19

 皮膚にざらりとした寒気が走った。背に砂を流し込まれでもしたかのように、セツはびくびくと睫毛を震わせる。

 ——近くになにか、いる……。

あるじさま」

 鬱陶しく伸びた飴色の髪の下、視線をさまよわせていた雪は、呼びかける守護人もりびとの声にうつむいたままで小さく答えた。

「なに?」

「なにやら……よろしくない者の気配がいたしまする」

「だから、なにがいるの?」

「わかりませぬ。ですが、いささか厄介な気配でございますよ」

 自分の目にしか映らぬ妖狐、弦月ゲンゲツ金糸雀カナリア色の眼差しがぎらりと底光りするのを認め、雪は今度こそ大きく身を震わせる。

「厄介って……」

「あの鵺の手の者と考えたほうがよろしいかと」

「どうしたのだ?」

 顔を上げた雪は厳しい顔つきの戸隠トガクシ来鹿ライカに気がつく。

「雪!」

 目ざとい元陰陽師の声は鋭かった。雪は視線を膝に落とし、首を横に振った。

「なんでも……」

「ないということはなかろう?」

 戸隠の蒼い双眸はなにかを見透かすようにこどもを見据える。実際には視えているはずも聞こえているはずもないというのに、守護者とのやりとりをすべてさとられていたかのように錯覚し、雪は動揺した。

「だから、べつに……」

「なにが入り込んだのだ?」

 え、と雪は身体をびくつかせた。おそるおそる眼差しを向ければ、美少女の姿をした老爺はすでに腰上げかけている。彼はいったいなにに気づいているというのか。

 雪は急におそろしくなった。

「げ、弦月が、ぼくの、守護者が……」

「守護者が?」

「ここになにかが入り込んだって。あの鵺がなにかしかけてきたんじゃないかって」

 なんだと、と横から口をはさんだのは来鹿である。

「なにが入り込んだって?」

「ぼくは知らないよ。ただ、弦月が……」

 口を開きかけた雪の耳に、狐の声がすべりこむ。

「じつに小さき鬼魅おにどもの気配。なれど、ひとつふたつではありませぬ。うろうろと、のろのろと、しかし、あの拝み屋を狙って近づいてきておりまする」

 雪がそのとおりに告げると、戸隠の顔がきつくこわばった。

「鬼魅だと? どのようななりの?」

「し、知らないよ。ぼくが視たわけじゃない」

「気配だけではわたくしにもわかりませぬ」

 弦月にもわからないって、と小さく云い足せば、老爺は椅子の上に立ち上がらんばかりにして雪に迫ってくる。

「数は?」

「たくさんだって」

 耳を打った鋭い音が舌打ちだと気づく間もあればこそ、雪は戸隠に腕を取られ、食堂から連れ出される。

 足を縺れさせながら引きずられる主人に寄り添う妖狐は、獣の目を油断なく走らせ、どんどん増えてきておりまする、だの、ごみムシどもが性質の悪い仲間をよびよせておりまする、だの、物騒なことをつぎつぎに囁きかけてくる。

 戸隠は急ぎ自室に駆け込むと、寝台の下から隠しておいた長函を引きずり出した。華奢な手にはやや余る重さであるように見えたが、彼は難なくその蓋を開ける。そして、厳しい声で雪をそばに呼んだ。

「これを持て」

 長函のなかには白い装束がひとそろいと、鞘に納められた短刀がひと振り隠されていた。差し出されたのは短刀のほうだ。

「こ、これは?」

「過去の遺物。未練の具現だ」

「……未練?」

「後悔はないが、すべて捨て去ることはできなかった。それなりに経験を積み、この歳になってもなかなか強くはあれぬものよ」

 これはかつての自分が身につけていた陰陽師としての正装だ、と戸隠は云った。

「わしにはもう用のないものだ。しかし、おまえには頼みとなろう」

 雪は戸惑う。

「取れ。この刃はアヤカシを斬る」

「で、でも、これ……」

 これはきっと、戸隠にとってとてもたいせつなものだ。美少女老爺の過去など知る由もない自分にだって、そんなことくらいはわかる。

「いいから、取れ! 十和トワの身が危うくなってもいいのか!」

 いいわけがない。

 でも——……。

 開いては握られる指先には、厳しい声をいくら浴びせかけられようともなかなか消すことのできない雪の迷いが表れている。

「それを持ってついてくるのだ」

「どこへ……?」

妖物バケモノが入り込んだのだろう? 破妖の刃は妖力のある者にしか振るえない。いまここで妖を斬れるのはおまえだけだ」

 雪は唇を震わせた。

 来鹿と八雲には護衛師としての武力がある。

 杠葉には医術がある。

 戸隠には経験がある。

 けれど、だれも、妖を祓う力は持っていない。傷ついた十和を守る力は持っていない。

 唇と同じように震える手が短刀をつかんだ。

「来るのだ!」

 戸隠は振り返らずに部屋を飛び出した。小さな背中は、離れずに追いかけるのがむずかしいほどの速さで、階段を駆け上がっていく。途中、驚いた表情でこちらを見ている来鹿ライカらとすれ違った。戸隠と雪を気にして、すぐそこまでやって来ていたらしい。

 十和が休む部屋の前で、戸隠が足を止めた。わずかな距離を急いだだけであるはずなのに、老爺は肩で大きく息をしている。

「開けるぞ」

「は、はい」

 開かれた扉の向こうから、むわりとした気配が漂い出す。濃い、ぬるい湿り気さえ感じさせるほどに濃い、瘴気。

 雪は息を詰めた。

 十和——……!

 隣で弦月がふいにその姿を変えた。

 立ち姿はたしかに人のものなれど、すべらかであった頬や首筋は獣毛に覆われ、鼻先はとがり、口元の牙は長く伸びている。金糸雀色の瞳は獣のそれにすっかり変わり、黄金こがね色の輝きを帯びている。

「小さき者どもがうじゃうじゃと……」

 止めるまもなく弦月が部屋へと足を踏み入れる。薄暗がりを祓う浄衣の裾を追い、雪もすぐにつづいた。


 うつぶせに眠る十和の姿は、部屋の隅にややかすんで見えた。まるで霧の中にいるかのようだ。

「祓いまする」

 弦月の声に、雪は思わず十和をかばうように、彼女の身体に覆いかぶさった。

 刺さるように冷たい清浄の気が、雪の腕や首、髪や頬をなぶる。胸の下で十和が苦しげな声を上げた。少年はまるでしがみつくようにして、己の保護者になるはずの女を必死に守る。

 妖とは無縁の戸隠だけが、静かに、しかし油断なく部屋の様子を見つめている。

「主さま」

 呼びかけられて、雪はいつのまにか閉じていた目を開けた。

 いったんはぬぐわれたはずの瘴気は、しかし、壁から床からじわりじわりとなおも染みだしてくる。薄墨色の芋虫のようにも見えるその妖は、ぽたりぽたりと生まれては、そのはしからゆるりゆるりと空気に溶けて、人を殺める瘴気に変わる。

 どこからともなく這いでて、身をよじるように蠢くその姿はまるで変態前の幼虫のようでもある。手も足もなく、目も耳もありかがわからない。

 しかし、異様なまでに大きな口から瘴気を吐き出しつつ、やがてその体ごと瘴気に変じていくそのさまは、たしかに妖のものでしかありえなかった。

「な、なんなの、こいつら」

「なにがいる! どんななりをしている!」

 叱りつけるように問う戸隠に妖どものさまを伝えれば、老爺は喉の奥で獣のようなうなり声をあげた。

蟲妖こようの眷属……」

 厄介な、と戸隠は云った。

「眷属?」

「いずれ本体が姿を見せよう」

「本体……?」

 わけもわからずおびえるしかできない雪を放り出し、戸隠は遅れて駆けつけてきた来鹿と八雲ヤクモを扉のうちに呼び入れる。

「十和を静かにつれ出せ。鬼魅おにどもはまだ獲物の気配に気づいておらん。あいつらは目も鼻もろくに利かない。ここはわしと雪に任せるがいい。おまえたちは十和の身を護るのだ」

 なにもできないくせに勝手に任せろとか云うなよ、と雪は叫びたかった。

 けれど、そうこうしているあいだにも蟲どもは増える一方で、瘴気はまたすこしずつ濃くなっていく。頼りの弦月は虚空をにらみすえたまま、ときおり尾を打ち振るばかりでこちらを振り向こうともしない。

 妖とは無縁の来鹿は、もちろん瘴気の毒とも無縁だ。ためらうことなく部屋に踏み込んでくる。雪の身体を弾き飛ばすように引きはがし、十和を抱き上げた。

 雪は身を起こす隙さえ与えてもらえなかった。

「爺、あのフダはなんの役にも立たなかったみてえだな」

「黙れ」

「黙れじゃねえよ。あんたが……」

「静かにしろと云っている。十和を連れてとっとと出ていけ!」

 戸隠は押し殺した声で来鹿を追い出しにかかる。護衛師ガーディアン紅輝石ルビーの瞳を苛立ちに燃え上がらせたが、それ以上の悪態をつくことはなく部屋から出ていった。

 妖の気配は感じられずとも、翁の殺気には理由あるものと心得ているのだろう。

「主さま」

 騒々しいやりとりのなかに落とされた弦月の声はごくごく小さい。それでも雪は聞き逃すことなく、守護人へと視線を向けた。

「どうしたの」

「ご覧なさいませ、あれが蟲妖でございまする」

 弦月の言葉が終わるか終わらぬかのうちに、妖が天井の隅からずるりとその全身を露わにした。蛇の身体に女の頭。鼻腔は縦に割れ、瞬きをしない瞳は漆黒の洞穴のように虚ろである。

「な、なに、あれ」

 妖と付き合いの長い雪もはじめて目にする鬼魅だった。

 だが、それでもわかることはある。

 あれはこの部屋を満たす蟲どもの親玉だ。気配が同じだ。間違いない。もし、あれがその気になれば、蟲どもをいっせいにけしかけることだってできるだろう。

 妖物の意識がこちらに向いてもいないというのに、雪は恐怖に震えあがった。

 歯の根は合わず、額は汗でべっとりと濡れている。掌で短刀の柄がぬるりと滑る。喉を鳴らして生唾を飲んだ。

「どのような姿をしている」

 戸隠が雪の腕をつかむ。細い指が食い込み、とても痛い。

 だが、そのおかげですこしだけ自分を取り戻した。慌てて柄を握り直し、妖物バケモノの姿を伝える。

「やはり蟲妖か」

「あれがそうなの……」

 いまや妖はその身をすっかり部屋のうちに顕している。女の首を左右に振りながら、ゆっくりとなにかを探っている。ときおりあたりのにおいを嗅ぐかのようにぴたりと動きを止め、しかし、すぐにまたずるりずるりと身を這わせる。

「十和がいなくなったこと、まだ気がついてないの?」

「そうだ」

 思いきり腰が引けてしまったせいで、雪の頭は戸隠とほとんど同じ高さになっている。その姿勢のまま囁き声で問えば、やはり囁き声で答えが返る。

「よいか、雪」

 いまだ腕に絡んだままの戸隠の指に、さらに強い力がこもる。雪は思わず痛みに顔をしかめた。

「あれはな、少々面倒な相手だ」

 戸隠は低い声で先を続けた。

 知能と呼べるものはほとんど持たず、人の言葉は理解しない。説得は無駄だ。うまそうな獲物のにおい——人の身にしては桁外れに妖力チカラの強い十和の身体——につられて這いずり出てきたのだろう。

「あるいは十和を襲ったという鵺にけしかけられたのかもしれぬ」

 鵺は人の心ばかりではなく、妖のそれをも操る妖物、原始的な食欲と繁殖欲に従って生きる蟲妖を誘いだすなどたやすいことだ、と老練な元陰陽師は云った。

「……まったく、こんなことにならぬよう、来鹿にあのフダを渡したというに。あやつめ、ちゃんと仕事をしなかったのか」

 よくわからないことをぶつぶつと呟き、戸隠は強い眼差しで雪を見据える。

「敵は手ごわい。戦闘に長けた術師とて、短刀一本で仕留めるのは骨が折れるものだ。妖の気配すら感じることのできないめしいも同然のわしと、妖力はあれど戦いには向かぬ守護人もりびと妖物バケモノを視ることはできても刃ひとつ振るったことのないおまえでは、分が悪いにもほどがある」

 だが、それでもやらねばならぬ、と美少女は薔薇の花びらのごとき唇で厳しいことを云った。

「どうするの!」

 雪が思わず上げた悲鳴を、戸隠は冷静な声音で封じにかかる。

「鬼魅を斬るときには核を斬らねばならん」

「斬る? 斬るの、あいつを?」

「そうだ」

 できないよ、と雪は思わず悲鳴を上げそうになった。そうしなかったのは、ついさきほど会ったばかりのことを思い出したからだ。

「……これもおんなじ?」

「なにがだ」

「できるできないじゃない。やらなきゃいけないってこと?」

「覚えがいいな」

 なんとも不気味な妖が目の前に迫る状況だというのに、戸隠はやけに楽しげな笑い声を立てた。

「ちょっと……!」

 案の定、蟲妖が瞳孔のない眼をこちらに向けている。しゅう、と息を吐き、唇のない口を大きく開き、牙をむき出しにする。

「気づかれたな」

「あんたのせいだろ!」

「十和を追われるよりはマシだろうが」

 返す言葉を失くした雪は喉の奥で唸りながら、汗まみれの掌を上着の裾でぐいぐいとぬぐう。

「鬼魅の核は、いかな術者とてそうたやすく斬れるものではない。なんの修行もしていないただの見鬼けんき、おまえのような者ではなおさらだ」

 雪は小さくうなずいた。わかっている。云われなくたってわかっている。

 ——それでもやれって云うんだろう。

「だが、おまえには守護者がついている。わしもついている」

 ちらり、と弦月を見遣れば、妖狐はいまや獣の本性むき出しに、蟲妖を威嚇している。

 戸隠に視線を戻す。

 腕をつかむ指先が不意に緩んだ。

 そうか、戸隠もこわいのか、と雪はそこでようやく気がついた。

 彼は十和と同じ陰陽師だった、と云った。かつてはこの刃をふるい、みずからが妖と対峙していた。

 けれど、いまの彼の目にはなにも視えない。瘴気を吐き散らす蟲どもも、女の頭を振り立てすぐそこに迫る蛇の妖物も。

 視たくても、斬りたくても——かつては難なくできていたことが——、いまの彼にはできないのだ。術も使えず、意気地もない、ひ弱なこどもに頼るしかない。

 それが、どれほどおそろしいことか。

「わかった」

 雪は小さくうなずいた。せめても力強く見えるといい、と思いながら。

 できる、という自信があるわけではない。妖がこわくないわけでもない。

 だが、いまこのとき、そんなことはどうだってよかった。

 ここで蟲妖を斬らなければ、十和は死ぬ。

 十和と——彼女に限らず、だれかと——ともに生きるとは、あるいはこういうことなのかもしれない。いつまでも救われるばかりでは、ただ守られるばかりでは、きっといられないのだ。

「斬るよ」

「おまえはただ斬ればいい。斬ることにだけ集中しろ」

 守護者の目を借りるのだ、と戸隠が云うか云わずかのうちに、雪の真横に弦月がぴたりと寄り添う。

「来ますぞ!」

 蟲妖が鎌首をもたげた。

「こちらへ!」

 弦月に強く手を引かれ、雪は真横へ跳ねて蟲妖の一撃をかわした。

 いつのまにか顕した肩や腕、華奢にもみえる上半身を腰で支えた姿勢で尾を振り下ろしてきた妖物バケモノは、いまは力をためるように身を伏せている。こちらへ飛びかかる機会を狙っているようだ。

「こいつ、さっきまでと全然違う!」

「人にばれた妖は人の気配に敏感なのです。あの拝み屋が無事でいられたのは、魂の抜けた虚ろの身であったゆえ」

「虚ろの身?」

「気を抜くな!」

 蟲妖の姿をとらえているはずもない戸隠の声にはっとする。

 刹那、異様に長く伸びた妖の腕が、雪をとらえようと迫ってくる。雪は床を転がってそれを避け、どうしたらいいの、と戸隠に向かって叫んだ。

「動きが早すぎて近づけない!」

「鬼魅の背にまわれ!」

 弦月が雪の身を横抱きに抱え、蟲妖の死角にすべりこむ。

 蟲妖はふと動きを止めた。なにかをいぶかしむようにのたりのたりと頭を左右に動かし、あたりの様子を探ろうとでもしているのか、しきりに鼻腔をひくつかせる。

 十和がいなくなったことに気がついたらしい。

 蟲妖が身をぐうっと伸ばした。

 部屋のほとんど中央にあるとぐろを巻いた下半身、わずかにのぞく尾の先にはまがまがしい毒針が見える。蟲妖はその毒で獲物の自由を奪い、精を啜る。むろん喰われたほうはからからに干からびてしまうが、それでもまだ死ぬことはない。蟲妖の幼虫の苗床として、生命の最後の一滴を吸いつくされるまで、意識を保ったまま生きつづけるという。

 うまそうな獲物を逃がしたことに気づいた蟲妖は、しかし、すぐに気がついたようだ。

 この部屋にはもう一匹獲物がいる。

 云うまでもない、雪のことだ!

 真黒な眼差しを据えられ、こどもはすくみあがる。弦月が九尾を逆立て、頬の毛をふくらませた。

「ど、どうしたらいいの!」

 雪は半泣きになるが、戸隠は表情ひとつ変えなかった。蟲妖の姿は見えずとも、十和を部屋の外に出せば必ずそうなるとわかっていたのかもしれない。

「ねえってば!」

 雪の声が部屋の隅から隅へと移動する。彼の守護者が主人を抱えて、蟲妖の死角から死角を渡っているのだ。

「おまえの守護人はなかなか賢い。だが、そのままではいつかとらえられてしまうぞ」

「だからどうすればいいか教えてよ!」

「云っただろう。ただ斬ればいい」

「どうやって!」

「鞘をはらえ」

 雪は慌てて短刀の柄を握る。おそれか、焦りか、手が震え、なかなか刃を抜くことができない。

「落ち着け。雑念は刃に嫌われる」

「雑念って……!」

 こわい、とか、どうしよう、とか、とっとと逃げ出したいとか、そういうの全部が雑念だっていうのなら、ぼくに妖退治なんかできるはずがない、と雪は思う。

「大丈夫だ。おまえには守護者がついている。微力ながら、わしも加勢しよう」

「あんた、人工生命体アーティフィシャルだろッ? あれも見えないって云ってたじゃないかッ!」

 雪は思わず蟲妖を指さして叫ぶ。

「そこか!」

 戸隠の動きはとてつもなく素早かった。まばたきひとつの間も許さず数歩の距離を跳び、雪の右手をつかむ。

「鞘を握れ!」

 云われるがまま、戸惑いもあればこそ。つぎの瞬間、雪の右手には抜身の刃が握られている。

「跳べ!」

 戸隠の声に弾かれるように、高く跳んだのは弦月だ。

「核を視ろ」

 それだけでいい、と戸隠は雪の耳に素早く囁く。

 蟲妖が雪めがけて頭を突っ込んでくる。大きく開く真っ赤な口、生臭いような胸の悪くなるにおい、にぶく光る真っ白な牙。

 喰われる——!

 雪は大きく目を見開き、息を詰める。

 右手はなにかに導かれるように、短刀を振り下ろしていた。雪自身の力はまったくと云っていいほど込められていない。

 熟れすぎた果実に刃物を入れたときのように、手ごたえはほとんどなかった。どこまでもずぶずぶと沈んでいきそうな刃を、カツ、とかすかな音が受け止める。

 ゾワリ、と雪のうなじが総毛立った。妖を視たとき、やつらの舌なめずりの音を聞いたとき、涎のしたたるさまにおびえたとき。否、そのいずれのときよりもひどい悪寒が走る。

 命を奪うとはこういうことか、と雪は知った。

 人も妖も同じだ。現世うつしよ幽世かくりよも関係ない。

 意志をもってそこにある者、命を抱いてそこにある者を、自らの意思で害そうとするとき、その意図はたしかに自分自身をも損なうのだ。

 荒れ果てた街、幽宮かすかのみやの底辺に生きる男娼としては珍しいことに、雪はこれまでにだれかの命を奪ったことがなかった。

 さほど体格に恵まれず、暴力を振るわれることはあっても振るう機会に恵まれなかったことがさいわいしたか、頑固な本質を隠し持ちながらも日和見の世渡りを得意とする器用な性格が助けとなったか。

 いずれにしても雪は、過去、血を浴びたことがなかった。

 妖の核をとらえたわずかののち、雪と戸隠、弦月は互いに絡まりあうようにして床の上に転がった。

 妖は影も形もなくなっていた。

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