4

 思わずタウは音のした方を振り返り見る。そこには紫色の瞳を輝かせて立つ歌い手が立っていた。

 「お聞きめさるな」

 再びタウはキタラを鋭く爪で弾いた。まるで空気が空気同士でこすれたような音に、群集の声が急速に弱まった。

 「もはや彼らは人の欲望を喰って生き永らえるだけの幻、望みを口に出せばタウ様までも喰われてしまう」

 そしてキタラの弦が鳴り響いた。低音から高音まで、糸を紡ぐように重なり合う。それまでタウを捕らえようと迫っていた人々の上に綾布のように覆いかぶさる。音に怯えたか、人々の間に細い隙間が生まれた。織り成す人々の肩の向こうにキタラが見えた。

 「おれは!」

 青年が弦をかき鳴らす細い手が見えた瞬間、タウは青年に向かって駆け出していた。おれは奴らとは違う!望みを叶えてみせる!輪の中に押し留めようとする人々の力を振り切り、青年の手を目がけて身を躍らせる。幾つの人影を踏み越えたか、幾つの顔を手で払いのけたか、ようやく青年の前に辿りついたときにはタウは四肢が体から離れんばかりに疲れ果てていた。

 「おれの望みは、……」言を青年に投げつける。途端にタウの意識が群集に引きずられるかのように体から抜け出し闇に吸い込まれていった。

 タウの体が崩れ落ちる。青年はキタラから手を離さず歌を詠唱していた。――青い闇が地を覆う、青い心が世界を覆う、人々は黒い言葉で思いをもの語り、闇はそして人々の中にとどまる。タウが最後に見たのは青年が不可思議な笑みを浮かべて詠唱する姿だった。





 キタラの音。

 陶器と木の机がぶつかり合う鈍い音。酔った男達の怒鳴り合い。

 「お目覚めになりましたか?」

 子守唄を奏でるような甘い声が頭上から降ってくる。導かれるように目を開くと、長い黒髪を垂らした青年の顔が上下逆さに見えた。

 「倒れられてからまるで息を失ったかのように眠り続けておられました、……ご無事ですか?タウ様」

 ここは。唇を動かそうとして、乾ききっていることに気付く。頭の隅にしびれたような感覚を覚えたまま周囲を見回すと、青年の手に握られたキタラが見えた。

 たちどころに記憶が川の流れを遡るように蘇ってくる。おびただしい群集に取り囲まれた赤い空の地。願いと怨嗟を織り成した赤い布。「眠っていた……?ここは酒場か?アンザイは夢だったのか?」だが口をついて出た言は、ほとんど喘ぎに混じり音にならなかった。

 タウが眉をひそめたのを見て取ったのか、青年は再び不可思議な笑みを浮かべた。「汗をお拭きいたしましょうか、お顔じゅう玉のように吹き出ていますよ」

 「自分でやる」言って手を額の上方に上げる。瞬間、目の前を赤茶けた布が横切った。

 アンザイの、老人が身に纏っていた布。

 理解するよりも前にタウの体中に震えが走った。顔の汗が一気に流れ落ちるのを感じ取る。まさか。つぶやいて布を引き寄せて確かめようとするが、その動きも中途で止まった。

 タウの顔の上に掲げられたのは、しわが深く刻まれた骨と皮ばかりの腕。脂に似たくすんだ茶色を放つ肌の上に、青黒い血管ばかりが奇妙に浮き出て脈打ち、辛うじて生命を主張していた。

 これが、おれの腕なのか?つぶやきを飲み込み、掌を見やれば、同じように水気を失った皮膚が骨にただれてしがみついていた。思い切って顔に手をやる。指先の感覚は既に麻痺してしまったのか肌の感覚はなかったが、頬骨が不自然に顔から突き出しているのは分かった。

 「あ、……」タウは慌てたように左右を見渡した。周りには木製の椅子と机の脚が並び、確かに自分がいた酒場と同じように見える。ならば、何故自分の肉体は老いているのか。無意識に立ち上がろうと床に手をつく。

 「ご無理はなさらないほうがよろしいかと、」青年がキタラを爪弾いた。「もはやタウ様の体は直立さえ保てないでしょうから」

 青年の言葉が予言したとおり、タウの両腕は不自然にたわみ肩と床との間で鈍い音を立てた。タウが声にならない悲鳴を上げる。「申し上げないことではない、十分ご注意くださいませ、……タウ様の望みがせっかくかなったが故の現象ですのに」

 おれは老いなど望んでいない!床の上に身を這わせながら、タウは青年を睨もうとした。

 対して青年は紫色の目を湛えてタウを見下ろした。「アンザイの赤い夜に、貴方はこう望まれたはずです、――願わくは己を愚弄する一族が全ていなくなれば良い、己を知る者が消えてしまえばよい、と、御覧なさい、赤夜の望みは叶えられた」

 ふざけるな!叫んだ言は、うめき声にしかならなかった。口元からだらしなく垂れ落ちる涎も拭わず、折れた両腕も垂れ下げたままに、怒りに任せて身を起こす。立ち上がりざま傍の椅子にぶつかり、大きな音が酒場中に響いた。

 酒場中が静まり返り、視線がタウに集まる。

 向けられる顔、そして顔。その顔つきにタウは全く見覚えがなかった。見れば皆、縫い目も弛みもない布を身にまとい、肌を大きく露わにして嗅いだことのない匂いを放つ酒を手にしている。

 ここは。「タウ様の町が廃れ施政者も入れ替わり、幾歳が過ぎましたか……タウ様をご記憶されている方も、その御子息も皆星の一片となってしまわれた末の世界まで、貴方の身体は生き永らえたのです、」タウの背を青年の大きな手が支えていた。「いかがですか、誰にも記憶されない世界、貴方の望まれたとおりの現実に立たれた御感想は?」

 タウの顔が苦悶にゆがむ。だがそれも一瞬のこと、青年がタウの顔を覗き込む前にタウはその場に崩れ落ちた。膝が床に着くより先に、足元から体が細かな泥土に変わり煙霧となって巻き上がる。一呼吸さえたたない間に、タウの身体は酒場の生温い湯気に呑み込まれていった。

 青年がキタラを爪弾く。酒場の静寂は突然取り去られ、元あったように喧騒が空間を支配した。

 ――そして、望みだけが人の中にとどまる。

 キタラをかき鳴らして一節だけ歌い上げ、青年は一礼して酒場の扉を開けて闇に消えていった。

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赤夜 緋砂かやえ @hisakayae

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