06

 金糸雀色の獣の瞳が、鈍い光を帯びる。

「そのためにセツの生まれを語ったのだろうからな」

 異界の風が狐の苛立ちを示すかのように、十和の頬をするりと撫でた。

「ならば、なぜ尋ねるのじゃ」

「そなたの覚悟が知りたい」

「妾の覚悟じゃと」

 そう、と十和はうなずいた。

「たいせつに思うあるじから離れる覚悟があるか、と訊いている」

 狐の瞳と十和の眼差しがまともにぶつかった。青白い火花が見えてもおかしくないほど、激しく視線が交わされる。

「主さまをお預けするに、貴女さまよりほかにふさわしいかたはおられますまい。妾の存在が障りとなるのであれば、ここで消え失せるもまた喜びと」

 静かな答えに、十和はわずかに驚いた顔を見せた。

「わたしのことなどよく知りもしないのに、なぜそこまで」

 守護人はあるじとの絆をなによりも重んじる。その身を守ることに誇りを感じている者が多く、矜持も高い。齢を重ね、妖力も強い、九尾の狐ならばなおのことである。

 みずから姿を見せることもめったにない誇り高き大妖が、見ず知らずの拝み屋風情に向かってあるじの庇護を願い、そのためなら消えてもかまわない、などと云う。

「なぜ、とそれを問うのでございますか」

 それもまた察しているのではありますまいか、と狐は唇をゆがめた。

「主さまは十四になられた。この街で身を売るには、やや薹が立ちすぎておられる。そも、好んで身を売られていたわけでもありませぬ」

 形ばかりであったとはいえ——むしろ害にしかならなかったとはいえ——、くだんの医師はそれでもセツの保護者だった。

 彼の住まいにはセツの寝床があり、彼の食べるものをこっそりくすねることだってできた。少なくとも七つの歳までは、そうやって生き延びることができていたのだ。

 だが、保護者をなくしたセツは、その夜の雨風をしのぐ屋根も、いまこのときの渇きを癒す水さえも、すべてを失ってしまったのである。

 生きていくには金が必要で、金を得るには盗むか働くかしかない。この幽宮では、身体を売ることは、盗みを働くことよりも効率がよかった。だからセツは男娼になった。

「主さまはこの街を出たがっておられる。当然じゃ。妾も同じ思いでおる。じゃが、外の世界は厳しい。学もなく、才もなく、金や保護者すら持たぬこどもが、ひとり生きていけるところではない。主さまには庇護者が必要じゃ」

 妖狐は十和の顔をじっと見つめる。

「無力な守護人よりも胡散くさい拝み屋のほうがまし、わたしはそなたの眼鏡にかなった、と、そういうことか」

「主さまのお心は貴女さまに向いております。妾にはそれがわかる」

 狐の迫力が十和の軽口を封じる。

「主さまの身を預かると約束してくれるのであれば、妾はそなたのために働きましょう。消えるも厭わぬ覚悟はありまするが、それよりずっと役に立つ。誓って、お約束しましょうぞ」

「わたしのために?」

 十和は笑いを含んだ声で尋ねた。

あやかしであるそなたが、拝み屋であるわたしのために?」

 嘲弄ともとれる口調である。狐は眼差しを揺らすこともなく十和を見つめる。

使魔つかいまが増えたとお思いになればよい」

「千の歳をる狐が使魔か。いつ寝首を掻かれるものか、気が気ではないな」

 なんの、と妖狐は朱い唇をにいっとゆがめた。

「あの大狼おおいぬとて似たようなものではございませぬか」

「あれはわたしの飼い犬。そなたとは違う」

「飼い犬が手を噛むこととて、ない、とは云い切れますまい」

 十和は軽いため息をついた。

「そなたは、そこまであるじをわたしに押しつけたいのか」

「主さまが貴女さまをお慕いしておりますのでな」

「……その心がまことのものであるならな」

「まことでございますとも」

「どの口が云う? さきほど、そなたのあるじは己の心が己のものではなくなったかのような顔をしていたぞ」

 警戒心の強いこどもが見ず知らずの大人に突如として大声を上げたり、涙を見せたりするはずがないと十和は知っている。しかもセツは十和が知るなかでもあまりたちのよくないこどもだ。あの突然の変貌にはこの狐が噛んでいたのだと推し量ることは容易い。

 案の定、狐は目を細くして十和の疑いを肯定した。

「とはいえ、妾に主さまのお心を枉げることなどできましょうや」

 貴女さまの傍らにありたいと願うお心に嘘はございませぬ、と妖狐は尾を振った。

「そのようにあるじの心を決めつけていいのか」

 わからないではないか、と十和は云った。

「セツがわたしを慕っているなどと、まるで的外れかもしれないとは思わないのか」

「妾ともあろうものが主さまのお心を見誤ろうはずもございませぬ。ほんの少しばかり、素直になるお手伝いをいたしたまでのこと」

「……たいした自信ではないか」

 主人の心に寄り添うようなことを云いながら、ほかならぬその主人に本人の願わぬ言葉を吐き出させた妖の云い分をそのままに鵜呑みにする気にはなれなかった。

「セツが知ればどう思うだろうな」

「主さまのためなれば、この身の惜しいことなどありますものか」

 たとえ厭われても悔いはございませぬ、と云う狐に十和は冷たく乾いた笑いを向ける。

「忠義なことだ」

 狐はおもしろくなさそうに双眸を眇めた。

「……貴女さまこそ、見て見ぬふりは感心いたしませぬな」

「見て見ぬふり?」

 ええ、と狐は金糸雀カナリア色の眼差しで、ぐっすりと眠るセツを見遣る。

「幼いとはいえ、主さまもおのこ。未熟ながらに、意地も矜持もお持ちなのですよ」

 この狐が多少の手助けはいたしましたが、そもそも主さまのお心にはもとより深い嘆きがございました。なんとも思わぬ相手に涙を見せたいはずもないこと、貴女さまにはおわかりのはず、と守護人もりびとは声に出さずに云った。

 狐の肩越しに、十和はセツをじっと見つめる。

 面倒なことになった、と思った。ただでさえ厄介な生き方を強いられている身には過ぎた荷物だと、突然に顕れた妖の頼みなど聞いてやる義理はないのだと——、けれど。

 けれど、十和は同時に気づいてもいた。

 いまここでなにごともなかったかのようにセツと別れ、すりあった袖に気づかぬふりをしても、彼と自分とのあいだにあるえにしをないことにはできない。

 セツとは、いずれまたどこかで、必ず出会うことになる。

 それは予感ではない、確信だった。

 この街でのセツの暮らしが楽なものではないことは、狐の話を聞くまでもなく理解できる。時が過ぎれば過ぎただけ、セツの苦しみは長く続くことになる。その苦しみは、あるいは彼を、いまよりもさらにゆがめてしまうことになるかもしれない。

 それならば。

 いつかまじわる縁ならば。

 避けることのできるひずみならば。

 いま、手を差し伸べるべきなのかもしれない。

「わかった」

 逡巡の長さを表すかのように、十和の声はかすれていた。

「セツが望むなら、その身を預かることを約束しよう」

 妖狐は目を伏せ、深々と腰を折った。

わたくし弦月げんげつ。ご覧のとおりの野狐にございます。わがあるじともども、末永くお頼み申し上げる」

 十和は軽くうなずくにとどめ、狐の名を呼ぼうとはしなかった。

 十和のような術者が妖の名を呼ぶことは、すなわち相手をとらえることにつながる。誇り高き妖狐、しかもセツの守護人である弦月に対する、せめてもの敬意である。

 弦月はなにやら愉快そうに頬を緩めた。

「なにを笑う?」

 いえ、と狐は、いまやはっきりと笑みをかたどる口元を袖口で隠す。

「なんでも」

 十和が不満げに口元をゆがめても、狐は素知らぬ顔である。だが、あるじの庇護者の機嫌をこれ以上損ねてはならないと思い直したのか、そうそう、と獣らしからぬ気のまわしようで話を変えた。

「お礼がてら、と申してはなんですが、さっそくひとつお教えいたしましょうか」

「なにをだ」

 弦月の思惑に乗ることが癪でないわけではないが、意地を張っても仕方がない。十和は素直に問う。

百鬼夜行ひゃっきやぎょうには、とうにお気づきでございますな」

 狐の声音が真剣な色を帯びる。十和もすべらかな頬から笑いを消して、妖狐を正面から見据えた。

「百鬼夜行、この地では、ほんの三歳みとせほど前にあったばかりでございます」

「この地、とは」

「ここより真東の変宮かわりのみやにてのことにございます」

 β市内か、と十和はつぶやいた。

「近いな」

 はい、と弦月はうなずいた。

「この地にとどまっていた穢れの者どもは、あの折、みな冥府へと還ったはず。事実、ここしばらくというもの、この地は鬼魅おに妖鬼ようきとは縁の薄い場所でございました」

「そなたの主にとっては、そうでもなかったようだが」

「主さまはこわがりでおいでですのでな」

 狐はしれっと答え、おもしろがるように尾を揺らしてみせた。

「そこらをうろちょろする小鬼の一匹や二匹、この指先ひとつで弾き飛ばせますものを」

 妾を拒もうなどとするから、くだらぬ輩におびえることになる、と狐は不満を口にする。

「まあ、そう云うな」

 十和としては苦笑いするしかない。

「ですが、あの卦はそうはいきませぬ」

 百鬼夜行とは、もとは妖どもが群となって歩くさまを指す。だが、弦月のいま云うそれは、現世うつしよにあふれた数多の物ノ怪もののけが、ふるさとである幽世かくりよへと帰還する日、そのもののことである。

 日ごろは滅多な悪さなどしないおとなしい妖どもまでもが、そのときばかりは乱痴気騒ぎを繰り広げ、災いを散らしながら、夜を徹して練り歩く。次々と妖どもを誘い込み、朝陽ののぼるまで宴は続く。

 日ごろは鬼を見ることのない者であっても、もし百鬼夜行に行き会うようなことがあれば、そのあまりの陰気に中てられて、悪い心にとらわれてしまうこともあるという。

 だが、そうやってひとたび夜行が過ぎてしまえば、現世に残されていたあやしの者どもは一掃され、しばらくのあいだ、その地には穏やかな時が訪れる。不運にも行き会ってしまった者には気の毒なことではあるが、数百年にいちどの大掃除のようなものだと思えば、そう悪いことばかりでもないのである。

「それほど物騒か」

「なによりも妙なのは、その卦が顕れては消えること」

「顕れては消える、とは」

 卦が強くなり、少しずつ弱くなり、また強くなり、を繰り返すのでございます、と弦月は金糸雀色の双眸を細く眇めた。

「百鬼夜行の卦は現世と幽世を結ぶ門。いちど顕れれば、あやしの者どもを送るまで、消えることはございません」

 そうだな、と十和もまた不機嫌そうに目を眇める。

「顕れては消えるなど、いかにも不吉、にかにも不穏。そも、ろくな妖もおらぬのに、門が顕れたこと自体おかしな話。いずれ尋常ではございませぬ」

「常にあらざる不浄の卦、というわけか」

 さよう、と狐はうなずいてみせる。

陰陽歴こよみに逆らう摂理なき夜行は、不浄以外のなにものでもありませぬ」

「どこかの不届き者が陰陽五行いんようごぎょうことわりに背いて、百鬼夜行を引き起こそうとしている、とでも?」

 ふふ、と狐は含み笑いをして、十和の問いには答えなかった。

「妾にいま申し上げられるは、これがすべて。これ以上計り知ること、かないませぬ」

 そうか、と十和もまた表情を緩めた。

「いや、じゅうぶんだ」

「いつなりとお力になりますゆえ、お約束をお忘れになりませぬよう。今宵はこれにて」

 狐は慇懃に笑み、挨拶を述べる。そのまま姿を消すかと思いきや、ふときつい眼差しを十和に向けた。

「しかし、貴女さま、十和どのもじゅうぶんにお気をつけられよ」

 弦月は、ゆる、とその姿を宙に溶かしながら言葉を紡いだ。教えていないはずの名を呼ばれても、十和はさほど驚かない。

外法げほうは天の理に背くもの。いかにささやかなりとも、綻びは綻び。己のうちに綻びを抱えるは、やがてお生命に障りを招きましょう。じゅうぶんにお気をつけたがよろしい」

 十和はさっと顔色を変えた。

「なんのことだ」

「妾をごまかせるとお思いになるな。貴女さまに滅多なことがあってはならないと、胸を痛めておりまするのに」

「たいせつなあるじを守る拝み屋が、魔にとらわれてはたまらないからか」

 すっかり色の失せた唇で、それでも十和はかろうじて言葉を吐きだした。

「そうなれば、妾はためらいなく貴女さまの喉笛を食いちぎりまするぞ。この狐の身にそれがかなえば、のお話ですが」

 拝み屋と狐はしばし睨みあう。視線をそらしたのは、十和が先だった。

「弦月とやら、礼を云おう。わたしはこちらの陰陽暦に詳しくない。百鬼夜行の話、たいへん助かった。礼を云う」

 弦月は音もたてずに宙に溶けた。

 十和はそのあとも長いこと、妖狐が消えた空間を見つめていた。まるで心のすべてを妖に奪われたかのように、その漆黒の瞳はうつろだった。

 ふと首を振り、寝台に眠るセツを見遣る。薄闇のなか、掛布に包まり身じろぎひとつしない。そこにいると知らなければ見逃してしまいそうなほど静かな気配だ。

 十和はゆっくりと少年の眠る寝台へと歩み寄った。

 深い飴色の髪が敷布シーツにこぼれている。手入れの行き届いていない蓬髪は触れたいと思うようなものではなかった。額や頬は薄ら汚れ、わずかに饐えた匂いさえ発している。

 まるで迷子の獣のようだ、と十和は思う。悲しいことにそのさがは野生ではない。人として生まれたにもかかわらず、人に虐げられ、人を信じることができなくなっただけで、その心の奥底では庇護者を求めている。守護人もりびとである狐が云わせた言葉に偽りはない。

「……口にしたくは、なかっただろうにな」

 主人思いの、しかし強引な妖によって露わにされてしまった本音に、一番戸惑ったのはきっとセツ本人だ。

 寝台に腰を下ろし、束になって縺れる髪に触れる。思ったとおりのごわごわとした手触りに笑いがこぼれた。

「目が覚めたらまずは風呂だな」

 十和の独り言にも目を覚ます気配はなく、セツは昏々と眠り続けている。 

 ふと羨ましくなった。ただしく眠れなくなってからもうどれくらいが経つだろうか——。

 掛布の端をそっとめくり、温かな寝台にそっと潜り込んだ。セツの身があまり清潔でないことはそれほど気にならなかった。人肌恋しいのはわたしのほうかもしれない、と十和は思う。

 枕に背を預け、飽きもせずにセツの寝顔を見つめる。

 やがて強い眠気がやってきた。頭の芯が痺れるような強烈な誘惑に抗うように、十和はきつく拳を握った。

「もう赦せ……ユイ」

 目蓋を閉じ、奥歯を食いしばる。苦悶の表情は昏い笑みに似ている。

 ——天の理に背く外法、か。

 この世にはいったいいくつ、背いてはならない理があるのだろう。越えてはならない境界があるのだろう。

 理に背き、境界を越え、そのたびに大きくなる己の裡にある綻びが、やがて己に滅びを連れてくるだろうことを知っている。むしろ、それを待ち望んでいる。

 それでもわたしは生き続ける。眠り、食べ、祓い、昨日も、今日も、きっと明日も——。

 そうやって命をつなげばつなげただけ、綻びもまた大きくなる。いずれ、このわたしに納まりきらなくなるほどに。

 十和は、いつのまにか強く拳を握っていた。掌に爪が食い込み、紅い血が掛布にしたたり落ちて染みとなっても、その拳はほどかれることがない。

 目蓋をこじ開け、硝子窓を見つめれば、そこには光を失くした死者のような眼差しで己を睨む自身の姿がある。

 そうだ、このまま痛みしか感じられなくなれば、あるいは——……。

 けれど、抵抗はそこまでだった。

 十和はふたたび目蓋を閉じる。その表情はさきほどまでの苦しみが嘘であったかのように、穏やかで、静かだ。

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