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 老人はわずかに笑みを漏らした。「テンガイにいる限り富はすべて麓に構えるタイガ国に吸い取られてしまう、親族がいる限りテンガイを理由もなく離れるのは不可能、せっかく神が大義名分を与えてくれたのだ、この機会を利用しない手はない、……私は自らが巨万の富を手にする夢を夜ごと見ながらアンザイに向かった」

 「だからテンガイは滅びたと」タウは鼻で息をついた。

 「結論を急ぐでない、……10カ月と10日かけて私はアンザイに着いた、ちょうど赤夜の1日前に着いたのだ、アンザイは今のように赤く輝き今と同じく質素な町構えだった、夕食をとるべく入った食堂で私は女に出会った」

 老人の声は一段と低くなった。「女は店の一番奥でまるで私を待ちかまえていたかのように料理の皿をテーブルに並べていた、年は30過ぎくらいだろう、ようやく足どりがまともになった年頃の子どもが彼女の後をびったりとついて離れなんだ、私と目が合うなり女はほほ笑んだよ、今でもあの笑顔は思い出せる……開口一番、『あなたは何を望むつもり』とね、それで私は引き寄せられるようにテーブルに座り彼女と話し込んだ」

 老人が口を閉じたのを見て、タウは大きく息を吐き出した。「赤い光が空を覆う、赤い思いが国を覆う、人々は白い息を吐き思いを唱え、光はやがてその中に落ちる、同じ歌を彼女は歌って言った、『この国には何もない、この歌しかないわ』とね、…彼女の話はこうだ、私は南の果てにあるジュージ国から望みをかなえるため10年前にアンザイに来た、何不自由なくジュージの貴族の娘として暮らしていたが、娘としての機能が備わっていないことを知らされた…つまり子どもが作れない体だったのだ、それが故に王族との結婚を破棄されそうで、アンザイで望めば子どもを授かると算段したのだ、だが望む前に彼女に異変が起きた、一人の男が現れたのだ」

 赤い空の色がいっそう濃くなったようにも見えた。「男といっても白いひげを垂らした老人だったそうだがね、その老人はアンザイに着いたばかりの彼女を捕らえてこう言った、赤い光が空を覆う、赤い思いが国を覆う、人々は白い息を吐き思いを唱え、光はやがてその中に落ちる、お前のような若い女が何を望みに来たのかとね、……同じように彼女は老人の話を聞くことになる、老人はアンザイで生まれアンザイで年を重ねた、毎年一度だけ一日中太陽が沈まない赤夜を迎え、毎日毎日その日のために望み続けてきた、老人の望みは下賤な身分を捨てアンザイの王に就くこと、赤夜の神秘により近い場所にいれば毎年何でも望みがかなうと信じたのだ、……だが老人は女に告げた、すべては歌の通りだったと」

 「歌の通り?」

 「言ったではないか、この歌だけが真実だと、」老人はタウに指さした。「……赤夜の時にたった一つの望みがかなう、たった一つの望みとは、自分以外の誰もが望みをかなえることがないよう唱える呪詛と怨嗟の念、それのことだ」

 タウの前に、薄暗い暗雲が立ち上った。目の前で渦を巻く雲は煙にも見え、生物のようにも見えた。

 「古い昔には、本当に望みをかなえる者もあったのかもしれん、」老人の声が闇の向こうから聞こえる。「毎年毎年誰かが望みをかなえ、それがアンザイの伝承に育ったのかもしれん、だが時は過ぎ、望みが叶えられなかった者が恨みを募らせるようになった、アンザイの内部で争い事が絶えなくなり、それによってアンザイは滅んだ、……今丘陵にあるこの国はわずかばかり生き残った敗残兵によって作られたのだ、険しい丘に閉じこもるこの国の住人もいずれは老いて国は滅び去る、そこで思い立ったわけだ、…歌で望みを叶えたい人をいざなえばこの国に人が絶えることはない、と、……人は貪欲だ、時が離れ地が違えども必ずこの地を目指す、と」

 黒い闇はやがて老人の体を包み込むように太く大きくなった。「そして引き寄せられたのが老人であり、女であり私であり、そしてそなたもそうであったのだ、そなたの望みは何であろうとそれは叶うことはない、ただ歌のみが人の口から口に伝えられ歌を歌い継ぐものだけが残る、望みだけが連綿とアンザイを支え、滅びの時を先に延ばしている」

 タウは座っていながらにして眩暈でその場に伏せそうになった。暗雲が何か発しているからかもしれない。老人の言に少なからず衝撃を覚えたからかもしれない。だがタウはただ黙しているわけにはいかなかった。

 「…では何故お前はここにとどまっている」

 タウは痺れる唇を動かした。「お前はアンザイで生きる術を見出したからではないのか?」

 「最後まで聞けと言ったはずだ」対して老人はぴしゃりと言を落とした。「その後愚かなる者に何が起きたか、この国で何が起きたのかその目で見よ」

 老人の声が終わった刹那、赤い宵の光がタウの四方を包んだ。タウの前にいたはずの老人の姿はかき消え、赤い門がタウに迫り来る。門の奥から見た覚えのない青年が飛び出してきた。

 ――何故おれがここを追われる、おれは王になるのに何故お前達はおれを追い立てる。青年が叫ぶ。その背後から槍を持った男達の群れが追ってきた。王の名をたばかる不埒者!叫び声が男達の間から巻き上がった。誰がお前なんかに望みを叶えさせるものか!叫び声に血の滲んだ声が混じる。声に突き飛ばされたかのように、門からは大きく腹を孕ませた女が転がり出てきた。この売女!老婆が女の背を追う。――子が欲しかったわけではない、私が欲しかったのはあの王子の歓心、なのに何故私は孕ませられたの?この子は誰の子なの。怒りとも嘆きともとれない声が女の下腹を揺らす。さらに老婆の後ろからうなり声が追う。王子の名を汚す売女は国を出て行け!子をなす望みを叶えた女を生かして返すな!青年と、女とを追う人だかりはいっそう激しくなり、そしてタウの周りを取り囲みタウを押しのけるように激しくもみ合った。

 望みを叶える者は誰だ!

 やがてタウを囲む輪の中から一つの声が沸きあがった。瞬間、輪が静まり返る。赤い光がいっそう濃さを増したようにも思えた。

 一呼吸後。

 「誰だ!」絶叫がタウを貫いた。「望みを叶える者は誰だ!」口々に叫び募る人だかり。まるで犯罪者と見立てて糾弾する群集のように、死刑囚の最期を見届ける大衆のように、タウをめがけて言い募る。その中央に、左足を引きずった先ほどの老人がいた。

 「私が望んだのは自らの富、確かに一時は幾許かの金を手にした、だが私が取引した物品のせいでテンガイの国力は奪われ、滅んだ……手にしたのは何だ?他愛もない昔話と一節の歌、ほかに何が残った?」

 老人の身を覆う茶けた布が、風に煽られたかのように大きくはためく。その布は老人の身を離れ、やがて群集を覆うほどに大きく広く空との境を遮った。

 「若造よ、そなたの望みは何ぞ?」老人の声とは思えないほど、野太い声がタウに迫る。もしかするとそれは群集が声を揃えてタウを問い詰めていたのかもしれない。「何を秘めてここに来た」

 おれは。

 タウは口を開こうとした。だが恐怖なのか赤い布に包まれたためか、思い通りに唇が動かない。強靭な肉体を自負していたはずなのに、いつの間にか膝が大きく震え立位を保つだけで力を消耗していることに気付いた。「おれは、……」

 ぱーん、と。空気が裂けたような音がした。

 

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