14

十和トワ……」

 琥珀の双眸をもつ少年が、昨夜の客の名を呼んで立ち竦んだ。

 思いがけない再会に驚いた十和は、しかし、すぐに現実に立ち戻る。セツ、と強い口調で少年に問いかける。

「おまえの知り合いか」

 セツはその声に慌てて駆け寄ると、弓弦ユヅル、弓弦、と友人の名を繰り返し呼んだ。金髪の少年は目蓋すら動かすことができない。

「あんた拝み屋だろ。助ける方法はないのかよッ?」

 十和は奥歯を食いしばる。

「……残念だが」

 声にならない悲鳴を上げて、セツが弓弦の身体にしがみついた。

「なんで? なんでだよ? 拝み屋なんだろ? すごい術が使えるんだろ?」

 問いかけは縋りつくようで、十和は身を切られるような思いに駆られる。

「昨夜だって、ぼくのこと……」

「あいにくだが、陰陽術は奇跡とは違う」

 セツは思わず十和につかみかかる。

「そんな云い方ってない!」

「わたしを揺するな。血が止まらなくなる」

 少年は頬を震わせる。

「そうだ、おまえ、天鳥舟あまのとりふねという宿場を知っているな」

 セツがうなずくより早く、十和は云う。

「昨夜の大狼おおいぬコウがそこにいる。来鹿ライカという男を連れてくるように云いつけたが、彼には荒のことがわからない」

 行って、荒とともに来鹿を呼んでこい、と十和は続けた。

「弓弦を運んだほうが早いよ!」

「……わたしはこの場に残らなければならない」

「なんで!」

 術者の気配がまだ残っているうちに呪を見きわめたいからだ、と十和は答えた。

「そんなことより弓弦を……」

「そんなことではない。わたしの仕事だ」

 セツはそれ以上なにも云わず、悔しそうに唇を噛んだ。たった一晩近くにいただけだというのに、彼は十和の性質をよく理解しているようだ。

「だから早く、来鹿を……」

「俺になにか用か?」

 天鳥舟から呼んでこい、と十和が云い終わるより早く、救いの声が響いた。

「心配させるだけさせておいて、いい気なもんだ、必要になると呼びつけるとはな」

「だれだってみんな、そんなものよ」

 来鹿のうしろからは、派手な黄色の外套を着た杠葉ユズリハが姿を現す。落ち着いた歩調で歩み寄ってきたふたりは、血に染まった十和の髪と手を見て顔色を変えた。

「なにやってるんだ、おまえ! なんだその怪我は」

「わたしじゃない。この少年だ、名前は……」

 弓弦、とセツが答えた。

 杠葉が足早に近寄ってくる。傷口を押さえる十和の両手の隙間から、動揺のうかがえない指先で慎重に傷を探り、急いだほうがいいわね、とつぶやいた。

「あたしの部屋でならどうにかできるかもしれない」

 来鹿は十和からセツを引きはがす。

「来鹿、彼をすぐに天鳥舟に運んで。十和、呪で止血はできる?」

 杠葉の言葉に十和はひどく渋い顔をした。

「彼が生身ならば、できないことはないが……」

「弓弦は適合術フォーミングなんて受けてないよ! 早くして!」

 来鹿に両肩をつかまれ動きを抑えられたまま、セツが叫んだ。

「たしかか?」

 あくまでも慎重な姿勢を崩さない十和に焦れ、セツは金切り声を上げる。

「こいつもぼくと同じド底辺の生まれだってば! 見りゃわかるだろ!」

 見ただけでわかるものか、と十和は思ったが反論はしなかった。またつかみかかられてはたまらないと思ったからだ。

 懐から呪符を取り出し、唇のなかで回生の呪を唱えた。人の身体の成長を早め、一時的に治癒力を上げ、だが、ひいてはその肉体により早い衰えをもたらす。むやみやたらに使っていいような術ではない。

 弓弦の傷口に呪符を貼りつけながら、妖力ちからは抑えてある、と十和は云った。

「しばらくのあいだ出血を抑えられる程度だ。早く手当を」

「わかってるわ」

 杠葉が請け合い、来鹿は弓弦を抱えて走り出した。


 離れていくふたりの背中に心なしか安堵したような眼差しを向けていた十和だったが、彼らの姿が完全に見えなくなると、さてこの血に染まった両手をどうするべきか、と途方に暮れた。水の使いの力を借りるか、と呪を口にしかけたところで、十和、と呼ぶ声に気づいた。

「こっち」

 セツは短く云って、廃屋に残る水栓のありかを教えてくれる。必要ない、という言葉はどうにか思いとどまった。

 指先を凍らせるのではないかと思えるほど冷たい水で手を清め、人心地つく。礼を云おうと十和が顔を上げると、セツは顔を背けてその場を立ち去ろうとしていた。

「セツ」

 こどもの足がぴたりと止まる。

「友人が心配ではないのか」

 自分の言葉に十和は苦笑いをした。われながら素直でない。こんなことが云いたいのではない。おまえのことを気にかけていたのだと、そう云いたいのだ。

「心配だよ。でも、あの派手な女、医者だろ? ちゃんとした、さ」

 結弦と呼ばれた少年のひどい出血にも顔色ひとつ変えなかった、さきほどの杠葉を思い出す。

「……そうだな。聞いてはいなかったが、少なくとも心得はあるようだ」

 この時代、医師にはふたとおりある。体内インナー端末の埋め込みをはじめとするあらゆる身体強化に必要な施術を行い、生涯続く保守調整メンテナンスを請け負う医師と、病やけがの治療にあたる医師である。

 医師と呼ばれる者の大半がそうであるように、杠葉は治療行為を行わないのだと云った。自動人形オートモーティブである彼女は人間の感じる痛みに疎く、そもそも生体治療に向いていないのだろう。ただ、それは杠葉に限ったことではなかった。

 遺伝子レベルで徹底管理されて生まれてくるこの時代の人間には、重い病を得る者はあまり多くない。仮に大病を患った場合、また、命にかかわるような大きなけがを負った場合には、身体ごと交換——つまり、人工生命体アーティフィシャルに脳移植を行う——してしまうことが一般的であるため、治療行為はそう頻繁に行われるものではない。人々は身体を使い捨てることに、なんの抵抗もないのだ。

 例外的に治療を必要とする者たちのために、地球や月には高度な技術を持った医師がいまなお存在している。だが、それ以外の場所で語られる彼らはほとんど伝説的な存在で、C2のような古い準惑星ではまずお目にかかることができないと思われている。

 辺境の星に生きる生身の人間は、調整を行う医師に薬剤を処方してもらうか、あまり腕のよくない治療医に身をゆだねるしかない。いきおい、その寿命は驚くほど短くなるものだ。

「なら大丈夫じゃん。あいつ、ほんと運がいいね」

「そうだな」

 十和がうなずくと、セツは硬い表情のまま振り返った。そして柔らかい色の瞳でじっと十和を見つめる。

「……なんだ」

 真っ直ぐな眼差しに居心地が悪くなって問いかければ、少年は、別に、と自分自身をも誤魔化すような口調で答えた。

「弓弦のことはあんたたちに任せるよ。治療代はあいつが自分で払えると思うから、ぼくを探したりするなよ」

 そう云い捨てて背を向けたこどもを、十和は慌てて呼び止めた。

「セツ」

「なに」

 振り返ったセツは心底からうんざりしているように見えた。だが、十和は騙されなかった。

「おまえ、名はなんという?」

 え、とセツは目を見開いた。そして、すぐに華やかな笑顔を浮かべる。商売のために鍛えられた毒々しい笑みだ。

「セツ、だよ。そのまんま」

「本当の名を訊いているんだ。どんな字を書く?」

「……字なんて、べつに」

 そんなものないよ、ただのセツだよ、とこどもは云った。ご丁寧に肩まで竦めて、逃げ出そうとしているのがありありとわかる。

 十和は闇色の瞳を細く眇めた。

「おまえが生まれたとき、母親はおまえに祈りを与えたはずだ」

「祈り?」

「おまえの名を表す文字のことだ」

 なんで、そんなこと知ってるんだよ、とセツはふてくされたような声を出す。

「だいたいさ、そんなもの訊いてどうするの?」

 十和はしばし黙り込んだ。漆黒の髪が風に煽られ、ふわり舞い上がる。

 相手はこどもだ、と十和は思った。美人局つつもたせで荒稼ぎする可愛げのないところはあるが、それでもこどもだ。適当に云い包めてしまうこともできる。

 だが、そうしてしまえば、彼の守護人もりびとである妖狐との約束は果たせなくなるし、なにより彼自身を見捨てることになる。

 そうはしたくない、と十和は思った。

「昨夜、おまえはここを抜け出したくても抜けられないと云ったな。ここで生きていくしかないのだと。では、問おう。ここでないどこかで生きていきたいと、そう望んだことはあるか?」

 セツが両眼をいっぱいに見開いた。驚きのあまり、云うべきことをすべて忘れてしまったかのようだった。

 しばしのち、彼はようやく言葉を口にした。

「……あるよ。あるに決まってる」

 涙にふやける声を恥じているのか、セツは慌てて横を向いた。

 少年の動揺を誘っておきながら、十和は表情を崩さなかった。

「わたしのそばで暮らさないか、セツ」

「そばでって……?」

「おまえの眼は才能だ」

「眼?」

「鬼を視る眼。それがあれば寮長どもも文句はないだろう」

 寮長? 文句? とセツは立て続けに口にして首をかしげた。すでに涙腺は崩壊し、睫毛を濡らしているというのに食い下がってくるのは、さすがのしたたかさである。

「いまは説明してやる時間がない。ただ、おまえにとって悪い話ではないと思う。居心地がいいかどうかはわからないが、少なくとも、いまとは違う世界に生きることはできる」

 豊かにしてやる、とも、幸せにしてやる、とも、十和は云わなかった。云えなかった。目に見えぬ者どもとの戦いに明け暮れる日々は、けっして穏やかなものではないと身をもって知っているからだ。

 あふれる涙を必死になって拭っているセツに歩み寄った。こどもの手を掴み、顔を覗きこむ。

 琥珀と漆黒が交わるなり、セツは十和にしがみついてきた。差し延べられた腕にすがることに、もう迷いもためらいもないようだった。

「名は?」

 十和の問いに、セツは彼女の胸にじかに囁くように答える。

セツ

 とてもとっても寒い日に生まれたんだって、と云い足した小さな声は、やわらかなぬくもりに静かに溶ける。

「ここはいつもとても寒いけどね」

 照れたように続ける雪に、十和は微笑んだ。こどもは十和から離れることなく、ぼそぼそと言葉を連ねる。

「会いたかったんだ。そばにいたいって、そう云いたかった。だけど、ほんとにそんなこと云ったら莫迦にされそうで、ぼくにはここしか生きていくところがないって思ってたし……」

 逃げ出したのはぼくだからね、と雪は云った。

「二度と会えないって本気で思ってたんだよ。会えるわけない、でも、もしもまた会えたら、ううん、もしも、が百万回くらい重なってもういちど会えたら、そばにいたいって云ってみようって」

 たった一晩でそこまで懐かれているとは思わなかった、と十和は茶化すように云った。

「ぼくと同じものを視る人にはじめて会ったんだ」

 みんな口には出さないけど、ぼくのこと気味が悪いって思ってるんだよ、と雪は口元を歪めた。

「でも十和はそんなことなんでもない、たいしたことじゃないって顔してた。きっと心の底からそう思ってたんだよね」

 雪の感じていたであろう孤独は十和にも覚えのあるものだ。むしろありすぎるほどに。

「妖を視るだけの妖力など妖力のうちにも入らない」

 うん、と雪はうなずいた。

「そんな人、十和だけだよ」

「そんなことはない」

「そうだろうけど、ぼくが出会ったのは十和だけだ」

 十和は胸元にあるごわついた髪をそっとなでた。思っていたよりも優しい手つきになったのは、だれかを慰めることに慣れていないせいだ、と自分に言い聞かせる。

「そばにいたい。近くにいたいよ。連れてってよ、十和」

「……ただの思いつきに、そこまで喜ばれるとはな」

 十和の憮然とした声に、雪は笑った。

「十和は、なんていうか、その……素直じゃないんだね。だけど、すごくいい人だ」

「よせ」

 十和は渋い顔で雪を見下ろす。雪はそれに応じるように顔を上げ、ふわりと微笑んだ。琥珀の瞳が星のように輝いている。

 十和の胸に鋭い痛みが走る。

 よせ。やめろ。そんな目で見るな——。

 十和は長い髪を乱すようにかきあげ、同時に、つんざくような雪の悲鳴を聞いた。

「十和っ!」

 咄嗟に身をひるがえし、背中にこどもをかばう。

 目に映るのは、生絹すずしに身を包んだ鵺。さきほど紅銀あかのしろかねが追っていったはずの白鵺である。

「この小鬼の主は貴様かえ?」

 ザワザワと虫が這うような声で鵺が問う。

 十和は白鵺がその手に握りしめている烏に目を向けた。小さな身体はぐったりと力がなく、闇を含んだ紅い瞳を確かめることはできない。だが、紅銀であることはたしかだった。

 けっして妖力がないわけではないその小鬼を、この妖はいかにして捕らえたのか——……。

 十和が目に妖力を込めて見据えると、鵺は背筋の凍るような声で笑った。

「うっとうしい使魔つかいまよの」

 妖物ばけもののまとう気配が変わる。

 十和の身体が冷たくなった。強い。とてつもなく強い妖力だ。ただの鵺が、これほどまでに強い妖力を自然に身につけられるものだろうか。

 ふと、かたわらに蒼銀あおのしろかねの気配がした。

「トワさま」

「姿を見せるな、アオ」

 死に瀕する半身を救おうと飛び出したがる小鬼をどうにか異界にとどめ、十和は破邪の呪を唱えはじめる。

われのあとをつけるなど、小憎らしい真似をしおって。気に食わぬ。まったく気に食わぬの」

 云うが早いか、白鵺は紅銀の翼を引きむしった。布を引き裂くような悲鳴は紅銀のもの、小さく十和を呼ぶ悲痛な声は蒼銀のものだ。

 十和は、鵺がふたたび紅銀の翼に手をかけると同時に呪を放った。

 詠唱とともに十和の手を離れた雷電は、鵺の首筋を直撃する。もんどりうって倒れた妖は、たまらずに紅銀を放り出した。すかさず異界を渡った蒼銀が、まるでさらうようにして半身を幽世かくりよへと連れ去った。

 こちらが安堵の息をつくひまもなく、鵺は起き上がる。眦を吊り上げ、凄まじいまでの陰の気を吐きだした。

 雪がたまらずに口元を手で覆う。強すぎる妖気は、それだけで人の肉体に物理的な影響を及ぼすこともある。

「退がっていろ」

 十和は鋭い口調で云った。そして、すぐに退魔の呪を紡ぎはじめる。

「させるか」

 鵺は身体を翔ばした。十和に体当たりを試みたのだ。

 十和はすんでのところで飛び退いて、瓦礫の上にすっくと立つ。口のなかでは相変わらず呪を唱え、手は印を結んでいる。いかに妖力の強い陰陽師でも、妖を力ずくで異界へ翔ばすような術を発動させるには、形がなくてはならない。

 鵺はもはや悪鬼と化したかのような形相で十和を見た。鋭い爪を振りかざし、憎らしい術師めがけて飛びかかる。

 十和は身を翻し、着地と同時に呪を放った。

「冥府に還れ、妖物」

 十和の渾身の呪を、しかし、鵺はかろうじて避けた。清浄の光は、地面に身を転がした鵺の頬を掠め、その背後の瓦礫をいくつか異界へと送っただけにとどまった。

 白鵺はゆらりと立ち上がる。

 十和はすぐさま体勢を立て直し、同じ呪を唱えはじめた。

 立て続けに強い呪を浴びてはたまらない。妖は形勢不利と見たらしい。顔を顰め、防御の構えを取る。隙あらば退散するつもりでいるのだ。

 しかし、鵺はそこで思いもよらぬ獲物を見つけたらしい。口が大きく裂けるように開かれ、瞳孔のない双眸に喜色が浮かぶ。

「これはこれは……ちょうどよいところにおるではないか、いつぞやの見鬼けんき

 鵺の意図を察した十和は、雪のそばに走った。

「遅いわ!」

 白鵺の口から、嘲りの言葉とともに妖力の塊が放たれた。

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