09

 十和から答えをもらえないでいるあいだに、列車はβ《ベータ》市釣宮つりがねのみやに到着した。

 炎宮ほむらのみやへ向かう各駅停車ローカルに乗り換えるため、ふたりはここでいったん列車を降りる。表示灯に従って自動階段エスカレータを上へ上へと昇っていくあいだも、十和は沈黙を守り続ける。

 そうあっさりと返事をもらえるとは思っていない。来鹿は飄々とした態度を保ちつつ、しかし、なんとなく物珍しげにあたりを見回した。昨日も同じ経路をたどっている十和と違い、彼にとってははじめての場所なのだ。

 β市はC2の地表に築かれた、巨大なドーム都市である。大きなドームの中にはさらに九つのドームがある。これらのドームにはそれぞれ宮を冠した呼び名がつけられていた。

 中心にある釣宮は、カペラ港のあるδ《デルタ》市と地下高速鉄道で直接結ばれている交通の要所である。ただし、この地にはそれ以上の意味はない。交通局の職員は多数勤務しているものの、市民にしろ観光客にしろ、長くとどまることのない場所である。

 釣宮の真北にあるのが陽宮ひのみやである。数こそ少ないながらも、C2を中心に活動する星間企業の本社や支社、複合企業体コングロマリットの支部などが集まっている。

 その西側にある炎宮はβ市の政治的中枢で、市庁舎をはじめとする官公庁が集中している。

 陽宮の東隣、皓宮ひかりのみやはリュニヴェールをはじめとする大企業の工場や生産本部が立ち並ぶ、工業地区である。

 釣宮の真西から南にかけて、朱宮あけのみや玄宮くろのみや陰宮かげのみやと続く一帯は住宅地である。炎宮に近い朱宮には政治家や企業役員、法曹家、学者などが居を構え、高級住宅街の雰囲気をいまも保っている。そこから南へ向かうにつれ住民の経済状況は悪化していく。陰宮には犯罪の多発する貧困地区が複数ある。

 釣宮の真東、蒼宮あおのみやは、多くの百貨店が立ち並び飲食店が軒を連ねる商業地区である。観光客が目当てとする外部ドーム見学ツアーの出発拠点にもなっており、非常に賑やかな経済と観光の中心地である。

 蒼宮の南側は十和と来鹿の既知が暮らしている幽宮かすかのみや、昨夜、彼女がひとり訪れた場所である。ここもまた商業地区ではあるが、どちらかというと歓楽街に近く、健全な優良店とそうでない店とが混沌として存在している。

「もっと前時代的なのを想像してたんだけどな」

 自分の声に思っていたよりもはっきりと落胆の色がついていることに気づき、来鹿は思わず苦笑する。この古い準惑星にいったいなにを期待していたのか。

「じゅうぶん時代がかっているだろう」

 この自動階段を見てみろ、と十和は云う。

「空間効率のことなんか、なにも考えていなかった時代の構造そのものだ」

 都市空間を地下に築くことが常識となってから、建築技術はひたすらに空間を効率的に活用することだけを重視し続けてきた。天空とは異なり、地下には限界がある。重力の制御を効率的に行うという観点からも、いたずらに広い空間を作ることは歓迎されていない。

「云われてみればそうか。地球を見てなかったら、俺にも物珍しく思えていたのかもしれないな」

 C2は古くに開発された地域である。人類原種がまだ、地球という星に特別な価値を置いていたころの名残が、そこかしこにうかがわれる。

「おかげでわたしにはなじみやすいよ」

 地球で生まれ育った十和はそう云って笑いながら、目的地である炎宮へ向かう環状線ホームを指し示す。

「次はあれに乗る。ちょっと先に行っててくれ。すぐに追いつく」

「おまえは?」

「翁に連絡を入れてくる。すぐに戻る」

 そんなのべつに環状線に乗り込んでからだってできるだろ、と云いかけた来鹿は、十和の硬い表情に気づいてすぐに口をつぐんだ。静かで穏やかな声音とは裏腹に、彼女はひどく動揺しているようだった。

 来鹿は紅い瞳を細く眇めて気難しい拝み屋をじっと見据える。十和の氷のような面差しは聞こえもしない軋みを感じさせるほどの緊張を孕んでいた。

「わかった。席、取っておいてやるよ」

 ほんのわずかな時間でいいからひとりになりたい、という意を汲んだ来鹿はそう答えざるをえなかった。ますます扱いづらくなりやがって、という内心は吐露せずに堪えておく。

 十和についと背を向けられた来鹿は、あえて彼女を見送ることなくホームを目指した。

 さきほどから、翁、翁、と十和が呼ぶ男は退役した陰陽師である。強い妖力ちからを持つ才能豊かな術師であり、十和の師でもあったが、齢九十を超えた一昨年ごろ、引退を申し出て認められた。どのような縁があったものか、いまは、幽宮で宿場を経営しながら悠々自適の隠居生活を送っているという。

 楽隠居ってのは羨ましいもんだな、と来鹿は列車に乗り込みながらそんなことを考えた。なんでも経営といいつつ、棟ごと買い取った宿場を趣味に任せて改築して自らもそこに暮らし、たまに客を泊まらせるといった、商売とはとても呼べぬような状態であるらしい。

 翁と来鹿もまた旧知の間柄ではあるが、十和とは異なり、彼が翁に個人的に連絡をとるようなことはないので、なにもかもが聞いた話である。

 狭い通路を進むまでもなく車内はとても空いていて、座席を探すのに苦労はしなかった。

 車両のなかほどの座席を選んで腰を下ろし、足を組んで窓の外を眺める。金属や硝子が多用され古くさい印象ばかりが残る駅舎は、それが演出であるのかそうでないのか地球に慣れた来鹿の目にさえ判然としなかった。

 いつもの癖で空間探査スキャンを行う。武器を持った存在が近くにいないか、あらかじめ確認しておくためだ。陰陽師がそばにいるときの護衛師ガーディアンのならいだった。

 とくに気になる反応はない。ここは中央から忘れ去られた辺境の地だ。そうでなくては困る。

「待たせたな」

 組んだ足の爪先をぶらぶらと揺すり、手持無沙汰を隠そうともしていなかった来鹿は、十和の声に大きく肩をすくめた。

「とんずらでもしたのかと思ったぜ」

「そんな莫迦はやらない」

 仕事は大事だ、と十和は唇をゆがめる。

「おまえに捕縛されるのもごめんだしな」

 陰陽師の身を守る護衛師が、同時に監視の役目を負っていることを十和は知っている。来鹿は苦い笑みを浮かべた。

「俺だって、そんなのはごめんだよ」

 立場は違えど、古い友人同士のふたりは、互いの職業が抱える闇を理解しあっている。

 護衛局は広域捜査権を持つ捜査機関であり、また要人の警護を担う組織である。しかし、それと同時に、諜報や暗殺などといった物騒な役目を負う集団でもあった。

 もちろん軍のなかにもそうした役割を持つ機関は存在する。だが、彼らがもっぱら軍事的な意味合いでのみ活動するのに対し、護衛局は政治的目的をもって非合法な活動を行うことがある。

 つねは護衛対象である陰陽師とて、ひとたび任務に背けば、護衛師による捕縛あるいは暗殺の対象になりかねない。

「そうなのか?」

「そうだよ。おまえ、俺のことをなんだと思ってんだよ」

 この時代、人類社会に国家すなわち政府は、たったひとつしか存在しない。

 月面都市の宇宙中央政府がそれである。惑星や準惑星——あるいは、それはごく小規模な星域であることもあるが——は、広く自治を認められているにとどまる。

 通貨や度量衡、法規範は統一されており、共同体としての規律はある程度保たれているものの、人類の活動領域は非常に広範にわたっている。そのため、月面都市に本部を置く宇宙中央政府の目が届かない地域もある。

 これまでの宇宙史のなかでは、辺境惑星による反乱や独立に向けての動きが幾度も繰り返されてきた。ただ、そうした騒動はいずれも不成功に終わっている。その理由は、惑星や準惑星に築かれた都市の多くが、食糧を自給自足することができないからだ、といわれている。

 人類の多くが適合術フォーミングを受け、それほど多くの栄養や休息を必要としない、とは云っても、それは人類原種と比較しての話である。どれほど優れた微細機械ピコマシーンが開発されたところで、人々が経口による栄養摂取から完全に自由になることはない。

 同時に、環境適合テラ・フォーム技術がどれほど発展したところで、地下の限られた空間に、自給自足が可能なほどの農地を作ることはできない。優先されるべきは居住空間であるからだ。

 人類の食を支えているのは、太陽系第四惑星火星である。いまや全地表面を農場と酪農場に作り替えられたこの星は、地球に比べずっと過酷な環境下にある。だが、遺伝子操作によって改良された農作物と家畜は、厳しい環境であってもじゅうぶんな実りをもたらし、人々を支え続けている。

 いかな辺境の地といえども——あるいは、辺境であればあるほど——、この火星からの食糧供給なしには成り立たない。

 宇宙中央政府はこの火星の管理を徹底して行うことで、人類全体を緩やかに、しかし、厳しく治めている。護衛師はその政府直轄の組織に属するものとして各地へ赴き、捜査あるいは護衛の任に就きながら、同時に反乱や独立の芽を摘む役をも担っている。そうした務めのなかには、必然的に、諜報や暗殺といった汚れ仕事が含まれているのだ。

「でも、さっきはその口で、堂々と規則違反を勧めてきたじゃないか」

 借りを返せということか、と十和に云われ、来鹿は驚いてまばたきを繰り返した。

「なんだ?」

「いや、そこを蒸し返してくるとは思わなかった」

 ふれられたくないんじゃなかったのか、という来鹿の言外の問いに十和はうなずいた。

「もちろん話したくない。だれとも共有したいと思ったことはない。でも、それとこれとは別の話だ」

「別の?」

ユイが死んだことと、おまえに助けてもらったこと」

 助けたつもりはない、と来鹿はおおいに不満を覚えた。

 あのとき俺がおまえを助けたのは、それが自分の任務だからだ。任務を恩と呼び換え、友人に厄介を押しつけるような器の小さい男だと、おまえは俺をそんなふうに思っているのか。

 そこで来鹿はさらに新たな苛立ちを覚えたようだ。眉間に深い皺を刻み、言葉を重ねる。

「さっきのは……あのときのことをおまえに対する貸しだと思ってるのかって、そういう意味か? おまえ、俺のこと、そんな男だと思ってるのか?」

 来鹿の言葉に、十和は思わずといった様子で笑い出した。

「おまえは単純だな。わかりやすすぎる」

 来鹿はむっとした。

「おまえを守るのが俺の任務だ。今回がそうであるように、あのときもそうだった。任務をカタにしておまえに……」

「わかってるよ」

「おまえに無理をさせるつもりは……」

 気分の悪さはそう簡単には治まらない。一度遮られてもなお勢いよくまくしたてる来鹿の言葉を摘み取るように、十和はもう一度、わかってる、と云った。

「リュニヴェールを探る好機チャンス。それはたしかだ。しかもわたしなら、おまえよりも動きやすい」

「十和」

「悪かった、来鹿」

 十和は決まり悪そうな表情を見せる。

「おまえは任務を果たしただけだ。そこになにがしかの意味があるように考えてしまうのは、わたしがいまだに罪悪感を消せずにいるからだ」

 三年前、十和が恋人であった男を失った事故の折、彼女の護衛についていたのは今日と同じ来鹿だった。

「おまえのせいじゃない」

「わかってるよ。でも……わたしの気持ちもわかるだろう?」

「それを云うなら俺も同じことを云わなくちゃならなくなる。あのとき唯についていた護衛師はやつを守りきれずに死んだんだからな」

 護衛師のくせにだぞ、と来鹿は云った。

 陰陽師は強い妖力を持っている。だが、その身体はただの人間である。適合術さえ受けていない生身の身体は、現代の価値観で云えば、ひどく脆弱なものだ。物理的な攻撃にひどく弱く、そればかりか病やけがも避けては通れない。

 対する護衛師は、その仕事柄、ほとんどの者たちが極限まで強化された身体を持つ人工生命体アーティフィシャルか、強化素材で作られた身体に人工知能を積んだ自動人形オートモーティブである。

 あやかしが得意とする精神攻撃は、そうした者たちには効力がない。そもそも、魑魅魍魎のたぐいをいっさい認識しない彼らにとって、鬼などいないも同じなのだ。ときに物理的な攻撃に変じることもある妖の手から、もしくは、妖を操る術者の力から陰陽師を守るのが護衛師の役割である。

「それは……」

「話が違うか? 違わないだろう?」

 同じ事故に巻き込まれ、唯の護衛師は亡くなり、来鹿は生き残った。同じように、結衣は命を落とし、十和はいまも生きている。

 ただそれだけのことだ、と来鹿は思っている。死に意味はない。同じように、生き延びたこと、救えたことにも意味はないのだ。

 来鹿がそう云うと、十和はしばしのあいだ黙り込んだ。苛立ちを堪えているようにも、なにかを諦めようとしているようにも見えたが、彼女はなにも云わなかった。

 やがて、十和はひとこと、やってみるよ、と云った。

「十和?」

「おまえの云ったことだ。リュニヴェールを探ってみる。あの工場になにかがあることはたしかだし、それがわたしの仕事にまったく無関係だとは云いきれない。そうだろう?」

「そうだな……」

 なんだ、歯切れが悪いな、と十和は乾いた笑い声をあげた。その響きに云いようのない嫌な予感を覚え、来鹿は眉をひそめた。

「そうだけど、いいのかよ」

「おまえから云いだしたことだろう」

 来鹿は返す言葉を見つけられない。

「おかしなやつだ」

 十和の暴言に反撃できないまま、列車は目的地に到着してしまった。


 炎宮の駅では、併設されているカフェスペースでC2支部所属の護衛師と落ち合う予定になっていた。地球から派遣されてきた十和と月面都市本部に所属する来鹿だけでは、C2の事情についてあまりにも疎い。よって、護衛局が現地に詳しい者を案内役につけてくれたのだ。

「護衛局も意外に親切なんだな」

「そうか?」

 いまひとつ気の乗らない返事になってしまったが、取り繕ったところでいまさらだ、と来鹿は浮かない顔のまま卓上パネルに表示されているメニューを眺める。

「それにしてもまいったな」

「……なにがだ?」

 どんなときでも十和を無視できない来鹿はのろのろと尋ねた。

「待ち合わせている相手の顔を忘れた」

「忘れたんじゃなくて、覚えてないんだろ」

 来鹿は呆れ顔で十和を見る。そして溜息をついた。

「相手が護衛師なら俺が認識できる。任せておけよ」

「助かる」

「はじめからそのつもりだったくせに」

 十和は長い黒髪をかきあげて、わざとらしく微笑んだ。

 窓ぎわの席を選んだ彼女について、来鹿も向かい合った席に腰を下ろす。ひんやりとした冷気を放つ硝子の向こうには、駅を中心に整然と広がる炎宮の中心地が見渡せる。乱れのない街並みだ。β市の気温は今日も氷点下、朝から雪が降っている。

「ここの市長は雪が好きなのか」

 来鹿がぽつりと漏らしたひとりごとのような言葉に、十和は、そのようだな、と物憂げに応じた。

「年間の気象予定を見ても、雨より雪のほうがずっと多い。そもそも冬じたいが、C2のほかの市に比べてずいぶん長く設定されている」

「表層が極寒のドライアイスだということを考えれば、まあ、妥当だよな」

 来鹿は卓上パネルから珈琲をふたつ注文してから、顔を上げた。

「気温を下げておいたほうがエネルギーを節約できるっていう、役人の貧乏思想だろう。ことにβ市は金がないようだから」

 十和の視線の先を追うように、来鹿もまた窓の外へと眼差しを向ける。

「おかげで治安も悪いわけだ」

「地球と比べるな」

 十和の言葉をたたき落とすような勢いで来鹿はきっぱりと云い、正面から彼女を見据えた。

「古い星にしちゃC2はよく持ってるほうだ。少々寒いことを除けばじゅうぶんに快適だよ。ここより少しあとに開発されたこいぬ座星系は、いまや未開の原野に等しい荒地だ。P11の事件をおまえも知らないわけじゃないだろ」

 こいぬ座の中心となる連星プロキオンの第十一惑星は、C2よりもやや新しい時代に開発された。都市の地下化を前提として惑星開発が進められるようになった当初、技術の粋を尽くして築かれた古い星系である。

「都市がひとつ崩落したっていう、あれか」

「そうだ。崩落そのものは、構造が老朽化してろくなメンテナンスも施されていなかったせいだがな、大勢死んだにしては、たいしたニュースにならなかった」

「そうなのか?」

 おまえは世間知らずだからな、と来鹿は思わず苦く笑った。

 地球という狭い星の上、しかも陰陽寮にとらわれるようにして生きている十和には、来鹿の言葉を実感としてとらえることができないのだろう。どこか曖昧な表情を浮かべている。

「死んだのが、犯罪者やその予備軍、あるいは統計上存在しないとされている連中ばっかりだったからだ」

 宇宙に広く分布する人類の数を正確に把握することはむずかしい。自然出産で誕生したのち、出生を届け出られていない者たちや違法に製造された人工生命体など、政府に存在を確認されていない者たちは、徹底した生殖管理のもと誕生する者たちと同数かそれ以上に存在しているといわれている。

「P11は無法地帯そのものだった。生活環境も経済状態も最悪で、政府もほとんど介入できないようなありさまでな」

「よく知ってるな」

「見てきたからな」

 ひどいもんだった、と来鹿は大きな掌で、自身の頬から顎にかけて顔の半分を覆う。こうやっていやな記憶も拭ってしまえればいいのに。

「あれに比べりゃ、ここはいいところだよ」

 そうかもな、と応じながら、珈琲を運んできたロボットに料金とチップを渡した十和は、そこで話題を変えた。

「そういえばリュニヴェールはこの近くに、人工衛星をひとつ所有してたよな」

「ひとつどころじゃないだろう」

「馭者座星系に、という意味だ」

「C3-aだな」

 来鹿は珈琲のカップに口をつけ、渋い顔をする。

「それがどうした?」

「近くに自社所有の人工衛星があるのに、なんでこのβ市にも工場を持ってるんだろうな?」

「税金や人件費が安いんじゃないのか」

「本気で云ってるのか?」

 気色ばむ十和を、来鹿は笑っていなす。

「人工衛星は重力が不安定だからな。薬を作るには適していない。連中の説明を真に受ければ、そういうことになる」

 ふうん、と十和はおよそ納得していないといった風情でうなずいた。

「なにか気になるのか?」

 問いかけながら来鹿はもう一度メニューに目をやった。飲みものを口にしたとたん、忘れていた空腹を思い出したのだ。問われたことに答えようと十和が口を開きかけたのを制しながら彼は続けた。

「俺、なんか食っていいか? 腹へって死にそうなんだよ」

「好きにしろ」

「おまえは?」

「いらない」

 相変わらず食わねえんだな、と来鹿は思わずくさす。十和は目を細めてその言葉を受け流した。黒い瞳に影が落ち、どこか不穏な気配が増した。

「で、なにが気になるんだ?」

 軽食を注文した来鹿は十和に視線を戻して問いかける。外套の釦をいくつかくつろげただけの彼女は、珈琲のカップをテーブルか持ち上げたりまた置いたりしながら、そうだな、と珍しく言葉に迷うそぶりを見せる。

 十和、と来鹿が先を急かそうとしたそのとき——。

「陰陽寮のかたですか?」

 ふたりに向けて、低くやわらかな声が降ってきた。

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