13
「そんなにびっくりした?」
この部屋を使って、と
手にしていた鞄を寝台の上に置いたところで、さきほどの問いかけである。十和は慎重に杠葉を振り返り、ゆっくりとまばたきをする。
悪戯っぽく輝く翡翠の瞳がこちらをじっと見つめている。着ているシャツは明るい黄緑色で、外套を脱いでもあいかわらずけばけばしい。
「……あまりにも外見が違うので、驚いた」
「外見だけよ。脳は地球にいたときの戸隠のまま」
「わかっている」
でも、と十和は口ごもった。いつでもはっきりとものを云う——云いすぎる——彼女にしては珍しいことである。
「わたしは自分の目以外に頼るべきものがない。外見は……その、どうしても無視できない要素なんだ……だから」
杠葉はあきれたように、慰めるように息を吐き出した。
「翁も人が悪いわよね」
そんなことはない、と十和は力なく首を横に振った。杠葉は笑う。
「どんな姿を選ぼうとそれは翁の勝手だけど、あんたにそれを知らせなかったのは彼が悪いわ。若い子をあまりびっくりさせるものじゃないわよね」
「若い子って……」
「あたしに云わせればじゅうぶん若いわよ」
杠葉は肩をすくめ、そして付け加えた。
「あたしは翁の
「……彼の移植も杠葉が?」
ええ、そうよ、と杠葉はうなずいた。
「あたしは腕がいいのよ。失敗しないの。さっき話したでしょ?」
彼女は
そうだろうな、と十和は思った。
杠葉は一流の知識と技術とを与えられ、優れた医師として生きるために——そのためだけに——作り出された存在なのだ。逆の云い方をするならば、彼女はみずからの使命を果たすに邪魔なものは、最初から持ち合わせていないはずだ。たとえば、過度の同情、憐憫、慕情、行き過ぎたあらゆる感情。
自動人形は、その思考と感情を基礎プログラムに制御されている。細部にいたるまで人工的に製造された存在で、その思考も感情もAIが作り出している。喜怒哀楽を発するのはもちろんのこと、人の気持ちを想像し、思いやりを持ち、弱いものを助けることもするが、すべてにおいて、過ぎる、ということがない。
いかなるときも己を律し、他を尊重し、穏やかにふるまうことができる。たとえ自己の生存に危機が迫ろうとも、脅威を排除するための力は最小限にしか発揮されない。怒りを爆発させることも、なにかに依存することもなく、きわめて安定した情緒を持っている彼らは、まさに理想的な隣人である。
ほんの百年ほど前まで、こうした存在には人権が認められていなかった。複雑かつ高度な技術を学習することができ、コミュニケーション能力も高く、社会のいたるところで活躍している彼らだが、法的な人権が認められたのは、歴史的にみてきわめて最近のことである。
「こう見えても、あたし、戸隠翁より長く生きてるのよ」
主治医として患者である彼の感情を優先するけど、あんたの気持ちもわからなくはない、と杠葉はごくごく軽い調子で云った。それくらいたくさんのものを見てきたの。
十和は感謝の意を込めてわずかにうなずいた。どう返事をしていいものか、よくわからなかったのだ。
戸隠のことももちろん驚いたが、目の前にいる感情豊かな女性が自動人形であることがどうにも信じがたかった。
「翁、云ってたわよ」
「……なにを?」
「以前の知り合いにまた会うことになるとは思ってなかったって」
それは、と十和は眉根を寄せた。
「あんたを傷つけたくなかったっていうことよ」
杠葉の声は澄んでいるのに温かみがある。それは本人の懐こい性格のせいなのか、それとも単にそう聞こえるだけなのかはよくわからない。ただ、ひたすら驚いてすっかり硬くなっていた十和の心をほぐすのにはじゅうぶんな助けとなった。
「翁はもう、陰陽の術を使うことはないのだな……」
十和がぽつりともらした声は本人が思っていたよりもずっと頼りない響きを持っていた。杠葉は翡翠の瞳をかすかに撓めはしたものの、なにも答えない。
陰陽師とは、生身の人間にしか務まらない職業である。
任務遂行の折には必ず護衛を伴わなければならないほど脆弱な身でありながら、だれにでも見えるわけではない敵と戦わなければならない陰陽師ってのは、いろいろ大変すぎるよな、とは、かつて来鹿に云われたことのある言葉だが、十和には、そんなものか、としか思えない。
身に宿る異能もその身の脆さも彼女にとってはあたりまえのことで、そしてそれは、師である戸隠にとってもそうなのだと思い込んでいた。いまさっきまで。
「それが彼の選択なのよ」
杠葉の言葉に十和はうなずく。
だれの選択も人生も否定する気はない。それが自分と相容れないものであっても、かつての恩人のそれであっても。
十和がそう口にすると、それなら、と杠葉は深い笑みを見せた。
「落ち着いてからでかまわないから、そのことを翁にも伝えてあげてね」
十和は一度は緩ませた眉根をまたかすかに寄せた。
「それは……」
「あんたが気持ちを伝えれば、翁はきっと自分の選択の理由を話すと思うの」
「……そんなことは別に」
「知りたくない?」
眉を上げた杠葉の表情には、うっすらとだがとがめるような色がにじんでいる。それがなぜなのか十和にはわからず、曖昧に首を振った。
「知りたくないわけではないが、知る意味があるとは思えない。知ったところで翁の人生だ。ましてや、もとに戻れるわけでもない」
「でも、共有できるものができるでしょう? 顔を合わせて話をして時間や空間を共有するのは大事なことよ。そこにはそのときにしかない感情があるから。生きることの孤独を忘れさせてくれるのは、だれかと共有した感情だけよ。あたしはそれが大事だと思うの」
杠葉の言うことはよく理解できなかった。答えられないままでいる十和をその場に残し、彼女は部屋を出ていった。音を立てて閉まった扉からふたたび杠葉が姿を見せ、もう少しなにかを話してくれないかと期待したが、それは無駄に終わった。
十和は寝台の上に腰を下ろした。隣に置いてあった鞄がバランスを崩し、膝の上に倒れてくる。
陰陽術とは、魑魅魍魎と呼び習わすところの未知の——あくまでも現在の人類にとって——生命体に対抗することのできる、数多の手段のひとつである。地球、極東の島国を
たとえば、
彼らはみな孤独だ。任務のために多くのものを犠牲にしている。好きな地に住むことも、自由な恋愛も許されていないばかりか、生きるためには当然の身体保全をはかることもできない。地球以外の星では長く命を保つこともかなわないにもかかわらず、それでも任務のためならば、どれほど過酷な辺境の惑星へでも臆することなく出かけていく。地球外の支部に駐留することを求められても決して拒むことはない。
それでいてその生き方を理解されることは少ない。
それでも彼らは必要とされている。
部屋の空気を入れ替えたい、と十和は寝台から窓際に歩み寄った。簡単な鍵を外し、雪まじりの冷気に頬をさらす。
「孤独か……」
十和は思わずつぶやいた。
杠葉は孤独は忘れられると云った。そのために翁と話をしろ、と。
だが、はたしてそんなことを戸隠が望んでいるのか、十和にはわからなかった。人間としてはじゅうぶんに長い人生のほとんどを陰陽師として他者の理解を拒んで生きてきた男が、いまさらだれかに——しかも弟子である十和に——胸襟を開くとは思いがたい。杠葉が思うよりも、戸隠も十和もずっとずっと孤独に慣れている。そうでなければこの仕事は務まらない。
ああ、でも、と十和はふと思い出した。いつだったか、そう、たしか、わたしが唯を失くしたときだったか、翁はこんなことを云っていた。
——忘れなくていい。忘れようとしなくても、人はいつか思い出さなくなるものだ。
あのとき、翁はもしかしたら自分のことを云っていたのかもしれない。忘れようと思わなくとも、忘れたくなくとも、思い出さなくなってしまう自分のことを。彼にも忘れたくなくて、忘れてしまいそうで、でも本当は思い出したくないだれかがいたのかもしれない。
「……
三年前、地球で行われた妖狩りの折、十和はこれまでの人生でもっとも親しくしていた男を亡くした。恋人だと周囲には思われていたし相手もそう認識していたようだが、十和にしてみれば、彼は恋人であり、兄弟でもあり、同胞でもある、たったひとりのたいせつな存在だった。
その彼の名が唯。
六歳になる前に陰陽寮に引き取られた十和は、その当時すでに、人の身にはあまるほどに強い妖力を顕していた。織りなす呪陣は精緻で、繰り出される術は強力だった。妖の流れを汲むのではないか、とひそかに囁かれたほどである。
たぐいまれな妖力に恵まれた陰陽師は、しかし、壮絶なほどに孤独だった。
血を分けた産みの両親にさえおそれられ、いわば同類であるはずの陰陽師たちも近寄りたがらなかった。指南役となるべき年輩者でさえ、それは同じだった。いずれ己を凌ぐ、いや、そのときでさえも自身を凌駕する妖力を持つ者に、おいそれと指導など与えられなかったのだろう。
陰陽寮は厳しい実力社会である。
年齢も経験も、圧倒的な妖力の前にはひれ伏すしかない。どれほど幼くとも、無知であろうとも、魑魅魍魎とあいまみえるに、妖力よりも強い武器はない。
十和は生まれながらにしてだれよりも鋭い刃を持ち、それがために孤独だった。
憧憬と畏怖のなかばに立たされ、さらに保身も加わって身動きのとれなくなっていた者ばかりの陰陽寮にあって、幼い彼女に寄り添うことを決めたのはたったふたりだけだった。
ひとりは、十和の師となってくれた戸隠。
もうひとりが、彼女をおそれることなく包み込もうとしてくれた唯である。
みなが十和をおそれた。それはおそらく戸隠も例外ではなかった。聞かされたことはない。けれど、弟子として長くそばにいればわかることもある。
だが、唯は違った。彼だけは十和をおそれなかった。
唯もまた妖力の強い術師のひとりだった。十和の孤独を理解することができるほどに、あるいは彼女の心に踏み込むことができるほどに。
それでも十和は孤独を忘れたことはなかった。唯とわけあうことはできても、己の影のようにつねにそばにあった孤独を忘れることはできなかった。
もしも唯があんなむごい死に方さえしなければ、杠葉の云うようにいつかは孤独を忘れることができたのだろうか——……。
そこまで考え、十和は強く首を横に振った。
もしも、などということは考えるだけ無駄なのだ。過去は、どれだけ速く駆けたところで追いつくことはかなわず、どれだけの強い妖力をもってしても変えることはできない。
——そういう、ものなのだ。
足元が覚束なくなるような心細さを覚え、そっと自分の身体を抱きしめる。いつのまにかすっかり冷え切っていることに気づき、窓を閉めた。
硝子越しに見えるは
たとえC2が役割を終えかけた辺境のだとしても、それなりの人口を抱えたこの都市の歓楽街は相応に賑やかである。ただ、その華やかさはごく一部の地域のものだ、というだけなことである。
灰色の濃淡でできたような街並みは通りを一本越えるだけで、とたんにその様相を変える。
その不均衡な光景に、十和は昨夜のセツを思い出さずにはいられなかった。
あの少年は、今夜もこの街のどこかで自分を売っているのだろうか。寂しさに惑う心を隠し、ふてぶてしく笑っているのだろうか。またいつかどこかで、会うことがあるだろうか。
目蓋を伏せ、そのまま窓から離れようとしたそのときだ。
「トワさま」
「どうした。アオになにかあったか」
小鬼たちの絆は強い。十和の指令があればまだしも、半身から離れてひとり現れることは珍しい。ましてやその片割れが深傷を負っているとなればなおさらである。
「……あの鵺です」
「あの?」
「昨夜現れ、アオを傷つけたあいつがまた近くにいます」
なんだと、と十和は云った。外套を掴み、同時に駆け出す勢いで部屋をあとにする。
「案内せよ! アカ!」
「はい、トワさま!」
背後をついてきていた小鬼が烏に姿を変え黒い風となって、肩越しに十和を追い抜いていった。
天鳥舟を出て走った。風の力も借り、人ならざる速さで紅銀を追った。
だが——。
遅かったか。
十和は目の前に広がる呪陣を茫然と見つめる。五芒星の一角であることはあきらかで、過去視の術を使うまでもなかった。
術者の姿はすでにない。先を飛んだ小鬼が追いつけたかどうかはわからない。
「トワさま」
その紅銀の半身、
「どうした?」
昨夜の深傷をじゅうぶんに癒すよう云ったはずなのだが。
「おまえはまだ身が……」
「鵺を見ました。昨夜と同じ白鵺です」
「ここで?」
「はい」
「間違いないのだな」
己に傷を負わせた者の姿を見間違えるはずがない。小鬼はちいさな頭をこくりと揺らす。
「アカが追っているのか」
「はい」
十和はちいさなため息をついた。
「深追いはするなと伝えなさい。無理はするなと」
十和の言葉に、蒼銀はふたたびうなずいて姿を消した。
小鬼を見送ってから、十和は呪陣を検める。うまくすれば中心が絞れるかもしれない、と彼女は考えた。五芒星の中心とリュニヴェールの
十和が術を紡ぎ、呪の見極めを急ごうとしたその刹那、錯乱した叫び声が耳に入った。
咄嗟に
「
呼ばれて顕れた獣は、まだなかば幽世にある身を景色に溶かしながら、声の聞こえたほうへと走り出した。
十和もすぐにそのあとに続く。
黒髪を風になびかせ、外套の裾を翻し、辿り着いた先にはこどもがひとり倒れていた。
「おい」
急ぎ駆け寄り、小柄な身体を膝の上に抱き上げる。痩せて骨張った手がみずからの肩口を押さえていた。だが、その掌の下から鮮血がつぎからつぎへとあふれだしてくる。
「しっかりしろ!」
十和は叫んだ。
こどもは男の子だった。その顔色は蒼白である。
よく見ると、傷はひとつではないようだった。長く伸ばされた稲穂のごとき金髪の先からも血が滴っているところからすると、頭部にも裂傷があるのかもしれない。
十和は少年の身体を地面に横たえる。傷口を探り、手を添えるも、流れ出すぬくもりをたやすく止めることはできそうになかった。
「天鳥舟へ走れ。来鹿がいる。呼んでこい」
荒はうなり声とともに景色に溶けた。
来鹿は荒の姿を見ることはできない。だが、彼は陰陽師のことをよく知っている。おまけにとても耳がよい。急に飛び出した十和を不審に思い、追いかけてきているかもしれない。そうではなかったとしても、不穏なものを感じてはいるだろう。大狼の立てる不自然な物音に気づけば、こちらの窮状を察してくれるに違いない。
だが、間に合うかどうか。
十和はだんだん弱まっていく拍動に舌打ちをした。指先に触れている脈が、いまにも途絶えてしまいそうだ。
できることなら呪を使わずに、と思っていたが、このままでは——……。
「
背後から響いた声に十和は振り返り、闇色の瞳をみひらいた。
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