28

 いくつもの扉と頼りない非常灯とが導く暗い通路を、来鹿ライカはほとんど荒々しいと云ってもいいような足取りで進んでいた。八雲ヤクモはほとんど足音をも立てずに背後をついてくる。

 ふたりして踏み込んだ部屋を出てから、彼らはいっさい口をきいていない。

 来鹿はどうしても八雲の顔を見る気にはなれなかった。

 あたたかみも抑揚もない声が告げた言葉が、耳にこびりついて離れていかない。

 ——殺して。

 培養槽に首だけを浮かべられた男もしくは女は、たしかにそう云った。

 あんたはだれだ。なぜ、こんなところにいる。いつ、だれに、そんな姿にされた?

 なにを尋ねたかははっきり覚えていないが、いずれにしてもろくな問いかけではなかっただろう。自分でも愚かなことを訊いたものだと思う。

 答えはなかった。

 ただ、望みだけが告げられた。

 ——殺して。

 わけのわからない感情に突き動かされ、目の前の培養槽を、そこにつながれた生命維持装置を、躊躇なく破壊しようとした来鹿を止めたのは八雲だ。十和トワさんがどうなってもいいんですか?

 愚かなことに、来鹿はそこでようやく己の任務を思い出した。

 そうだ、おれたちは潜入捜査中だった。十和が身体を張って工場長の注意を引いている裏で、晧宮しろのみや工場の深部に潜入し、霊障さわりの原因となっている術の核心を——リュニヴェールの悪事の証拠を——つかもうとしているのだ。

 培養層を破壊すれば、侵入者の存在が工場長に知られることとなる。彼のそばにいる十和の身が危うい。

 そんなあたりまえのことが、八雲に諭されるまですっかり頭から抜け落ちていた。

 ——殺して。お願いだから、殺して。

 悲痛に訴え続ける声に背を向け、ふたりはふたたび元の廊下に戻った。

 来鹿は己を叱咤する。なにを動揺しているんだ、情けない。

「もしかして驚いてるんですか?」

 八雲の声はひそめられていたが、それでもはっきりと揶揄の響きが込められていた。

「月面都市の精鋭も云うほどのものではないみたいですね」

 なにを云われてもいまは云い返す気にはなれなかった。

 多くの地獄を見てきたことと目の前の悲劇を見逃すこととは違う。来鹿はいつどんなときもそこにある非道に憤りを覚えてきたし、決して慣れることはなかった。

 だが、心を麻痺させて怒りを抑えることや、それを続けることによって悪事に対し鈍くなること、たとえそうではなくてもそうであるかのように振る舞う同僚たちを責めるつもりはない。この仕事では己の身体や心を守ることも任務のうちだ。

「……これでも市民だと云えますか?」

 八雲の声は低い。からかうような響きもいまは消えていた。

「なに?」

「リュニヴェールも市民だとあなたは云った。勝手を許しているわれわれを責めていた」

 人間を生きたまま実験に使うような非道なリュニヴェールは、いくつもの星で広く活動する巨大複合企業コングロマリットである。宇宙中央政府の重要な仕事も受けている。たとえば護衛師ガーディアンに支給される装備品のいくつかは、彼らによって納入されている。来鹿自身、リュニヴェールの製品を頼りに任務を果たしたことが幾度もある。

 リュニヴェールに非合法な行いのあることは、そのまま政府を非難する材料になりうるが、しかし、現場の感覚からいえば、彼らの製品はとても優秀で手放すことは惜しい。

 そもそも、と来鹿は思った。リュニヴェールがどんな非道を行っているか、政府がまったく感知していないとは考えられない。中央はそこまで無能ではなく、ただ単に見逃しているだけだ。きっとたいしたことだとはとらえていない。時代の流れとともに人の生命は少しずつ軽くなっていっている。それが来鹿の実感だ。

 憤りはあるが、だからといってなにができるでもない。その無力感と添い遂げることこそが、護衛師としてあり続けることなのだと彼は思っている。だから、八雲の問いに答えるとすれば肯定しかない。さきほどの光景が眼裏にはっきりと残るいま、そのことを口にする気にはなれなかった。

 だが、このまま黙っていることはできない。

 瞋恚に燃える若草色の瞳を見つめたまま、迷いに重る口を開こうとしたそのときだ。

 薄暗く静かだった廊下に、鋭い警告音が響き渡った。

 ふたりの護衛師は即座に身体を硬くする。

 進もうとしていた先から多足式警備ロボットが現れた。

「戦闘ロボット……!」

 八雲の声はひび割れている。

 来鹿とて表情ほどには冷静でいられなかった。

 戦場で動くものをすべて屠るために開発された戦闘特化型のロボット。きわめて偏った学習しかしない単純AIを搭載したこの機械は、その扱いのむずかしさゆえに、いまでは辺境の限られた紛争地域でしか運用されていない。なにしろ、動くものを排除する、という命令コマンドを敵味方の区別なしに実行するよう設計されているのだ。近くにいれば、たとえ操縦者ですら安全ではいられない。

「……退がれ」

 来鹿は八雲を庇うように左腕を上げて腰を落とした。残る右手で、上着のあわせから自らの左鎖骨の下を探る。

 八雲は黙って来鹿の妨げにならないよう後退する。これからなにが起こるかはわかっているわけではないのだろうが、適合術フォーミングすら受けていない自分がいまはなんの役にも立たないことは知っているはずだ。

 視認はおろか走査スキャンすら容易にはできないよう、皮膚の下に埋め込まれたスイッチを指先で探る。すぐに見つけたそれをぐいと押し込む。

 脳の奥が一瞬痺れたように痛み、すぐに薄れた。

 風もないのに赤い髪がふわりとそよぎ、紅輝石ルビーの瞳がぎらりと底光りした。

 視線をロボットの八本の脚に向ける。意識を集中し、まずは一本——。

 邪魔者を排除するべく移動しようと自重のかかっていた脚が前触れなく落ちたせいで、ロボットが大きくバランスを崩す。しかし多足のおかげか、転がるようなことはなくその場にとどまった。

 来鹿は二本目と三本目に意識を移す。ここはとにかくスピードが勝負だ。この力は長くは使えない。

 念動力サイコキネシス

 十和の妖力ちからに似て、それを持たない者からはひどくおそれられる力を来鹿は生まれつき備えていた。日頃は決して解放することのないこの能力が護衛局の目に止まり、彼は己で望む前にその所属を決められることとなった。

 この能力があるからこそ、来鹿は厳しい現場を生き延びることができたし、全宇宙から選りすぐられたエリートばかりが集う月面都市の護衛局本部に籍を置いているのだ。

 戦闘ロボットは殺傷能力ばかりでなく、学習能力も高い。生命あるものを殺めるために開発されたがゆえに評価は低いが、侮れない相手である。

 いまもロボットは搭載しているAIをフルに稼働させ、敵の、つまり来鹿の能力を計算し直している。表層から探知しうる以上の戦闘力を備えていることをすでに学習し、それを踏まえて発揮するべき火力を調整しているのだ。このロボットの最大戦力は凄まじい。三機もあれば、この晧宮を、否、β市を殲滅することも不可能ではないだろう。

 目の前の一機は機動力を奪われつつある。すでに五本の脚をもぎ取られ、機動力は格段に落ちている。それでも縦横無尽に掃射することのできる火力は健在で、来鹿と八雲はいまだに危機の真っ只中にある。

 おまけに出てくるのが一機とは限らない。八雲が戦力としてあてにできない——ばかりか、場合によっては足かせとなる——以上、可及的速やかに目の前のこれを排除する必要があった。

 ——これでもう一機なんて、冗談じゃねえぞ。

 立て続けに脚を奪われたロボットが、残る二本の足で前進をはじめた。通路の行き止まり、もしくはどこかの部屋に追い込んで、ひとりずつ潰すつもりなのかもしれない。そうはさせるか、とばかりに来鹿は八雲に声をかけた。

「突破するぞ」

「……はい」

 短い躊躇ののち、八雲が答えた。いつのまに手にしていたのか、強力なレーザー銃を構えている。うまく狙えば、戦闘ロボットを足止めする隙くらいは作れる代物だ。これもまたリュニヴェールの製品である。C2支部の支給品なのだろう。

「関節を狙えるか?」

「たぶん」

 八雲は銃を手にした腕をだらりと下ろしたままだ。

 来鹿はなおも意識を集中した。

 警備ロボが動く。護衛師ふたりの右側から残った足をフル稼働させて、突進してきた。

 わずかにひらけた空間へ向かって来鹿と八雲は跳躍する。すれ違いざまに八雲は銃でロボットの脚関節のひとつを撃ち抜き、来鹿は念動力で壁のパネルを剥がしとる。バランスを崩したロボットを巻き取るようにパネル材が崩れ落ちてくる。

 ふたりはそのまま全力で通路を進んだ。

「こっちだ!」

 左右の分岐に差しかかり、視野内画面モニタを頼りに来鹿が叫んだ。

 背後からは警備ロボの追ってくる音がする。ほとんどの脚がまともに動かない割にかなりのスピードだ。もうじき掃射の射程内にも入るだろう。次はきっと迷わず銃弾を叩きつけてくる。

 来鹿はともかく、八雲はそれでおしまいだ。

 この通路には逃げ場らしい逃げ場がない。思い出したように現れる扉の奥は、それぞれが蛸壷のような部屋になっていて、どこか別の場所へ通じているわけではないからだ。

 どこへ逃げても危機的状況は変わらない。

 それならば、当初の目的を——呪陣の核、そこに捧げられているという供物とやらを探し出す——達するべきだろう。

 来鹿は走りながらハンドサインを出し、目的とする部屋が近いことを告げる。

 十和が推測する目的地は画面内に赤く確認できるようにしてある。その場所はこの晧宮工場の秘密のフロアのなかでも、ことさらに奥まった一角だ。

「来鹿さん!」

 鋭い音とともに耳のすぐそばを銃弾が飛んでいく。警備ロボが追いついてきたのだ。

「もうすぐだ!」

 来鹿は扉にほとんど体当たりするようにして目的の部屋に飛び込んだ。勢いあまって身体が転がる。受け身をとりながら二転三転し、起き上がって——。

「なにものだ」

 視界に飛び込んできたのは物騒な銃口だった。旧式の、しかし、確実に人を殺められる武器。警備ロボに守られたリュニヴェールの暗部に潜む者たちが持つにふさわしい銃器だった。

「……来鹿さん」

 背後を警備ロボに、正面を武器を構えた男たちに挟まれ、八雲は両手を大きく広げて無抵抗の意を示した。転がったままの来鹿は身動ぎひとつできない。

 男たちは全部で七人。こちらを鋭く睨み据えている彼らは、全員が動きやすいシャツやズボンの上に白衣をまとった研究者然としたいでたちである。だが、どいつもこいつもただの研究員じゃねえだろうな、と来鹿は思った。武器の扱いが様になりすぎている。

「おまえたちはなにものだ。どこから来た」

 投げつけられる声はひとりのもの。おそらくこの男がリーダーなのだろう。冷えた眼差しがひときわ鋭く、突然の闖入者にもさほど驚いた様子はうかがえなかった。こうした事態を常に想定し、心構えを持ち続けていたのだとしたら、尋常な精神力ではない。

 来鹿は男から視線を逸らさないまま、室内を探った。先ほど忍び込んだ部屋と同じように壁際には円柱が並んでいる。硝子製と思しきそれらは、やはりなにかの培養層であるようで、内部には液体が満たされていた。違うのは、そこに浮かべられているものだけだ。

「ここはなんだ」

 来鹿は答えが返ってくることを期待しない口ぶりで問いかけた。起き上がることができないのは、向けられている銃口に微塵のブレも見られないからだ。妙な動きをすれば即座に脳を撃ち抜かれてお終いだろう。

「先にこちらが尋ねている。おまえたちはどこから来た」

 気にするな、と来鹿は答えた。

「ただの通りすがりだ」

 怒りを誘えば本音が見える。本性がのぞく。そう思っての答えだったが、男の表情は変わらなかった。ただ口調ばかりを不愉快そうなものに変えて彼は云った。

「通りすがり?」

「あんたたちの工場長が好きに散歩していいってさ」

「無能な磐城イワキが何を云ったか知らないが、おまえたちはもうここからは出られない。抵抗は無駄だ。あとの始末が面倒だから早く答えろ。どこのなにものなのか」

 交渉に応じる気のないことを前面に押し出しているのは、圧倒的優位にあることを理解しているせいだろう。銃を構えていないほうの手には警備ロボットの操縦端末コントローラを握っている。彼はたしかにこの場を制圧している。

「ここがこの工場の中枢なのか」

 短い沈黙を破ったのは八雲だった。彼の声には確信がある。男にもそれは伝わったようだった。彼はせせら笑うように鼻を鳴らした。顔を合わせてはじめて見せた人間臭い仕草だった。

「それをわかっていて見学に来たのではなかったのか」

「ならここが実験の……」

「研究だ」

「研究?」

 今度は八雲の声に笑いが混じる。ただし、その色はひどく苦い。

「人を生きたまま継ぎ接ぎして、混ぜ合わせて、掛け合わせて……それがなんの研究だ!」

 実験よりもまだ悪い、そんなのはただのたちの悪い遊びだ、と八雲は喚いた。彼の声に合わせるように、来鹿は部屋の壁際に並ぶ培養槽ひとつひとつに順に力を飛ばした。

 照明のないその部屋は薄暗く、壁際は闇に沈んでいる。それでも来鹿の目は、培養槽に封じられているものたちの姿をはっきりととらえていた。

 半身を魚に変えられた人。犬の顔を持つ人。頭部は人なのに熊や類人猿の身体を持つ者。

 しかしそうやって特徴をあげることのできる個体はまだいい。爬虫類や獣の特徴を複数持ち、それでもなお人の形を保っているものから、すでに腕や脚、臓器だけのパーツになっているものまで、そのどれにも明らかな異形が見受けられた。なかには脳に絡みついた植物のようなものまで保存されている。

 彼らに生命はあるのか、意識はあるのか——。

 しかし、すべての者たちが望んでそこにあるとはとうてい思えなかった。

 ピシピシと硝子の軋む音がする。来鹿と八雲に正面から対峙する男を除いた六人は、その小さな音がどこから聞こえてきているのか探るように、視線をあちらこちらへと彷徨わせている。

「念動力か」

 男はわずかに眉をひそめた。

「莫迦な真似をするな」

 来鹿は力を緩めない。

「人殺しめ」

「あんたらがそれを云うのか!」

 八雲の叫びに男は冷徹な声音で応じた。

「われわれは人殺しなどしない。これは研究なのだ。研究には危険リスクがつきものだ。不幸な結果に終わることも稀ではないが、それさえも後世の役に立つ。だが、おまえたちのしようとしていることはただの破壊。それは殺人としか云えないだろう」

 男は饒舌だった。侵入者を生きては返さないという自信があるからかもしれない。

 破裂するように培養層が砕け散った。硝子が派手に砕け、水があふれ出る。室内は一気に騒然となった。いきものの悲鳴、むっとするような臭い、なにかがのたうち暴れる音。

 男たちがわずかに包囲を狭めてくる。護衛師らを追い詰めようという意図ではなく、みずからが生み出した合成獣キメラたちから少しでも遠ざかろうとした結果であるらしい。

 来鹿は念動力を押さえこんだ。ものの砕け散る音がおさまっても、室内に静謐は戻らない。招かれざる客とそれを迎える者、両者のあいだには張りつめた緊迫感が漂っている。

「生命を奪うよりも悪いことはいくらもあるだろう」

 床に転がったままの情けない姿勢でも、来鹿の声にはそれなりの迫力があった。対峙する男がわずかに身を退く。

「たとえば、こうやって命と尊厳を弄ぶこともそうだ」

「われわれは彼らを弄んでなどいない」

「では、なぜ隠した?」

 男は口を閉ざした。

「戦闘型警備ロボットまで備えて、構内図からこの部屋の存在を消して、それはここで行われていることが悪事だと、誰よりも強くそう認識していたからだろうが!」

 来鹿は吠えるように叫び、身体をしならせて発条バネのように飛び起きた。

「正しい行いだ、社会のためだというならこんなふうに闇に紛れる必要がどこにある!」

 男は答えなかった。

 しかし、こちらの言葉に怯んでいるわけではないということはわかった。この男の気をそらさなければ勝機はない、と来鹿は思った。なんでもいい、彼の集中力を一瞬でも欠くなにかが欲しい。それだけで俺はこの場を制圧できる。これくらいの人数、容易く殺せる。

 一気に身体に戻ってくる殺戮の感覚は、来鹿に軽い眩暈を起こさせた。全身の血が静かに温度を下げていくのがわかる。意識はどこまでも澄み渡って冷たささえ感じさせるのに、脳の芯は徐々に熱をはらんでいき、人を殺す瞬間を待ち望んでいる。

「これはわれわれの業務だ」

 男の声は心底からうんざりしているように聞こえた。

「世間の理解を得ることが難しいのは承知している。だが、そうした非難をいちいち真に受けたり、不法侵入者どもを相手にしたりしているヒマはない」

 すべては業務を守るための対策だ、と男は続けた。

「そのためにひとりひとりが銃を持って? あんたら軍事訓練も受けてるな? そういうヒマはあるんだな」

 男は小さくため息をついた。そして煩わしい虫を追い払うときのようなきわめて軽い仕草で、銃の引鉄ひきがねをひいた。

「ヒッ!」

「動くな」

 狙われたのは八雲だった。どっと膝をつく音に背後を振り返ろうとするも、男の声に妨げられる。来鹿は片眉を跳ね上げた。

「念動力持ちの人工生命体アーティフィシャル。ここの見学ならおまえひとりで来るべきだった。足手まといがいては十分に動けまい」

 男は銃口を来鹿の額に向けると、ほんのわずか目を細めた。来鹿は奥歯を噛みしめる。集中力を急激に高めていくときの耳鳴り、締めつけられるような頭痛。

 八雲の身体の位置、それを手繰り寄せるイメージを高め、少しでも安全な場所へ逃げ込むことを考える。来鹿の念動力は護衛師としてもそれなりに強力だが、複数の動作——この場合は、攻撃と防御——を同時に行うことは容易くない。

 男の指がふたたび引鉄をひき、来鹿が念動力を発揮しようとする。その瞬間、思いもよらぬ声が上がった。

「……水伯すいはく招来!」

 鋭い声とともに培養槽からあふれ出した粘度の高いぬるま湯のような培養液が、来鹿と研究員のあいだに水の壁を造り上げる。それは来鹿の生命を兇弾から救い、同時に研究員たちの生命を来鹿の念動力から救った。

「十和?」

 いまここに十和がいるとはとうてい考えられないことだったが、咄嗟に自分を庇うような呪を唱える人物を、来鹿は彼女以外に思いつかなかった。紅い瞳を背後に走らせ、慣れ親しんだ陰陽師の姿を探す。しかし、そこには痛みに顔を歪める八雲の姿しかない。

「八雲?」

「なにしてるんですか、早く僕を連れて逃げてくださいよ。何秒も保たないんですから!」

 八雲の言葉どおり水の壁は徐々に薄くなりつつある。来鹿は身を翻して彼の身体をさらうと、すぐそばに設えられている解剖台の陰に飛び込んだ。

「人工生命体だからって銃で撃たれて無事でいられると思ってたわけじゃありませんよね?」

「おまえ……妖力持ちだったのか?」

「……ほんの少し、心得があるだけですよ。それより!」

 追い詰められていることに変わりはありません、と八雲は左の二の腕を強く押さえながら早口で重ねた。どうやらそこを撃たれているらしい。

「いったいどうするつもりですか」

 来鹿は黙ったまま左右を見回した。培養液に浸された床、部屋中に飛び散った血と肉と骨の欠片。どこかからかかすかに聞こえる呻き声。

 地獄の釜の蓋を開けるとはこういうことか、と彼は思った。

「阿鼻叫喚とはまさにこのことを云うのだな」

 自身の心を代弁するかのような、低く、しかし涼やかな声に、来鹿は弾かれたように顔をあげた。すぐ隣に十和が立っていた。

 十和が——?

 莫迦な、と来鹿は立ち上がり、ほっそりとした腕を掴む。

「おまえ、なんでここに! どうやって!」

「なんだおまえは!」

 奇しくも重なった声は、先ほどからひとひらの動揺も見せなかった研究員のものだった。

「これはまさに大醜聞スキャンダル、リュニヴェールの工場の地下に人殺しの見本市、とはねえ」

 十和の指先がまるで宥めるかのように来鹿の手を叩く。

「工場長も苦労が絶えないわけですね」

「おまえ……どこから……」

「わたしはあなた方に呼ばれた陰陽師です。先ほどから磐城さんに構内のご案内をお願いしていたわけなのですが……」

 どうやらはぐれてしまったようでしてね、と十和はにこりともしない無表情で云った。来鹿と八雲のふたりを相手にしていたときとは打って変わって動揺を隠せずにいる男は、派手な舌打ちとともに素早く銃を構えた。

「陰陽師……」

「みなさまを困らせている霊障さわりを祓いにうかがったのです。なるほどこのあたりは妖物バケモノどもの気配もことさらに濃い。さぞかし業の深いお仕事をなさっていたのでしょう」

 十和は云いながら、来鹿に掴まれているのとは反対の手で八雲の肩に触れた。

「こんなところに長居は無用だ。失礼しよう」

「そうはさせるか! 死ね!」

 自分たちに向けられた端的な男の叫びに来鹿が反応するより早く、陰陽師は澄んだ声で使い魔を呼んだ。

コウ! 冥府への門を開け!」

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