21

 自分の身になにが起きたのかを正確に思い出すには、しばらく時間が必要だった。

 部屋はすでに明るい。カーテン越しにさえ、朝の日差しではないことがうかがえる。どうやらかなり長いこと眠っていたらしい。

 うつ伏せの身体を横向きに変え、ゆっくりと起き上がる。どんな些細な動きにも痛みが伴い、十和トワは幾度かちいさな呻き声をあげた。

「目が覚めたのね」

 同じ部屋のソファに横になっていたらしい杠葉ユズリハがすぐに近くまで歩み寄ってくる。

「……ずっとそこに?」

 ええ、まあ、それが仕事だから、と杠葉は押しつけがましくない調子でうなずいた。

「外の連中を入れてもいいかしら? 少し前からうるさくて」

「外の連中?」

「翁と来鹿ライカ八雲ヤクモ、それにセツっていうこども」

 ああ、と十和は吐息とともに了承の意を伝える。

「その前にちょっと診させてね」

 身体の向きを変え、長い髪を肩から胸の前に流した。腕を動かすと痛みが強いため、些細なことにも杠葉の手を借りなければならなかった。

 上衣をはだけた背中にひんやりとした指先が触れる。十和は思わずほっと息をついた。

「どうかした?」

 冷たくて気持ちがいい、と伝えると、それはずいぶんと熱がありそうね、と職務に忠実な答えが返ってきた。

「薬を手に入れてきたわ。すぐに打つわね。傷口はきれい。できれば何日かは安静にしておいてもらいたいところだけど……」

「それはできない」

「そうでしょうね」

 杠葉の手が服を整えてくれる。向き直ると、笑みを含んだ翡翠の瞳に見下ろされた。

「少しのあいだ、診察は一日二回。痛み止めは頓服用の錠剤ももらってきた。少しでも痛くなってきたらすぐに飲んで。激しく動くのはやめておいたほうが無難よ。来鹿たちをうまく使うのね」

 わかった、と十和は答えた。

「それで彼らは……」

 杠葉が扉を開けると同時に、賑やかな声とともにドヤドヤと男どもが部屋に入ってくる。

「十和!」

 真っ先に寝台に駆け寄ってきたのは雪で、それを苦々しく咎めたのは来鹿である。

「弾除けにもならねえガキは引っ込んでろ!」

「うるさい、役立たずはそっちだろ!」

 なにがあったかは知らないが、一晩のあいだに随分と親しくなったものだ、と十和は思った。

 騒々しいふたりの背後には小柄な美少女が控えていて、真っ直ぐな蒼い眼差しを向けてくる。

「翁……」

「起き上がってよいのか」

「……醜態をさらしました」

 思いのほか自分の声が落ち込んでいることに気づき、十和は苦笑いを浮かべる。

「そのようだの」

「そんなことないよ!」

 雪の大声に、来鹿がますます渋い顔をする。

「ぼくも弓弦ユヅルも、十和がいたから助かったんだ。醜態なんてそんな……」

「鵺を見くびっていた。わたしの油断だ」

 そう云って戸隠トガクシを見上げる十和は、叱られるのを待つこどものような顔をしている。怖いものなどなにもないかのような陰陽師でも、人生ただひとりの師匠に対しては甘えたくなることもあるのかもしれない。

「油断と云えば油断、醜態と云えば醜態。そのとおりだ」

「はい、戸隠翁」

 掛布の上に投げ出された白い手の甲を雪の指がそっとなでる。だが、十和は少年には見向きもしなかった。

「とはいえ、反省などというつまらないことに割いている時間はない」

 そうなのだろう、と戸隠はかつてに比べてずいぶんと繊細になった指を振った。

「なにしろおまえにそれだけの深傷ふかでを負わせる相手。かばう者がいたにしても、おまえが術を返されるとは尋常ではない」

「わたしだけではありません。紅銀あかのしろかね蒼銀あおのしろかねもやられました」

「小鬼たちもか……」

 であればなおさらだ、と戸隠は蒼い眼差しを鋭いものに変える。

「敵は厄介だ。おまえの手の内も知っておる。時をあけず、いずれまた襲ってこよう。その前にやるべきこと、できることはそう多くはない」

 十和はうなずき、雪に目を遣る。

「おそろしいめに遭わせた」

 悪いことをした、と云いかける十和に向かって、雪は必死になって首を横に振った。

「だから、十和が助けてくれたんだって! ぼくも弓弦も!」

「弓弦……?」

 ああ、おまえの友だちは弓弦というのか、と十和は薄く微笑んだ。

「大丈夫なのか」

「平気よ。歩くのはまだ無理そうだけど、あんたより早く意識も戻った。傷さえ治れば後遺症もないでしょう」

 杠葉が答えると、戸隠も言葉を添える。

「それにこの子は戦うすべを覚えた。ほれ、悪いことばかりではない」

「戦う……?」

 十和の声には戸惑いしかない。

「どういうことです?」

 戸隠と雪はかわるがわるに昨夜のできごとを話して聞かせた。

 眠る十和を襲いに来た蟲妖こようを短刀のひと突きで斃した、とまるで手柄を自慢するかのようなふたりを前に、十和の顔は少しずつ青ざめていく。話が終わったときにはほとんど蒼白だった。

「なんだって、そんな……そんなことを……」

「十和?」

「わたしは、おまえにそんなことをさせるために、そばで暮らせと云ったのではない。おまえの……」

 守護人もりびとに頼まれ、保護者となってやるつもりだっただけだ、と云おうとして、危ういところで口をつぐんだ。雪は己の守護人の存在を知らないはずだ。守護人と十和が交わした取引のことも当然知らないだろう。

「おまえの、なに……?」

 わたしのそばで暮らさないか、という十和の言葉に雪は無邪気に喜んだ。喜んでいたようにみえた。

 けれど、もしここで種明かしをしてしまったら? あるじの身の保護と引き換えに、彼の守護人から情報を手に入れていたと知られてしまったら?

 雪は深く傷つくのではないだろうか——……。

「なんでもない」

「なんでもなくないだろ! おまえの、なんだよ!」

 雪は敏い。人の欲望と欲望のあいだを縫うようにして生きてきたこどもだ。嘘の下手な十和に、いつまでもごまかしきれるはずもない。

「おまえの幸せな姿が見たかっただけだ。違うか?」

 助け舟を出したのはまたもや戸隠だった。十和は縋るように師に向かってうなずく。嘘の上塗りはのちの傷口を広げるだけとわかっていても、いまは本当のことを口にする気にはなれなかった。

 雪は唇を強く噛んで十和をじっと見つめている。少しの偽りも許さない強い視線だ。

「だがの、十和」

「はい」

「いまはそのようなことにこだわっているときか?」

 十和も雪も頬を打たれたような顔をする。

「ことは百鬼夜行、相手は異形の鵺。当初に想定していたより、だいぶ厄介な依頼なのではないか?」

「……はい」

 来鹿と八雲は先ほどからひとことも発することなく、息を詰めてなりゆきを見守っている。

「傷を負い、万全ではない身でなせる依頼だとはとうてい思えぬが」

「だからといって……」

「なにも雪を連れて歩け、と云うているのではない。少しばかり力を借りても損はしないのではないか、という話であろう」

 何者かがこの地に五芒星を描いたとな、と戸隠は思慮深い表情で続ける。

「それが夜行の入口。出口はリュニヴェール社の工場。妖どもは鬼門より入り、裏鬼門より出るがつね。この地からみての工場はひつじさる、裏鬼門にあたろう。夜行の道筋ルートは知れた。もう日はない。すべきこと、できることはわずかしかない」

「百鬼夜行……って、なに?」

 雪がちいさな声で尋ねた。

 リュニヴェールの工場で遺体発見現場を確認したあと、皓宮しろのみやで来鹿と八雲に聞かせた説明を、十和はもういちど繰り返す。

「入口より出口がちいさければ、血に喚ばれ、血に飢えた、より妖力ちからの強い妖物だけが現世うつしよに残されることになる。あとのことは想像がつくな?」

 うん、と雪は硬い表情でうなずいた。

「混沌と破壊……この世の地獄、か」

 八雲のつぶやきを鼻で笑ったのは、意外なことに怯えていたはずの雪だ。

「ただの地獄なら、そんなもん、あの世に頼まなくたってこの世にいくらだってあるよ。言葉の通じない妖物バケモノ、理性の届かない鬼魅オニどもが相手なんだよ? そっちの方がよっぽど怖いよ」

 穏やかなはずの若草色の瞳が酷薄な光を帯びた。だが、八雲はなにも云わず、少年の放言を許している。

「……雪にとってはそうなのだろうな」

 十和が静かに口を挟んだ。

「十和は違うの?」

 どんな非道もいかな猟奇も、人の犯したことであるならば、その理由には想像がつく。どれほど許しがたい悪行も、その芽、その欠片くらいならば己のうちにもひそんでいるものだからだ。けれど、妖は違う。奴らには人が築いた規則や常識は通用しない。

「ぼくはそのことをよく知ってる」

 どれだけ強大な妖物よりも人のほうがはるかにおそろしい、と思っている十和には雪の言葉はまるっきりこどもの戯言である。しかも、陰陽師であるわたしを相手に、妖のことをよく知っているとは片腹痛いにもほどがある。

 鵺にしてやられた悔しさや身体の痛みもあいまって、不必要にきつい言葉を投げつけようとした彼女を救ったのは来鹿だった。

「それで? これからどうするつもりだ、十和」

「どうする?」

 虚を衝かれた十和はすぐには答えられない。助け舟を出したのはまたもや戸隠だった。

「五芒星が完成する前ならば、術をもって呪陣を破壊することができた。だが、それはもはやかなわぬ」

「そうなのか?」

「どんなまじないであれ、いちど完成したそれは強い。そうやすやすと壊せはしないものよ」

「十和の妖力でも?」

「だれのどんな力をもってしても、曲げる気のない者の意志を曲げることはできぬであろう? 同じことよ」

 どうするんだ、十和、と来鹿はもういちど尋ねる。

「呪陣はすでに妖力を帯びている。いつ発動するかは術者の胸先三寸にかかっている。百鬼夜行は近いうちに必ず起こる」

「だから、どうするかって訊いてるんだろ!」

 来鹿の声には焦りすらにじんでいた。十和は静かな声で答える。落ち着いているというよりは考えながら話しているせいだ。

「ここと工場とを結界で結ぶ。ほかへは決して妖が漏れ出さないよう、道筋を作る」

「……そんなことできるのか?」

 俺は聞いたって無茶苦茶な感じだぞ、と来鹿は不安そうに呟いた。

「だれにでも思いつく常套手段ではある。だが、考えうる限り有効な唯一の方法やもしれぬ」

 口を挟んできた戸隠が、慎重な調子で続けた。

「しかし、いまのおまえに張れる結界ではたかが知れておる。下手な結界を張れば妖どもにたやすく破られ、連中がそこらじゅうにあふれかえることになる。なかには、当然、悪さをするものもおるだろうな」

 裏鬼門にある工場ばかりではなく、幽宮かすかのみや、いや、あるいはC2そのものが災厄にのまれることになるかもしれん、と戸隠は不吉な予言をくれる。

「この地はしまいだ。どうする、十和?」

「結界は張ります。でも、その前に五芒星を破れないかどうか、試してみる」

「え、でも、もう完成してるって……」

「方法がないってわけじゃないんだよ」

 十和はまるで諭し聞かせるような口調で雪に云う。

「ただ、わりと手間がかかる」

「いまのおまえにできるのか」

「腐っても拝み屋。できるだけのことをやるしかありません」

 薄く微笑む教え子に、そうであったな、と戸隠は大きくうなずく。

「その子の力も借りるとよい」

「それは……」

「できるだけのことを、と云ったであろ? その子はおまえの助けになる。わしの守刀もりがたなもついておる」

 十和の視線が雪の腰に結ばれた短刀を素早くとらえた。自分のうちに曰く云いがたい感情が浮かび上がるのを感じる。

 まだ幼いころから師事し、ときにともに危難を乗り越え、ときにともに穏やかな時間を過ごしてきた戸隠。彼が大切にしていた守刀。

 陰陽寮を退くと聞かされた折には、ぜひとも譲ってほしいとねだりさえした。

 ゆえあって恋人を失くし、頼りにしていた師までがそばを離れると知ったとき、よすがと縋るものがどうしても欲しかった。

 しかし、彼が刃を譲ることはなかった。

 戸隠は十和の思いをよく知っていたはずだ。

 師として、同僚として、比類なき妖力の持ち主である一方、不安定で脆弱なところのある十和を一番近くで見てきた。これから先、ひとり厳しい道を行くことになる彼女にとって、わしの守刀はあるいはもやいにも似たしるべとなるだろう、と。

「なぜ、雪にこれを……?」

 自分の声がうねるように揺らいでいるのがわかった。それを自覚すると同時に己の感情をも正しく理解する。——まぎれもない、嫉妬。

「必要だと思うたからだ」

 戸隠はなだめるような口調で云う。

「おまえよりも、この子に、雪にこそ必要だと思うたからだ」

 十和は苦しげに目を閉じた。眉根をきつく寄せ、痛みを——胸のそれか、身体のそれか——こらえるような表情になる。すぐそばで雪が動揺していることが手にとるように感じられた。

 落ち着かせてやらなければ。なんでもないと、気にするなと、おまえが持っていていいのだと、伝えてやらなければ。

 しかし、意に反して喉はひくりとも動こうとしない。

「だいたいおまえは刃をふるうには向いていない」

 十和は口をつぐんでうつむいた。だが、返事をするまでの時間は長くかからなかった。

「わかり、ました……」

「この子の稽古はわしがつける。だが、その前にやらねばならぬことがあろう」

「ええ……はい」

 弱さを振り切るように十和が顔を上げた。

 さきほどまでの揺らぎは、もうどこにも——声にも、表情にも、しぐさにも——ない。


 それからの十和の行動は迅速だった。

 いつもの黒衣に身を包み、目を覚ました弓弦を見舞い、簡単な朝食兼昼食をとると、つぎには、これから出かける、と云いはじめた。

 この言葉には、さすがの杠葉も、まだちょっと早いんじゃないの、と難色を示した。

「あんたのけが、まだ、いちおう血は止まった、って状態なのよ? 無理はだめなの。わかる?」

「問題ない」

 そうぴしゃりと撥ねつけた十和は、すでに外套コートを手にしている。

「行こう、来鹿、八雲」

「行くって、どこに……」

 朝から戸惑ってばかりの護衛師ガーディアンたちは、ここでもまたおろおろさせられる。

「おまえさ、今日くらいは休んでろよ。無理したってろくなことにならねえんだから」

「時間がない。翁の話を聞いてなかったのか」

「聞いてましたよ。聞いてましたけど……」

 八雲がどうにかしてくれとばかりに来鹿を見る。

「だから、おまえは休め。おれたちが……」

「おまえたちだけでできることなんかなにもない」

 来鹿が派手に舌打ちをする。

「ぼくがいてもだめ?」

 おそるおそる口をはさんだ雪にいたっては、答えてさえもらえない。こどもはおおいに落ち込んだ様子だ。

「妖も視えない、結界も張れない。まじないひとつ唱えられない」

 無能を数え上げるように指を折られれば、彼らはそろって沈黙するしかできない。

「これはわたしの仕事だ。わたしが行かなくてどうする」

「わかってるけど、でも……!」

 こどもは打たれ強く、しぶとい。雪は食い下がる。

「無理したらだめって、杠葉も云ってる。百鬼、夜行? なんだかよくわかんないけど、本当に大変なことが起こるのはこれからなんだろ? 十和の力はそんときのためにとっといたほうがいいんじゃないの?」

 十和が片眉を跳ね上げた。雪は知らないが、これは彼女が痛いところを突かれたときのくせだ。

「そうだ」

 来鹿はここぞとばかりにたたみかける。

「そうだよ、よく云ったぞ、ガキ。おまえはここにいろ」

「だから……」

「よく聞け、十和。おまえはここにいて、そいつを使えばいい」

 そいつ、と指さされた雪は素早くまばたきを繰り返す。

「そいつも妖力があるんだろ。翁が云ってた。鬼を視る、なんだっけ、見鬼けんき、そう、見鬼なんだろ、そいつ」

「それはそうだが、でも、鬼を視ることと術を使うこととは違う。雪は術者じゃない。わたしの代わりなどできるものか!」

「で、でも、教えてもらえれば……」

まじないを甘く考えるな。身に返れば命を落とすこともある」

 ぴり、と音がしそうなほど、場の空気が張りつめた。

 そこへ、あ、あのう、と遠慮がちな声を上げたのは八雲である。

「ここで云い争ってるくらいなら、みんなでさっさとやるべきことをやったほうがいいんじゃないんですかね……?」

 十和、来鹿、雪、ついでに杠葉と、四対の眼差しに射抜かれて、八雲はへらりと笑った。笑うしかなかったのかもしれない。

「十和さんの体調は心配だけど、でも、妖のことは僕にも来鹿さんにもさっぱりですよね? 雪くん、きみには悪いけど、きみにはまだ十和さんの代わりは務まらないよ。昨夜の活躍を聞いて素直にすごいとは思うけど、あのひと、えっと、戸隠さんの助けだって大きかったはずだよね?」

 来鹿と雪はきまりわるげに視線を交わし、それぞれにちいさくうなずいた。

「だれにもなんの説明もなく、いきなり走り出すのがいつものあなたのやり方みたいだけど、いまのあなたにそれは無理ですよ、十和さん」

 八雲の矛先は十和にも向けられる。

「あなたはけが人で、しかもけっこうな重傷なんです。これから、ほとんどあなたにしか対処できないすごく厄介なことが起こるってわかってるのに、いま無理をしてけがを悪化させたら、それこそ大変なことになるんじゃないんですか」

 柔和な八雲の言葉に退路を断たれ、十和は苛立ったような吐息をこぼす。

「だからここは全員妥協しましょうよ」

「妥協? なんだそれは?」

 問い返す図々しさがあったのは十和だけだ。

「あなたは雪くんや来鹿さん、それに僕の補助サポートを受け入れる。これからなにをしなくちゃいけないか、なにをあきらめるか、最終的になにを果たすべきか、それを説明してください。そのうえで、僕らに任せられることは僕らに任せる」

 十和はまたもや片眉を跳ね上げたが、反論はしなかった。

「おれたちは?」

「心配しすぎない」

 来鹿がぐっと喉を詰まらせる。雪も強く唇を引き結んだ。

「そもそもこれは十和さんの仕事です。事態に対応できるのも、作戦を立てられるのも十和さんだけだ。彼女が失った体力を補うことはできますが、彼女の代わりになることはできない」

 わかりますか、と云わんばかりの若草色の眼差しが三人のあいだを行き来する。

 十和は深いため息をついた。

 外套のポケットから夜光雲やこううんを取り出し、唇にくわえる。続けて手にした発火石ライターで火をつけ、大きく吸い込んだ。

「わかった」

 煙とともに苦笑いを吐き出す。

「あんた、けっこう云うんだな」

「時間がないって云ってるのに、その同じ口で、どうでもいいことでもめてるから……」

「いや、その調子で頼む」

 辺境準惑星の護衛師である八雲にとって、地球から赴いてきた陰陽師とその同行者は決して逆らいたい相手ではないはずだ。云われたことをすべて鵜呑みにできるなら、それに越したことはないだろう。

 できることなら穏便に、意見などせずにすませたいと考えるのが順当だ。

 機嫌を損ねるかもしれない。さらなる面倒につながるかもしれない。どうでもいいと思っている仕事、どうでもいいと思っている相手ならば、八雲とてこんなことは云わないに違いない。くだらない云い合いで時間を空費する連中を、莫迦め、阿呆め、と腹の底で嘲笑っていればいい。

 だが、彼は声を上げた。面倒を厭わず、意見を述べた。

 それはとりもなおさず、十和を、来鹿を、雪を、ともに仕事をする仲間として認めている、と宣言したも同じことなのだ。

「そうだろう、来鹿」

 八雲のことを警戒していたのは十和よりも来鹿だ。いまのことで彼の気持ちが少しでも緩むといい、と十和は思う。

「……まあな」

 来鹿はひどく居心地の悪そうな顔をしている。見れば八雲も同じような表情を浮かべていた。

「云われて腹が据わった。ぜんぶ説明する。いまはまだよくわからないが、あんたたちにやってもらいたいこともきっとある」

「十和……」

 来鹿が驚いているような声を上げた。

 無理もない、と十和は思う。こんなことは、はじめてだ。これからしなくてはならないことをだれかに説明しよう、などと考えたのは。だれかとともにひとつの仕事に臨もう、などと決意をしたのは。自分ではないだれかの力をあてにしよう、などと甘えようとしているのは。

 すべて——、はじめてのことだった。

「わりと危機的な状況だ、来鹿。八雲の云うとおり、わたしひとりではすでにいかんともしがたい。それが事実だ」

 覚悟を決めたらしい十和の声音に、杠葉を除いたみなの顔がぐっと引き締まった。

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