26

 十和トワの無茶ぶりには慣れたつもりでいるが、それでもときどきは腹が立つ、と来鹿ライカは遠慮なく顔をしかめた。知恵の浅いこどもだけならばともかく、この俺のことまでいいように使おうとしやがる。

 十和が幽宮かすかのみやで呪陣に仮の封印を施した翌日、晧宮しろのみやへと移動する管状軌道レールの中でのことである。

 陰陽師は護衛師ガーディアンたちに向かってこう指示した。

「あの工場のどこかには、幽宮のものと対になる呪陣が必ず描かれている。そのありかを探ってほしい」

「あのな……」

 来鹿はため息交じりに反論した。

「探れったって、そう簡単にはいかねえよ。おまえだって見ただろ? あの工場の防御ガードの堅さをよ」

「そこをなんとかするのがおまえの仕事だろう?」

「なんとかできることならなんとかするさ。とういうか、おれよりも前に、八雲ヤクモやここの連中がなんとかしてた。できなかったから、いまおまえがここにいるんだろ」

 十和もまたわざとらしいため息で反撃してきた。引き合いに出された八雲は、息を詰めてなりゆきを見守るしかないようだった。

「云い訳は最後まで聞いてからにするんだな、来鹿」

「なんだと?」

 じろり、と紅輝石ルビーの眼差しをとがらせても陰陽師はびくともしない。

「いいから、聞け」

 十和は薄いてのひらをぴんと張るように伸ばし、来鹿の言葉を封じた。

「探してもらいたいのは呪陣そのものではない。呪陣の核をなす供物のありかだ」

「核?」

「それは、昨日の人骨とは違うのですか?」

 さすがの八雲も黙っていられなくなったらしい。十和は視線だけを八雲に投げてから口を開いた。

「呪陣はあの工場の敷地全体を覆うように描かれている。昨日見たとおりだ。五芒星の頂点にはおそらく昨日と同じように人の骨が埋まっているはず」

 携帯端末タブレットの画面に描き出された薄気味の悪い文様を思い出し、来鹿は悪寒を払うように肩を震わせた。

「だが、それだけでは百鬼夜行をぶことはできない」

 黒々とした眼差しにまたたく星のような輝きが宿った。十和が攻撃的になったときのサインのひとつだ。

「描かれた五芒星の中央、そこにはとくに強い念のこもった供物が捧げられている。その贄こそが呪陣の核、鬼妖を呼び寄せる呪いそのもの」

「それはどんなものだ……?」

 陰陽師の気迫にのまれでもしたかのように、自分の声がすっかりかすれていることに来鹿は気づけなかった。

「ろくなものじゃあるまい」

「……人の死体か」

 まともな状態は期待するな、と十和は冷えびえとした笑みを浮かべた。

「猟奇殺人もびっくりの、世にもおぞましい代物が拝めると覚悟しておいたほうがいい。四散した手足や臓物などかわいいものだ」

「まるで見てきたようなことを……」

「見てきたんだよ」

 非難するような八雲の声を十和は両断した。

「これまでにさんざん見てきた。供物を捧げ、鬼を操り、妖を使役して、己の欲を満たそうとする人間を、ごまんと見てきた」

 どいつもこいつも醜かったよ、と十和の声は急に静かになった。

「悲しくて、さびしくて、やりきれなくて、けれど、どれもとても醜悪だった」

「……それは、欲望を満たそうとする者による供物だったからではないのですか?」

 私利私欲にわれを忘れた者は、それは醜いでしょう、と八雲は云った。

「今回のこれがそうと決まったわけでは……」

「欲だ。欲以外のなにものでもない。かなうはずのない望み、かなえてはならない願い。すべて欲だ。ひどく醜い」

 十和は容赦なく吐き捨てる。

「十和」

 たまらなくなって来鹿は思わず口をはさんだ。

 ——いいんだ、十和。そんなに自分を罵らなくても。

 そのときの彼の脳裏には、戸隠トガクシから聞かされた話がよみがえっていた。

 ユイはいまだ黄泉路にとどまり続け、生者でも死者でもなく、人でもなく妖でもない者として十和を待ち続けている。唯の呼ぶ声にこたえ、十和は眠りのたびに黄泉路へと翔けていく。

 十和の云う望みとは、願いとは——欲とは——、きっと、唯のことなのだろう。

 彼女の言葉はほかでもない、彼女自身を責めているのだ。

「だから……」

 あまりの剣幕にあっけにとられていた八雲の前で、十和は不器用な謝罪のようなため息をついた。

「供物は、おそらく見るに堪えない様相を呈している。そんなものを堂々と人目にさらせるはずがない。いくら人を捨てた術者とはいえ、な」

「人を……捨てた?」

「妖に人をらわせ、その性を変えさせただけでも罪深いが、その妖を使役し、妖物バケモノどもに人を襲わせようとするなど、もはや正気の沙汰とは思えない」

「それだけ、リュニヴェールに対する怨みが深い、ということでは……?」

「では、そいつはもはや人ではない。怨念そのもの、呪いそのものになってしまったんだろう」

 人にはもう戻れまい、と十和は云った。憐みのこもった、深い声だった。

「ゆえにその供物、つまり呪陣の核は、あの工場の地下にある。そう容易には入り込めないややこしい場所にな。昨日の構内図を出せるか」

 急に話が現実に戻り、来鹿は刹那のめまいを覚えた。

「ああ、ほら」

 来鹿が端末に表示させたリュニヴェールの晧宮工場構内図には、ややいびつな五芒星が浮かんだまま、消されないで残っていた。

「そう、ちょうど、このあたりだ」

「ここ、ですか?」

 八雲が首をかしげたのも無理はない。十和の指先は工場棟と事務棟のはざま、構造物のないところを示している。

「そうだ」

「こんな、なにもないところに地下室が?」

 なにもないように見えているだけだ、と十和は云った。

「あの工場は、地上と地下ではまったくの別物だ」

 きっとこのうえなく刺激的な探索になると思うよ、と陰陽師は笑う。護衛師ふたりは顔を見合わせ、不吉な予感にほとんど同時に身を震わせた。


 そうして護衛師たちは工場地下へと、無事、侵入を果たした。

 来鹿は暗闇のなか、紅輝石の瞳を左右に走らせた。ため息のひとつもつきたいところだが、リュニヴェールが秘密を守るために備えている各種探知機センサーの性能を侮ることはできない。

 熱量と振動を図る生体ライフ探知機をはじめ、臭気や重量、風量などを計測するものまで、あらゆる侵入者を警戒した設備は、かえって、この辺鄙な準惑星に大きな秘密が隠されているのだという余計なアピールになりはしないか、と現在進行形で不法侵入中である男は考える。

 彼が腹の奥で悪態をつきながら腹ばいになってひそかに進む隘路は、その建造物に生きた人間がいるならば、かならず走っている換気管エアダクトである。いくら頑丈にできている身とはいえ、体内に備えられた検索機モニタを稼働させながら、息をひそめて進むのはひどく骨の折れることだった。

 ところどころに設置されている重量ウェイト探知機をひとつひとつ潰しながら、しかし、来鹿と八雲は、十和が示した呪陣の核とやらに向かって順調に這い進んでいた。

 護衛師たちに無茶を命じたその陰陽師だが、なにも高みの見物を決め込んでいるわけではない。彼女には彼女の役割があった。

 あいつはうまくやってるんだろうな、と来鹿は視野内画面モニタに表示された建物図面を確かめる。自分のすぐうしろを、やはり這い進んでくる八雲に手信号ハンドシグナルを送り、慎重に身体の方向を変えた。

 リュニヴェール晧宮工場をふたたび訪うにあたっては、やはり工場長である磐城イワキの許可と案内——という建前の監視——が必要だった。自由な捜査なくして事件の解決はない、と護衛局C2支部の者に強硬な態度で交渉させたが、徒労に終わった。

 前日同様、磐城は晧宮の駅まで三人を出迎えにやってきて、ごくごく慇懃な態度で労をねぎらった。連日のお運び、まことにおつかれさまでございます。

 十和は愛想笑いを頬に貼りつけ、彼の相手を一手に引き受けた。工場についてすぐ、磐城の目を盗み護衛師ふたりを式神とすり替え、その後も怪しまれないようにするためには、来鹿らの印象をあいまいにしておくほうがやりやすいからだ。

 磐城が工場玄関エントランス警備セキュリティを解除しているすきに、十和は、来鹿と八雲を、彼らそのものの写しである式神と入れ替えた。

 ふたりはまるでかくれんぼでもするこどものように建物の影にまわり、磐城と十和、それから自分たちに生き写しの式神二体が事務棟に入っていくのを見届けた。そのあと、工場棟一階の天井から換気管に侵入し、現在はそのふたつの建物のはざま、地下二階あたりにいることになっている。

 十和は、昨日同様、磐城に敷地内のあちこちを案内させているはずだった。おまえたちがいるところからは、できるだけ遠ざかるようにするからな、と彼女は云っていた。こっちは完全な陽動で、そっちの探索が本命なんだ。二度はない。しくじるなよ。

 つまり、十和が式神とともに磐城の注意を引きつけているうちに、護衛師ふたりが呪陣の核を探る、という作戦である。

 管状軌道レールの中でその作戦を聞かされたとき、探索はおれひとりではだめか、と来鹿はやんわりと異を唱えた。

 十和が磐城のそばに残ることになるのは仕方がない。彼女の身体能力は来鹿や八雲よりもずっと劣るし、護衛師たちは十和のように工場長の目をごまかすすべを持っていない。

 けど、せめて八雲だけでもおまえのほうに残せないか、と来鹿は主張した。万が一、おれたちの行動が磐城の知るところとなったとき、彼がどのような行動に出るか、予測がつかない。

 あのひょろりとした壮年男性がいきなり十和を殺めようとするとは思えないが、しかし、人間いざとなるとなにをしでかすかわからないものである。護身のための刃物や銃器を隠し持っていないとは云いきれないし、他者に暴力をふるうことをためらう人物であるかどうかもわからない。

 対する十和は妖力には恵まれていても、腕力はからきしで、暴力沙汰にはまるで向いていない。

 だめだ。八雲は来鹿と行け。案ずる言葉をぴしゃりとはねつけ、そのときの十和はなぜか来鹿のことを一瞥もせず、八雲の反応だけを気にしているようにみえた。なんでだ、とか、おまえはちっともおれの云うことをきかないな、とかわめきたてる来鹿の前で、彼はやや戸惑うような表情をみせていた。当然だ。

 ええ、まあ、十和さんがそう云うならかまいませんけれども。最後には八雲がそう云って話はまとまったのだ。

 それにしても、ここにはいったいなにが隠されているんだろうな、と来鹿は考えた。

 いくら侵入者を警戒するにしても、ここの警備セキュリティ装置システムはいささかやりすぎに思えてならない。

 昨今の賊は、人類であれば自動人形オートモーティブか、そうでなくとも人工生命体アーティフィシャルであることがほとんどだと、来鹿は経験的に知っている。

 人間ヒューマノイドの身体は壊れやすく、また騒々しく、警備を潜り抜けての行動には向いていない。隠密裏に活動する個体としては、鼓動や呼吸、体温のない——もしくは、一時的にそれらを止めても生命維持に支障のない——者のほうがより合理的であるということは、幼いこどもにもわかる理屈だろう。

 それは、侵入する側の常識であるばかりか、侵入者を警戒する側の常識でもある。

 その常識を前提に警備を敷く立場に立ってみれば、物理的侵入については、それを検知できる最低限の仕組みを構築すれば対応できる、ということになる。——電脳空間ネットワークを介しての侵入はまた別の話だ。

 少なくとも、これまでに来鹿が侵入したことのある各種施設では、そうだった。

 それがどうだ。この工場ではその前提が通用しない。

 重量検知器さえあれば物理的侵入に対してはおよそことが足りるところを、高価な生体検知器を惜しみなく配置しているところからかんがみるに、リュニヴェール晧宮工場の警戒対象は、自動人形や人工生命体、ましてや人類以外の生命体などではないのだろう。

 適合術フォーミングさえ受けていない、生身の人間。

 他の惑星や準惑星ではめずらしい存在だが、C2ではそうではない。自らが意図してその人口を維持しようとしている彼らこそが、リュニヴェールの警戒対象なのだ。

 やつらは、いったい、ここになにを隠している——?

 気味が悪いな、と来鹿は思う。

 脳以外に生体を持たない人工生命体であるところの来鹿は、人には聞こえない音を聞き、人には見えないものを見ることができる。簡単な検知器であれば手を触れることなく破壊することもできるし、いざ肉弾戦となれば、けた外れの筋力ゆえのずば抜けた戦闘力を発揮する。

 しかし、そうした能力を最大限に発揮してさえ、リュニヴェール社β市晧宮工場の地下は侵入するに厳しいところだった。

 入り組んだ換気管の中を右に折れ左に折れ、上ったり下ったりまた上ったりして進むうち、やがて行き止まりになった。

 視野内画面で確かめれば、まだ目的地にはたどり着いていないようだった。

 とはいえ、道が途切れて進めないのであれば、室内に降りるしかない。いよいよ面倒になってきたな、と護衛師は、換気管から下に見える部屋につながる排気口のつなぎ目を指先で探った。

 リュニヴェールが侵入者を警戒するだけではなく、捕獲したり排除したりすることまで想定していたとしたら、こちらに分はほとんどない。

 相手が人型の戦闘型バトルタイプAIであるならまだしも、戦闘ロボットが出てくれば、生身の肉体を持った八雲はなんの役にも立たないだろう。来鹿とてひとりで複数を相手にするのは骨が折れる。

 そうなったら一巻の終わりだな、と腕利きの護衛師はどこか他人事のように思った。

 彼は、適合術フォーミングと日ごろの鍛錬によって、自身の身体能力を人にあらざるほどに強化してはいるが、生命体であることに変わりはない。怪我をすれば痛むし、血も流す。外傷による死は人工生命体にとって、さほどめずらしいことではない。

 丈夫ではあるが不死身ではない、強化されてはいるが完璧ではない。それが人工生命体なのだ。

 できるかぎり厄介な相手とは出くわしたくない、うかつに警備に引っかかるわけにはいかない理由は、もうひとつある。

 云わずと知れた、十和だ。

 こういうことになるから、あいつからは離れたくなかったのに。

 そんなことを云っても、ここまで来てしまったからにはもう遅い。いまはできるだけ早く、十和の云う、呪陣の核とやらを見つけ出さなくてはならない。

 下に降りる、と手信号で八雲に合図してから、来鹿は排気口の濾過板フィルターを慎重に外した。

 部屋は暗い。まず間違いなく無人だが——、安全とは云いきれなかった。

 換気管の壁面に足裏をつけ、排気口の縁に太ももをひっかけ、そこから上体を室内へさかさまに下ろす。

 同時に検知器の類を検索し、可能な限り破壊した。

 ちなみに、この状態の来鹿に可能な破壊とは、強い電磁線を発し、検知器の回路を狂わせることである。あくまでも、工場全体の安全をつかさどる警備AIが異常に気づくまでの時間稼ぎにしかならない。長くても数分、短ければ数秒だ。

 来鹿は足の力を抜き、音もなく室内へ飛び降りる。

「急げ」

 唇を動かして合図すると、八雲も静かに隣に降り立った。

 部屋には扉をひとつしか確認できなかった。ふたりは視線を交わしたのち、暗い室内を慎重に出入口に向かって移動する。

 扉に手をかけたのは八雲が先だった。来鹿はとっさに彼を制止する。

 耳に障る気配があった。

 来鹿は八雲に扉から離れるよう合図し、位置を交代する。

 耳を澄ませると、それが足音であることがわかった。

 彼らふたりのいる場所からはかなり離れてはいるが、生きている人間の足音がする。硬い靴の踵が石の床にぶつかる、いくつもの乾いた音である。

 どこかに人が、それも複数いるのか、と来鹿は思った。操業停止中の工場内で、いったいなにをしているのやら。

 さらに耳に神経を集中させるが、話し声までは聞こえてこない。

 近づいてみるか、と来鹿は八雲に合図をして扉を開けた。戸は軋むことなく滑らかに開き、室内同様に暗い廊下が左右に伸びている。一定間隔で非常灯がともっているのは、ここに生身の人間が多く行き交うことの証拠である。

 耳をそばだて、方向をうかがう。

 自分の鼻先さえおぼつかない闇のなか、人の気配は左手方向——それは、十和が示した呪陣の中心とされるあたりに近い場所だ——に感じられる。

 慎重を期すため、手信号だけで進むべき方向を告げ、来鹿は自らが先に立った。

 戦闘力の差を考えれば、自分が後方を担うべきだが、八雲の耳と目では行先を定めることができない。彼もそれはわかっているらしく、表情を変えることもなく後備しんがりを務めていた。

 廊下には、ふたりが出てきたものと同じような扉が、ほぼ等間隔で並んでいる。角はあっても分岐はなく、警備から身を隠すような遮蔽物も存在しなかった。

 ここはなんのための施設だ、と来鹿は考える。

 換気管を伝い、排気口から降り立ったあの部屋は、施錠されていなかった。

 この通路にも検知器はひとつもない。

 過剰なほどの守りを抜けた先の不自然な無防備に、護衛師としての警戒は強まる一方だ。

 ときどき立ち止まり、足音の聞こえる方向を確認する。複数の人間がせわしなく行き来する気配には先ほどよりはかなり近づいたように思えた。だが、話し声はまだ聞こえてこない。

 ふいに八雲が立ち止まった。気配を感じて足を止め、背後を振り返る。

「どうかしたか」

 手信号で問えば、八雲は小さく首を横に振った。

「ここになにかいます」

 どれほどの低声こごえであっても肉声はまずい。来鹿はきつく眉をひそめ、黙れ、と合図した。

 八雲の指先が彼の前の扉を示した。と、思うや否や、その手がためらいなく扉に伸びるのを、すんでのところで捕まえてとどめる。

「なにをする」

 来鹿は思わず声を上げてしまった。

 大丈夫ですよ、と八雲は妙に強い声で答えた。

「ここに検知器はありません」

「おまえ、ここを知っているのか?」

 来鹿の声には驚きしかない。どういうことだ?

「知っている、とは云えないでしょうね。ここを知っていた人間から聞いたことがあるだけなので」

「リュニヴェールに知り合いが?」

 八雲は薄く笑った。それがやけに皮肉っぽく見えたのは、来鹿の気のせいというわけではないだろう。

「もちろん知り合いはいますが、彼らから聞いたわけではありません。ここで働くのは、β市で採用された者ではなく、よそからやってきた者だけですから」

「……なるほど」

 八雲が扉を開けるのを、来鹿はもう止めようとは思わなかった。もしかしたら十和はこうなることを見越して、おれに彼と行動をともにするよう指示したのかもしれない、という気さえしてきた。

 開かれた扉の向こうもまたやはり闇に沈んでいた。

 だが、静まり返った通路とは違い、かすかな物音がいくつも聞こえる。端末の作動音、金属の触れあう音、水音、——ささやき声にも似た、声?

 来鹿は険しい表情で八雲に視線をやった。

 八雲は涼しい横顔を見せている。部屋うちに足を踏み入れる所作にも、動揺した様子はうかがえなかった。ここは黙って従うしかない。

 闇の奥を探る来鹿の目に、わずかな光が届く。部屋のどこかにある電脳端末の作動灯を反射したものだろうか、まるで生きているかのようにときおりまたたいている。

 ひとつに気づくと、室内には似たような光が星のように点在していた。気ままに点り、消え、あたかも言葉を交わしているみたいにも見える。

 じりじりと歩を進めると、光を反射させているものの正体がつかめた。

 部屋の壁際にずらりと並んだ円柱だ。

 内部に液体の満たされた透明のそれは、硝子でできた培養槽であるようだった。

「ここは……実験室か?」

 八雲から聞かされた話が頭をよぎる。

 気分のいい話ではなかったが、ありそうな悲劇ではある。リュニヴェールのやっていることは非道で、救いようもないが、人は他者の痛みにはどこまでも無関心になれるものだ。驚くには値しない。

「そのひとつです」

 来鹿は慎重に歩を運んだ。培養槽のなかを確かめてやろうと思ったのだ。見たところで気分がよくなるはずもないだろうが、これも仕事のうちだ。最初に十和を焚きつけた自覚もある。逃げるわけにはいかない。

 培養槽は闇に沈んでいた。

 だが、ふたりの護衛師があと数歩の距離にまで近づいたとき、急に照明が点る。

 さほど明るい光ではない。

 それでも来鹿はとっさに目を閉じた。数度のまばたきののち目蓋を上げると、ぼんやりとした青っぽい光の中から、じっとこちらを見つめる存在に気づかされた。

 人の頭部だった。

 身体のない首から上だけがぽかりと培養槽のなかに浮いていた。

 ご丁寧に残された髪が、海藻のようにゆらゆらと蠢いている。

 諦観に満ちたまなざし。

 あれはまだ生きている——。

 来鹿は直感した。なんの根拠もない、だが、あれは生きている。生命の匂いがする。生命が生きながら腐っていく、人を狂わせる匂いがする。

 思わず息をのんだ。

 無意識のうちにあとずさった身体がなにかにぶつかる。

 八雲だ。

 自分よりもほっそりとした二本の腕に肩を押さえられ、来鹿はそこで足を止めた。

「なんだ……これは……」

 喉の奥が詰まったようになって、声がうまく出せない。

 八雲が低く笑うのがわかった。

「案外たいしたことないんですね、あなたも」

 目の前の光景に衝撃を受けていることをあてこすられたのだとわかったが、頭に血を上らせるゆとりもない。冷えていく身体を乱暴に揺すり、八雲の手を振り払うのが精一杯だった。

「生きて、いるのか……?」

「ええ、もちろん」

 来鹿を追い越して培養槽の前に立った八雲は、そこで振り返った。

「端末を通じて会話もできる」

 そして来鹿に背を向け、こんにちは、と不自然に軽やかな口調で、培養槽に浮かぶ首のひとつに話しかけた。

 培養槽の前に置かれた端末から、あなたはだれ、といやにはっきりとした合成音声が響く。周波数帯の狭い簡易音声だ、と来鹿は気づいた。

「護衛師の八雲といいます」

 なぜここに、と声は云った。培養槽の中では口元をかすかに動かす首が浮かんでいる。

 まるで悪夢だ、と来鹿は思った。

 培養槽の中の首は、器官としての声帯を備えていない。彼もしくは彼女の声として発されている音は、脳に直接埋め込まれた端子から電脳端末に読み取られ、音声として置き換えられている、いわば当人の思考そのものだ。

「リュニヴェールの悪を暴くために」

 八雲の答えに、培養槽の中の首がゆったりとまばたきをした。表情筋や顔面神経の一部は残っているのか、と来鹿は思った。

 人の首を生きたまま切り取り、その意志さえも残しておくことが治験か? いったいなんのための?

 冷えた身体に烈しい熱が戻ってきた。

 怒り。憤り。名前はなんでもいい。とにかく、許しがたい、という強い感情だ。

「おい」

 抑えた声ににじむ感情を八雲はどうとらえたのだろう。顔の半分ほどを来鹿に向け、唇の端をゆがめてみせた。

「どこだってやっていること、なんでしょう?」

「なんだって?」

「あなたが昨日云ったことですよ。リュニヴェールを許せない僕をそうやって諭した」

 なにも知らないくせにね、と八雲は声を揺らす。笑っているのだ。

「おまえ……!」

 この場面で笑える彼の神経が、来鹿には理解できない。

「だってそうでしょう? 似たような悲劇はどこにでもある」

 それはそうだ。そのとおりだ。

 だが……——、違う。絶対に違う。

 来鹿には、いま、あらためて思い出していた。

 悲劇は、比べられるべきではない。

 意志あるまま身体を奪われ、なお生かされる者たちと、生き延びるため仲間の死肉を喰らう男や、裂けた腹からはみ出すはらわたをかき集める女、目的も定かではないままに互いに殺しあうこどもたちは、比べられるべきではない。

 してはならないことは、してはならない。正されなくてはならないことは、正されなくてはならない。

 ほかがどうであろうと、それは関係のないことだ。

 目の前の非道は、救われなくてはならない。

 目の前の悪は、滅ぼされなくてはならない。

 はるか以前、まだ護衛師になったばかりに抱いていた想いを、思い出していた。

「おれは……」

 八雲の皮肉にせめてもの云い訳を、と来鹿が口を開きかけたときだった。

「……——して」

 明瞭なくせに、ひどく頼りなくかぼそく響く合成音声が、護衛師たちの耳に届いた。

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