24

「あんたの立場なら、いちどは聞いたことがあるはずだ」

 すでに答えを知っているような口調だった。周囲がそう思わずにいられないほど強い確信が、十和トワの声には含まれていた。

「いくら天下のリュニヴェールといえども、この話が世間に明らかになればただではすまない。詰腹を切るのが二人や三人で足りれば万々歳といったところだろう」

「……詰腹を切るのが仕事。そういう幹部もいますからね」

 八雲ヤクモの口調は皮肉っぽかったが、まるで熱に浮かされているように頼りない。

「それでも幹部の処分は外聞が悪い。リュニヴェールはできうるかぎり、そんな事態を避けようとするだろう」

 わたしが訊いているのは、と十和はしつこく繰り返す。

「そういう種類の醜聞だ」

 八雲は痛みをこらえるように顔をしかめた。薄い唇を噛んだり舐めたりし、開きかけた口を何度も閉ざす。視線をさまよわせ、ため息をつき、しかしやがて最初からそうと決まっていた答えをしぶしぶ差し出すかのように、ぽつりとつぶやいた。

「実験ですよ」

「実験?」

 黙ってうなずいただけの十和の代わりに来鹿ライカが問う。

「ええ。新しい薬や器具、治療法の開発のための実験。わかりやすくいうところの、人体実験です」

 十和に驚きはなかった。それは来鹿も同じであったようだ。ふたりとも平然とした表情になんの変化もない。

 セツだけが琥珀色の目を見開き、顔をこわばらせている。

「それだけならべつに驚くことじゃねえな」

 十和の歩みをさりげなく助けてやりながら、百戦錬磨の護衛師ガーディアンは肩をすくめる。

「どこだってやってることだろ? 逆に治験なしの薬や手技なんて、おそろしくて使えたもんじゃない」

 人は過ちを犯す。人はそのことをよく知っている。

 まだ宇宙の広さを知らなかった時代、電脳コンピュータがただの計算機であった時代から、人は自らが生み出した技術テクノロジーによって駆逐される可能性におびえていた。比類なき高速とひずみなき無謬を備えた電脳に、いつか支配されるのではないかとおそれていた。

 さいわいにして、あるいは不幸にして、その日はまだ来ていない。

 計算機が電脳と呼ばれるまでに発達し、一般的に云ってヒトより優れた存在となったいまでも、やはり彼らが行うのは計算である。何百万、何千万、億、兆を超える模擬実験シミュレーションを瞬時に行うことはできても、突然変異イレギュラーを完全に予測することはできない。

 人であれば、思いつきインスピレーションで——それが、幸運きわまりない偶然であったとしても——たどり着ける場所に、電脳は到達することができない。

 精緻に積み上げられた計算は、誤謬がないゆえに飛躍もない。

 過ちを犯すことのできない電脳は、突き詰めれば、いまだに計算機のままなのだ。そこに偶然はない。

 偶然は過ちの先にこそある。

 人を人たらしめ、優位に立たせているのは、過ちを犯すことができる、すなわちその先にある偶然をつかみうるからなのだ。計算ではたどり着けない果実を享受できる、というただその一点においてのみ電脳を圧倒的に凌駕し、それゆえに、電脳の支配者たりえている。

 人はまだ電脳に対する優位性を失っていない。

 だが同時に、背負わなければならないものもある。

 偶然の、過ちの、その代償。

 新薬や新しい技術を広める前に行われる治験はそのひとつなのかもしれない。

「それが、管理生殖外で生まれた者のみを対象ターゲットとしたものであったとしても、ですか?」

「なに?」

 十和が足を止め、来鹿が表情を険しいものに変える。八雲は静かな口調で続けた。

「C2は古い準惑星です。月や地球ほど生殖管理が徹底されているわけではありません」

「……さっきもそう云ってたな、おまえ」

「云い方を変えましょう。このβ市における自然生殖はむしろ推奨されている」

「推奨? 女性体の身体に負担をかけての出産がか?」

 そんなの人権侵害で法務局が黙っていないだろう、と来鹿がつぶやく。

「ですが、それが事実です。僕にも、そこにいる雪くんにも、天鳥舟あまのとりふねにいる弓弦ユヅルくんにも母親がいた。なんなら、このあたり一帯、聞き込みに回ってみてもいいでしょう。母親、父親、家族というものを知る者はめずらしくないはずです」

 十和と来鹿は顔を見合わせた。家族だと?

 母親のいる十和ですら、家族などというものは概念でしか知らない。来鹿にいたっては、その概念すら理解が危ういほどである。

 とはいえ、と十和は応じた。

「そうやみくもに忌むものでもないだろう。中央政府の役人のなかにも、管理生殖をこころよく思わない者はいる」

「知りもしない昔を懐かしんでるだけだろ」

 渋い表情ながらも容認の態度をみせる十和に、来鹿が皮肉っぽく応じる。

「……そんな牧歌的な話ではありませんよ」

 まるで斬りつけるかのような八雲の声に、十和と来鹿が苦笑を消した。

「自然生殖を推奨するような法を作ったのはリュニヴェールです。しかし一方で連中は、そうした者たちに適合術フォーミングを受けさせやすくした、というわけではありません」

 それがどういうことかわかりますか、と八雲は冷たい声で尋ねた。

「脆弱で短命な個体が増える……か?」

 脆弱といえばそうなのかもしれませんが、とC2の護衛師は若草色の瞳でよそ者を薙ぐように見まわした。なにも知らぬ者たちにこの星の現実を教えてやらねば、とでも思っているかのような顔つきだった。

「別の云い方をすれば、地球しか知らなかったころの人類に最も近い個体、そうとも云える」

 もともと古い準惑星であるC2に住む人々は、人類原種に近いと云われている。ほかの惑星との交流が活発ではなく、人の往来も頻繁ではない。産業が廃れ、観光業が主となるこの地で自然生殖が推奨されれば、自然とその古い血脈が受け継がれることとなる。

「C2の人々の遺伝子は、地球や月の人々のように改良が進んでいない。調べてみると、多くの者たちが遺伝子に欠陥を抱えていますが、しかし障害として発露させることなく生涯をまっとうする。それは、古い古い時代に生きた人類にかなり近いと云えるのでしょう」

 人類の発展は自身の種の多様性とともにあった、と云われている。

 多くの言語、多くの人種、多くの障害。

 通訳し、共存し、扶助し、——そうやって人類は未曽有の発展を遂げた。

 現代のように共通の言語を持たず、人としての種がひとつに定まっておらず、障害を持つ命があらかじめ排除されることのなかった時代。

 人々は障壁を取り除き、争いを厭い、より生きるのに便利な身体を求めた。

 それ自体は悪いことではなかったはずだ。十和はそう思う。

 けれど——。

 いまの人類は多様性を失った。言葉はひとつ。人種もひとつ。遺伝子の型も世代によって偏りがある。よりよいとされる特性を次々に組み込み改良を重ねているためだが、そのせいで同世代の者同士の遺伝情報は非常に似通っている。

 生殖の現場では、いまや、二世代以上離しての組み合わせカップリングが常識となりつつある。個体としては非常に頑健な遺伝子も、互いに持っている情報が近ければ、次世代に障害を起こす可能性が高くなるからだ。精神的に結ばれた相手とこどもをもうけようとする者——つまり遺伝子的にも結ばれようとする者——は、これからますます減っていくだろう。

「それが、なんだっていうんだ」

 来鹿が押し殺した声で尋ねた。十和を支える頑丈な腕がわずかに震えている。感じるはずのない悪寒を覚えてでもいるのかもしれない。

「われわれの遺伝子は多様性に富み、そのためあらゆる治験にたいへん適している、ということだそうです」

「……なんだ、それは……」

 現代の社会における治験は、そのために育まれた検体に対して行うこととなっている。

 彼ら——自発的意志を持たぬ者たちを人と呼ぶことに抵抗があるならば、それら——は、治験のための生き人形である。知能を持たず、意志を持たず、他者に知覚可能な精神活動はいっさい行わない、治験のために作り出された肉体。遺伝子操作をあえて行わず、障害や欠陥——遺伝情報の多様性——を残したまま生まれてくる肉塊。

 この治験検体の存在こそ、偶然を計算できない電脳が編み出した、偶然を発見する方法だった。

 治験結果は、経過や結果にとどまらず検体の遺伝子情報まですべて開示され、だれでも自由に閲覧することができる。自身が利用する薬剤や施される手術について、人々は開発経過や治験段階の事故、あるいは予測しうる副作用についてつぶさに知ることができる。

「治験検体は遺伝子情報に偏りがある。管理生殖の限界だそうです」

 八雲は静かに笑った。笑みと呼んではいけないような、おそろしくゆがんだ表情だった。

「そんなこと……」

 倫理的にありえねえ、とのどを震わせた来鹿にはこの話の先が見えているのだろう。だが、それは十和も同じだ。

「けど、ありえる。いや、事実としてある。そうなんだろう?」

 しかも彼女の声のほうがよほど落ち着いている。人のなす残酷には十和のほうが耐性があるのだ。

「倫理がなにかはこの際置いておくことにしましょう。いまや常識となっている治験検体ですら、古い時代には、生命をもてあそぶ行為だとひどく問題視されたらしいですから」

 八雲の口調はじつに淡々としている。怒りも憤りも過ぎた冷たさだけがそこにあった。

「正しい治験結果を得るためには、遺伝子や生育環境の多様性が不可欠なのだそうです。β市はリュニヴェールが自社の発展のために作り上げた遺伝子プール。そういうことのようです」

 来鹿は吐き気をこらえるような顔をしている。

 十和の表情は静かだが、けっして穏やかではない。

「……β市民はそのことを……?」

「さあ、どうでしょうね」

 来鹿の問いに八雲はごく軽く答え、ついでのようにさらりと続けた。

「でもきみは知っていますよね、雪くん」

 急に呼ばれた雪は大きく肩を震わせた。

「きみの仲間や友だち、知り合いで、ある日突然姿を消した者は少なくないはずだ。次は自分かもしれない、自分に違いないとおびえながら暮らしてる。それだけならまだしも、リュニヴェールにみずから売り込みに行く者、仲間や友だちを売ろうとする者も……」

「それがなんだっていうんだよ」

 雪のようなこどもにはふさわしくない、しわがれた、年寄りのような声だった。

「リュニヴェールはきみたちのようなこどもを真っ先に食い物にして……」

「だからそれがなんだって云ってんだけど」

 雪は八雲をきつくにらむ。さきほどまでのこどもっぽい態度——素直で、のびやかで、どこか甘ったれた——が嘘のように荒れた目つき。

 十和は八雲が人体実験の詳細を語ったときよりも、よほど気遣わしげな表情になった。

「なんだって、ってのはどういう意味?」

「あんたここの人間だろ。なら知ってんだろ。幽宮かすかのみやがどんな場所か。どんな連中が暮らしてるか。知っててほったらかしてたんだろ? 自分はお綺麗な仕事について、いいもん食ってんだろ?」

 八雲が言葉を失い、唇の端をわななかせる。

「ここを住処にしてる連中はなんにも持ってない。自分のもんだってはっきり云えるのはこの身体ひとつだけだ。それを好きにしてなにが悪いんだよ?」

「でも……! でも、だからって……!」

 感情が昂るあまり言葉に詰まる八雲を見て、雪はわずかに冷静さを取り戻したらしい。

「ほとんどの連中は限界を知ってる。自分を丸ごと売り渡すようなやつはめずらしいよ。そういうやつらは、だいたいなんかのっぴきならない事情を抱えてる」

 こどもがいるとか、だれかに脅されてるとか、薬漬けでわけわかんなくなってるとかさ、と少年はすべてをあきらめたような目つきをした。

「自分が死んでだれかが助かるなら、とか、生きてても仕方ない、とか、いろいろあるけど、生きててもそういいことがあるわけじゃないのはみんな同じだ」

「……脅される?」

 来鹿の疑問に答えたのは八雲だ。

「治験には一定以上の種類バリエーションの遺伝子に対する結果が求められる。β市における治験は基本的に市民の自発的協力のもと行われ、相応の謝礼も支払われます。ですが、いつもその種類がじゅうぶんであるとは限らない。ときには、多少強引な手を使ってでも、検体をそろえなければならないこともあるわけです」

「自発的協力?」

「リュニヴェールはβ市民の遺伝子情報をほとんどすべて把握しています。必要に応じて治験要請が行われる仕組みです」

 来鹿が大きく身震いしたのが十和にも伝わった。

「……おまえ、知ってたんじゃないのか」

「ここまでとは思ってなかった」

 ふたりはいまや互いに支え合って立っているような状態で、低く囁き合う。十和の護衛を引き受けて事態の概要を把握したときから、来鹿はリュニヴェールにはなにかがあるとは思っていたのだろう。およそろくでもないことだろうという程度の予想はしていたが、想像以上だったということか。

「気分が悪そうですね」

 八雲が唇をわずかにゆがめる。この表情をもう笑顔だとは思えなくなってしまったのはわたしだけではないだろうな、と十和は思った。

「厄介なのは、そうやって行われていることのすべてが、ここでは合法だということです。人道に悖るだの、倫理に反するだの、もちろんそうした意見がないわけではありませんし、反発も当然ある」

 しかしリュニヴェールは飴と鞭をうまく使い分けている。

 たとえば、β市民の平均給与額はそれほど高くはないが、税金は低い水準に抑えられている。リュニヴェールが多くの法人税を納め、多額の寄付も行っているためだ。

 それから、自らの遺伝子情報をリュニヴェールに登録しさえすれば、教育や医療、介護は基本的に無料で受けられる。そこには、ほかの惑星では高額な費用を要する高等教育、あるいは高度先進医療も含まれている。

 給与が安かろうが、一企業により政治を支配されていようが、一般市民の暮らしはそこそこ穏やかで安定している。

「不運なくじにさえ当たらなければ、ここの暮らしは悪くない。そう考える大半の人々のせいで、リュニヴェールの天下が揺らぐことはありません」

「あんたはずいぶんと不満があるようだが?」

 ゆっくりと歩みを進めてきた一行は、いつのまにか天鳥舟の前にいる。軋む扉を押し開けながら十和が尋ねれば、八雲は黙ったまま若草色の瞳をまたたかせた。

「まるで、大事なだれかを奪われでもしたかのようだ」

「なぜ、そんなふうに思うんです?」

 あんたはここの護衛師だろう、と十和は云った。開きかけた扉をふたたび閉じて、四人は天鳥舟の玄関先で睨み合う。正確には、眼差しを交わし合う十和と八雲、それを見守る来鹿と雪。

「工場の磐城イワキのことを、あんたはここでは恵まれた人間だと云った。C2出身の人間としては、ほぼ最高に成功している部類だと。それはあんたも同じじゃないのか」

 護衛師は政府職員の一員である。準惑星に暮らす八雲の給金は、本部に所属する八雲のそれに比べれば多くないが、それでもこの星ではじゅうぶんに恵まれたものであるはずだ。

「……だからなんだっていうんです」

「リュニヴェールは権力と親しい。いや、権力そのものといってもいい」

 八雲は不機嫌な表情で黙りこんだ。十和は続ける。

「磐城の態度は不愉快だった。それは彼が保身を前面に押し出し、こちらの捜査に協力しようという気がまるでなかったからだ。だが、彼の立場に立ってみれば、それは当然のことだ」

 わたしたちはリュニヴェールの敵、つまり彼の敵なのだから、と十和は云った。

「彼の態度には矛盾がない。不愉快だが不審ではない。でも、あんたはそうではない」

「僕が不審だと?」

「あんたは護衛師で公権力の一部だ。それはここではリュニヴェールの一部であるに等しい。リュニヴェールに逆らうな、余計なことに嘴を突っ込むなと、さっきまでのあんたの言動は磐城と同じ、愉快ではないが理解はできた。でも、いまのは違う」

 まるでわたしたちとリュニヴェールを喧嘩させたいように聞こえる、という十和の口調にはわずかだがおもしろがっているような響きがある。

「だから個人的な事情があるのではないかと思った?」

 笑われたことに対する不快感を隠さない口調での問いに、そうだ、と十和はうなずいた。八雲はしばし考え込むような表情になった。

 来鹿と雪は眼差しを交わし合うも、言葉を発することはない。十和の邪魔をしてはならないと呼吸をひそめ、気配さえ殺している。

「そのとおりです」

 ややあってから八雲が口を開いた。

「僕の経歴はお話ししましたよね」

「もとは警察にいたと云ってたな」

 護衛師の経歴など覚えているはずもない十和の代わりに来鹿が答えた。

「ええ、そうです。担当していたのは少年事件が中心でした。そういう部署があるんです」

 こどもたちが厳重に管理されている月や地球ではあまり必要ないでしょうが、ここでは違う、と八雲は説明する。十和と来鹿は黙ってうなずいた。

「さっき、雪くんや弓弦くんをまだ恵まれているほうだと云ったのは、そのときの経験のせいです。ここには本当にむごい現実があるんです。口にするのもいとわしいほどの」

「それがリュニヴェールのせいだと」

「すべてではないかもしれません。でも、やつらがここにいるこどもたちを苦しめているのは間違いない」

 あのころのことがいまでも忘れられません、と八雲は云う。

「……つまりは義憤だということか? 悲惨な境遇にある大勢のこどもたちのことが忘れられず、リュニヴェールを憎んでいると?」 

 煌く漆黒の瞳を正面から見つめ返し、八雲は、ええ、と戸惑うような笑みを見せた。

「それ以外、ほかになにがあるというんです?」

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