16

 セツ十和トワの寝顔をじっと見つめた。濃い睫毛がときおり生きている証のようにぴくりと動く。

「でも、まだ呪が残っているかもしれないんだろ。しかも、翁、あなたにはそれがわからない」

 来鹿ライカの口調はまるで戸隠トガクシを咎めているかのようだ。

「この身と引き換えにすべての妖力ちからを失ったのでな」

「ほんとに因果な爺さんだな」

「云ってくれるな」

「爺さん?」

 いまさらながら戸隠の正体に不審を覚える雪である。その声にあらためて少年の存在を思い出したかのように、戸隠と来鹿が視線を向けてきた。

「爺さんって?」

「そういえばおまえ……」

 雪の問いはふたりがかりで黙殺される。

「鵺を視たと云っておったな」

 据えられたふたりの眼差しの強さにたじろいだ雪は、うん、と思わずうなずいてしまった。

「視た、けど……」

「視えるのか」

「視える、けど……」

 それが視えてはいけないもの、視えないほうがいいものだということは思い知っている。これまでともに生きてきた仲間たちや十和はともかく、見ず知らずの相手に軽々しく告げたいようなことではなかった。

 だが、翁と呼ばれる少女の眼力には、そうそう逆らえそうにない。素直にうなずくよりほかなかった。

「喜ぶがいいぞ、護衛師ガーディアンの」

 いぶかしげに首をかしげる来鹿に目を向けることもなく、戸隠は続ける。

「この者が呪の有無を見きわめてくれる」

「なんだって?」

「どういうこと?」

 来鹿と雪は同時に声を上げた。

「この者は見鬼けんき。生まれながらに妖を視る者。妖を視る者は呪いをも視る。道理だ」

「視えるのか、おまえ!」

「み、視えないよ!」

 つかみかからんばかりの来鹿の勢いに、雪は飛び上がって否定した。

「妖物だって視たくって視るんじゃない! 視えちゃうんだよ!」

「でも視える。見鬼だからだ」

「そ、そんなもの、視たことないし。呪なんて、そんな」

「視えるはずだ」

 戸隠の言葉は重たい。雪は拒絶の言葉を見失う。

「で、できないよ」

 気づいたときには、少女はすぐ隣にいた。

「できる」

 有無を云わせない口調だった。

「鵺も陰火おにびも視たのだろう?」

 呪もあれらと同じものだ、と桃色の唇がつやめかしく動く。

「で、でも……」

「けがの治療がいかに的確であっても、杠葉ユズリハの腕がどれほどよくとも、呪による傷は治すことができん。呪は呪で取り除かねばならん」

「取り除くって、だれが……」

「おまえだ」

 ほかにだれがいるのだ、と戸隠は云う。

「できないよ! そんなことできない!」

 雪は思わず叫んでいた。視たこともない呪を視ろ、というだけでも乱暴であるのに、さらにそれを取り除くだなんて、できるわけがない。

「できる。というよりも、おまえにしかできぬ」

「そんなの……」

「やるのだ」

 いや、いやだ、と雪は目に涙を浮かべて首を振る。妖物はこわい。陰火は気味が悪い。呪になどふれたくもない。好きで見鬼に生まれたわけではない。

「この、クソガキッ! やれっつったらやるんだよ!」

 もはや駄々をこねているようにしか見えない雪を来鹿が一喝する。

 それでもなお、できないよ、と雪が意地を通そうとしたそのとき、彼の耳に鈴を振るがごとき美しい声が届いた。

「いやはや、なんとも情けないことでございますのう、わたくしあるじさまともあろうお方が」

 雪はぽかんと口をあけた。

 戸隠と来鹿にひとり対峙するように立つ己のすぐかたわらに、見たこともない女が突如として姿を顕したのだ。明るい色の豊かな髪が華やかで、すっきりと切れ上がった眦も印象的な、凛とした居ずまいの美しい女――……。

 ちがう。女、ではない。

 女のなりをした狐。妖狐、あやかしである。

 雪の喉が、ひ、と鳴った。

「な、なんなの、おまえ」

「なんだ、とはお言葉でございますな」

 妖狐はひどく悲しそうな顔をした。

 異界の微風に揺れる浄衣、金糸雀カナリア色の髪。同じ色の瞳をせつなげに揺らし、雪をじっと見つめている。

わたくしの名は弦月ゲンゲツ。あなたさまの守護人もりびとでございます」

「も、守護人?」

 雪は思わずすがるように戸隠を見た。美しい少女の姿をした百戦錬磨の老陰陽師は、蒼い瞳を炯炯と光らせる。

「守護人、とな……」

「守護人ってなに? 妖? 狐? なに、なんなの?」

「おまえは己の守護人に会うたことがないのか?」

 驚きを隠せない戸隠の声に、雪は勢いよく首を振る。

「ないよ!」

「なんという……」

 戸隠は呆れたようにつぶやいた。ふっくらとかわいらしい唇が呆然と開かれる。そのまましばし自失していた彼であるが、すぐにわれに返り、雪に厳しい視線を向ける。

「守護人とはにぎさがを持つ、幽世かくりよのいきものたちのことだ。強い妖力を持つ術者を守り、支え、導く存在だが、だれにでもいるものではない」

「幽世の……? それって、妖物ばけもののことだよね?」

「同じであるとも云えるし、まったく別物であるとも云える。だが、正直なところ、守護人と妖との違いは、わしにはようわからぬ。なにしろわしには、守護人などおらんかったからの」

「あんたも、術者、なの?」

 雪の疑問に戸隠は短く応じる。

「かつては、な」

 戸隠の過去をまるで知らない雪は戸惑った。術者が術者でなくなることなどあるのだろうか。見鬼けんきが見鬼でなくなることも?

「その話は、いまはどうでもよい」

 それよりも十和だ、と戸隠は云った。現実に引き戻された雪は、隣からじっと自分を見つめてくる狐へとおそるおそる眼差しを向ける。

「……妾のことがおそろしゅうございますか?」

 弦月の声は寂しげにうるんでいた。なにやら急に、ひどく悪いことをしてしまったような気になって、雪はうつむいた。

 狐はちいさなため息をつく。

「妾はあるじさまを幼きころよりずっと見守ってまいりました。あなたさまは覚えておられないでしょうが、いちどだけ御前に立ったこともあるのでございますよ」

「会ったことが、あるの?」

 会うと云いますか、と弦月は困ったような笑みを浮かべた。

「妾はいつもおそばにおりますでな。主さまさえそのおつもりになってくだされるのであれば……」

「いつでも会える?」

 はい、と弦月はうなずいた。

 雪は戸惑い、うろたえ、ひどく気まずい思いをしている。恐怖はいつのまにかずいぶんと薄らいでいた。

「妾のことよりも、いまはそこの拝み屋のことでございましょう」

 弦月の指さす先には意識のない十和の身体がある。

「……うん」

「白鵺の与えた傷に悪い呪がかかっていないか、それが知りたいのでございますな?」

 うん、と雪は弦月をちらりと見やる。

「わかるの……?」

 弦月は小さくため息をついた。

「わかりますとも」

「そうなの?」

 じゃあ教えてよ、と雪は云った。

「そこのふたりが知りたいんだって」

「主さまはどうなのです?」

「ぼく?」

 ええ、と弦月は幼子を見守る母の表情で答えた。

「主さまは知りとうございませんのか?」

 雪はゆるゆると首を横に振った。戸隠と来鹿の顔がよりいっそう険しくなったことには気づかなかった。

「こわいもん」

「呪を視ることが、でございますか?」

 雪はあいまいにうなずいた。

 呪はこわい。妖物や陰火おにびと同じようにこわい。

 けれど、もっとこわいのは自分自身だった。鬼を視るだけでもいずれふつうではないと思われているのに、呪まで視てしまったらそれこそもう取り返しがつかないような気がする。

 これまで以上に異端の身となるのは、とてもこわい。

「主さまにとって、トワどのは特別なお方なのではありませんのか?」

 雪は思わず弦月を見上げた。

「ともに暮らそうと云ってくれたそのお方を、いっときの恐怖に負けて見捨てるのでございますか?」

 いつもそばにいると云った狐の言葉に嘘はないらしい。

 雪と十和、ふたりきりのときに交わされたはずの約束を、守護人を名乗る彼女は知っていた。

「やり方だって、知らないし……」

「妾が力をお貸しいたしまするよ」

 やさしい金糸雀色の瞳に励まされても、雪はなかなか勇気を持てない。

 揺らぐ眼差しが弦月からそれて、来鹿、戸隠、それから十和へと順にめぐる。

「視なきゃ、だめなの?」

「ああ」

 答えたのは戸隠だ。

「どうしても、だめなの?」

「ああ」

「取り除くのもぼくがやるの?」

「そうだ」

「十和にはできないの?」

「むずかしいであろうな」

 さきほどまでの態度からして十和の身をさぞかし案じているに違いないのに、苛立ちも焦燥もない淡々とした静かな声音が、惑い、迷う雪の心をしぶしぶながらに決めさせる。

「……わかったよ」

 低い声でそう答えると、来鹿と戸隠の気配がわずかに緩んだ。彼らは彼らで十和のことをとても心配しているのだと雪は悟った。

 主さま、と呼びかける幻月の声は淡々としていた。

「人の目は見たいものを見るようにできておりまする」

「そんなの、嘘だよ」

 雪は不満げに云い返した。

「それならなんで、ぼくは視たくもない妖物を視るの? 本当は視たいからだとでも云うの?」

 雪は十和が横たわる寝台のすぐかたわらに立ち、ときおりわずかに、しかし苦しげにゆがむその顔を覗き込んだ。弦月は主の背を守るように立ち、まるで彼に倣うかのようによく似たしぐさで十和の様子を探る。

「主さまの目に映る妖は、まことの妖ではございませぬ」

「どういうこと?」

 雪は思わず弦月を振り返った。存外近くにあった狐の顔に驚き、軽くのけぞる。守護人はそんな主にかまうことなく、ふむ、と思案するようにふさふさとした尾を揺らしている。

「なにか、わかったの……?」

「では、云い方を変えましょうか、主さま。人は見たくないものは見ない。そのようにできているのでございます」

「それも、嘘だよ」

 だってぼくは鬼も妖も視たくない、と雪は云った。

「でも僕はやつらを視るし、やつらもぼくを見る」

「さよう。それこそが生まれついての見鬼の妖力ちから

「どういうこと?」

 主さまの目に妾はどのように映っておりましょう、と狐は問いかけた。十和に据えた眼差しは動かさず、相変わらずなにかを探り続けている。

「どのようにって」

「見た目は? 声音は? 妾の存在をいったいどのようにとらえておいででしょう」

「見た目って……」

 雪はもうすっかり十和から目をそらし、己の守護人をじっと見つめる。

 ふさふさの毛に覆われた大きな耳と尾。眦の吊り上がった瞳に朱いくちびる。黒々とした睫毛と透きとおるように白い頬。手は袖のなかに、足先はふくらんだ裾に、いまはすっかり隠れている。鈴を振るような声はかろやかで明るいが、響きの底には重たい陰りが残る。

「主さまの目に映る妾は、妾がこう見てほしいと思う姿でございます」

 雪は言葉もなく目をしばたたかせた。

 少し離れた場所に退いていた戸隠と来鹿にも、少年の戸惑いが伝わったのだろう。狐の姿を見ないはずの彼らも訝しげな表情を浮かべた。

「どういう、意味?」

「妾のまことの姿は、じつはいまとはすこぅしだけ違っておるのでございます」

 弦月は莞爾と笑った。朱を刷いたくちびるの陰に、白いちいさな牙がのぞく。

 雪はぞっとした。美しくやさしげで、どこか儚ささえ感じていた己の守護人の姿が、先ほど目にしたおそろしく忌まわしい妖物と重なって見えたのだ。

「おまえ、鵺と同じ……」

 なんと主さま、と弦月は笑った。

「妾をあのような下種と等しくごらんになるとは、なんと嘆かわしや」

「で、でも」

 狐は軽く目を伏せ、小さく首を横に振った。

「妖にとっては人の目を欺くことなどじつにたやすい。なにをどのように視たいのか、あるいは視たくないのか、人が自身でわからぬことも、妾どもにはつねに明らかなのでございます」

「ぼくが、なにを、どう、視たいか……」

「悪しきもおぞましきも、すべては主さまのうちにあるもの。妖は視る者がおそれる姿をまとい、刹那刹那にその身を変えてまいるのでございます」

「さっきのあの鵺も?」

 はい、と弦月はうなずいた。

「鵺たるものこのようにおそろしいはず、という主さまの心に従い、あの鵺はあのなりを選んだ」

「じゃあ、本当はもっとぜんぜん違う……」

 十和を傷つけた鵺のまがまがしい姿を雪はまざまざと思い出す。

 でもあれは、あの鵺は、ぼくが視た……、それなら、十和は? 十和が視た鵺はどんな姿をしていたの? 十和とぼくとは違うものを見ていたの?

「むろん妖とて、そのもといとなる姿は持っておりまする。人に魂魄のあるように、妖のそれは核と呼ばれておるそうで。人の言葉を借りるならば、鵺には鵺の、狐には狐の核があるのでございます」

「核……」

「いかな大妖とて核を変えることはできませぬ。主さまにはその核を見るすべを学んでいただかねばなりません」

 見たいものを見る、あるいは、見たくないものは見ない。

 そのままではだめだ、と弦月は云っている。

 妖の本質である核とやらを視ることができるのなら、意志を持たぬ陰火や呪をもまた視ることができる。そういう理屈なのだろう。

「そんなこと、ぼくには」

「主さまならおできになりますよ。妾がお仕え申し上げたなかでも、あなたさまはことに強い妖力をお持ちじゃ」

 狐から目をそらした雪は十和を見つめる。上気した顔。苦しげな呼吸。ときおり寄せられる眉。深い傷に苦しんでいるのか、もっと悪いものに憑りつかれているのか――……。

 十和。

 ぼくの妖力をおそれることなく、さげすむことなく、受け入れてくれたはじめての人。ともに生きてもいいと云ってくれたはじめての人。一緒にいたいと願ったはじめての人。

 いつか、だれよりも大切な人になるだろう。そういう予感がする。

 いま、十和を救うことができるのはぼくだけ。

 雪はきつくくちびるをかみしめる。

「ぼくにできる?」

 はい、と弦月が丁寧にうなずいてくれる。

「主さまならば、かならずや」

 そのとき、覚悟を決めた雪にすべてを委ねると云わんばかりの表情で、来鹿と戸隠がそっと部屋を出て行った。だが、雪はそのことに気づかなかった。


「妾をよぅくご覧くださいませ」

 幻月の言葉に従い、雪はじっと目を凝らす。ゆらゆらと頼りなく、しかしたしかにそこにある守護人の存在。はじめはひとつだと思っていた彼女の尾がふたつに分かれ、五つに見え、やがて九つであるとわかったとき、雪はようやくのことで妖狐の言葉の意味を悟った。

 ただ漫然と眺めるばかりでは、鬼や妖を視たことにはならない。

 持って生まれた能力ゆえ、ただ見ることができるのみである。陰火のように意志を持たぬものや、己が身を見られても困らぬと思っている妖を見ることはできるが、術者が隠そうとしている呪や、人を謀ろうと本来の姿を隠す者を視ることはできない。

 見ると視る。

 まるで異なる妖力の使い方だが、なにか特別なことが必要なわけではない。

 まじないを唱えることも、印を結ぶこともいらない。

 ただ気の持ちようを変えるだけ。

 視ようと、視たいと、視なくてはならないと、強く己に命じるだけだ。

 新しい目を手に入れた雪には、いま、弦月のまことの姿が見えている。

 白いばかりだったかんばせには、額や目許に朱色の隈取が浮かびあがっている。やさしげで儚げだった印象はきりとしたものに変わり、雪を見る眼差しは穏やかながらも厳しさをはらんでいた。

「いやだいやだと駄々をこねていらしたわりには、なかなか覚えが早うございますな」

 弦月は袖口からのぞかせた指先で笑う口元を隠す。その爪が思いのほか鋭いことを見て取り、雪は、やはり彼女はケダモノにつらなる存在なのだ、と思った。

「さて、ではその調子でございまする」

 弦月は袖先で眠る十和を示した。

 さきほどまではときおり苦しげにゆがめられていた表情が、いまはすっかり凪いでいる。傷ついた身を癒すため、深い眠りに落ちているのか。

 しかし、十和を見下ろす弦月の表情は厳しい。

「ね、ねえ」

 雪はおそるおそるといった様子で己の守護人の注意を引く。

「どうかした?」

 弦月は眦に冷たいものをにじませて、眼差しだけを雪に寄越した。

「なるほど主さまにはわからぬものでございますか……」

「な、なにが?」

 いいえ、と弦月はゆるゆると首を振る。

「なんでもございませぬ」

 そして、ほら、と十和の身体を覆っていた毛布を片手で引きはがした。

「げ、弦月……!」

 白くなめらかな背中、ほっそりとした腰から引き締まった臀部の線、敷布シーツに押しつけられたまろみ——……。

 歳若いとはいえ性的に成熟している雪の目は、ごくわずかな時間のうちに無防備な十和の身体を隅々までとらえてしまう。慌てて毛布を取り返し、魅力的なその身体を覆い隠すも、いちど目にしてしまったものを忘れることはなかなかできそうになかった。

「なにをなさる」

 いかに人型をとっていようとも、獣は獣、妖は妖である。少年の心の機微など理解できようはずもないのだが、いまこの瞬間の雪にそんなことは思いもおよばない。

「なにをって、それはこっちの台詞だよッ」

「主さま……」

 もしや恥ずかしがっておいでなのですか、と弦月は真剣な目を向けてくる。

「いや、そうじゃなくてさ」

 雪は言葉を失くし、くちごもる。

「女人の裸など見慣れておいででございましょう。なにをためらうことがありますか」

 云いながら弦月はまたもや十和の毛布に手をかける。

「そういうことじゃないんだよッ」

 雪は慌てて毛布を押さえながら、少年の好奇心と羞恥心を知らぬ狐にどうにか思いとどまってもらうために言葉を重ねる。

「いいから、大丈夫だから」

「しかし、慣れぬうちは、邪魔なものはないに越したことはありませぬ」

「大丈夫。ほんと大丈夫だから」

 いったいなにを根拠にそのような強弁を、と弦月は眉根を寄せる。

「このトワなる者はただでさえ厄介な綻びを抱えている。にわか術師の主さまにとっては、掛布一枚といえどもどのような厄介になるか知れたものではありませぬ」

「綻びって?」

 弦月は細い両眉をひょいと跳ね上げた。

「……おや。これはこれは妾としたことが」

 いかにもわざとらしい秘密のにおいを嗅がされた雪は、剣呑な目つきになってずるがしこい獣をにらむ。

「別にいいよ。なにも云わなくて。それって、いまは関係のないことだよね」

 弦月は細めていた目を見開いた。

「なにゆえ関係がないと?」

「十和の綻びとやらがぼくの身に危険を及ぼすようなことなら、最初から、おまえが、その、弦月がぼくを十和に近づけないでしょ。でも、おまえは、弦月は、十和に呪がかけられているかどうかを、ぼくに見きわめさせようとしてる」

 十和とぼくを遠ざけようとしてたら、そんなことしないよね、と雪はたしかめるように己の守護人の目を見つめた。

「さようでございますね」

「だから毛布はこのままでいいよね」

 狐はしばらくのあいだ息を詰めてあるじを見つめていたが、やがて、ほう、と短いため息をついた。

「仰せのとおりに」

 弦月は反駁を抑え、あるじの言葉に肯った。

 雪は唇をきつく結び、小さくうなずく。そして、横たわる十和から、伸ばした腕がぎりぎり届かぬほどまで距離を取り、いちど目蓋を伏せた。

 大きく息を吸い、ゆっくり吐き出しながら眼を開ける。

 望まぬまま与えられた力を、はじめて望んで使う瞬間——。

 しかし、毛布に包まれた十和の身体には、なんの異変も見られなかった。

「……なにも、視えない、けど」

「それは重畳」

 呪がかけられているものとばかり思いこんでいた雪は、よろこばしいことだ、という狐の言葉に戸惑ったような顔をする。

「もちろんそうだけど……」

 自分の業がつたないあまりに呪を見落としている、ということはないのか、と雪はなおも眼差しを凝らす。

「ご心配には及びませぬ」

 耳元で守護人が諭すように囁く。

「とっさのことで鵺もそこまで知恵がまわらなかったのでございましょう。妾にも悪しきものは視えておりませぬ」

 狐になだめられながら見下ろす十和の表情は、昨夜と同じようにとても静かだ。

「それなら、いいんだけど……」

 十和の顔は静かで、あまりにも静かで、それはまるで、死に顔のように——……。

「主さま」

 かすかな疑い——それはいったいなにに対する?——を抱きかけた雪を思いとどまらせるかのように、弦月が呼ぶ。

「陰陽師の身に呪はかけられていない。そうおっしゃって、先ほどの老爺と男とを安堵させておやりなさいませ」

 きっとひどく案じているでしょうから、と狐は微笑んだ。

 まるで見てはならないなにかを覗き見ようとしたこども諫めるみたいな顔だ、と雪は思い、しかし、そう思うそばから別のことに気を取られてしまう。

「……老爺?」

 それってだれのこと、と雪は首をかしげた。

 杠葉は不在にしているし、そもそも女性体だ。残るふたりのうち、来鹿は男性だが、まだそれなりに若く見えるし、戸隠にいたっては少女である。

 しかし、そういえばさきほども……。

「ねえ、もしかして、あの女の子、人工生命体アーティフィシャルなの? 中身はおじいさんの?」

 弦月は淡く笑むばかりでなにも云わない。

 妖は人とは異なる眼を持っている。彼らは人を魂でとらえ、仲間を核でとらえる。

 長い生を生きる妖狐は、人の魂と見かけとがときに大きく乖離していることを知識としては知っているが、それをたしかめることはできない。

 狐の眼がとらえる戸隠は齢九十を超えた老爺以外のなにものでもなく、彼がうつくしい少女の姿をしていることはわからない。

「そうなんだ……」

 もう驚いていいのか納得していいのかもよくわからない。

 ——いや、むしろ、そんなことどうでもいい。

 短い時間にあまりにもめまぐるしくいろいろなことが起こりすぎて、雪の容量キャパシティ超過オーバー寸前だった。

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