12

 工場をあとにした三人は、最初に顔を合わせた皓宮ひかりのみや駅から幽宮かすかのみやへ向かう各駅停車ローカルに乗り込んだ。長く待つことなく列車に乗り込めたのは幸運ラッキーだ、と八雲は云った。

 幽宮へ来たときと同様列車は空いていた。苦労することなく座席を確保するなり、来鹿は口を開いた。

「正直、どう思った?」

「どう、とは?」

 雑な問いかけに八雲が問いで返す。

「あの工場と工場長のおっさんのことだよ」

 護衛師ふたりの視線を受けて、十和は、問いかけられているのが自分であることにようやく気づいた。

「どうって」

「隠しごとには敏いんじゃなかったのかよ」

「うさんくさくて鼻が曲がりそうでしたね」

「工場そのものもな」

 来鹿が鼻の頭にしわを寄せながら云う。

「あの工場は、見た目よりもずっと入り組んでいる。たとえば、管理棟で案内された動力室。最下階だと云われたが、どうもあの階下にも部屋がありそうだった。地下だっていうのに、妙に足音が響いていたからな。なのに、そこへ通じると思われる階段も昇降機エレベータも見当たらなかった」

 来鹿の耳は非常に鋭い。必要があれば、一キロ以上離れた先で交わされる囁きを聞き取ることもできる。

「隠し部屋、というわけですか」

「まあ、あるだろうな」

 そこへ案内されなかったことも含め、とくに不思議はない、と十和は云った。

「なぜです? さわりを解決してくれと頼んできたのは自分たちじゃないですか。なのに隠しごとですか?」

妖物ばけものだけを退治してほしいんだろう。そうおかしなことじゃない。工場長がみずから出張ってきたのも、なにを明らかにしてなにを隠すか、彼ならばそれなりに適切な判断が可能だからだろう」

「それなりに? むしろ、彼にしかその判断はできないのでは?」

「それはわからない。リュニヴェール重工は巨大な複合企業体コングロマリットだ。宇宙の巨人と呼ぶ者もある。一準惑星の古い工場を預かるだけの磐城の立場が、それほど重要なものかどうかはわからない」

「あのおっさんは、秘密の番人ですらないってか?」

 ずいぶん偉そうにしてたくせに、と来鹿が云う。十和は思わず笑ってしまった。

「はじめはわたしもそう思った。彼個人に対する感情、つまり、怨恨や嫉妬が障の原因ではないかとさえ考えた」

 だからあの妙な質問か、と来鹿は納得がいったような声を上げる。

「おっさんの経歴がどうこうとか、なんの意味があるのかと思ったぜ。どうでもいいだろうってな」

「結果的には無意味だった。ただ、無意味だった、ということがわかっただけでもよかったのかもしれない」

「なぜ、磐城氏が標的ではないと思ったんです?」

 なにかを考え込みながらだからだろうか、目を伏せたまま八雲が尋ねた。

「規模が大きすぎる」

「規模?」

「五芒星の規模だ」

 構内図に描いてやったのをあんたも見たよな、と来鹿が云った。体内インナー端末を持たない八雲のために、遺体発見現場をたどりながら携帯端末タブレットの画面に描いてやったのは他ならぬ来鹿である。わからないなどと云わせる気はないようだ。

 十和は無表情で先を続ける。

「五芒星は工場の敷地ほぼ全域を覆うように描かれていた。入口にしろ出口にしろ、妖どもがあそこを通るとなれば、相当な数になる。それこそ、百鬼夜行だ」

「人の遺体で呪陣を描くなんて……」

「殺された者たちは、生きながら身体を裂かれた。苦しみや痛み、悲しみ、怒り、あらゆる負の感情に押し流されるようにして亡くなった。そういう遺体には強い思いが残る。だれかを、あるいはなにかを呪いたいと思う者にとっては、これ以上ない呪具になるんだよ」

「人の死を道具に使おうなんざ、妖物ばけものにも劣る所業だな」

 来鹿が吐き捨てるように云うと、十和は薄く笑う。

「云っただろ。人よりおそろしいものなどない。その云い方では妖物が気の毒だ」

「おまえはどっちの味方なんだよ、この拝み屋が」

「わたしはだれの味方でもない」

 十和は思う。

 わたしは人を守りたいと思ったことは一度もない。あやかしを祓いたいと思ったこともない。むろん、その逆も——人に害をなしたいと思ったことも、妖を大切に思ったことも——ない。

 陰陽師として生きることを望んだことはない。

 身には そなわる妖力のあまりの強大さゆえ、ほかで生きることができないだけだ。

 だが、そのことを別段不自由に思ったことはなかった。

 ——あの、ときまでは。

「あの五芒星を描いた術者がいる、と?」

 八雲がおそるおそるといった調子で尋ねる。

 十和は気を取り直し、ああ、と答えた。

「間違いない」

「被害者たちを殺したのも、その術者ということですか?」

「おそらくな」

「あんなところに五芒星なんか描いて、妖どもをわんさか呼び出して、そいつはいったいなにがしたいんだ?」

 来鹿の問いに、十和は、わからん、と短く答えた。

「だが、意図はわかるような気もする」

「意図?」

「昨夜、幽宮であれと同じものを見た」

「幽宮?」

 聞いた言葉を繰り返す八雲の声がかすかに強張った。それに気づいた来鹿が紅い目を眇める。十和は言葉をつないだ。

「同じ時期に同じ五芒星。とても偶然とは思えない」

 五芒星の使い方はいろいろだ、と十和は云った。

「今回の場合は門だな。現世うつしよ幽世かくりよを結ぶ門。妖を召喚する入口と帰還させるための出口といったところだろう」

 言葉の続きを十和は声には出さずに考える。

 おそらく入口は幽宮。あそこから召喚した妖を、出口である皓宮ひかりのみやから幽世へ帰す。幽宮の五芒星の大きさや弦月げんげつの言葉から考えるに、召喚される妖は百鬼夜行をなすことになるだろう。

 問題は、ふたつの五芒星の大きさの違い。

 そこに術者の狙いがある。

「偶然じゃないならなんだ、十和。わかるように説明しろよ」

 来鹿がなじるように問う。妖を見ることはおろか感じることもできない彼は、この手の話が苦手で、自分で考えることができない。陰陽師の護衛任務についてもう長いというのに、慣れるということはないらしい。

「あの世とこの世をつなぐ門には入口と出口がある」

「入口と出口」

 そうだ、と十和はうなずいた。

「どこかで妖を呼んだならば、どこかから帰さなくてはならない。そうでなければ、この世に妖物どもがあふれかえって、ちょっとした騒ぎになるだろう」

「ちょっとした?」

「ほとんどの者にはまるで影響のない話だ」

 だがまあ、本来こちらにいるべきでない者たちにずっと居座っていられてもいろいろと面倒なことになるからな、早めにお帰りいただくに越したことはない、と十和は肩をすくめる。

「ざっと見るに、工場の五芒星は出口、妖どもの帰る門だ。すると、対になる幽宮のそれは入口。術者は幽宮で魑魅魍魎を呼び、工場から幽世へ帰すつもりなんだろう」

「帰すって、そんな簡単にいくのかよ?」

「そのための呪いだ。術者はごていねいに人血で呪陣を描いてくださった。いかな高位の妖でも、人の血にこめられた呪にはそう容易には逆らえない」

「つまり?」

「呼ばれた妖物は、まっしぐらに工場をめざすことになる。想像しただけで厄介なことになる」

「なぜです?」

 引き起こされる事態の凄惨さを想像したのか、八雲は青い顔で尋ねた。

「昨夜、幽宮で見た五芒星は、さきほどのものよりも数倍は大きなものだ」

 それがどうした、と云いたげなふたりの護衛師に、陰陽師は講釈を続ける。

「大きな門から呼び出された妖のなかには、小さな門を通れない者もいる」

 来鹿と八雲はほとんど同時に目を見開いた。云わんとするところがようやく伝わったらしい。

「それだけではない。妖どもの妖力が強かったり、あるいは大きなひずみを持っていたりすると、生半可な呪陣ではそれに耐えられず壊れてしまうこともある。結果、彼らは幽世に戻ることができなくなる」

「この世に取り残される、ということですか」

 そうだ、と十和は答えた。

「でもおまえ、妖はそれだけでは害をなさないって」

「強い妖力や大きなひずみを持つ妖物は、そこにいるだけで大きな障をもたらすものだ。害意の有無は関係がない。彼らは幽世のいきもの。人と共存できるような存在ではない」

「そうなると、工場は……」

「工場だけではない。皓宮、いや、このβ市そのものが、人の住める世界ではなくなるだろうな」

 来鹿と八雲は言葉をなくした。十和も視線を落とし、しばし口をつぐむ。

「どうにか、ならないのか」

「どうにか、って?」

「そのなんだ、門が壊れないようにするとか、そもそも百鬼夜行を防ぐとか、そういう……」

「人血で描かれた呪陣をさらに強化することは、いくらわたしでもむずかしい」

「じゃあ、妖物どもを呼び出さないようにするのは」

 可能性があるとすればそれしかないなんだが、と十和は険しい顔をした。

「そう簡単ではない」

「なんでだ?」

「昨夜、幽宮で五芒星の一角を見つけたのは、ほんの偶然だ。強い念のこもった呪陣だった」

 ああ、と来鹿はうなずく。

「おまえの迷子癖もたまには役に立つってことだよな」

 十和は来鹿の軽口を無視して考える。

 ——方法がなくはない。ただ、時間との勝負になるだろう。間に合うかどうかは、五分の賭。

 陰陽師として桁外れの妖力を持つ十和も、決して万能というわけではない。その目的や正確な大きさもしかとはわからず、術者の素性すらも定かではない呪いを無効化するには、それなりの手間をかけなくてはならない。

「少なくとも皓宮、工場の呪陣は完成している。幽宮の五芒星がどの程度まで組みあがっているのか、調べてみないことにはなんとも云いようがない」

「打つ手がない、ということもあるんですか?」

 八雲が十和の様子をうかがうような目つきでそう尋ねた。

「ある。でも、いまは本当にどちらともわからない」

「そいつはまずいな」

 来鹿はどこか挑戦的な口調で云った。

「陰陽寮、当代随一の実力者がそんな弱気でどうするよ」

「弱気とか強気とかそういう問題じゃない」

「わからねえんだろ? そんなもん、ここでうだうだ云ってたってなんにもならねえ。それならいますぐ行ってみようぜ、幽宮まで」

 もしかしたら来鹿は、いま、腹を立てているのかもしれない、と十和は思った。

 もうずいぶんと長いつきあいになる彼は、昔なじみの強さも弱さも知り尽くしている。

 ——おまえはいつだって、ひとりきりでいるつもりなんだな。

 唯をなくした三年前、来鹿に云われた言葉だ。

 あのときからなにも変わっていないじゃないか、と、彼はそう云いたいのかもしれない。

 十和の云う、打つ手がないかもしれない、には、自分ひとりでは、という意味が多分に含まれている。

 それは、いまに限ったことではない。

 いつ、どんなときでも同じだった。

 幼いころに親元を離れ、陰陽師として早くから己で立てと強いられてきたことを思えば無理もないのかもしれないが、周囲の者からすれば寂しい気持ちにさせられることもあるだろう。

 ことに、来鹿のように、十和の力になりたいことを隠そうとしない者ならばとくに——。

 なぜか胸を締めつけられるような思いがして、十和は、刹那、目蓋を伏せた。

 

 各駅停車ローカルが幽宮に到着した。

 黄昏色の空から雲を切り取ったような雪が舞い降りてくるのをぼんやりと眺めながら、十和は、来鹿と八雲について列車を降りる。

 もしかしたらわたしは、今回の仕事に不安を感じているのだろうか、と十和は思った。

 これまで、だれかとともにあることを心強く思ったことはなかったのに、いまはなぜか来鹿の姿がそばにあることを頼もしく感じている。

 唯といるときにさえ覚えたことのなかった安心感があることを、かえって不安に思う。

 ——なにか、いやな、予感がする。

「あなたが、十和?」

 まるで聞き覚えのない澄んだ声に、ふいに名を呼ばれた。

 十和ははじかれたように顔を上げて、あたりを見まわした。そんな彼女を庇うように来鹿が素早く動いた。

 そんな彼らをおもしろがるかのように、ふふ、と笑い声がする。

「お待ちしてたわ」

 そう云いながらひとりの女が姿を現した。

 すらりと背が高く、鼈甲縁の眼鏡をかけている。翡翠色の瞳と茄子紺色の短い髪、着ている外套はあざやかな黄色。まるで南国の鳥のように派手な身なりである。

「はじめまして。あたしは杠葉ユズリハ戸隠トガクシの宿場で世話になっている者よ。世話をしている者、とも云うかもしれないわね」

「世話をしている?」

 疑問を挟んだ来鹿に目をやった杠葉は短く、医者なのよ、と答える。

「あなたがたを迎えに行くように頼まれたの。きっとたどり着けないだろうからって」

 杠葉は、来鹿と八雲にも、順番に視線を放る。明るく輝く眼差しが自分に戻ってきたとき、十和は肩をすくめて、なるほどこういう意味か、とつぶやいた。

「なにが?」

「迎えをやるが驚くな、と翁がメッセージを」

 杠葉は声を立てて笑った。

「あたしのことそんなふうに云ったの? ひどいわあ」

「……あんた、何者だ?」

 来鹿が低い声で尋ねた。

「何者かって、わかるんじゃないの、あなたになら」

 あたしはなにも隠してないわよ、という杠葉の声には笑いが含まれている。

「あたしは医者よ。戸隠おう保守調整メンテナンスを請け負ってるの」

「調整?」

 なんだそれは、と来鹿はますます疑いを強めたようだ。人間である戸隠になんの調整がいるというのだ、と彼の顔に書いてある。だが、まだ戦闘態勢バトルモードには入っていない。体内端末が杠葉に対する警戒アラートを発していないせいだろう。彼女は手配者でも、戦闘型バトルタイプAIでも、未知の生命体でもないのに違いない。

 差し迫った危険は感じられないが、かといって安全とも云い切れないので、こうして言葉で問い詰めているのだ。

 杠葉はそんな来鹿と彼の陰に隠れるように立つ十和とをおもしろそうに眺めていたが、やがてなんの前触れもなく歩きだした。

 三人は寸の間、あっけにとられる。だが、ただ突っ立っているわけにもいかない。急いで目配せを交わし合ったあと、杠葉の背を追うことにした。

 幽宮の夜景は、色と毒に満ちている。明滅する電飾に彩られた入り組んだ路地は、一歩間違えれば二度と帰れなくなると云われる迷宮だ。

 そんな街を杠葉は迷いなく進んでいく。

「あの角を曲がれば、もうすぐよ」

 杠葉は表通りから折れる細い路地を指さした。十和たち三人は彼女の手に導かれるように、そちらへと目を向ける。

 翁が経営するという天鳥舟あまのとりふねはごくごく地味なたたずまいの建物だった。古くもなく新しくもないその宿場の前に立ち、十和は昨夜の自分がここへたどり着けなかった理由を理解する。こんなに特徴のない建物、見つけられるわけがない。ほかの宿場のようにけばけばしい電飾もなく、裏通りにささやかな構えがあるだけなのだ。

 玄関口をくぐると、ややひらけた受付フロントから狭い廊下へと案内される。しばらく進んだ先に現れた、私室プライベートと小さくプレートの貼られた部屋の扉を、杠葉がためらいなく開けた。途中、客らしき者の姿は見かけなかった。

「翁、連れてきたわよ」

 そうか、と奥から妙に甲高い声がする。

 杠葉が背後を振り返り、入って、と顎を上げた。

「おひさしぶりです、翁」

 十和が声をかけると、奥から、よう来たよう来た、とやはりこどものような声が云う。

「翁?」

 十和の記憶にある彼は齢九十を超える老爺である。それが——……。

「じいさんッ?」

 目を見開いた来鹿の叫び声が狭い廊下いっぱいに響き渡る。

 十和は声も出せない。冷静を身上とする陰陽師にも驚くことはある。

「ほっほっほ、いかがした?」

「いかがした、じゃねえよッ! なんなんだ、そのなりはッ?」

 十和と来鹿がよく知っている戸隠は、長い白髪をきつくまとめ、短い白髭をたくわえていた。それほど上背はなかったものの、長い戦いの日々に鍛えられ引き締まった体躯を持っており、相対する者にいわおのような印象を与える男だった。よわいを語る深いしわの浮かぶ顔は、ときに冷たく見えるほどにいつも厳しく、笑みを浮かべることなどめったになった。

 それがどうだろう。

 いま、ふたりの前に立つ人物は、いまどき骨董店でしかお目にかかれないような陶磁器人形ビスクドールのごとき姿をしている。

 透きとおるような白い肌、ごく淡い金色の髪に、同じ色の長い睫毛に縁どられた蒼い瞳。ほのかに血色を映す頬は内側から光り輝くようで、やわらかそうな唇は薔薇色に艶めいている。あいだからわずかにのぞく、象牙色の歯までもがかわいらしい。

「と、戸隠翁……」

「おう、よくきたのう、十和。息災にしておったか」

 まったく気がつかなかった。メッセージのやりとりはしていても、映像を送りあうようなことはしなかったから、まさかこんなことになっているとは思いもしなかった。

 度肝を抜かれた十和は、翁の名を呼ぶことしかできない。

「いったい、どうしちまったんだよ、じいさん」

 最初の驚きが去り、やや落ち着きを取り戻した来鹿は、呆れかえったような口調で問いかけた。

「なにがだ?」

「なにが、じゃねえよ。その身体。人工生命体アーティフィシャルだろ。脳移植したのか」

 おお、そうなのだそうなのだ、と美少女老爺は無邪気に答えた。

「どうだ? 美しかろ?」

 戸隠翁は非常に優れた陰陽師だった。生まれ持った強い妖力に加えて、強靭な肉体と慈悲深い精神を兼ね備えており、誠実な人柄ゆえに人望も厚かった。

 多くの若い陰陽師を育て上げる指導者としての手腕にも優れ、厳しくも温かな導きに救われた者は多い。また、ともすれば権力におもねりがちな上層部にあって、つねに清廉であることの重要さを、身をもって示し続けた。

 敵は少なくなかったが、それ以上に多くの者から慕われていた戸隠は、しかし、どれほど望まれても陰陽寮の長には就こうとしなかった。長い陰陽師人生の最後の任務のときまで前線に立ち続け、そのまま静かに寮を去っていった。

 みながその去就をたたえ、同時に惜しんだが、戸隠は、己の築き上げてきたものに恋々とする素振りはいっさいみせなかった。

 陰陽師にはいささかの衰えも、いや、その不安さえあってはならない、妖相手にわずかな隙も見せることは許されない、というのが彼の持論だったのだ。

 むろん、十和もその薫陶を受けたひとりである。

 それどころか、彼女にとっての戸隠はただの師ではない。幼いころに陰陽寮に引き取られた彼女にとっては親も同然の存在で、だからこそ、引退したあとも彼と交流することを、翁自身に許されていた。十和の知るよしもないことではあるが、現在の戸隠と連絡をとることのできる人物は非常に限られている。

「さっきからいかがした、十和?」

 人生におけるただひとりの師。父であり、兄でもあったその人の、あまりといえばあまりの変わりように、十和はまだついていくことができずにいる。

「なかなか気に入っておるのだがの」

「じいさん……」

 来鹿は紅い瞳をなかばまで閉じ、刺々しいため息をついた。

「人工生命体が悪いとは云わねえよ。けど、なんていうか、もう少し選べなかったのかよ、その身体。え?」

 科学的な技術によって作り上げた身体に脳を移植するのだ。どのような姿も選びたい放題、本人の意思ひとつとはいえ、あんまりといえばあんまりな選択かもしれない。いくらなんでも九十過ぎた爺さんが、そのロリ美少女はねえだろうよ、という言葉は来鹿の喉の奥に飲み込まれたようだった。

 戸隠は蒼い瞳を、じろり、と来鹿に向ける。

「わしの身体だぞ。なにを選ぼうとわしの好きであろ?」

 咲き初める薔薇の蕾もかくやといわんばかり、麗しのぷるぷる唇から放たれるじじいの言葉ってのは、もはや凶器だよな、と来鹿がつぶやく。

「わしのこの姿、誰かに迷惑をかけたかの?」

「いや、そりゃあ、まあ、うーん、そうなんだけどよ」

 十和の混乱も理解してやってくれよ、と来鹿は肩をすくめた。そして低声こごえで付け加える。

「あいつは、あんたのこと、身内みたいに思ってんだからよ」

 十和はいまだに混乱している。せわしなくまばたきを繰り返しながら翁を見つめ、彼が見返してくると慌てて目をそらす。なにかを云おうと喉を上下させ、意を決して唇を開くも、結局は無言のまま口を閉ざす。

 戸隠はわずかに肩を落とした。そして、場の混乱とは無縁そうな八雲と、混乱をおもしろがっているように見える杠葉に声をかける。

「上に部屋を用意してある。案内してやってくれるかの」

「はあい、いいわよ」

 まるでわざとのように間延びした杠葉の返事が、空々しく室内に響いて消えた。

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