第3話

 講師としての法被を脱げば、社長として背広を着る日々である。競合他社に比べて規模の小さな会社を存続させるのに気を抜いている暇はない。

 作業場で職人たちに指図しながら、時々学びに来る地元の若い農民たちの相手をする。社長というより教師のような仕事で、実業を担っている感覚には乏しいが、商売より教育の方が性に合っているような気がする。社長業の合間を縫って行う農民向けの講習は良い気分転換でもあった。

 暖かな夜になり、講習生たちを全員返した後、ちょうど新潟へ行っていた勝永が戻ってきた。明治に入ってから犂が普及した地域の農民たちは研究熱心で、福岡を勉強のために訪ねる者もいるというが、新潟から来た者はまだいない。末吉にとり、新潟という土地とそこに暮らす人は未知であった。

「福岡まで来てくれそうな人はいたか」

 勝永から話を聞こうと思い、ねぎらいの意味もあって筥崎宮に近い料理屋に出かけていった。帰ってきたばかりであったはずだが、勝永は疲れより旺盛な食欲を見せて、酒の前に出された野菜の煮付けをすぐに平らげた。

 勝永は新潟の新発田を訪れていた。川の多い土地で、長雨によって起きる水害に長く悩まされてきた土地である。それだけに、そこで生きるしかなかった人々の末裔たちは米への関心が強く、少しでも良いものを求めて、勝永のもとへ積極的に通ったという。

「特に探したわけではないですが、犂への関心は強く感じました。呼びかければ来るでしょう。ただ同じことは磯野や深見も考えております」

「状況はどこでも同じか」

「彼らには歴史もありますから。その差を埋められないのは致し方ないでしょう」

 勝永は気楽に言って、女中が運んできた酒を末吉に注いだ。末吉も注ぎ返して杯を付き合わす。あまり客の入っていない店の中で、陶器同士が澄んだ音を立てた。

「歴史か。確かにいくらがまだしても得られないな」

 磯野、深見共に江戸期以前に創業し、元々は鋳物製作を家業としてきた。犂の製作を始めたのは明治後半だが、物作りについて三〇〇年の経験がある。それが信用に差をつけているとすれば、物作りを始めてせいぜい二〇年の自分に挑む資格はないだろう。

「歴史は強みの一つに過ぎない。農民たちはそこにあるもので最後の判断をする」

 半分は強がりであったが、実感でもあった。情の厚さの一方で突き放した見方もする農民たちは、使いやすい製品が出れば資金が許す限りいくらでも乗り換える。土をいかに深く耕し、能率的に仕事をするか。その判断の拠り所となるのは、信頼のようにあやふやなものではなく、自らの手に返ってくる手応えであろう。そんな農民たちに選んでもらえるためには、経験や歴史を凌駕する能力があれば良い。背景に何があろうと、作り出したものが全てなのだ。

「そう思います。そうでなければ、我々は働く理由がないですからな」

 勝永は杯を勢いよくあおってから運ばれてきた小鉢に手をつけた。遠い地にも及んでいた競合他社の勢いを目の当たりにしたはずだが、悲壮感はない。社長に希望を持たせるための演技だとしても、強気さを保っておかなければならないと思った。

「社長、今度は佐渡へ渡ってみてはどうでしょう」

 末吉は箸でつまみ上げた小魚を口にする瞬間、顔を上げて勝永を見た。思いも寄らなかった土地の名に言葉が出ない。

「渡るのに時間はかかりますが、あまり荒らされておらず、狙い目かもしれません」

 佐渡というと世阿弥が流された土地ということしか知らない。汽車で新潟まで二日かけた上、港から船で数時間かけなければたどり着けない離島である。勝永の話では、その遠さからあまり他の会社も入っていないということだった。

「佐渡にも農業はあります。犂の歴史が浅いことがどう出るかわかりませんが」

 佐渡に犂が伝わったのは明治二三年(一八九〇年)で、島民が犂を知ってからまだ二〇年も経っていない。伝えたのは福岡出身の長沼幸七という馬耕教師で、佐渡出身の茅原鉄蔵という男の求めに応じて佐渡へ渡ったという。

 勝永の言うように、犂の歴史が浅いことがどんな影響を及ぼすかわからなかった。新しいものへの興味と警戒心が混在している状況だろう。どちらへ転ぶかが問題で、一人の馬耕教師に操れるものとは思えなかった。

「行ってみたいか」

 勝永は一瞬の間を置いてから口を開く。

「行かなければならないと思います。それに、我々が先陣を切ることが佐渡のためにもなるかもしれません」

「何でそう思う」

「ただでさえ行くのが億劫になるような離島です。そこから地元の壮丁を連れ出して勉強させれば、良い種をまいてくれるでしょう」

「お前がその役目を担うか」

「どこか遠くへ行くのは好きです。命じてくださればどこへでも」

 身軽な勝永は命じられるまま様々な土地へ向かってくれた。身一つではなく、多くの場合持ち運びに難渋するような犂を携え、手綱や鞍も持っていく。犂の売り込みはともかく、牛馬の操り方を教える立場はひそかにうらやましかった。

「よし、今すぐには無理だろうが、いずれ行けるように考えておこう」

「ありがとうございます、社長」

 礼を言うのは自分の方だろうと思いながら、末吉は空になっていた勝永の杯を満たしてやった。

 それから二人の話は地元へ戻った。磯野や深見の最近の動向や、犂を使う農民たちの毎日を話し合う内に、筥崎宮での草競馬に勝永が触れた。

「社長は最近草競馬に出ていないようですが」

「ああ、社長になってから馬に乗る暇がなくてな。後ろから御すことしかしていない」

 気づけば社長の立場に就いてから四年が過ぎていた。少し前に筥崎宮での草競馬を見て久しぶりに乗ってみようかと思ったのもいつの間にか遠くになっている。

「乗ればよろしい。牛馬名人の復帰を望む人もおります」

「役目でもないのに、妙な話だな」

「娯楽に報酬の有無は無関係でしょう」

 二の次にしなければならなかったことに関心を持ち続けている人がいることに苦笑した末吉に、勝永は思いの外真剣な声を返した。彼も自分が馬場に復帰することを望んでいるようであった。

 そうして求められるのは悪い気分ではない。牛馬名人の呼び名が有名になるのは、犂の市場や農業の場であるのが理想だが、それが人の暮らしの全てではない。牛馬名人の呼び名で応援する者がいて、その声援を背に馬場をかけていくのは、犂を作って売り歩くこととは違って興奮を得られそうであった。

「社長が馬場で好成績を収めるようなら良い宣伝にもなります。本業と無関係ではありません」

 本業から離れることを理由に二の足を踏んでいると思ったのか、酒席に相応しくないほど真剣な声だった。末吉は苦笑を収めず、そのうちな、とあしらうように言った。

 互いに良い具合に酔ったところで店を出て歩くと、二人の足は筥崎宮に向いた。さすがに境内や馬場に人はおらず、草競馬が開かれる時の熱狂が嘘のように静まりかえっている。

「牛馬名人が来れば盛り上がるでしょう」

「まだ言うのか」

「あれほどうまく犂と牛馬を使う人がどんな馬術を見せてくれるのか。観衆の立場で考えてみてください。面白くなってはきませんか」

「それはそうかもしれないが」

 苦笑しながら、そう言うしかなかった。草競馬はどこまで行っても草競馬でしかなく、二の次である。かけられる時間に限りがあってしかるべきであった。

 それぞれ帰路に就き、末吉は寝床へ向かう前に作業場へ足を運んだ。さすがに職人の姿はないが、夜明けと共に誰かが来るはずだ。磯野と深見という、歴史にして三〇〇年の差がある競合他社に何とか優ろうとしているのは自分だけではない。

 歴史や経験より、その場にあるものを大事にしてくれる農民たちが、長式農具製作所を支えてくれている。彼らを大事にするような仕事ができなくなった時、この会社も閉じなければならないだろうと思った。

 翌朝、職人たちの監督を手が空いていた最年長の深町に任せて、末吉は大川村の農学校へ出かけていった。

 今年入ったばかりの学生たちに基礎的なことを座学で教えた後、午後には外に出ての実習である。彼らは今日で二度目であり、そもそも牛馬に慣れた農家の息子たちであったが、独り立ちをするには少し時間がかかるように見えた。

(時間がかかるのは仕方がないか)

 牛馬を知っていても、うまく扱えることとは別の問題で、まして犂は新しい製品がいくつも出てくる。現役の農民でさえその使い方に迷うことがあるものを、学生が扱えなくても無理からぬことだろう。

 多くの学生が、牛馬に近づいたり前へ進めたりすることは苦労しなくても、同時に犂を使って土を耕す作業ができずにいる。その様子を少し微笑ましい気分で見ていたが、一人だけ突出した学生がいて目が覚めた。

(たまにはああいう者もいるか)

 次の機会ではその学生に注目してみることにした。

 彼を注意して見てみると、装具の付け方から手際が良かった。他の学生が鞍を着けるのに戸惑っている間に手綱をはじめとする綱を通してしまっていたし、実際の作業も速い。犂を使うことの利点の一つに能率化が挙げられるが、その点で彼は犂をよく活かしていた。

 末吉は競犂会の基準に当てはめて、その学生の仕事ぶりを観察してみた。競犂会では犂の取り付け方から姿勢、畦の形、深耕の具合、仕事を終えるのにかかった時間を総合的に判断して採点する。もし彼が競犂会に出るなら、他の地域に出しても恥ずかしくない成績を上げられるだろうと思った。

 その日の講義が終わった後、末吉は出川に気になった学生がいると切り出した。

「よく笑う明るい学生であったとですが」

 仕事ぶりはもとより、その人となりもなかなか魅力的に思えていた。

「それはたぶん吉原でしょう」

 その名を訊き返すと、吉原丈作という本名を教えてくれた。粕屋町に生まれ、現在十五歳だという。

「その吉原がどうかされましたか」

「いや、他の学生に比べて犂の扱いが上手かったと思って。実家で教わっていたのでしょうか」

「そういう話は聞いていませんが」

「では才能ですか」

 言葉を重ねながら、末吉は十五歳の少年が自分の会社に入ったらと夢想してみた。犂の職人としてはわからないが、勝永や実淵と共に馬耕教師として各地を回る仕事に就かせてみたい。他の会社に比べて人員の少ない自分の会社にとって良い働きをしそうだし、あれほど犂の扱いに慣れた若者なら、他の会社もいずれ目をつけるだろう。

 次の機会で末吉は丈作を呼び出し、進路のことを訊いた。怪訝そうな顔に困惑が混じったのを見て、不躾であったのを詫びた。

「よければうちの会社で働いてみないか。来年には卒業するのだから、ちょうどいいと思うが」

「長式農具製作所で、ですか」

「素晴らしい犂さばきだと思った。犂はこれから全国へ普及していく。それを担う人を探しているところだ」

「全国へ」

 丈作の表情は普段の明るさより慎重だった。全国を飛び回るかもしれない生活に抵抗を感じているようであった。

「いや、無理に誘うつもりはない。ただうちは必要としている。来てくれるなら歓迎するから、覚えておいてほしい」

 戸惑いがちに丈作は返事をした。簡単に条件を話した後彼を下がらせ、末吉も引き上げた。

 丈作のことを勝永に話すと、歓迎ですよという答えだった。

「人手は多い方が助かります。許される予算との兼ね合いを決めるのは社長ですが」

「その俺が引き入れたいと言っている。平気だ」

「ならばなるべく早く確保したいところです。他のところも目を付けているかもしれませんから」

「見ている限り優秀な学生だった。他の会社も放ってはおかないだろう。最後は本人次第だが」

 迎え入れる時の条件を話し、こちらの意思も伝えた。できうる限りのことはやれたと思う。他の会社がこれを上回ることをしてきたら、丈作との間に縁がなかったということだろう。

 末吉は週に三回農学校に出向いて犂の講習を行っていた。その間末吉と丈作は、交わした会話がなかったかのように振る舞ったが、誘いについて意識しているのは態度から見てわかった。

 まだ若い丈作を悩ませているのが忍びなかったが、農民たちが犂について突き詰めた考え方をするように、自分も使う人間をできるだけ選びたい。そうすることが作り出す製品の質を上げることにつながり、福岡農法の名声も高めていくと信じていた。

 丈作の返事はなかなかもらえず、そのうちに秋へと移り変わる。稲刈りが終わって田畑の一年が過ぎていく。年明けのある日、末吉はかねてから参加を願っていた草競馬に復帰した。

「皆が復帰を待ち望んでおります」

 参加したいと言いながら先送りしていたことにしびれを切らしたように勝永が背中を押し、末吉は億劫に思う気持ちも抱えながら馬を引いて筥崎宮に向かった。

 馬場に入った瞬間、戻ってきた感じがした。明確に何が心地よいのかわからないが、自分が姿を見せた瞬間、歓迎と畏れが入り交じった雰囲気が馬場を包んだ気がした。

 馬を駆らなくなって十年は経っている。その代わりのように馬の尻と犂の先を見続ける日々であった。それだけにとどまらず、犂を作り、周りの会社と競い、時には遠くへ人を送り、自分自身も若い農民たちに技術や知識を伝えた。草競馬をやらなくなった相応の理由に後悔はないが、馬場へ戻ってくると何か大事なものを取り戻せたような気がした。

 末吉は前足の付け根に触れた。手のひらで心拍と体温を感じ取る。口に近づけた耳元では呼吸数を感じる。馬の心拍や呼吸は人間よりも少なく穏やかだが、体温は高い。常に運動をしたがる生き物だからだろう。

 愛馬には『稲妻』という名をつけていた。稲が結実するのに欠かせないものと古くは考えられ、その縁で秋の季語にも数えられている言葉である。農民として生まれ、生きてきた自分に飼われる馬として相応しい名前であろう。

『稲妻』は主人の言いつけを守っておとなしくしていたが、今すぐにでも体の中の猛りを解き放ちたいのが手のひらから感じ取れた。

 馬体にも張りがあり、下肢に熱を持った部位もない。歩かせてみても前後への偏りは見て取れない。競争へ向けての状態は申し分ない。

「がまだせよ」

 触診のために手を触れたまま、末吉は『稲妻』に声をかけた。物言わぬ馬が人間の言葉を理解したか定かではないが、手を通して心意気は伝わったのかもしれない。『稲妻』は小さく唸りを上げた。

「久しいな、長」

 対戦相手となる小島という男が声をかけてきた。背は低いが引き締まった体つきをしており、相撲を取れば大兵相手に粘り腰を見せそうだ。

「小島か、相変わらずほそい(小さい)のう。馬から落ちるなよ」

 見上げてくる鋭い眼光をまっすぐ見つめ、末吉は努めて不遜な態度を取った。お互い前哨戦が始まっていることをわかっているから、受け止める態度は笑みさえたたえた穏やかなものだ。

「どこへ行っちょった」

 小島が訊いた。

「どこにも行っちょらん。社長の仕事が忙しかっただけだ。おめえこそどこで何してた」

「大分の日田で馬を見ていた。うらやましいか」

「くらすぞ(なぐるぞ)」

 小島の笑みに挑発的なものが混じり、末吉も半ば本気で声を出す。もちろん手を押さえる理性はあるし、よしんば殴りたくなるような怒りに駆られても、それを解消する機会はすぐに来る。

「馬から落ちんなよ。ほそいんだから心配だな」

「おめえこそ、馬から落ちて踏んづけられちまえ」

 それぞれに憎まれ口を叩いた後背を向けて、自分の馬の元へ戻る。『稲妻』も主人たちの間に昇った気炎を察したのか、これから戦うべき人間と馬を見ていた。つぶらな瞳は一見すると変化はないが、末吉には睨むように険しさをはらんで見えた。

「ホーラ、ホーラ。まだ早いぞ」

 首筋を撫でながら穏やかに声をかけると、目つきが緩んだ。小島の方を見ると、彼も自分の葦毛に同じことをしていた。そして彼の馬も殺気だった感じが鎮まった。表立って言ったことはないが、小島の馬遣いの上手さは末吉も認めるところであった。

 三〇分ほど各自準備運動をしてから、審判を引き受けた大川村農会の副会長が号令をかけた。筥崎宮の下手にある馬場では不定期に草競馬が開かれており、近在の村から馬好きな者たちが集まってくる。賞品は粗末な優勝旗しかない小さな大会だが、何度も出ていれば小島のような因縁の相手も現れる。最後の対戦から間が空いているものの、小島とはこれまで六回対戦し、三勝三敗の成績である。次の機会がいつになるかわからない。今日勝って何としても勝ち越したかった。

 副会長の指示で参加する馬が出発点へ進む。筥崎宮の馬場は直線のみだから、曲がり方の技術は必要ない。純粋に足の速い馬だけが勝利する。

 四頭ずつの出走で、末吉と小島の馬は左端に隣り合って出発点に立つ。その瞬間微かに観客たちがざわめいた。ここ最近の優勝を独占する二人のどちらが勝ち越すかという大事な勝負なのだ。あまり騒ぐと馬が怯えることは周知の事実だから観客もわきまえているが、抑えきれない興奮が漏れてきているのを感じた。

 副会長が手を下ろす。観客席が静まりかえり、三人の競争相手も息を詰める。

 手が上がる一瞬を馬と共に待つ。

 そして手が上がる。手綱を振るい、鐙を蹴るようにし、騎手の意思を受けて『稲妻』も駆け出す。

 出走直前まで馬が足にためていた力が爆発する一瞬、末吉は上半身に空気の塊のぶちかましを食らったような気分になる。一秒にも満たない時間だが、鞍から転げ落ちそうになる恐怖を超え、手綱を握る力を強め、鐙の上で足を踏まえる。どうしても脳裏が空白になる瞬間はあるものの、場数を踏めば時間を短くすることはできる。少しでも早く脳裏にまともな思考を戻すことが、最初の勝負であった。

 出発点から飛び出してからの三歩を『稲妻』がどのように走ったのか末吉の記憶にはない。わかったのは小島の馬が半歩前にいて、右端二頭が一歩後ろにいるということだ。三歩で立ち直った末吉に対し、小島は二歩半で冷静になった。その時間差がそのまま、半歩の差となって表れた。出走直後の勝負には負けたのだ。

 しかし大勢を決するほどではない。馬場の終わりはまだ遠い。そこへ至るまでに追い抜けば良いのだ。権治は気合いを込めて鐙を踏み、手綱を振るう。『稲妻』もそれに応えて速度を速める。半歩先を行く小島の馬についていくが、差が縮まらない。そのまま半分を過ぎてしまった。

 抑えられていた興奮が両脇からにじみ出てくるのを感じる。既に他の競争相手とは大きな差がついているのは振り返らずともわかる。番狂わせが起きないとわかった以上、客の関心はどちらが勝つか、それ以外に有り得ない。

 勝負は残り十数秒で決まる。末吉は競争相手の向こうへ視線を上げる。

 いっそう激しく鞭を振るい、鐙を踏み、手綱を振るう。自分も馬も精一杯の力を傾けているのはわかっている。それだけで勝てないなら、限界以上の力が必要だ。

「ハイハイ、ハイハイ、ハイハイ!」

 その気持ちは気合いの入った声になって表れる。毎日欠かさずに様子を見てきた蹄が踏みならす音が高まる。観客たちの興奮がいっそう密度を増す。決着が近づくのが全身でわかる。

 声を上げているのは小島も同じだ。すると『稲妻』は前後で上がっている二人の声に後押しされるように、今まで埋められなかった半歩の差を縮めていく。

 並んだと思った瞬間、『稲妻』の足は終着の線を踏み越えた。末吉の目には、小島の馬と同時に駆け抜けたように見えた。

 手綱を操り、勢いのついた馬を自然に減速させていく。小島と並び、横目でにらみ合う。

「俺だ」

「いや、俺だ」

 完全な確信を持てないのはお互い様だと思った。互いの声には相手と組み合う気の強さが宿るものの、負けの判定も有り得ると想定する潔さがあった。

 やがて二頭の馬は走るのをやめる。容易に曲がれるようになったのを見て、終着の線の傍にいた審判の元へ戻る。結果を早く知りたかったが、副会長から発表されると言われておとなしく待機場所へ戻った。

 やがて副会長が出場した馬の前で結果を高らかに発表する。その馬の名は、

「半歩の差で長末吉の稲妻号の勝ちとする」

 発表の瞬間、小島は隣で瞑目した。最後まで祝福の言葉はなかったが、負け惜しみも恨み言もなく、末吉が優勝旗を手にする前に会場を後にした。

 末吉にとっては四度目の優勝である。ここで勝ったからといって報酬があるわけでもないが、好きな馬と一緒に勝つことができたという事実が残る。それだけで充分であった。

「社長、見事な走りでした」

 筥崎宮の近くの小料理屋でささやかに開かれた祝勝会の後、会社に戻って勝永と飲み直すことにした。勝永は競走を見た後所用で外れて祝勝会には出ていない。

「久しぶりに馬の鞍に乗ったな」

「そうは見えませんでした」

「まだまだやれるかな」

 酒のせいもあって気分が良くなってくる。草競馬はどこまで行っても草競馬で、金を生むようなものではないが、娯楽の少ない農村の楽しみにはなるだろう。競走を見るために遠くから来た者もいる。そういう者たちのために馬に乗ってみるのも悪くない気がした。

「明日からはまた仕事が始まります」

「わかっている。無粋なことを言うな」

 そして草競馬はあくまで二の次である。優先するべきなのは犂を作り、普及することだ。

「色々考えていることもある。今はこちらから出向いて犂を普及しているが、逆に若者たちを招いてみようと思う」

 勝永は意外そうな顔をした。

「場所によっては犂も牛馬もないだろう。そこで教えるより、ここまで出向いてもらった方が良い」

「汽車賃や時間の捻出が問題になりますな」

「相手方が受けてくれるかどうかだが」

「どこかで話をしてみましょう。以前話した、佐渡の若者を招くこともしてみたいところです」

「遠いな」

 九州の外のことはよくわからないし、新潟ともなれば、そこで暮らす人もまるで違う文化を持っているだろう。異人とまではいかないだろうが、話が噛み合わないことも多々あるかもしれない。遠さは距離の問題だけでなく、心の問題でもある。

「学生を招く話はどうなりましたか」

「吉原のことか。悩ませてしまったよ」

 どうしようもないこととはいえ、田畑でようやく労働力として数えられる歳の少年に重いものを背負わせてしまったようで何とも言えない罪悪感を覚えている。しかし自分が、丈作を欲しがっているのは確かだ。

「彼がうちに来れば、将来も明るくなると思うのだが」

「よほどですな」

 勝永は気楽に笑った。

「よほど右も左もわからぬ子供に惚れていると見える」

 観察眼が曇っていることを皮肉るような言い方に反発を覚えたが、丈作のことを知らない勝永からすれば無理からぬことだろう。

「牛馬や犂の扱いが、周りの学生よりも群を抜いて上手かった」

「牛馬名人の目から見て、ですか」

「そういうことだ。少しは納得できたか」

 勝永は答えず、笑みを隠すように杯に口をつけた。説得が成功した手応えは感じないが、強硬に反対してくる様子もない。あとは丈作が入社の意思を固めてくれることと、その後期待通りの働きをしてくれることを願うのみであった。

 年が明けるまで農学校での講義を通して丈作と会う機会を何度も持った。明るく、ともすれば軽薄に見えかねない人柄の彼だが、犂を手に取った時に表情は変わる。注意して見てみると他に彼のことを狙っている者がいて、焦りも感じたが、それとなく迎え入れる準備が整っていることを伝えるだけにとどめ、あとは本人の意思に任せることにした。

 その丈作が他の誘いを断って長式農具製作所に入る意思を伝えに来たのは、農学校卒業の日であった。卒業式に出席していた末吉は、式が終わった時に声をかけられた。

「うちで良いのか」

 確認するように問いかけると、無邪気な笑顔で丈作は頷いた。

「初めに声をかけてくれたのは長さんですから」

 入社の決め手としては弱い気もしたが、誘った方からすると嬉しい理由であった。

「そうか」

 そう言って丈作の手を握り、彼も握り返す。犂と牛馬を扱う人間に特有の、硬い手触りであった。

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