15
ああ、ぼくはここで死ぬのか。せっかく生きる希望を手にしたような気がしたところだったのに——。
奇妙な覚悟を決めて
「これはなんと、思いがけぬ功名」
気味の悪い哄笑を聞きながら、雪は薄目を開けた。衝撃のせいでぼやけた視界のなかで、
待て、と追えるはずもないのに立ち上がろうとして、異変に気づいた。自分の上にのしかかる生温かいなにかがある。
「
上半身を起こすと、膝の上に十和の身体が崩れ落ちてきた。雪は目をみひらく。
薄い背中に触れ、その身体を揺する。十和は声も上げない。
ふと、ぬるりとしたものに触れた。視線を落とし、目を見開く。
——てのひらを染める、朱。
喉も裂けんばかりに、絶叫した。
「十和ーッ!」
十和、十和、と幾度も呼びかけながら、雪は彼女の身体を仰向けに返した。
顔を覗き込み、大声で名を呼んで頬をはたいても、十和は目を開けない。目蓋はしっかりと閉じられたまま、顔色だけが徐々に蒼く白くなっていく。
「十和……」
このままではだめだ。こんなことをしていたってなんにもならない。百回、千回、名前を呼んだって、命をつなぎとめる役には立たない。
雪はよろよろと立ち上がり、どうにか十和を背にしょい込んだ。
十和を死なせてはならない。
ここではない世界を見せてくれると云った。一緒に生きてくれると云った。ぼくにやさしい約束をくれた十和を死なせてはならない。
雪はがむしゃらに走った。
首筋を艶やかな黒髪の冷ややかな感触が伝う。力なく垂れたままの腕に不吉なものを感じる。預けられた重みが少しずつ軽くなっていくような気がする。
——だめだ、だめだ、だめだ! 死んだらだめだよ、十和!
これまでに雪が天鳥舟を訪れたことはない。
だが、彼は何年もの歳月を
そのことに、いまはじめて感謝した。
「
「来鹿! 杠葉! だれでもいい! 早く!」
返事はなかった。
雪は遠慮なく奥へと進み、二階へ続く階段のあるホールへと足を踏み入れた。吹き抜けを見下ろす二階の回廊から声がかかったのは、雪がもういちど来鹿と杠葉の名を呼ぼうとした、そのときだった。
「いったいなにごとだ」
不機嫌そうに降り注いだ声はすぐに、切羽詰まった低い悲鳴に変わった。
「十和っ!」
雷鳴のような足音ともに、さきほどはちらりと見かけただけの男が階段を駆け下りてくる。
だれかに助けを求めるような来鹿の声に、杠葉が顔をのぞかせる。背後には
来鹿は雪の背中からぐったりとしたままの十和の身体を下ろした。床に膝をつき、彼女の頬をたたく。何度も名前を呼ぶその姿は、錯乱という言葉の似合う悲愴な雰囲気を漂わせていた。
「急いで! 二階へ!」
険しい表情の杠葉がその場から叫ぶ。その声に応えた来鹿は十和の身体を抱え上げると、二階の客室へと走り込んでいった。
「なにがあったの」
杠葉はシャツの袖をまくり上げながら、来鹿を追ってきた雪を睨むように見据えた。
「
「鵺だと」
やわらかそうな淡い金髪に蒼い瞳の少女が訝しげな声を上げた。こんなときだというのにうっかりすると目を奪われかねないほどの美貌だ。
「十和が鵺ごときにやられるとはいかなこと。こども、なにがあった」
やわらかく繊細な声に似合わない厳しい言葉に、雪はせわしなくまばたきを繰り返した。
「聞いておるのか! なにがあった!」
迫力のある怒鳴り声だった。雪は身を震わせて答える。
「ぼくを庇ったんだ」
「なんだと?」
今度は来鹿が声を荒らげる。
「庇ったってどういうことだ」
「ぼくは、昨夜もあの鵺を見たんだ。鵺は、その、ぼくに見られていたことに気づいていて、ぼくを、け、消そうとした。十和はぼくを庇って……」
来鹿が大きく舌打ちをする。正体不明の美少女も苛立ちを隠さずに雪を睨む。
雪はまるで身の置きどころがない。いっそ鵺に消されていればよかったのかも、とさえ思った。
「これは……ひどいわね」
十和の着衣を切り裂き、大きな傷のある背中に目を走らせた杠葉が顔をしかめた。
焦げて裂けた肉、傷口からのぞく骨、白い肌をまだらに染める朱赤。
急いた手つきで治療をはじめる彼女の身体越しに、十和の傷の様子がうかがえた。だが、とてもではないが直視できるものではない。雪は思わず顔を背けた。
「集中したいの。ひとりにしてくれない」
杠葉のひとことで、戸隠が動いた。雪と来鹿はまとめて廊下へ押し出されてしまう。助手にすらならない見学者など、医者にとっては邪魔なだけなのだろう。
「おまえ、何者だ」
いまさらながらガタガタと震え出した身体を支えていることができず、雪は廊下にしゃがみこんだ。すぐそばに来鹿と戸隠の足が見える。
雪は顔を上げて来鹿を見上げた。彼は厳しい表情でこちらを見下ろし、瞬きひとつしない。紅い瞳がギラギラと底光りし、いまにも殴りかかられそうだ。
「十和はおまえを庇ったと云ったな、おまえは何者なんだ?」
「ぼくは、雪。十和とは、昨日、知り合った」
「昨日?」
「ぼくは幽宮で商売してて、それで、声をかけられて十和と
なるほど、と声には出さなかったが、来鹿は納得したような表情を向けてくる。
「……昨夜はひとりじゃなかったんだな」
そこで来鹿は雪と向かい合うように、廊下の反対側の壁を背に座り込んだ。戸隠は相変わらず背筋を伸ばして、いましがた出てきたばかりの扉のそばに佇んでいる。
そういえば、と来鹿はふいになにかを思いだしたような声を上げた。
「おまえの友だち。助かったぞ。杠葉はいい腕をしている」
その言葉には、弓弦が助かったのは杠葉のおかげだという敬意と、いまその腕に十和の命がかかっているのだからいい医者でなくては困るのだという、追い詰められた感情が見え隠れした。
雪は、うん、とうなずいた。
「商売仲間か」
問いかけとも云えないような調子で来鹿は尋ねた。
「うん。そう、仲間」
かつては同じ男娼として、いまは美人局の相方として。だが、雪は詳しいことは云わなかった。来鹿も求めてはいないだろう。
雪は、そうか、杠葉ってあの人のことなんだね、と話を逸らした。
「どういう意味だ?」
「さっき思い出したんだ。前にちょっとだけ聞いたことがある。天鳥舟に住んでる女医は、むかし、天才外科医と呼ばれて、月面都市でもてはやされていたことがあるんだって」
だから十和も大丈夫だよね、と雪は云った。
「……どうだかな」
来鹿の返答は冴えない。
雪は恐怖を覚える。まるで屍体のようにぐったりとした身体や、白い肌を染める鮮やかすぎる朱い血を思い出す。いくら腕のよい医師がついているとはいえ、十和の命が失われてしまうのではないかと危惧するにじゅうぶんすぎる光景だった。
「助かるよ。あの医者が助けてくれる」
自分に云いきかせるような雪の言葉に来鹿の声が重なった。
「雪とかいったな、おまえ」
顔を上げた来鹿の表情はどこかぼんやりとしている。
「おまえは十和をよく知らないからそんなことが云えるんだ。あれだけのけがだ。肉がえぐられ、傷は骨まで達してる。出血もひどい。なのに、ここにはろくな医療機器がないときてる」
「ここは地球じゃない。杠葉の腕がいくらよくたって、
来鹿の云わんとすることはもちろん雪にも理解できる。だが、そうだよね、と受け入れることはできなかった。
「十和が死にたがってるとでも云うの?」
雪の叩きつけるような問いかけに、来鹿はしくじったと云わんばかりの顔で口をつぐんだ。
だがもう遅い。
「ねえ、来鹿! どういうこと?」
来鹿は泣き笑いのような表情を浮かべる。
「なんでもねえよ」
「なんでもなくないだろ!」
そんな顔してさ、と雪は云った。
「こどもだと思ってごまかすなよ!」
「静かにせんか。治療の邪魔だ」
それまでずっと黙っていた戸隠が、雪の興奮を抑えようと口をはさんだ。
完全無欠の美少女の唇が放つじじむさい言葉にはそれなりの迫力がある。雪は唇を噛んで黙り込んだ。
「死にたがってはいないが、積極的に生きたいとも思っていない。そういう意味だよ」
来鹿は低く静かな声で云った。
「あいつは自分を憎んでる。死ぬことができず、死んでるみたいに生きるしかできない自分を憎んでるんだ」
その声は強く、深い怒りをはらんでいた。
雪は思わず眉根を寄せる。
「死んでるみたいに、生きる……?」
来鹿は静かに首を横に振った。それ以上はなにを訊かれても答えない、という意思表示のつもりなのだろう。
苦いやるせなさに満ちた表情を見つめ続けていることに耐えきれず、雪は思わず視線をそらす。
目を遣った先には美しい戸隠の顔がある。しかし、彼もまた多くを語ることをよしとしてはいないようだ。
三人はそれきり押し黙ったまま、歩みの遅い時をやり過ごすこととなった。
冷えた床に座り込んで十和の治療が終わるのを待ちながら、雪はまたもや彼女と出会った昨夜のことを思い出していた。万華鏡の部屋を出てから、もう何度も反芻している。
真夜中を過ぎたころ、やわらかな寝心地に慣れないものがあったせいか、ふと目を覚ましてしまった。
背中に同じ寝台をわけあう十和の気配を感じ、年ごろの少年らしく身を竦ませた。誰とでも寝る商売をはじめてから感じることのなくなった、ひそかな昂揚が身体の芯を走り抜けていった。
起き上がって寝台の端に腰かけ、出会ったときと同じ黒衣のまま眠る陰陽師の背中を見つめた。闇色の長い髪を、音のない水の流れのようだと思った。この身の穢れを忘れさせてくれる、清らかな流れ。露わになっている耳朶に光を弾く金属片が見えた。装飾品にしては無骨なそれは、いまどき珍しい
眠りから醒めたばかりだというのに、やけに頭が冴えていた。深く、穏やかに眠れたからだろうか。こんなの、いつ以来だろう、とセツは思った。
寝台から降りて窓際に立ち、少し迷ってから
離れて眺める十和の寝顔はとても静かだった。閉じられている目蓋も唇も、滑らかな頬も形のよい眉もぴくりとも動かない。
人はこんなに静かに眠るものだっただろうか、と雪は思った。商売仲間たち数人と一緒に暮らしていたときも、滅多にある機会ではなかったが客と一夜を明かしたときも、他人の寝顔を眺めたことはある。
緩みきっただらしない顔、あるいは強張り悶えているような顔。寝言にいびき。人は眠っていても存外騒々しいものだ。まず、気配がうるさい。
こんなに静かなのは命なき死者、あるいは活動を停止した
雪の胸ににわかに不安が湧きあがった。その波は押し寄せては退き、そうかと思うとまた押し寄せてきては、彼を遠く沖へと連れ去ろうとした。
そうはさせまいとして、雪は十和の傍らに歩み寄った。彼女が生きていることを確かめれば、ぼくは安堵の岸辺に辿り着けるに違いない。そう考えたからだ。
間近から見つめるトワの顔は、向こう側が透けて見えないのがおかしなほどに澄んでいた。そっと耳を寄せると、微かな、本当に微かな寝息が聞こえてきた。
雪はほっと息を吐くと同時に床に座り込んでしまった。身体じゅうから力が抜けていくような気がして、自分で思っていたよりも気持ちが張りつめていたことに気づかされた。
そのまま寝台に背中を預けて寄りかかった。
十和の指先が寝台の端から覗いていた。雪は自分の手を見つめ、紙幣を受け取ったときに触れた冷たく、しなやかなその感触を思い出していた。
ああ、しんどいなあ、と素直に思った。
放っておかれてだれにもかえりみられないことも、身体を刻まれてメシのタネにされることも、見ず知らずの人に春を売ることも、だれかを強請って小金を巻き上げることにも、自分と似たような境遇にある者たちと互いを憐れみながら生きることも、全部全部仕方ないことだと諦めていた。だからこれまで、自分がつらい立場にいるなどとは考えたこともなかった。
どんなに苦しかろうとみじめだろうと、だれも助けちゃくれない。ここで生きていかなきゃいけない。
そんなふうに割り切っているはずだった。
だけどぼくはつらかった。苦しかった。
十和に会って、はじめてそんな自分に気がついた。貧困や搾取だけではない。辛苦をともにしてきたはずの仲間たちのなかにあってさえ、彼らとのあいだに決定的な断絶を抱える自身の孤独が厳しい境遇に拍車をかけている。
きついくせにどこかいたわるような言葉に甘え、勝手な怒りを爆発させて泣き喚いたけれど、十和は雪を軽蔑しなかった。それどころか、抱きしめてくれさえした。
雪のことなど、彼女はなにも知らないだろう。なのになぜか、すべてを理解し、許したうえで慈しんでくれているような、そんな気にさせられた。
彼女とともにあれば、ぼくはいまよりはもう少し穏やかな気持ちで生きていけるのではないか。ときどきは深い呼吸だってできるのではないか。
十和の、そばに、いられれば——。
そこまで考えて、雪ははっと我に返った。
一緒に? このぼくが十和と一緒に?
十和はぼくのことを、行きずりの男娼だとしか思っていない。いや、彼女は春を欲してさえいなかった。あの
袖すりあうも他生の縁とはよく云うが、云い換えればただそれだけでしかない。
それがそばにいたい? どの口が云うのだ?
ぼくの生きる場所はここしかない、この腐った春の街しかない。この幽宮しか。
セツは低く喉を鳴らして笑った。
笑いながら自分が泣いていることに気づいて、愕然とした。自分がまだ涙を流せるということに驚き、そしてなによりも泣き出してしまった自分自身の心のありように動揺した。
出会ってからまだ数時間しか経っていないのに、ぼくはこんなにも十和のそばにいたいと願っている。かなわない夢と自分に云い聞かせながら、そのことが悲しくて寂しくて、こんなにも涙を流すほどに。
揺らいだ心はいくら時間が経っても少しも落ち着いてくれなかった。
だから雪は逃げ出した。万華鏡から、十和のそばから逃げ出したのだった。
扉が開いて杠葉が顔を覗かせた。疲れきった、それでいてなにかから解放されたときのようなすがすがしい表情だった。
「入ってもいいわよ」
「十和は?」
喉が貼り合わされでもしたかのような、ひきつった声で来鹿が尋ねた。杠葉が小さくうなずいて答える。
「大丈夫。さっきいちど意識も戻ったし、記憶の混乱もない。しばらく痛みはあるだろうけど、もう心配はいらないわ」
来鹿と雪は同時に安堵の息をついた。
「あんたは大丈夫だったの?」
雪は膝を震わせながら立ち上がる。身体のバランスを崩したところに、杠葉が近寄ってくる。
「どこもけがしてない?」
「うん」
鵺の呪いは十和がすべて受け止めてくれた。そう告げると、杠葉はうなずき、雪と来鹿、それから戸隠を、十和の眠る部屋に招き入れてくれた。
腰あたりまで毛布をかけられた十和の身体は、寝台の上にうつぶせに横たえられていた。顔は横に向けられ、薄く開いた唇が浅い呼吸に震えている。
「裂傷が深くて、さらに辺縁部をひどく火傷している。手持ちの薬だけだと心もとないから、あたしはこれから
「十和の傷だが……なにかおかしなところはなかったか?」
「おかしなところって?」
器具を片づけながら杠葉が問い返す。
「血が止まらぬとか、肉がはがれてくるとか、骨が溶けてなくなっておるとか……」
ああ、となにかを思い返すような調子で杠葉はうなずいた。
「血は止まりにくかったわね。おかげで血管を全部縫合しなきゃならなかった」
「そうか」
「翁が気にしてるのは呪のことでしょ。悪いけどあたしにはそのへんのことはさっぱりなのよ。自分でどうにかしてもらえるかしら?」
鵺は
「戸隠翁……」
来鹿の心配げな声に、戸隠は繊手を振って応じた。
「すぐにどうこうという心配は無用だ。杠葉の腕に感謝するといい。彼女がいなければ、十和の命はなかった」
来鹿と雪の感謝の込められた視線を受けた杠葉は、それ以上彼らに言葉を求めるでもなく、じゃあ行ってくるわね、と軽い調子で云うと部屋を出ていった。
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