第2話
末吉が独立し、犂の製作に乗り出した時、福岡県には磯野、深見という競合他社が存在した。会社を立ち上げる前、犂先に使う鋳物の購入先として付き合いのあった会社だが、長式農具製作所の設立は、それらに頼らず完全に自前の製品を仕上げるための契機であった。
犂製作所の主な顧客は地元の農民であった。彼らは情に厚く、確かな観察眼を持っていたが、一方で農具に対しては突き詰めた考えを持っていた。自分自身の技量や土地の性質などを加味しながら、いくつもの会社の製品を比べて、最終的に一つを選び取る。農民たちは特定の製品に固執することなく、ひたすら使いやすい製品を求めた。そして末吉をはじめとする制作者も、顧客の要求に応えるため、より効率の良い犂を作り上げて売ろうとする気構えを見せた。
犂の展開は県内にとどまらなかった。犂の製作会社は、犂の営業と技術指導を行うための社員を雇い、全国へ派遣した。犂は西日本では古くから使われていたものの、東日本では普及が遅れていた。
東日本に犂がなかったわけではない。オオグワと呼ばれる、抱持立犂とは違う在来の犂がところどころで使われていたものの、当時東日本で多かった湿田で使えなかったため、限定的な使用しかされなかった。しかし明治一六年(一八八三年)、庄内平野において官田馬耕を奨励した山形県のように、政府が食料の増産を訴えかけていたこともあり、明治に入って東日本でも犂への関心が高まっていた。そこに西日本の犂製作会社の商機があり、農法の改革が始まった。
「我々はとにかく遠くへ行かねばなりません」
そう言って、専属の犂耕指導員の一人である勝永は、もう一人の指導員である実淵と共に九州を出て様々な地域へ犂を広めていった。勝永の言葉の裏には、競合他社に比べて小さな規模と少ない人手に対する不安があった。
犂耕指導員が二人しかいないというのは、他の会社と比べて少なく、新参者ということもあって地元で信頼を勝ち取るのが難しかった。犂を売ることで会社を保たせるなら、九州以外の地域へ市場を求めるのが得策という方針もあった。
しかし九州にまるきり無関心だったわけではない。末吉は地元大川村の農学校をはじめ、各地の農学校に講師として学生に牛馬や犂の扱いを伝えていた。それは商売ではなく、福岡に生きる農民としての義務感から来るものであった。
林遠里から始まる福岡農法を継承していくという思いを負っていることだけではない。いくら農法が発達しても、一つの巡り合わせの悪さが重大な飢饉を招くことを知っているからであった。
「これが何だかわかるか」
博多の農学校に臨時雇いで訪れた時、講義の合間を縫って連れ出した学生たちに末吉は問うた。本来なら座学をしている時間だが、書物で学ぶ知識よりも多くの学生が享保の飢饉を知らない事実の方が重大に思えて、講義を切り上げ野外実習と称して中州畠へ学生たちを連れていった。学校に知られた時のことを考えなかったわけではないが、片手間の仕事と思えば思い切りが良くなるのであった。
「供養塔でしょうか」
学生の一人からためらいがちの答えがあった。
「その通り。ばってん、どうして建てられたのかわかる者はおるか」
根本を問う質問に学生たちは、不安げに顔を見合わせるだけで返事をしなかった。何とかして答えをひねり出そうと囁き合う者たちもいたが、漏れ聞こえる言葉は正答からは遠い。
「良い。知らぬならここで覚えておいてほしい。これは飢人地蔵という。どういうものだかわかったな」
そう言い、末吉は目があった学生の一人を指した。彼は戸惑いながら、飢え死にした人への慰霊碑ですかと答えた。
「その通り。これは享保の飢饉の時に建てられたものじゃ。もう二百年近く前の出来事だから知らないのも仕方がないかもしれない。ばってん、昨今の農法の発達具合があれば防げたかもしれない出来事だし、一歩間違えば現代でも起こりうる出来事だ。農業に従事するならそのことを忘れないようにしてもらいたい」
末吉は慰霊碑と供養塔を交互に見比べながら学生に向けて言った。実感がわかないような顔をしている者、何かに打たれたような表情の者など様々だが、一部にも影響を与えられたのなら、連れ出した甲斐はあったように思えた。
そして享保の飢饉のことを学生に向けて語り出す。享保一七年(一七七二年)から翌年にかけて発生した飢饉で、暖冬と冷夏、更に害虫の大量発生によって西日本の農業が大打撃を受けた。天保、天明と並ぶ江戸三大飢饉の一つである。
「飢饉は犂や牛馬の扱いだけでどうこうできることではない。ばってん、犂を使って土に触れるということは作物や病害虫のことを深く知るという機会にも恵まれる。その時は、自分たちの先祖たちが苦しんだ飢饉のことを思い出してもらいたい。このような飢人地蔵が大正に入っても建てられるようなことがあってはならない。我々は福岡農法の継承者だ。飢人地蔵が建てられるようなことがあれば、それは継承者の名折れだと思え」
少し強い口調で言うと表情が変わった。受け取り方まではわからないが、飢饉を起こさない学びをしてくれたら充分だと思った。
結局座学を放棄したことは知られることなく、昼餉を経て午後の実習に移ることができた。午後は牛馬と犂を使った実習である。
外出の時は教師という肩書きを意識して三つ揃いの背広の上にフロックコートを羽織っていったが、実習の時は法被と脚絆に着替え、靴も草鞋に履き替える。温暖な福岡とはいえ薄着で過ごすには辛い時期であるが、土で汚れた時服より体を洗う方が手間はかからない。
学生たちを待たせ、一頭の馬を厩から引き出してくる。牛の方が鈍重な分扱いやすいが、福岡では馬を主に使っている。地元の水に慣れるためにも、敢えて馬の扱いから覚えてもらいたかった。
「農学校に来るからには、諸君はある程度農業の経験があると思う。それを踏まえて訊きたい、農業は労多くして益少なし、そう思ったことはないか」
ためらいがちではあったが、学生たちは手を上げたり頷いたりしてくれた。
「労が多いのは致し方ないとして、益が少ないのは改善しなければ、現代になって飢人地蔵が建つことになる。そのためには土を深く耕し、作物の根を深く張らせ、より多くの栄養分を蓄えさせ、実りを多くする必要がある。そこで注目されたのが、我らの故郷で使われてきた抱持立犂だ。もっともこれは扱いに難があるので、いくつかの改良型が出ている。それを扱えれば充分だ」
末吉は牛馬に使う装具の説明から始めた。牛馬共に、藁製の腹帯を巻き付けてから手綱を通す小鞍を置く。この小鞍は牛馬にとって重心となるもので、犂と牛馬をつなぐ曳緒、犂先の方向を決める止め木、そして馬を操る手綱が取り付けられる。犂を使う時、牛馬を上手く御すのはもちろんだが、装具の取り付け方がまずいと仕事がうまく進まないばかりか牛馬を消耗させることになる。基本的な順番を守って装具を着実に取り付けるよう言って、末吉は小鞍につける装具を取り付け終えた。
馬と犂の準備を終えると乾田に入る。その気になれば掛け声だけで馬を操れる末吉だが、学びの場で曲芸めいたやり方は必要ない。基本に則って手綱を取る。
「牛馬にとり、手綱こそ操縦の伝令機である。張りすぎれば緊張して歩かなくなるし、緩めすぎれば怠け癖がついてしまう。この感覚は実地で学んでもらうしかない」
そう言って末吉は手綱を取った。そして犂と装具をつけた馬の後ろに立つ。たったそれだけのことだが、学生たちの興味が沸き立ったのを感じる。背中には期待のこもった視線が集まっていた。
(牛馬名人の面目躍如となるかな)
曲芸めいた牛馬の扱い方からつけられた呼び名を、最初は面映ゆい気持ちで受け止めていたが、慣れてくると慕われているようで嬉しくなる。特に会社を立ち上げてからは、社長の肩書きよりも有効に作用した。深耕犂という新しいものより、数千年前から人々と共に生きてきた動物をうまく扱う人間の方が信用が置けるらしい。磯野や深見の築いた信頼を奪うのは用意ではないが、牛馬名人であるからこそ増やせる支持があった。
その呼び名は商売の時だけでなく、教育にも活かせている。牛馬名人の呼び名はわかりやすいのか、どこで牛馬を扱うにしても一挙手一投足に注目を集められていた。
学生たちの注目を一身に浴び、末吉は手綱を波打たせて馬を進ませた。牛なら一本で済む手綱は、馬の場合左右二本必要になる。牛の方が足も遅く、感覚も鈍いから細かな操作を必要としない。馬は足が速く能率的な仕事ができる分、二本の手綱によって繊細な操作が必要だった。
「後ろではわかるまい。横へ来なさい」
背後に向けて声を上げると学生たちが側面に移動した。犂について初心者でも馬の特性についてはわきまえていて静かな歩き方である。ひそかに感心しながら馬を前へ進めていく。右手では犂の把手を持ち、左手で手綱を使う。馬が暴れるなどした時は右手側の手綱も使うが、今回はその出番はなかった。
学生たちの実習は三日後にあった。装具をつけるところから始めなければならず、時間もかかったが、一日がかりでやりおおせた。
馬から装具を外し、全ての片付けを終える頃には短い日が沈んでいた。厳しさを増す冷え込みの中で着替えを終えて学校へ引き上げる。常勤講師の出川がいて、茶を淹れてくれた。
「どうですか、うちの学生たちは」
一人で何か書き物をしていた出川だが、実習の様子を聞き出したいらしい。わざわざ末吉と向き直って話しかけてきた。
「技術の習得に時間はかかるでしょうが、筋は良いと思います。今の調子で鍛錬を積めば良くなっていくでしょう」
本心であったがどうにも空疎な響きを感じた。出川は儀礼的にさようですかと答えた。
「講師たちも期待を寄せています。牛馬名人と呼ばれた方の手腕がどれほどのものかと。その力が学生たちに宿れば福岡農法の未来も明るいでしょう」
「商売半分ですよ。本業は社長業です」
「誰かに継いでもらえたら常勤の講師として来てもらいたいものです」
「それもいいかもしれませんね」
本心に近い言葉であった。社長として会社を運営していくことや、犂の職人たちを使って営業に精を出すことにやりがいを感じないわけではない。しかし何よりも自分自身に合っていると感じたのは、学校でするように犂や牛馬の扱いを教えることであった。
あくまで社長業を本職としながら、末吉は農家や学校で犂と牛馬の扱いを教えてきた。抱えている社員たちのためにも社長としての立場の方が大事だから重心を移すことはできないが、犂耕技術員として全国を巡る勝永や実淵が時々うらやましくなる。会社を立ち上げたのは自分が作り特許を取った深耕犂を世に認めてほしかったからだが、手ではなく口や頭で物事を動かさなければならないのは難しい。いっそ磯野や深見で職人として修行してから独立した方が、勝永や実淵の立場に近づけたのではないかと思う。
「ですが農民にとり、道具の種類が増えるのは喜ばしいことです。少しでも使いやすく、生産性の上がるものを求めるものですから」
「農民は地道で真摯なものですからな」
実際には予算の関係があって頻繁な買い換えは難しいだろうが、できる範囲でいくらでも最適な道具を求めるのが農民だ。また、犂の使い方を教える馬耕教師に対しての態度も厳しい。最初の一回で失敗したら、信用を築くのは用意ではない。勝永や実淵も、そのような目に遭ったことがあると言っていた。
反対に最初をうまくやりおおせると熱烈に支持してくれる。全ては農業に対する真剣味の表れであった。
茶を飲み干して席を立つと、出川は自分の仕事に戻る。彼の生まれも農家だが、手より口と頭で事をなす道を選んだ男であろう。その居住まいには、犂の持ち方一つに気を配る馬耕教師のような緊張感があった。
「出川さん」
呼ばれた彼は手を止め、目を向けてきた。
「互いに、がまだしましょう」
「がまだしましょう」
幼い頃から何気なく使っている言葉だが、他の土地では聞かれないという。それを互いに使うと名状しがたいつながりを生んだ気になれた。
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