20

った……」

 仰向けにひっくり返ったセツの腹に、戸隠トガクシが乗っかっている。

「ちょっと痛いってば! 下りろよ!」

「おお、すまんすまん」

 少しも悪びれない口調で美少女が詫びる。その身体を跳ね飛ばすようにして上体を起こしたものの、立ち上がる気力はまだない。

「あれは……消えたの?」

「おお、消えたはずだぞ。よくやったな」

「……ぼくは、なんにもしてないけど」

蟲妖こようを退けたのはあるじさまにございまするぞ」

 すぐ傍らから幻月ゲンゲツの満足そうな声が聞こえる。

「そ、そうなの?」

 右手にはしびれが残っている。握っているはずの短刀の感触が、どこか遠い。

 雪の携えた刃にとらえられたあやかしの核は、刹那ののちに消滅した。砂が風に流されていくような、盛りを過ぎた花びらが乾き散るような、そんな終わり方。

 人のように血を流したりはしない。

 妖の死とは人の死とはまるで様子の異なるものなのだと、雪ははじめて知った。

「初陣にしては上出来だ」

 へたりこんだままの雪の前にしゃがみこんだ戸隠が目を細めて笑う。

「……やったのは、あんたじゃないか」

「いいや、おまえだ。わしは妖とは無縁の者。蟲妖を斬ったのはおまえだ」

「でも……」

 雪は不満だ。

 刃を支えた戸隠、妖めがけて跳んだ弦月。自分だけがなにもできなかった。

「そんなことはない。おまえがやつを視て、おまえが斬った。守護者もりびとの力は借りたかもしれんが、それは守護者を持つ術者ならばごくあたりまえのことだ」

 右手に握ったままの短刀に目を落とす。ひとつの命を奪ったばかりだというのに、曇りひとつないその刃が部屋の灯りを反射してギラリと光った。

 これは凶器。たしかに、凶器なのだ。

「ぼくが……」

 右腕が震えはじめる。はじめはかすかに、やがては、みずからの刃でみずからを傷つけてしまいかねないほどに大きく、押さえようもなく。

 まがまがしい妖物バケモノだった。退けなければ喰われていた。十和トワの命だって危うかった。

 どれだけ言葉を並べたところで、嫌悪感は消えない。

 雪はなだめるように右腕をさする。左腕で抱え込み、なぐさめるように息を吐きかける。

 軽い掌が肩に触れた。戸隠のそれだ。

 美少女はけぶるような睫毛を軽く伏せ、雪の手から短刀を取り上げる。どこぞへ飛ばされていた鞘に納めてから、もう一度、よくやった、と云った。

「なにかを守るとは、別のなにかを傷つけるということだ。だれかの命を守るとは、別のだれかの命を奪うこと。おまえは蟲妖を退け、十和を守った。感謝する。あれはわしにとって、とても大事な教え子だ」

「感謝……」

 そんなごたいそうな感情を、だれかから向けられる日が来るとは思わなかった、と雪は思った。

 これまでの人生、ろくなことをしてこなかった。そしてこのまま、ろくでもないまま、終わっていくんだとずっと思っていた。

 だけど——。

 だけどもしかしたら、ぼくにもだれかを守る力があるのかもしれない。その力を十和のために使うことができるのかもしれない。

「主さま」

 弦月が雪の肩をそっと抱いた。

「弦月」

「本当にようなされた。主さまはわたくしの誇りじゃ」

 おおげさな、とは思ったが、悪い気はしなかった。血の気の失せていた頬にも少しずつ色が戻ってくる。慰めるような戸隠の声、熱のない守護者のぬくもりに、命を奪った衝撃ショックがだんだんと和らいでいく。

「そう、かな……」

「ああ」

 戸隠は大きくうなずきながら、鞘に納めた短刀を雪に差し出す。

「神剣、とまではいなかいが、これもまた霊威ある刃。うまく使えば、長くおまえを護るつるぎとなろう」

「え?」

「おまえにやろう。たいせつに使え」

「で、でもこれ、大事なものなんじゃ……」

 このよく手入れされた短刀は、戸隠の寝台の下に隠されていた。

 妖力ちからを失ってもなお、手放すことのできなかったという刃。丁寧にたたまれていた衣と同じように、これは、戸隠の魂にも等しい剣なのではないか。

「大事だ。だれにも触れさせたことのない、わしの守り刀だ」

「そんなもの……」

 受け取れないよ、という言葉は、しかし、最後まで云うことができなかった。

「刀は戦うことが使命。眠らせておいてもしかたがなかろう」

「……使い方は教えてくれるんだよね?」

「おまえが望むならばな」

 雪は眉を潜めながら首をかしげる。

「僕が望む? そうか、十和と一緒にいるなら、こういうこともできたほうがいいのかな」

「一緒にいる?」

 戸隠はひどく驚いたような声を出した。

「十和が、ぼくに云ったんだ。その、自分のそばで暮らさないかって」

「……そうか」

 相当に大きな衝撃をどうにか胸の内だけでとどめた——少なくとも本人はそのつもりでいるらしい——戸隠は、ごく短く答える。

 うん、と雪はうなずいた。

「ならば、なおさらであろうな」

 戸隠はごく短いあいだに自分を取り戻したようだ。口調から揺らぎが消えている。

「なおさら?」

「おまえは十和と行くのだろう。十和はこの星に長くはとどまれん」

 雪はいまさらながらに気がついた。

 そうだ。十和とともに、彼女のそばにいるということは、この幽宮かすかのみやを、C2を出ていくということなんだ。

「陰陽寮は甘くはない。十和の希望ならばおまえのことも受け入れはするだろうが、そのままいつづけられるかどうかはおまえ次第だ。今代の寮長はことに厳しい。見鬼けんきのひとりやふたり、ひとたび使えないと思えば、たたき出すことにためらいはない」

 雪の顔がさっと青ざめる。

「いままでどおりのんきに暮らしていけると思うたら大間違いだ。刃のひとつやふたつ、ためらわずに振るえるようになっていなくてはどうにもならん」

 これまでの暮らしを優雅なものだと思ったことは一度もないが、泥水を啜ることに慣れてしまいさえすれば、日々はどうとでもしのげるものだ。

 ひとり生きるだけならば、ただそれだけならば、人はどんな環境にもいずれ慣れる。

 けれど、だれかとともに生きようと思ったとき、同じ過酷をそのだれかにも強いることができるかと云えば、それはきっと、——否だ。

 雪は思う。これまでのぼくと同じ暮らしを十和にさせることはできない。

 十和を守る。十和とともに暮らす。

 じつはそれは、そうたやすいことではないのかもしれない。

 いちどはふくらみかけた希望が、ぺしゃりとつぶれる音を聞いた気がした。

 雪はまたしょんぼりとうなだれてしまう。狐が慰めるように尾の先で頬を撫でてくるが、顔を上げる気にはならなかった。

「ここにいるあいだはわしが稽古をつけてやる。しょげているひまなどないほどしごいてやるから覚悟いたせよ」

 雪はのろのろと視線を上げて戸隠を見た。

 陶磁器人形ビスクドールのような顔が、薄い笑みを浮かべている。その透きとおった蒼い瞳に暗い影はない。

「なあに、心配はいらない。おまえならすぐに十和よりもずっと優れた使い手になろう」

「え?」

 十和はすごく強いんでしょ、と雪は尋ねた。

「なにか見たのか?」

「見てないけど、でも、そんな感じだもん」

 まあな、と戸隠は軽妙なしぐさで肩をすくめる。

「十和はたしかに強い。だが、あれにも欠点はある」

「欠点?」

「ああ」

 戸隠は喉の奥で楽しそうに笑った。

「わしの前に十和の教育係をしていたやつがいてな。そいつが云っていた」

 稽古の時間になるとどこかに雲隠れしてしまうくせに、食事の時間になるとどこでにおいを嗅ぎつけるのか、だれよりも早く食堂に姿を表す。掃除や食事の当番には使魔つかいまをよこして平然としている。では座学ならばというと、講師を形代かたしろでごまかし、本人は屋根裏でくうくう寝ていたなんていうこともあった。

「だれかを信じるということを、まるで知らんこどもだった」

 ぼくだって似たようなもんだ、と云いかけた雪をさえぎるように戸隠は続ける。

「十和には友だちと云えるような存在はひとりもいなかった」

 こういう話にはどちらがいいも悪いもないのだろうが、そこばかりはいまのおまえよりもひどいかもしれん、と戸隠は笑みを消さずに云う。

「貧しかったわけでも飢えていたわけでもなかったが、妖力の強さだけを頼みに、使魔たちだけを味方に生きるとは……そういうことだ」

 雪はおおいに戸惑った。

 あの親切な十和が? 強くて、穏やかな十和が?

 思わず弦月を見上げる。いつのまに人のおもてに戻ったのか、守護人は双眸を弓なりにたわめ、さもありなん、と云った。

「妖力をもって生きるとは、ときに厳しくもつらくもございますもの。人は弱い。ゆえにたやすくゆがむ。幼ければなおのこと、そのひずみも大きゅうなりましょう」

「ひずみ……」

 そういえば、と雪は眉根を寄せる。さっきも虚ろとかなんとか云ってたよな。弦月は十和のなにを知っているの、と疑問を口にしようとしたとき、戸隠が呵々と笑う声が響く。

「だが、そんな十和を躾け、妖力の使い方を教え、術をたたき込んだのはこのわしだ」

 美少女の眼差しに老練な男のそれが重なるような気がした。

「前任からあれを引き取ったばかりのころは本当に手を焼かされた」

 なまじ妖力だけは莫迦みたいにあるからなあ、と戸隠は遠い目を雪に向ける。

「いまもそうだが、こどものころから人の云うことをまるで聞かない」

「そうなの?」

「そうだ。口数少なくおとなしくしているからと云って、従順であるかと云えばそうではない。おまえもこれから一緒に暮らすのだろう? 気をつけたほうがいい」

「気をつけるって?」

 好奇心に負けて問いを返せば、あとはすっかり戸隠の間合いペースだ。

「気がついたときには全部があの子の思うままだ。そうでなくてもおまえは押しに弱そうだ」

 雪は思わず幻月を見た。妖狐は涼しい顔をしている。が、朱い唇には微かな笑みが浮かんでいて、じつに雄弁にその心情を語っていた。なにも知らないこどもに刃を握らせ、蟲妖を斬らせたじじいがどの口でそれを云うのか、と。

「だからな、雪」

 幼いのころの十和を知る男の話に引き込まれるうち、雪はいつのまにか戸隠の手から重たい短刀を受け取ってしまっている。

「なにかひとつくらいは、十和を凌ぐ強みを持っていたほうがいい」

 悪いことは云わん、と戸隠はいたずらっ子のような表情を浮かべる。造り物めいた美しい顔には不似合いな、野性味を含んだ笑みだ。

「う、うん」

 押し切られてうなずいたものの、なんとなしの不安を覚えた雪がふたたび弦月を見遣る。

 狐は豊かな尾を左右に揺らすばかりでなにも云わない。雪の守護人である彼女にとってみれば、戸隠の話が悪いことばかりではないからだろう。

 雪にもなんとなく想像はつく。

 妖力を失ったと云えど、かつての戸隠は秀でた陰陽師だったという。きっとよい師となってくれる。雪が妖と対峙する力を手に入れられるかどうかはわからないが、己を守るすべすら知らないままでいるよりはいいはずだ。

「わかったよ」

 雪はようやくうなずいた。手のなかにある短刀が重みを増した気がする。

「おまえはきっと覚えがいい。そう不安がることはなかろう」

 雪は自分を励ますように笑みを浮かべた。

「そうかな」

「おお、そうだとも。十和に比べてずいぶんと素直そうだしの」

 雪の掌に納まっている短刀に目を向けてうなずいてみせる戸隠はひどく満足そうだ。少年と彼の守護人とがそろってむっとした顔をしたことにはもちろん気づいているのだろうが、意に介するそぶりはない。

 さて、と戸隠は掌を軽く打ち合わせる。

「わしらはじゅうぶん働いた。いいかげん十和も戻してやらねばならんし、ひと休みさせてもらうことにしようではないか」

 雪には口答えをする隙さえ与えられなかった。


 来鹿ライカに横抱きにされた十和が寝台に戻されるのを見届けた後、雪は階下にある戸隠の部屋に連れていかれた。幻月はいつのまにか姿を消している。

 肘掛付きソファに落ち着いた戸隠はくたびれたようなため息をついた。雪は彼の正面にある丸椅子スツールに腰かける。

 少女の身体に宿る魂が老爺のものであると知ったいま、その事実をふまえたうえでよく見てみれば、なるほど戸隠はたしかに人工生命体アーティフィシャルに違いなかった。

 適合術フォーミングを受けていない雪は、もちろん体内インナー端末など持っていない。だが、彼の特別な眼は人とそのほかの生命体とを見分けることができる。いったいどうしてそんなことができるのか、と問われれば、本人にも答えようがない。おそらくは見鬼けんきの能力と通底するものがあるのだろうが、そこからはできうるかぎり目をそむけようとしてきた雪だ。理屈など説明しようがなかった。

 ただ、わかるものはわかる。

 この奇妙な力にはこれまで何度も救われてきた。

 雪が男娼として幽宮の最底辺でどうにかこうにか生き延びてこられたのは、ただ勘がいいというだけでは説明のできない、この能力のおかげだった。

「よくがんばったな」

 戸隠はあらためて雪をねぎらった。

「あとのことは杠葉ユズリハに任せておけばいい。来鹿もついておる」

 人の手で作られたとは思えないほどにうつくしく蒼い戸隠の瞳。その色は深い。

「そういえば、あのひと、月面都市の護衛師ガーディアンなんだよね?」

 本物見るの、ぼく、はじめてだよ、と雪は笑った。

「なんか緊張するよね、ほかの星の人ってさ」

「そのわりには気安く名を呼んでいたようだが」

 戸隠が笑いをにじませた口調で指摘すると、雪は気まずそうな顔をした。

「なんか、あのときは、慌ててさ……弓弦ユヅルのこともあったし、十和が死んじゃうんじゃないかと思って」

 おおそうだった、と戸隠は手にしていた小さな茶碗を卓に置き、雪の注意を引くように左手をひらひらと動かした。

「弓弦……といったな、おまえの友だち。先ほども気にかかったのだが、おまえ、あの子にはずいぶんと冷たいのだな」

「冷たい?」

「寝ているからそばにおらずともかまわぬとか、そもそもそれほど具合を気にしているように見えぬのだ」

「……それが、なに?」

「助かってうれしくはないのか?」

 厳しい境遇にある者たちにとって、ともに生きる仲間は大事な存在だ。そこには、ときに血縁に勝る絆が存在する。雪にとっての弓弦が友人であるというならば、彼らのあいだには血よりも濃いつながりがあると考えるほうが自然だ。

 戸隠の疑問は当然といえた。

「……うれしいよ」

 もちろん、と答える雪は、しかしどこか浮かない表情である。

「なんぞ含むところでもあるのか? 本当のところ、さして親しくもない相手だとか?」

 戸隠の蒼い眼差しに見据えられ、少年は首を横に振った。

「親しいんじゃないのかな、あんたたちふうに云うならさ」

「あんたたちふう?」

 恵まれた境遇で生きてきた人たちふうの言葉で云えばってこと、と続けようとして、雪は躊躇した。厳しさの意味に違いはあるものの、十和や戸隠がぬるい世界で生きてきたとは云いがたいことは先ほど知ったばかりだ。

「そこは、置いといてさ」

 弓弦のことだよね、と雪は薄く笑った。

「友だちってか、仲間、家族みたいなもんだからね、あいつは。死んだら悲しいし、寂しい。だけど……正直よくわかんないよ」

「なにがわからん?」

「助かったなら生きてかなきゃいけない。でも、死ねたらそこで終わりにできるだろ」

「終わりにできる?」

「自分で死ぬのはこわくてもさ、なんだかわけわからないうちに死ねちゃえば、もうそれ以上しんどい思いしなくていいじゃんか。明日の客のこととか、今夜の寝床やメシのこととか、いやなこと考えなくてよくなるんだから」

 戸隠の表情が厳しくなった。

「弓弦はほかのやつらよりも苦労してるし、ぼくなんかよりだいぶ厭世的だし、助かったこと、あんまり喜んでないような気がするんだよね」

 目を覚ましても、会いに行くのは気が重いよ、と雪はぽつんと水滴が落ちるみたいな声で云った。

「おまえたちは、性を鬻いで生きているのだったな……」

 雪は冷めた眼差しを戸隠に向ける。元陰陽師だとかいうこの美少女老爺は、幽宮のど真ん中に宿を構えているくせに、いったいなにを見てきたのだろうか。

「うん、まあ、売ってるのは身体だけじゃないけどね。いや、えっと、なんていうか、身体は身体だけど、挿れて出してってだけじゃないからさ」

「客のことか」

「そう。最初っからバラすのが目的のやつもいれば、内臓とか眼球とかが目当てのやつもいる。見世物ショウに出すからってどっか連れて行かれることもあるしさ」

「見世物?」

「殺し合いとか解体とかいろいろあるじゃん」

 戸隠の頬が震えるのを見て、雪は喉の奥で低く笑う。

「そういういろいろをどうにかかいくぐってぼくたちは生きてるわけ。べつに死にたいわけじゃないからね。でも、生きてればいいことあるなんて甘っちょろいこと信じてるわけでもない。だから、積極的に死にたくはないけれど、運の悪い事故で死ぬなら、それはそれで悪いことでもないんじゃないかなって思うんだよね」

「……おまえの友だちが、ほかのこどもらよりも苦労している、というのは?」

「弓弦は口がきけないんだ。鼻も悪い。耳は聞こえるし、目も見えるけど」

 戸隠の眉間にますます深いしわが刻まれた。うつくしい少女にはおよそ似つかわしくない、苦りきった表情だ。

「原因は?」

「知らない。知り合ったときはもうそういう状態だったし、なんでそうなったか、あいつは云わない。云いたくないのか、自分でもわからないのか、そこんとこもよく知らない」

 そうか、と云ったきり、戸隠はそれ以上の言葉を見失ってしまったようだ。

 むろん戸隠とて、この街の事情をまるで知らなかったわけではないはずだ。ゆえあって選んだ第二の人生を生きる地に、ただ夢ばかりを持っていられるような身の上でもないだろう。

 だが、彼はこの街に暮らしてまだ日が浅く、無知だった。雪のようなこどもたちが幽宮でどのような暮らしをしているのか——その暮らしとも呼べぬような生き方について——、この二年、ほとんどなにも知らずに、知ろうともせずに過ごしてきたのに違いない。

 雪はそのことを責める気はない。

「べつに、あんたがそんな顔することないよ」

 申し訳なさそうな表情を浮かべる戸隠に向かって、軽く肩をすくめてみせる。

「弓弦は助けてもらったことに恨みを持つようなやつじゃない。世話になったことがわかれば礼だって云うだろうし、どっちかって云うと、ぼくがぼくの都合で顔を合わせづらいってだけ」

「都合?」

「さっきも云ったけど、ぼくは十和についていくつもりだ。迷いはないよ」

 けど、と雪はそこで少しだけ困ったような表情になった。

「弓弦やほかのやつらにはちょっと云いにくいんだ。ここを出ていきたいのは、あいつらだって同じはずだから」

「……十和に頼んだりはしないのか」

「なにを?」

「友だちも一緒に連れていってくれないか、と」

 雪はひどく顔をしかめた。あまりにも意外で、同時にひどく不愉快なことを云われた気分になった。

「なにそれ」

「十和にしてみればひとりもふたりも変わらんはずだ」

「云わないよ」

「なぜだ?」

 なぜって、と雪は見えない言葉を探すように視線をさまよわせる。一瞬前までの勢いがまるで嘘のようだ。

「それは……できない。したくない」

「なぜだ? 自分だけここを抜け出すことがうしろめたいのだろう? 命を危うくした友人の顔を見づらいと思うのは、彼に対して引け目を感じているからだ。違うか?」

「違わない、かも、けど……それは、その、施しと一緒だから……」

 戸隠は思慮深い眼差しで雪を見つめている。

「いや、えっと、それだけじゃなくて、うまく云えないけど……」

 どれだけ探しても、気持ちを云い表す言葉は見つけられなかった。雪はそのまま口を閉ざしてしまう。

 戸隠はそれ以上追い詰めるようなことはしなかった。悪かった、と彼は云った。

「なんにせよ、友だちが目を覚ましたら顔を見せてやるといい。出ていくのいかないのと、なにもいまそんな話をする必要もあるまい。どちらにしても、いま少し時間はあろう」

 十和の仕事はまだ終わっていない、あれはまだしばらくこの街にいるさ、と戸隠の口調はややわざとらしいほどに軽妙だった。

「それも、そうだね」

 戸隠の気遣いを素直に受け取りはしたものの、雪の心はなかなか晴れそうにもなかった。

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