアに講義室に響く。


 微動だにしない男性の眉が一瞬ピクリと動いた。廊下からどしどしと誰かが走ってくる音が近づいてくる。


 401講義室のドアは勢い良く開かれた。



 開けたドアから出てきたのは、全身汗だらけのセレスだった。


 3人の視線がセレスに集中した。どの視線もセレスを歓迎しているようには感じられない。セレスは講義室中央に入っていき、3人に目を向けたあと、大きく深呼吸した。


 「えと、寝過ごしました。ごめーん!ごめん!ごめんなサイドステップ!」


 セレスは両手を広げ、講義室の端から端までサイドステップを披露した。


 空気はさらに悪くなった。



 「場を和ませようとしてくれたみたいだ。セレス、礼を言う。お前とは仲良くなれそうもないことがハッキリとわかった」


 男性はセレスにピシャリと拒絶宣言を言い放ち、ゆっくりと立ち上がり、向きを180度変えた。


 「私の名はハルク=オブライエ。早速仲良くできそうもない奴が確定したが、演習に個人的な私情を挟むほど幼稚ではない。メンバーとして決まった以上、我が騎士道に誓い、ここにいる全員を守る剣となろう」

 

 座っている状態ではあまりわからなかったが、ハルクは190センチ近い巨体で、170前半しかないセレスを優に超えている。肩幅が広く、体格ががっしりしているため、華奢な体つきのセレスと並ぶと余計にハルクが大きく見える。


 ハルクの自己紹介が終わると、緋色の髪色の女性が立ち上がり、前方へ歩いてきた。


 「あたしはアリーシャ=アルテミスタ。好きなものは甘いもの。嫌いなものは、」


 アリーシャはセレスの前までたどり着くと、右手をセレスに差し出した。セレスは自然とアリーシャの手をとろうとした。その時。


 「おわああ!」


 アリーシャの右手からマグマのように炎が溢れ出した。その炎はセレスの前髪を少し焦がし、メラメラと揺れながらアリーシャの手から消えていった。


 「嫌いなものは、つまんない男」


 アリーシャはくるっと向きを変え、自分の席に戻っていった。


 「アハハーなかなかいないよねぇ!おもしろい男ってー」


 セレスは全身に冷や汗をかきながら引きつった笑顔を見せた。顔は青ざめている。


 アリーシャが席に座ると、次は最後列に座る女性に視線が集中した。


 褐色の女性はその視線を察知し、大きくあくびをした後、勢い良く立ち上がった。身長は小柄だが、意外にも胸が大きい。さっき立ち上がった時に、胸が上下に揺れた。


「オオおおおおおおお!」


 セレスが両手でガッツポーズをとった。アリーシャがセレスをちらりと見て舌打ちをする。


 「エレノア=アインリッヒでーす。んー。何言えばいいんだろ?」


 エノレアは首を傾げた。それを見るや否やセレスが勢い良く手を垂直に上げた。


 「はいはいはーい! ズバリ何カップですか!」


 「黙れイモカス!」


 「ぎゃー!アチい!尻が焼けるう!割れるう!」


 アリーシャがセレスの尻めがけて火の粉をふり放った。セレスの尻に見事に命中し、セレスは手で必死の消火活動をする。


 「んー。そうだねー。まあ秘密だけどー」


 エノレアはそこまで言うと、一度アリーシャを見た。アリーシャもその視線に気づき、いったいどうしたのかと、首を傾げた。エノレアはアリーシャと目があった後、その視線をほんのすこし下に移した。そして勝ち誇ったような笑みを浮かべ、アリーシャを見下したまま。


 「まあ、Aカップではないよー」


 爆弾を投下した。


 「ふうん? その服全部燃やして、自慢の胸を直に見てやろうか?」


 「え、マジ!? 生!? ふぎゃあああ!アチいいい!」


 アリーシャの眉間がピクピクしている。顔は笑っているが目は笑っていない。エノレアもやる気満々のようだ。


 セレスは鎮火したばかりの尻に再び火がついて懸命の消火活動に努めている。


 「茶番は終わってからやってくれ。次の話し合いに移る。どんなに嫌いでも演習はしっかりやってもらわなくてはお互いが困るだろう。それ以上続けるなら、武力行使に移るが?」


 ハルクの低音ボイスがずっしりと3人の耳を射止めた。アリーシャとエノレアはお互いの殺意を消し、自分の席に戻った。


 「『鋼鉄斬り』だけは敵に回したくないねえ」


 エノレアは気だるそうに呟いた。


 「あのー、俺まだ自己紹介してないんだけど」


 講義室前方。まだ席に着かずに突っ立っている。ハルクは申し訳なさそうに小さく手を挙げた。


 「お前の名はセレス=フーコー」


 「遅刻魔ド変態で」


 「おっぱい野郎」


 ここに来て初めてハルク、アリーシャ、エノレアの息がぴったりあった瞬間だった。セレスはみんなに刻み込まれた負の印象にがっくりと肩を落とした。


 「いやでも、それはまだ俺のほんの一部分なだけなわけであって・・・」


 セレス以外、誰も口を開かない。ただ表情で、それ以上、お前はいいと訴えているのがよくわかった。


 「ちゃんと話を聞いてくれたら、多分俺のこともっと信頼してくれて・・・なあ、ハルク? アリーシャ? エノレア?」


 ハルクは哀れみの表情セレスに向けた。アリーシャも窓の外の景色を見るだけで、セレスはいないものとしてみている。エノレアはいつの間にか寝ていた。


 セレスは大きくため息をついた。


 「みんなそんなに興味無い? じゃあ天井にいる人は?」


 「僕は、もう少し君の話を聞いてみたいなぁ」


 ハルク、アリーシャ、エノレアの3人が一斉に天井の声に顔を上げた。見上げると、天井の中央にある巨大なシャンデリアの上に、誰かが座っていた。


 「よっと」


 人影はシャンデリアから飛び降りると、シャンデリアは大きく横に揺れ、埃が机に落ちていく。アリーシャは迷惑そうにその埃を払った。


 「いやあ、個性あふれる面々だなぁ」


 ハスキーな声で明るく笑う男性は、ゆっくりと前方の黒板の方へと進んでいった。ツーブロックに刈り上げた金髪が印象的で、鼻筋が通っていて鼻も高い。二重まぶたがくっきりと、綺麗な瞳を演出している。歳は20代後半といったところだろうか。女性を虜にするような容姿をしていた。まさに色男とは彼を指す。


 「あなたは」


 ハルクは予想外の人物の登場にここに来て一番の動揺を見せている。アリーシャもエノレアも、最初は彼が誰なのか分からなかったが、顔をじっと見ているうちに彼が何者なのかがわかって、口をパクパクさせていた。


 「セレスくん、自己紹介を続けたまえ」


 男性はセレスの肩にポンと手を添えて押し出した。


 「俺はセレス=フーコー。好きなものは、、、巨乳!」


 再び講義室の空気が冷めた。登場したばかりの男性だけがこの空気を感じ取らずニコニコしていた。アリーシャはいつでもセレスを叩き潰せるよう、指をほぐし、ポキポキと鳴らしている。


 「嫌いなものは」


 セレスはそこで一呼吸置いた。あえて沈黙を作ることによって、全員の意識を自分に向けさせたのだ。


 「壁の向こう側を見ようとしない人だ」


 一瞬で、セレスの言葉は3人を惹きつけた。誰も見向きもしなかったのに、たった一言でセレスの存在を、3人に認めさせたのだ。


 「これで、全員自己紹介は終わったね」


 金髪の男性は満足そうにうなずいて、セレスを席につかせるよう促した。全員が彼に注目するのを確認すると、男性は深くお辞儀をした後、口を開いた。


 「諸君、初めまして。私はルーク=レーヴァテイン。君たちの集団演習についての指導教官となった。これも何かの縁だ。一つよろしく」


 「よろしく!ルーク先生!」


 嬉しそうに挨拶をするのはセレスだけだった。後の3人は固まったまま口を開こうにも開けない状態となっていた。


 「どうしてこんな人が・・・」


 眠そうな目をパッと開いたエノレアが信じられないといった表情でルークを見ている。


 レーヴァテインという名を聞いて、ここクローセル王国のみならず、全土に渡ってその名を知らぬものはいない。800年前、突如現れた魔神デュラハンを退治した英雄は、代々クローセル王国に仕える三大聖英騎士の一角として今日までその地位を不動のものとしていた。


 「任務で全部世話できるわけではないんだけどねえ。三大聖英騎士の一人である前に、一国の騎士の勤めとして、将来を担う卵を育て上げるのも、僕の重要な使命だ」


 グレーのスラックスに白シャツのシンプルな服装で現れたルークからは、彼がこの国を代表する最強の騎士であることは誰も想像し難い。セレスよりも少し身長が大きいぐらいで、体格もハルクに比べると見劣りする。彼のどこにそれほどの力が込められているのか、全く見当もつかない。


 「とりあえず、今日中に絶対やらないといけないことがあるんだ。それが、小隊長を誰にするかってことなんだけど」


 ハルク、アリーシャ、エノレアはお互いの顔をチラリと覗いた。小隊長は、この集団演習において戦術の策定、作戦指示、撤退の有無等、演習で高評価を得るためには欠かせない重要な役職である。それを誰が担当するのか。一人の決断によって、4人の運命が一気にプラスにもマイナスにも傾く。


 お互いを敬遠している3人とは違い、セレスは呑気に鼻をほじってぼーっとしていた。セレス的には、このメンバーに対してそれほど不満を持っている様子はない。むしろ満足しているようだった。


 「君たちに決めてもらうってしたら日が暮れそうだし。僕が決めようと思うんだ」


 ルークはニコッと笑って白い歯を見せた。セレス以外の3人が息を飲んで、ルークが誰を選ぶのかをじっと見ている。セレスは関係なさそうに小指で耳垢を撮っていた。


 ルークは全員の顔をじっと見た後、一度小さくうなづいてから、前方の人物に指をさした。


 「セレス、君にやってもらおう」


 「え、嫌です」


 即答だった。セレスは小指の爪の間に溜まっている耳垢を口でフーッと履いて再び耳を掻いた。


 アリーシャはありえないと大きく怒鳴った後、机を叩いた。エノレアは口をぽかんと開けている。


 「納得できません」


 まっすぐに手を上げて不服を申し立てたのはハルクだった。少しムキになっているようにも見える。自分が選ばれるだろうと思っていたからなのだろうか。失望の色も見える。


 この反応を前にして、ルークは全く動揺していない。こうなることが予想できたかのように、落ち着き払っている。


 「まあ僕にも色々考えがあるんだよー。あ、いけない、任務があるんだった。じゃあ小隊長はセレスで決定ね!セレス隊長あとはよろしく!」


 「絶対ヤダ!」


 「これは女性寮の風呂鍵なんだが小隊長就任祝いに受け取ってもらえないだろうか」


 「ぜひ!やらせていただきます!」


 今度は即答で小隊長就任が決定した。がっくり首を垂れるのはアリーシャとエノレアだ。ハルクは未だに信じられないといった様子で目でルークに必死に訴えかけている。


 「お待ちください、レーヴァテイン様!」


 「その呼び方は嫌だといっただろ?」


 そそくさと講義室から立ち去ろうとしているルークの前にハルクが立ち塞がった。


 「さっきも言ったはずだよ。僕にも色々考えがあるって」


 「だとしても、彼を小隊長にするのには反対です。今日も遅刻し、小隊を乱した。聞けば成績も良くないとか。そんな不真面目な者を小隊長など」


 悔しそうな表情を隠せないハルクは拳を固く握りしめた。そんな様子のハルクを見て、ルークは眉を下げて微笑んだ。


 「でも、僕の気配に気づいたのは、セレスだけだった。『鋼鉄斬り』ハルク=オブライエでもなく、稀代の召喚術師と言われているエノレア=アインリッヒでもなく、数々の伝説的魔法師を生み出してきたアルテミスタ家の次期当主アリーシャ=アルテミスタでもなかった」


 ルークがそこまで言うと、ハルクはハッとしてつい先ほどあったばかりのことを思い出した。悔しいが、ハルクが指摘するまで、ハルクはルークがいつからいたのかもわからなかったのだ。


 「僕は適性を言っているにすぎない。たまたまこの小隊を任せるに当たって適正な能力を持っているのは誰か分析した結果、セレスだったというだけの話さ。それに、セレスだけ頑張っても意味はない。君には君の役割があるし、他の人もまた然り。君にしかできない役割がここにはちゃんとある」


 ハルクは拳を握る力を緩めた。その様子を見て安心したルークは、ハルクの肩に手を添え、廊下の外へ消えていった。


 ハルクはセレスのことをまじまじと見つめた。


 「ふーろ!ふーろ!おんなっふろー!」


 自分の気持ちも知らずにはしゃぎまくるセレスに対して罵りを感じた。


 「俺はお前を絶対に認めない」


 ハルクはそれだけいいすて、廊下へと姿を消していった。


 「ありえない、こんなおっぱい野郎が」


 セレスの小隊長就任に否定しているのはハルクだけではない。エノレアはセレスを蔑むような目線を下した後、講義室を後にした。


 「もう、最悪の小隊だわ」


 2人が帰っていく様子を見て、アリーシャもその後に続いた。不満なのはアリーシャも同じだ。


 「ちょっと待って」


 アリーシャが講義室から立ち去ろうとした時、セレスが声をかけた。


 「さっきはごめん」


 セレスは申し訳なさそうにアリーシャに謝った。その真剣な表情にアリーシャはつられてセレスのことを無視することができずに振り向いてしまった。


 「おっぱいは大きいのが好きっていうのは違うから。ちっぱいも好きだから。それはそれで趣きがあるし。違う楽しみ方もあるよね。俺、ハイブリット型だから、どっちでも対応できるから」


 セレスは真顔で答えた。こんなに幼稚な考えをこれほど真顔で答える人間をアリーシャは見たことがない。こんな奴に構ってしまった自分に、腹立たしさを感じた。


 「だから俺、とりあえず、おっぱいが好き」


 「くたばれド変態野郎!」



 セレスの全身は窓の外の夕日よりも赤く、真っ赤に染まっていた。


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 黒龍世紀999年。この世界は、新たな時代を迎えようとしていた。


 「皆も知っているように、かつてこの世界の中心には雲よりも高く、サンテルース山脈よりも大きい大樹があった。それが大樹ユグドラシル」


 中央院講義等221講義室。100人は収容できる大規模講義室だ。机には生徒が隙間を作ることなくぎっしりと座っている。誰一人私語をするものはおらず、前方で講義を担当している教官の話を真剣に聞いていた。


 「ユグドラシルの影響により、人々は魔力を得て、われらの祖先は少しずつ文明を発展させていった」


 講義室窓側の後ろから6段目の机にはアリーシャが座っていた。頬杖をついて退屈そうに話を聞いている。ノートも教科書も開いていないのはアリーシャだけのようだった。彼女が放つ近づくなオーラが影響しているのか、アリーシャの隣だけ空席ができていた。


 「だがある時、突然大樹ユグドラシルは枯れた。そしてユグドラシルの中から邪神が生まれたのだ。それまで人々に恵みを与えてきたユグドラシルは、人間に災いをもたらした」


 アリーシャはこの講義にうんざりしていた。王国が歩んできた歴史を学び、真の敵を倒す決意を植え付けさせるためだとして、1回生、2回生、3回生の中で3回同じ講義を受けなければいけないのだ。つまり、アリーシャがこの講義を受けるのは3回目になるのだ。


 「邪神は人々を滅ぼし、その邪悪な力によって世界に魔族も生み出した。この邪神こそ、誰もが知っている黒龍、ブラックドラゴンである。ブラックドラゴンがユグドラシルより誕生したその日が黒龍世紀0年となる」


 教官は一度話を止め、教卓にある水を飲み、喉の渇きを潤した。1講義で90分行うことから、それだけ教官も体力を使う。


 すると講義室の後方のドアが誰にも気づかれないほど慎重にゆっくりと開き出した。腰を低く保ちながら察知されぬように素早く動く。


 アリーシャは上の空といった気持ちで、空を呑気に漂っている雲をただぼーっと見ている。


 「黒龍世紀98年。世界はブラックドラゴンに支配され、人々は破滅の道を進むしかないと思われた。だがそこに、2人の勇敢なる戦士が現れた」


 忍者のように歩くそれは、アリーシャに徐々に近づいていった。そしてアリーシャの隣が空いているのを確認すると、その席にするりと座り、何事もなかったかのように講義を聞いていた。


 「アリーシャ」


 それはアリーシャの耳元で囁いた。驚いたアリーシャは空を向いていた視線をすぐ隣に移す。アリーシャのすぐ目の前にいたのは、セレスだった。二人の顔の距離はほぼゼロ距離で、少しでも前に動けば唇が当たってしまいそうなほど危険な距離だった。


 アリーシャは状況が飲み込めず固まっている。セレスはずっと真顔でアリーシャの目をしっかり捉えている。


 「戦士の名をクローセス、オーベンといった。彼らはユグドラシルの枝に宿るわずかな力を集め、武器を作った。それが、光の盾、光の矢だ。光の盾はブラックドラゴンのどんな攻撃をも防ぎ、光の矢はミスリルよりも堅い鱗を射抜いた」


 教官の話はクライマックスを迎えようとしていた。誰もが息を飲んでその次の話を待ち構えている。例外を2人除いて。


 アリーシャとセレスの睨めっこは続く。アリーシャは段々と顔を赤らめていった。セレスの表情は全く変わらない。一体何を考えているんだこの男は。こんな距離にまで男性と顔を近づけたことのないアリーシャは戸惑うばかりだった。


 「アリーシャ」


 再びセレスがアリーシャの名を呼ぶ。その声にアリーシャの体が一瞬ビクッと動いた。


 「な、な、なんなのよ」


 「チューしよ。んんんんん」


 セレスが口をタコの形にしてアリーシャの唇を奪おうとした。


 「いやああああしねえええ!」


 講義室が爆風によって一部が粉々になってしまった。セレスは丸焦げに、被害はセレスの付近にいた学生にも及んでいた。


 教官は手に持っている文明史はドスッと重たい音を鳴らして地面に落ちた。


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 「次やったら殺すから」


 時刻は17時を過ぎたところで、中央院の全講義終了を合図するチャイムも鳴り終わっていた。


 221講義室は所々焦げ跡が残っていたり、物が散乱していた。それをセレスとアリーシャは掃除していた。つい先ほど2時間前の出来事のことで教官は二人に居残り掃除を命じたのだった。


 「なんであたしまでやんないといけないのよ!もう!」


 アリーシャは不満を全開でセレスにぶつけている。セレスは口笛を吹きながら優雅にモップがけをしていた。


 黒板には、黒龍戦役史の板書が残っていた。教官は一つ一つの出来事を細かくまとめていた。セレスはモップをかけながら、それを注意深く観察している。


 「アリーシャ、君はどう思う?」


 「何よ」


 アリーシャは雑巾で窓にこびりついた煤を拭き取っていた。またセレスがくだらぬ話をけしかけるのではないかと、邪魔されぬよう自分の作業に集中している。セレスはそんなアリーシャの様子に構うことなく話を続けた。


 「勇敢なる戦士クローセスとオーベンは、光の盾、光の矢を用い、ついにブラックドラゴンを倒した。ブラックドラゴンの体は灰と化し、灰の山に変わり果てていった。その灰の山の中から光る何かを二人は見つけた。それが」


 「ブラックドラゴンの目とブラックドラゴンの心臓」


 アリーシャは興味のなさそうにセレスの後に答えた。何度も講義で復習した内容であり、自然と頭の中にインプットされている。セレスはアリーシャの答えに嬉しそうに頷いた後、話を続けた。


 「クローセスは心臓を、オーベンは目を手に取った。心臓からは魔力が溢れんばかりに湧き出ていた。目は、魔族を統御する力を持っていた」


 窓の掃除が完了したアリーシャは机の上に座って休憩を取った。暇つぶしに聞いてやるといった態度で、セレスの話を聞いている。


 「二人はこの強力な力を有効に使い、お互いの力を合わせて、新たな国造りをしていくことを誓った。しかし、オーベンに異常が見られた。オーベンはブラックドラゴンの目に支配され、クルーセスと絶縁」


 セレスは教科書の事実を一字一句間違うことなく暗唱していった。


 「クルーセスは闇に堕ちたオーベンを滅ぼすべく国を作る。オーベンも同様にその邪悪なる力で国を作り、力をつけていった。黒龍世紀110年、クルーセス率いるクローセル王国と、オーベン率いるオーベル帝国に戦火の狼煙が上がった。それからこの戦争は今日まで終わることなく続いている」


 「子どもの頃から何度も聞いてるわ。で、それが何なのよ」


 アリーシャは大きなあくびをして、退屈だとセレスにアピールした。アリーシャの反応にセレスは苦笑いして、モップを掃除ロッカーへ放り込んだ。


 「本当にこれの全てが事実だと思うかい?」


 アリーシャはすぐさま身構えた。セレスは一歩も引き下がることなく、アリーシャを見つめている。


 「文明史への侮辱、中傷、疑いは重罪よ。即牢屋行きになることぐらい、馬鹿なあんたでもわかってるでしょ」


 アリーシャは立ち上がり、セレスのそばに駆け寄る。周りを見回し、立ち聞きしているものがいないか確認した後、声を潜めてセレスに問い詰める。


 「真世界導書」


 それは絶対に口にしてはいけない禁句であった。口にすれば即死刑を言い渡される。その言葉を、アリーシャはセレスから聞いてしまった。廊下から賑やかな会話が通り過ぎていった。アリーシャはビクッとして廊下の方を見て、人影を目で追った。声が聞こえなくなるのを確認すると、セレスの肩を強くつかんで激しく揺さぶった。


 「あんた、自分が何言ってるのかわかっているの?」


 セレスはにっこり微笑むだけで、顔色一つかえない。アリーシャが密告すれば、セレスは今すぐあの世行きとなってしまう。セレスの命をアリーシャが握っているような状態だった。 


 「俺はただ、世界を正しく観たいだけだよ」


 それが自分の成すべきことだ。自分の信念なのだと、その目はアリーシャに訴えている。特徴のない黒髪に瞳も同じく黒。村から入学してきたという平民出のセレスはアリーシャの足元にも及ばない。だが、アリーシャは彼の奥底に眠る隠れた正体に触れたような気がして、彼がただの田舎者であるという認識を変えざるをえなかった。セレスは自分の肩を掴んでいるアリーシャの手をほどき、講義室から立ち去ろうとした。


 「なんでそんなこと、あたしに聞くのよ。あんたあたしが密告したら・・・」


 セレスは歩みを止めて、振り返った。アリーシャはセレスに疑いの目を向けていた。セレスはそんな彼女ににっこり微笑み、優しく語りかけた。


 「君のことをもっと知りたい。相手を知るためには、まずは自分のことをもっとよく知ってもらわないとね。だから話した。それだけだよ。それに、アリーシャは密告なんてしないよ」


 セレスのお腹がグーっと鳴った。時計は既に18時を過ぎたところだった。外もだいぶ暗くなってきている。自分の腹の音のせいでカッコつかなかったのが恥ずかしかったのか、セレスははにかみながら講義室を駆け足て去っていった。


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