牛馬名人

haru-kana

第1話

 硬い蹄が地面を踏みならす音と、功名心を煽るようなかけ声を耳にして足を止めると、そこはまだ参拝客のいない筥崎宮であった。音の出所である大鳥居近くの馬場を覗くと、直線を駆け抜けた二頭の馬が並んで審判らしき老人の前を通過するところであった。熟慮するような間を置いてから老人は左右に持った紅白の旗のうち白の旗を揚げる。歓喜と落胆が入り交じって響き、末吉は所用を忘れて立ち尽くした。

 馬場の端まで駆け抜けて視界から一度消えた馬が戻ってくると、観客たちがそれぞれを拍手で迎える。勝った方の騎手は誇らしげに拳を突き上げ、負けた方は控えめに手を上げて応えていた。ややあって次の馬が準備をして合図と共に走り出し、馬場を駆け抜ける。三十秒にも満たない時間で繰り広げられる勝負に、末吉は騎手としてのめり込んでいた少年時代を、鞍に乗る青年たちに重ねる。ここ数年は馬場に通うのもままならなくなっていたが、自分自身の根本を支える馬への関心が薄れていなかったことに安堵した。

(今度久しぶりに乗ってみようか)

 本業をしっかりやるのであれば、かつては毎回のように参加していた筥崎宮の草競馬に返り咲くのも悪くないだろう。特に深耕犂の特許を取得してからの二年間は、趣味を公言してはばからなかった牛馬の勉強や獣医学に触れる暇もなかった。今日も農学校に頼まれた臨時講師の仕事をしに、一日をかけるところである。

 福岡県大川村の長家に三男として末吉が生まれたのは明治一一年(一八七八年)のことである。長家は豪農として知られた家で、十頭ずつ飼われた牛馬の世話をしていたこともあって、末吉は自然と牛馬に関心を持つようになった。長じてからは世話をしていた馬を駆って草競馬に参加し、連戦連勝の勇名をとどろかすほどになった。近所の馬好きの村人が集まる程度で、賞品も手製の優勝旗が一つという質素なものであったが、騎手としての優秀さは牛馬の扱いの巧みさにもつながって評判を呼んだ。

「長さんの牛馬つかいは手綱はいらん。掛け声一つで思うように動かす」

 末吉の巧みさを評してそのような噂が立ち、それに応えるように数々の曲芸めいた牛馬の扱いを披露し、末吉が二〇代後半の頃、その名は半ば伝説のように近隣の農家で語り伝えられた。

 そんな牛馬名人とでも言うべき末吉の評判を支えたのは、筑前地方で古くから使われてきた抱持立犂をはじめとする犂の存在である。犂とは牛馬によって引かせて田畑を耕すための道具であり、後にトラクターが普及する昭和三〇年代までは各地で使われていた。

 明治以降初めて抱持立犂に注目したのは、ドイツ人地質学者、マックス・フェスカである。明治一五年に来日したフェスカははじめ地質調査所に招かれて日本初の地質図を作成し、後に駒場農学校(現・東京大学農学部)でも教鞭を執った、いわゆるお雇い外国人である。彼は日本の農業の問題点として耕す深度の浅さを上げ、それをする農具として抱持立犂を上げた。

 明治以前の日本には無床犂と長床犂があり、後に末吉をはじめとする犂の職人たちが改良して短床犂や中床犂などが生み出された。抱持立犂は無床犂に分類される犂で、犂先を深く土に入れることができる分不安定で、円滑な作業を行うには熟練の技術が必要な代物であった。

 末吉はその抱持立犂を扱える数少ない使い手であった。そればかりか、片手に酒をなみなみと注いだ杯を持ち、もう片方の手で犂の把手を持ち、掛け声で牛馬を動かし、酒を全くこぼさずに犂を扱うという技を得意としていた。農業への真剣味を感じないと地元の老農たちは良い顔をしないが、娯楽に飢えた若者にはすこぶる好評で、他にも高下駄を履いて犂を扱ったり、馬に立ち乗りしながら犂で耕したりという技も持っている。末吉の評判は、牛馬に関する知識と、このような曲芸めいた技を根拠にしていた。

「福岡農法に相応しいものを教えていただきたい。長先生ならば造作も無いことでしょうが」

 大川村の農学校で講師を頼まれた時にかけられた言葉には、学生に悪影響を及ぼすようなことを教えないように牽制する響きが含まれていた。愉快なことではなかったが、犂の正しい扱いに馬の立ち乗りの技術は必要ない。破天荒に見える講師が来たとしたら、学校が警戒するのも当然だろう。

 学生の中には馬の曲乗りを見たがる者もいたが、少なくとも実習中は基本に忠実な馬と犂の扱いを教えてきた。抱持立犂をはじめ、福岡に根付いた農法は福岡農法と呼ばれ、全国から見て先進的とされてきた。その評判を作ったのは元福岡藩士で明治三老農に数えられた林遠里だが、守っていくのは自分や教えを受ける学生たちだ。全国の目標とされる福岡農法を担っているという誇りが、末吉の原動力であった。

 農学校での臨時講師に一日を使って自宅に戻ると、妻が夕餉を用意して待っていた。家族で夕餉を終えて眠りに就いたが、翌朝はまだ暗い内に目が覚める。敷地内の作業所から、木槌を扱う高い音が聞こえてきた。微かな音で眠りを妨げるほどではなかったが、まだ暗いうちから仕事をする職人がいるという事実が、末吉の眠気を飛ばした。

「あ、おはようございます」

 作業所の中にいたのは西尾という二〇歳の職人だった。いつも威勢の良い挨拶をする男だが、今回ばかりは戸惑いが強く、作業中の手が所在なげに浮いていた。

「西尾か。いや、気にするな。そのまま続けろ」

 少し気を入れ直した返事があったものの、手先の動きにはいまだ戸惑いが残る。意外に繊細なところもあるのだと思うと新鮮であった。

 末吉の家の敷地内にある作業所は、同時に二台の犂を作るので精一杯の小さなものである。それでも三年前に比べれば良くなった。当時は周辺の農家に頼んで場所を貸してもらって犂を作っていたのだ。長式農具製作所も、小さいながら自前の作業所を持つことでようやく自立した一歩を踏み出すことができた。

 長式農具製作所を設立したのは、末吉が三二歳の時である。その一年前、末吉は抱持立犂の改良型である深耕犂の製作に成功して特許を取った。それを契機に設立した会社であるが、犂の改良は一六歳の時から行っていた。特許は一五年越しの成果であった。

「がまだせよ(がんばれよ)」

 そう言って末吉は、西尾の反応を見ずに立ち去った。末吉が特許を取った犂は、やり方や技量によって持ち上がる土の量が変わり、耕し方にムラができるという在来の犂の欠点

をなくすものであった。これによって人力から畜力への転換が進むことになる。多くの作業は牛馬を扱う方が能率的で、労力も少なくて済む。犂の改良が進めば男の仕事であった耕作が女子供にもできるようになる。

 そのようにして生まれた余裕は、きっと農村や農民を救う。明治五年の学制頒布以来義務教育は進んでいないが、教育を受ける義務を負う子供たちが労働力とならざるを得ない事情があったためだ。犂がもたらす省力化と能率化は、子供たちが学校へ行く時間を作り、農民の子供は農民になるしかなかった時代を超える者を生み出すはずだ。

 末吉は自分が生み出したものが実現するかもしれない輝かしい未来を思いながら厩へ向かった。夜の明けきらない時間で、馬たちは寝静まっている。会社を設立してからは、馬を農法の中の一つとしてしか考えてこなかったが、久しぶりに聞いた蹄の音に、風のように駆け抜ける馬の魅力を思い出した。今すぐに遠乗りでもしたい気分であった。

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