17

 自分たちの目には映らぬなにものかと言葉を交わしはじめた少年を部屋に残し、戸隠トガクシ来鹿ライカ十和トワの休む部屋を出た。足を向けたのは戸隠の自室である。

「心配はいらん」

 あのこどもはなかなかの器だ、と戸隠は云った。

「どこで拾ってきたもんだかの」

「あの、セツとかいうやつの言葉をそのまま信じるなら、昨夜、このあたりでひっかけたらしい」

 そうか、と戸隠はうなずき、ここまで一緒に来た若者もそうなのか、と尋ねた。だれのことだ、と来鹿はごく短いあいだ戸惑い、すぐに、八雲ヤクモのことか——そういえばあいつはどこへ行ったのだ?——、と思い当たった。

「β市の護衛師ガーディアンだ

「既知か?」

 いや、と来鹿は首を横に振った。

「会ったばかりだ」

 なにか気になることでも、と来鹿が問うと、戸隠は、いいや、と答えた。

「この身体の不便なところだ。勘というものがまるで働かぬ」

体内インナー端末があるだろう」

「そんなもの、この年寄りに使いこなせると思うか?」

 人工生命体アーティフィシャルに脳移植を行った身で、体内端末を使わないなんて莫迦なことがあるか、と来鹿は云った。

「もっとも、あの八雲には無意味だがな」

 どういう意味だ、という戸隠の視線を受けて来鹿は肩をすくめた。

「生身の人間ヒューマノイドなんだと。護衛師としてはありえないんだがな」

「ほう」

 戸隠は心底驚いた、という声を上げた。

「だが、まあ、この地には、おまえさん云うところの生身の人間は存外に多い。適合術フォーミングを受けていない者もそれなりにおる」

 それだけこの地が貧しいということかもしれぬ、という戸隠の声に、来鹿は神妙にうなずいた。

 複合企業体コングロマリットの工場が集まり、観光客が途絶えなくとも、富が一部の層に集中するような社会構造がすっかり固定化してしまっているのだろう。新しい技術がいかに発達し、それを取り入れようとも、古い星の慣例や価値観を変えるのは簡単ではない。

 それで云えば、地球こそ古い星そのものだが、信仰にも似た特別な感情を集める場所だけに、すくなくともいまのところは衰退とは縁がない。

「ところで、リュニヴェールの件には、なんぞ進展があったか?」

 自室へ戻った戸隠は、そこが定位置なのであろう古めかしいデザインの肘掛付ソファに腰を下ろす。サイドテーブルに置かれたままだったカップを手に取り、冷めきってしまったらしい茶に眉をしかめている。そうしているとまるっきり美しい少女のようだが、中身は老爺なのだ。それを忘れてはいけない、と来鹿は己に云い聞かせる。

「進展、と云えるかどうか」

 事件のあらまし、十和の推論を、来鹿は簡潔に伝える。

「百鬼夜行とな……」

「十和はそう云ってた」

 ふうむ、と戸隠は考え込むそぶりを見せる。

「不穏なが満ちておると?」

「いや、そうは云ってなかったな」

「では、なぜそうと」

「教えてくれたやつがいるらしいぜ。昨夜、とか云ってたな。あんたに会いにきたけど会えなくて、このへんをうろうろしてたときに呪陣を見つけた、とかで」

 呪陣とな、と戸隠は顔を上げた。

「あの雪とはそのときにでも知り合ったんだろ」

「……見鬼けんき守護人もりびとならば、百鬼夜行の卦にも気がつくというわけか」

「俺にはわからんけどな」

 であろうな、と上目遣いで蒼い眼差しを寄越す戸隠へ、来鹿は渋い表情を向ける。

「そのツラでその目つきはやめろ」

「惑わされるか?」

「気持ち悪い」

 ほっほ、と戸隠は楽しげに笑った。

「十和ほどじゃないにしろ、俺だって相当びっくりしてんだよ。いったいなんだってそんな身体を選んだんだ?」

「そんなとは、ずいぶんな云われようだの」

 戸隠の声には理解も同情も拒絶するような響きがあった。これ以上この話を続けても無駄だと思った来鹿は、適合術も脳移植も好きにすればいいさ、と唇を歪めた。

「引退して陰陽寮とのかかわりはなくなったんだから」

 そうだろ、と重ねて云うと、戸隠は蒼い目を細めてうなずく。

「でも、十和のことはまた別の話だ」

 来鹿は語調を強めて先を続けた。

「人生の大半をあんたと過ごしてきたあいつにしてみれば、その姿はショックがでかすぎる」

「中身はわしだ」

「十和は以前のあんたと同じだ。あんただって云ってたじゃないか。生身の人間には目に映るものがすべてだって」

 体内端末を持ち、他者のそれとつなげることで相手の外見以外の情報——たとえば、本当の性別だとか年齢だとか、もともとの種別だとか——を知ることができる者たちと、生身の人間とでは、見ていること、知りうることが違いすぎる。まるで異なる世界に生きていると云っても過言ではない。

「それともなにか? 引退したら、もうかわいい弟子のことなんかどうでもよくなったのかよ?」

 戸隠は答えなかった。淡く輝く睫毛を伏せて、唇を引き結んでいる。

「あんたにどんな事情が……」

「あのこどもだが、拾っただけか? 十和はなにか云うてはおらんかったか?」

 あまりにもあからさまな話題転換に、来鹿は舌打ちをする。だが、そんなことで老獪な元陰陽師が自分を曲げるはずもない。

「先ほども云うたが、あれはなかなかの器だ」

妖力ちからを微塵も持たないあんたに云われてもな」

「陰陽師をなめるでない」

「元、だろ」

 戸隠は薔薇色の頬を皮肉っぽくゆがめる。

「やつあたりは感心しないぞ、護衛師の」

 いくら十和の身を守ることが任務だと張り切ったところで、妖だの幽世かくりよだのという話になれば、来鹿はまったく役に立たない。それこそ臆病な見鬼の助けにすらならない。

「おまえにはおまえのすべきことがある」

「俺のすべきこと?」

「わしの手伝いだ」

 いったいなにを手伝えっていうんだ、と来鹿は不機嫌に問う。

「陣を敷く」

 戸隠は端的に答えた。

「陣?」

「十和の身を守る結界だ」

 結界、と来鹿は鸚鵡のごとくに戸隠の言葉を繰り返す。

「そんなの、あんたにできるのか、戸隠翁」

 その美少女の身体と引き換えにすべての妖力を失くしたんじゃなかったのかよ、と来鹿は尋ねた。

「できる。こんなときのために、妖力のない者にも使えるフダをいくつか残しておいた」

 戸隠はそう云いながら、部屋の奥に設えられた飾り戸棚から古びたハコを取り出した。

 はるか昔、大木の幹をくりぬいて作られたというその函は、深い器とそれをぴったりと覆う蓋とで対になっている。じつに精巧に造られているその蓋は、無理に外そうとすれば決して開かず、慌てて閉めようとすれば浮き上がるばかりの、なかなかに厄介な代物なのだそうだ。

 だが、凪いだ心で向き合い、穏やかな手で扱ってやれば、なかに納めたものをさまざまな邪からしっかりと守ってくれる。

 妖力を失う前、戸隠は数多の呪符をそのなかに納めておいた。妖を呼ぶものと封じるもの、異界の門を開くものと閉じるもの、結界を築くものと破るもの——。

 彼はそう云いながら、慎重な手つきで必要な呪符を選り分けている。

「役に立つ日など来なければよいと思ってはいたがな」

「なんでこんなもの……」

「備えだ」

「なんのための?」

 来鹿の問いに戸隠は答えなかった。代わりに墨痕も鮮やかな札を幾枚か押しつけてよこす。

「これらをいまからわしが云うとおりの場所に貼りつけてこい。けっして過たずにな」

「これはなんだ」

「妖除けの呪いだ」

「妖除け?」

 なんのために、と来鹿は首をかしげる。自身も札を手にした戸隠は、さっさとしろ、と来鹿を急き立てるばかりでちっとも答えをくれない。

「戸隠翁!」

 来鹿は強い声をあげた。

 十和の負傷、己の無力、少年に対する妬心。いくつもの感情がどっとこみあげて、護衛師がつねに備えているべき冷静を忘れそうになる。

「なんでこんなものが必要になる? 呪が見えたのも妖がいたのも、ここからは離れた場所なんだろう?」

「そのようだな」

「じゃあなんで、あんたはそんなに急がせる? なにを隠してる?」

 戸隠の表情はぴくりとも動かない。

「隠してなどいない」

 なんの根拠もなく放った言葉は、どうやら核心を突いたものであったらしい。来鹿はそのことに気がつき、一気にそこを攻めることにした。

「隠してるだろう。いつも自信満々なあんたが、俺と目を合わせようともしない」

 相変わらずの無表情ではあったが、きつく尖った蒼い瞳の奥が揺れた。

「あんたはなにを知ってるんだ? 十和のことか? あのこどものことか? それとも、十和を襲った妖のことか?」

 それはつまり今度の俺たちの仕事についても知ってるってことになるよな、と来鹿は続けた。

「まさかあんたが黒幕とか、そういうオチはねえよな?」

「なにを云うか」

 戸隠は深いため息をついた。

「いまは黙ってわしの指示に従ってはくれないか」

 来鹿は否とも是とも答えないまま、しかしじっと動かない。

「時間がない。手を打つのが遅れれば遅れるだけ、十和の身が危うくなる」

「なら、いますぐぜんぶ話せばいい」

 戸隠はいよいよ苛立ちを隠さずに小さな頭を横に振った。

「聞いたところでおまえにはどうにもできん話だ」

「そうでもないさ。少なくとも、この札をあっちこっちに貼っ付けてくるくらいの役には立つぜ」

 陶磁器のような頬をゆがめ、戸隠は舌打ちをした。

「なんでもかんでも知ればいいというものではない」

「どんなことでも知らないよりは知ってるほうがいい」

「気が合わぬの」

「お互いにな」

 射殺さんばかりの眼差しをはっしと受け止めた来鹿は、しかし睨み返すことはせずにあえてゆるく笑ってみせた。すると、まるでその笑みに負けたかのように、老いた男の魂を宿した美少女の目蓋が伏せられる。

「十和が対峙した妖物は強い妖力を持っておるようだ。手練れの陰陽師に深傷ふかでを負わせただけでもたいしたものだが、思うに、みずから呪陣を操っている様子。つまり、なにかよくないことをたくらんでいるということだ」

「なんでそんなことがわかる」

「黙って聞け」

 戸隠は一瞬だけ視線を上げ、来鹿の口を封じる。

「やつはみずからのたくらみを邪魔しようとする十和の存在を知った。傷を負わせるだけでは満足せずに、つぎこそ亡き者にしようとするだろう」

「また襲ってくるっていうのか」

 まちがいない、と戸隠はうなずいた。

「妖とは念のいきもの。邪念、執念、怨念、どれをとっても人よりもずっと強い」

「でも十和は……」

「いかに妖力の強い陰陽師とて、虚ろの身で戦うことはできん」

「虚ろの身って、ただちょっと深く眠ってるだけだろう」

 戸隠の声の深刻さにおびえ、来鹿は無理に軽口をたたこうとする。翁は笑おうとさえしなかった。

「虚ろの身は虚ろの身。眠りとは違う」

 美しい少女は問いかけの言葉さえなくした来鹿を哀れむような目で見る。

「おまえは十和とは古いつきあいだな」

「ああ」

「ならば、唯のこと、あのふたりのことも知っているだろう」

 知っているもなにも唯は来鹿の友人だった。仕事をとおして知り合い、ともに死線をくぐり抜け、いつしか職業を越えた友情を築いた。十和を知ったのも、彼を介してのことだ。

「あいつが死んだとき、俺はすぐ近くにいた」

 それなのになにもできなかった。鍛えぬいた強靭な肉体も、生き延びるために鈍らせた精神も、そこにあったはずの絆さえ、なんの役にも立たなかった。

 唯は来鹿の目の前で死んだ。

「なにもできなかったのはおまえだけではない。わしも、数多の同僚たちも、なにひとつ手立てを持たなかった。十和以外は」

 来鹿は顎に痛みを覚えるほどにきつく奥歯をかんだ。

「十和にはかわいそうなことをした。そう思ったのはおまえだけではない。わしも、みなもそう思った」

 戸隠の声がよりいっそう苦くなる。

「だから見て見ぬふりをした。十和の無謀を許していれば、いつか大変なことになるとわかっていたのに、気づかぬふりをしたのだ」

「無謀?」

「案の定、これだ」

 来鹿は気づかぬうちに手の内の札を強く握りしめている。なにやら、ひどくいやな気分になった。このまま戸隠の話を聞いていてはいけないような、そんな気分に。

「いまの十和は眠っているのではない。あいつは唯に会いに行っている。黄泉路よみじまで魂をばし、それゆえ、あそこで眠っているかに見える身はただの虚ろだ。鵺なんぞに襲われてみろ。ひとたまりもないわ」

 来鹿は戸隠の云っていることがまるっきり理解できなかった。

「……なにわけのわかんないこと云ってるんだ、あんたは」

「わけのわからないことではない。魂翔たまがけりの呪という、れっきとした陰陽のわざだ」

 本来は現世うつしよにおいて遠く離れた地に意識を翔ばす術だが、と戸隠はそこで深いため息をついた。

「黄泉路に翔べぬわけでもない」

「ちょっと待てよ」

 来鹿は戸惑いを隠せない。

「あんたはなにか? 十和が毎晩唯に会いに行ってるって、そう云ってるのか? えっと、その、あの世まで?」

「あの世の入口までな」

「同じだろ」

「ぜんぜん違う」

 来鹿はしばし沈黙し、戸隠の真意を探ろうとする。

「えっと、よくわかんねえんだけど、それって普通のことなのか? つまり、死んだやつに会いにあの世まで行くってことが」

「あの世の入口まで」

「……入口まで行くってことが?」

「普通だと思うか?」

 努力は無駄に終わり、来鹿は戸惑った表情のまま首を横に振るしかない。

「そんな話、聞いたことがない」

「わしもだ。そんなべらぼうがそうそうあってたまるか」

「でも、いまあんた……」

「十和と唯の妖力があってこその離れ業だ。けっして許されてはならぬ業。天地あめつちことわりに背く外法げほう

「そんな莫迦な……」

 来鹿は自分の声にはっきりとした嫌悪がこもっていることを自覚した。だが、同時に、その感情が、十和と唯のふたりならばその不可能を可能に変えられるに違いない、と思っているからだということもわかっていた。

 ありえない話ではない。優れた術者である彼らにとって、現世と幽世の境はおそらくはひどくあいまいなものだったのだろう。超えようと思えばたやすく超えられるほどに。

 けれど同時に、その境は決して超えてはならないものだということもよくわかっていたはずだ。

 生と死の境。生きとし生けるものにとっての絶対の摂理。

 かつて不可侵であった——あるいは不可侵でなければならないとされてきた——生命の誕生という聖域に人類が足を踏み入れてから、人の生は長くなる一方だ。頑健な肉体と丈夫な精神は、恵まれた一部の者だけに与えられる才能ギフトではなく、大衆があたりまえに手にする普遍となった。

 医療技術は発達し、かつて不治とされた病やけがは、いまやおそれるに足りない。そもそも生まれながらにして強靭な命を持つようになった人類は、かつてよりずっと過酷な環境でずっと長く生きられるようになった。

 しかし、変わらない事実もある。

 死は死として、厳然とそこにあるということ。

 命の長さに比例して広がった世界で、人類は長い生を倦むことなくまっとうし、やがて死ぬ。必ず死ぬ。

 こどもにでもわかる理、だれも避けることのできない則である。

 肉体を脱ぎ捨て、人工生命体アーティフィシャルに脳を移植し、限りなく生を引き延ばしたとて、命は必ず終わる。

 すべての記憶と思考パターンを電脳ネットワーク上の記憶装置に移植し、AIとして人格をつないだとしても、いまの世の中では、それは生命としては認められていない。あくまでも死者の記憶、人格の模造コピーである。

 このさき千年もかければ、あるいは価値観が変わり、人は不死となるのかもしれない。

 だが、それは生と死の境を超えるということにはならない。死なない、ということと、生と死の境を超える、ということとは、まったく別のことだ。

 十和や戸隠よりもずっと死から離れたところにいる来鹿でさえ、そのことはよくわかっている。

「むろん、十和ひとりでなせることではない。唯という迎える存在あってこその外法だ」

「迎える存在?」

「唯もまた十和に勝るとも劣らぬ術者だった」

 だからこそ、唯の死は悲劇となった。十和にとっての。あるいは、唯を知る者すべてにとっての。

「いかに強い妖力を持ち、才に長けておっても、天地の理に背くのはたやすいことではない。そもそも陰陽の業とされる術はすべてが、その理によって立つもの」

「陰陽術は奇跡じゃない」

 そうだ、と戸隠はうなずいた。

「十和が云ってた」

 来鹿はどこかぼんやりとした表情で翁を見る。

「どれだけむちゃくちゃなことをやってるように見えても、陰陽術は奇跡じゃない。こぼれた水を戻すことも、壊れたものを直すことも、死んだ者を甦らせることもできないって」

「わしがそう教えた」

「じゃあ、なんで……!」

 なんでだよ、と来鹿は喉の奥でうなるように云う。

「わかってるのに。唯はもう死んだ、戻ってこないってわかってるのに、なんでそんな……!」

 来鹿の手の内でぐしゃりと握りつぶされた札を痛ましげな目で見遣り、戸隠は答えた。

「唯が呼ぶのだろう」

 だれも見たことがないからわからぬことではあるが、と元陰陽師は慎重な声を出した。

「現世と幽世は黄泉路でつながっていると云われている。歩むのに幾千年も要する長い道であると云う者もいれば、瞬きするほどの間にすぎる短い道であると云う者もいる。しかしいずれの者たちも口をそろえるのは、この黄泉路にいられるのは生者でもなく死者でもない者たちだけだそうだ」

「生きても、死んでも、ない、者……」

「そうだ。人は死すると幽世にその棲処すみかを移し、ふたたび現世に戻ることはない。妖にその身を変じた者以外はな」

 人が人として生まれるように、妖は妖として生じる。妖が妖以外のものになることはないが、人はときとして人でないものになることがある。

「人が妖に……」

 それは執念とか怨念とか、そういうどろどろしたもんのせいか、と来鹿は尋ねた。

「知らん。だが、人の業は妖のそれより深いのだろう、とは思う」

「唯は妖になっちまったってのか」

「そうではない」

 云っただろう、と戸隠は蒼い眼差しを来鹿に据えた。

「十和が翔ける先は黄泉路。幽世ではないわ。どれほどの術者とて、あの世まで魂を飛ばすことなどできるものか」

「だからなんなんだよ」

 ただでさえ苦手な分野だ、まわりくどくちゃ理解できねえ、と来鹿は手にした札を戸隠に突きつけるようにして腕を伸ばす。

「唯はいまだ黄泉路にとどまり続け、生者でも死者でもなく、人でもなく妖でもない者として十和を待ち続けている」

 来鹿の背に悪寒が走った。

 足もとにぽかりと底なしの穴が開き、どこまでも落ちてゆくような——……。

「唯の呼ぶ声にこたえ、十和は眠りのたびに黄泉路へと翔けていく。愛しい者をいまだ探し続けているのか、すでにまみえ言葉を交わしあっているのか、あるいは抱きあっているのか、それはだれにもわからない」

「あんた、そのこと、知って……」

「むろん知っていた。わしだけではない。陰陽寮のなかに知らぬ者はいない」

「だれも止めなかったのかよ……!」

 そんな莫迦なこと、と来鹿は吠えるように云う。

「理だか外法だか知らないが、素人の俺が聞いたって明らかにやばいってわかることを、あんたたち術者がわからないはずがねえ! なのにだれも十和を、あいつを止めなかったってのか!」

「むろん止めた。十和は聞き入れなかった。どんな説得も処罰も、なにひとつあの子の心を動かすことはできなかった」

「なら無理やりにだって……!」

「魂翔りの術は眠りの中で行われる。眠らせなければいいのかもしれないが、そんなことをすれば、生身の肉体を持ったあの子は死んでしまう。手の出しようがない」

 来鹿は黙り込むしかできない。

 知恵者ぞろい、野心家ぞろいの陰陽寮が、組織の盛衰を左右するほどに強い妖力を持った十和の危機に無策であったはずがない。

 どうすることもできなかった、と戸隠が云うのなら、それはたしかにそのとおりなのだろう。

「魂の抜けた虚ろの身を無理に起こせば、行き場を失くした魂は戻る身体を失い、黄泉路に引かれ、やがて幽世へ渡ってしまう」

 眠りは人に許された最後の孤独だ、と戸隠は云った。

「人は人を眠らせないことはできる。だが、人の眠りに忍ぶことはできない。この世においてはあらゆることに縛られて生きる十和も、眠りの中では自由だった」

「陰陽寮は……」

「打つ手を持たなかった。外法に身をゆだね、忠告を聞き入れずとも、十和は優れた術者であり続けた。請け負った仕事に瑕疵はなく、術を暴走させることもなかった。身のうちにひずみを抱えているとはとても思えない働きぶりだった」

 それはいまも変わらないのだろう、と戸隠は云った。

「十和は陰陽寮に対し複雑な思いを持っている。みずからを縛るうっとうしい枷であると思うと同時に、枷なしに生きられない自分を知っているからだ。それは陰陽寮のほうも同じだ。術者は便利な道具であると同時に、それだけにはとどまらない。幼いころより組織ぐるみで養育してきた十和が相手ならばなおのこと」

「十和は、そうは思っていないみたいだけどな」

 C2に到着したとき、宇宙港で急に機嫌を損ねた十和の姿を思い出す。あのときのあいつは、まるで陰陽寮が自分を亡き者としたがっているみたいな、そんな口ぶりだった。

「互いに誤解がある。だが、この複雑な問題について言葉を交わしあうようなゆとりは、十和にも陰陽寮にもない」

「話し合って解決するようなことでもない、か」

「陰陽寮にとって十和の妖力は無視できない。十和もまた陰陽寮の保護なしに生きることはむずかしい。いまは互いに利害が一致している、そのわずかな一線でのみつながっているような状態なのだ」

 来鹿と戸隠はしばし黙り込んだ。

 話すつもりのなかったことを口にしてしまった戸隠にはなんとも云いがたい罪悪感があるように見えたし、聞くつもりのなかったことを耳にしてしまった来鹿にはいまだ戸惑いと——。

「でも、あんたは、そんな十和を見捨ててここに移り住んだんだな。その身体欲しさに」

 いわく云いがたい反発心があった。

 心を許していた唯が死んで、そのあとの十和がもっとも頼りにしたのは、ただひとりの師であったこの男だったはずだ、と来鹿は思う。

 唯とはまた違う意味でよりどころであったはずの戸隠が陰陽寮を去る。そのときの十和の心境を思うと、来鹿は戸隠のふるまいをよしとすることができない。

「それは、いまはどうでもいいことだ」

 戸隠にはどうあっても己のことを語る気はないようだった。

「事情は説明した。とっととその札を貼りに行ってこい」

「じじい……!」

 しっしと追いやるように繊手を振る老爺に向かい、来鹿は鋭く舌打ちを浴びせかける。

「時間を食えば食うだけ、十和の身が危うくなる。ほれ、もうすぐそこに鵺の影が迫っているかもしれんのだぞ」

 視えもしないくせに、とは思うものの護衛師である来鹿は戸隠には逆らいがたい。彼の言葉に従うよりほか、どうすることもできなかった。

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