05

「もう、そろそろいいのではないか」

 十和トワは煙草の火を消し、備えつけの灰皿にその吸殻を落とす。場末の安宿ならではのありがたいシステムは、匂いさえ残さず灰ごと始末してくれる。

 窓を閉め、寝台に眠るセツを振り返って腕を組んだ。さらに足先をも組んで窓枠に寄りかかり、金と銀の踊る漆黒の瞳を、一瞬強くまたたかせる。

「おやおや、お気づきでしたか。はぐれの拝み屋ごときと侮ってはなりませぬな」

 鈴を振るがごとき華やかな笑い声とともに、無心に眠るセツの傍らに玲瓏たる美女が顕れた。

 長い金糸雀カナリア色の髪を白い綾紐でひとつに束ねた、浄衣じょうえ姿のセツの守護人もりびとである。

 異界の微風を身に纏い、髪と同じ金糸雀色の瞳をまっすぐ十和に向けている。口元に浮かべている微笑みは余裕のそれか、あるいは侮られてはならないという決意の表れか。

 十和もまた、似たような微笑を彼女に向けた。

「ひとことお礼を申しあげようと思いましてな」

 守護人は慇懃に云った。

 否、彼女はただの守護人ではない。浄衣の裾に見えているのは、ふさふさとした狐の尾。齢千歳を数えるともいわれる妖狐ようこである。

 狐か、と十和は独り言ちた。なかなかに目の鋭い見鬼けんきの守護人ともなると、一筋縄ではいかないらしい。

わたくしぬしさまを救ってくだされたのでな」

 妖狐は、ふふ、と意味深に微笑んでみせた。なるほどな、と十和も笑う。

「傷ついた主さまのお心を救ってくだされた。ほかのだれにも救えなかった小さなお心をな。それから……」

 守護人は、そこでいちど言葉を切った。

「あのいまいましいぬえからも、貴女あなたさまの大狼おおいぬたちからも庇ってくださいましたな」

「なんのことだ」

 十和は双眸を眇めた。ほほ、と狐は笑った。

「主さまが邪気の強い白鵺はくやめにわれなかったのは、貴女さまが気を飛ばしてくだされたからでございましょう。あの大狼たちに主さまの御名をお教えにならなかったことと重ねて、深くお礼を申しまする」

 妖狐は、ゆらり、とセツの傍を離れて、十和の正面にその姿を浮かべた。

鬼魅おに妖鬼ようきは名を狙いまするからな。貴女さまには他愛のない相手であっても、主さまにとってはそうではない」

 ほほ、と妖狐はまた笑った。

「これは失礼。釈迦に説法でありましたな」

「響きだけとはいえ、呼ばれて返事をすれば、しゅに囚われることもあるだろう。そなたがついていれば滅多なこともあるまいとは思うが、厄介ごとは少ないに越したことはない」

 笑みを伴った十和の返事に、狐は眼光を鋭くした。

「妾をかいかぶりすぎでございましょう」

 妖狐はやるせなさをのぞかせる。

「あるじにすら厭われるふがいない狐でありますよ。名ばかりの守護人とは、情けない限りでございますがの」

「厭われる?」

 トワはからかうような笑みを浮かべた。

「主人の心までをも操ろうとする賢しらな狐とも思えない言葉だな」

「……はて、なんのことやら」

 とぼける妖狐をそれ以上問い詰めることはせず、トワは妖に言葉の続きを促した。

「主さまは妾と妖物ばけものどもの区別もつかないのでございます。かつて一度だけ御前に姿を見せました折には、あっちへいけ、と泣いて訴えられまして閉口いたしましたわ」

 穏やかな口ぶりにひそむ寂しさを感じ取り、十和は眉根を寄せてセツを見据えた。

「セツの目は生まれつきだろう? 父も母も、あの子にそなたのことを教えなかったのか?」

「妾は主さまの母、その母、そのまた母と見守ってまいりましたのじゃ」

 妖力は母の血筋か、と十和はつぶやき、狐に問いかけた。

「セツは母からなにも聞かされなかった、ということか」

「主さまは母御のお顔すら覚えておらぬのでございます。妾のことなど知る由もない」

「だが、セツには母がいたのだろう? でなければ見鬼けんきなどには……」

 十和は、納得しがたい、という顔で首をかしげた。

 この時代、親という存在を知る者は非常に限られている。

 人類は電脳が管理する人工子宮で発生し、成長し、誕生するからだ。

 採取あるいは提供された精子と卵子は、厳しい検査を受け、丁寧に保管され、やがてランダムに組み合わされて受精卵となったのち、完全に安定した環境下に置かれた人工子宮へと移される。生まれてくる子が身体的あるいは精神的な先天的病理リスクを抱える可能性や出生までに死亡する可能性は、徹底した遺伝子解析と環境管理によってあらかじめ排除されており、算出ができないほどに低い。

 十分に成長したこどもが人工子宮から出てくると、そのときから一体のアンドロイドが寄り添うように行動することになる。遺伝子情報から推測されるそれぞれの性格や個性を十分に伸ばすことができるよう、最適な人格をあらかじめプログラミングされたAIを備えた教育用アンドロイドである。

 遺伝学的な両親に引き取られる場合を除き、こどもたちは基本的に集団で育てられる。知性、感性を含む社会性を身につけるべく、段階を踏んで教育され、しかるべき年齢に達すると独り立ちをうながされる。もちろん、集合教育に適さない者については個別の教育プログラムに従って、できうるかぎり社会になじむよう訓練される。

 いまの世界を支える多くの人々は、いまなお進化を続ける生殖管理システムによって生まれ育ち、そのことについてなんの疑問も抱いていない。

 だが、妖を視る者は違う。彼らは母親の胎内で育まれ、母体の痛みとともに——太古の昔から変わらぬ出生の過程を経て——この世に生を受ける。どうした理屈なのかは解明されていないが、トワの知る限り例外はなかった。

「主さまの母御、妾のかつてのあるじは、この街に暮らす娼婦でございました。年端もゆかぬうちに主さまを身籠り、お産みになられたものの、そのまま身罷られたのでございます」

「そのまま、とは」

 はい、と狐はひどく悲しげにうなずいた。

「もぐりの医師の手を借り、主さまを産み落とされ、その晩のうちに儚くなられて」

「医師がついていたのにか」

「酒と薬で身を持ち崩した藪医者でございますよ。勤める先を失ってこの街へと流れついた、くずのような男。お産の助けなど、できようはずもございません」

 妖狐は金糸雀色の瞳を憎々しげにゆがめて、そう吐き捨てた。

 人の生殖が徹底して管理されるようになったのは、最近百年のことである。

 だが、少なくともそれよりずっと以前から、人類は、女性による出産という生殖システムから離脱することに成功していた。

 いまから千年以上も前、地球という小さな星から離れ、広い宇宙に活躍の場を広げた人類原種は、未曽有の労働力不足に直面した。単純作業をロボットに、ある程度複雑な頭脳労働をAIに任せても、活動可能領域そのものが、それまでとは比べものにならないほどに拡大したのである。死にかけの年寄りも歩けるようになったばかりのこどもも、すべてを朝から晩まで休みなく働かせても足りないほどだった。

 当然ながら人口増、すなわち出産は人類の至上命題となる。出産可能年齢にある女性は、だれもかれも望むと望まざるとにかかわらず、妊娠出産を義務づけられることとなった。複数回の出産は当然のこと、人工受精による多胎児の出産がなかば強制されるところまで人々は追い詰められてしまった。

 あまりの不条理に怒りを覚えたのは、当の女性たちばかりではない。望まない出産を強いられ、愛するパートナーを失った者たちも黙ってはいなかったし、人と人との心の結びつきをないがしろにし、生殖にのみ価値を見出す風潮に苦しめられる者たちもまたしかりだった。

 人命と尊厳を守るために、生殖技術の革新は急ピッチで進められた。そのスピードはおそろしいほどで、人工子宮から生まれたはじめての命が成人するころには、ほぼ現在と変わらぬ技術水準に達していたといわれている。

 人類の生殖は女性による出産から、人工子宮による育成へと大きく変わった。

 技術の開発途上には、古い倫理観による忌避があったこともある。理由のない嫌悪の感情は、人工子宮で育まれたたこども、あるいは人工生殖によって誕生した命に対する蔑視を生んだ。

 だが、それは、驚くほど少なく、軽く、そして大変に短い時間で改善され、やがて完全になくなった。差別をする当事者であった、古い倫理観を持つ個体の死とともに滅び去り、次の世代へ受け継がれることはなかったのである。

 人類原種を悩ませた少子化、労働力の不足は、こうして解消された。

 むろん、現在においても、管理外の生殖が認められていないわけではない。

 尊厳の蹂躙に対する反省は生殖システムの完成によって結実したが、なお出産を望む者にまで強制されるものではない。パートナーとの遺伝的なこどもを望み、自ら生みたいと願うのであれば、出産も可能である。

 ただ、そうした希望はごくごく少数である。

 理由は、おもにふたつある。

 ひとつはパートナーとする相手の多様化である。愛し愛され、一生を添い遂げることを誓う相手が、人類と生殖可能であるとは限らない。むしろ現在では、そうではないことのほうが多い。

 同性であるくらいならばまだしも、人類原種とはかけ離れた身体的特徴を持つ種族や、超高度人工知能を備えた人工生命体アーティフィシャルをパートナーとする者も少なくない。人類と生殖可能な遺伝子を持っていないか、そもそも遺伝子自体を持たぬ者との間に、生殖は不可能である。

 ふたつめは、女性の身体にのみ一方的な負担をかける出産を不合理と考える価値観が定着していることである。パートナーとの遺伝的な子を望む場合も、多くの人はその子を人工子宮で育成し、誕生したのち引き取って育てることを選ぶのだ。

 いまでは異端と云っても過言ではない分娩出産は、ごく限定された状況下でしか行われない。地球や月に暮らす特権階級、そのうちの特殊な氏族が望む場合か、もしくはセツの母のように望まぬ妊娠をしてしまった場合か、のいずれかである。

 専門の医師による診察や適切な指導のもと穏やかな生活を送り、分娩にあたっても十分なサポートを受けられる特権階級の妊婦と異なり、セツの母のように望まぬ出産を強いられる女性の場合、その結末は悲劇的なものとなることが多い。生殖システムがすっかり浸透したことによって出産そのものが稀有となり、周囲の理解はおろか、医師ですら頼りにならないことがほとんどだからだ。

「しかたないとはいえ、酷なことだな」

「十を五つも超えぬ幼いお身体には、じつに耐えがたきことかと」

 妖狐の金糸雀色の瞳には、深い色をした涙がたまっている。長い年月を生き、多くの命を見送った大妖といえども、幼いあるじを失った悲しみは、そうたやすく癒えはしないのだろう。

あやかしの身とはまことに儘ならぬものでございます。むごい目に遭うあるじを、いまそのときどうすることもできぬ」

 そもそも十やそこらのこどもが、自ら妊娠を望んだわけではあるまい。セツの母は、客か、あるいはそこらの男に暴行され、セツを身籠り、戸惑ううちに産むしかなくなってしまったのだろう。自身の妊娠を正しく認識していたかどうかすら、さだかではない。

 目の前で繰り広げられる数々の非道を、ただ見ているしかできなかった守護人の苦痛は、想像するにあまりある。

「あの折ばかりは、この身を憎悪に染めてもかまわぬと思いましたものじゃ」

 強い力で悪を退けはするものの、守護人の守りは、本来、穏やかで静かなものだ。

 あるじ自ら悪を望んだり、愚かしさに身を任せたりすればもちろんのこと、他者から向けられる悪意や、拾ってしまう不運そのものを逸らすことはできない。本来持っている性質を捻じ曲げてまで、好運を呼ぶこともできない。

 だが、守護人たる妖自身が悪となれば、話はまた変わってくる。強い呪で、だれかを傷つけることも殺めることも狂わせることも、簡単にできるようになる。

「そうしなかったのは、セツを守るためか」

「主さまには、正真正銘、妾しかおりませなんだ」

「悪しき妖力は、長くは続かないからな」

 セツの命と引き換えにこの世を去った母親に代わり、セツの保護者となったのは、出産に立ち会った医師だった。

 もともとは、多くの複合企業の本社や支社が集まる炎宮ほむらのみやにある大きな病院に勤めていた優秀な医師だった。だが、ふとしたはずみではまった酒と薬から抜け出せなくなり、幽宮かすかのみやまで流れてくることになったようだ。

 患者の忘れ形見として、まったく望まぬかたちで赤子の面倒をみることになってしまった医師の育児は、それはもうひどいものだったという。

 腹をすかせたセツが泣くと、固形の栄養補助食品を砕きもせずに与えるならばまだいいほうで、ほとんどの場合は放置し、ひどいときには酒を飲ませ酔わせておもしろがることもあった。排泄や風呂の世話もめったにしなかったため、患者や周囲の親切なだれかがときおり汚れた服を取り換えたり、身体を洗ってやったりしていた。

 それでも医師の身体が動くうちはよかったのだ。医師が医師としての役に立たなくなるやいなや、彼らの暮らしは一気に困窮することになった。蓄えや備えなどあるはずもなく、生活はすぐに崩れた。

 やせた小さな身体で盗みやかっぱらいを働いて、セツは飢えをしのぐしかなくなった。年齢のわりに言葉が遅かったため、人の情けに縋って物乞いをすることもよくあった。

 そうやってどうにか小銭をかき集めても、結局は医師の酒と薬に消えてしまう。まだまだ幼いこどもであったセツには、医師のいるところよりほかに帰るところもなく、縋る相手もいなかった。

「地を這うように生きる主さまのため、妾にできることなどほとんどなかったが、それでもいないよりは少しはましじゃ」

 薄暗い路地で小銭を集めるセツを淡い妖力で誘導し、残飯を恵んでくれる料理人のいる宿を教えた。セツが物乞いのために街角に立つときは、弱い者を狙って暴力を向ける輩の気配を知らせることもした。

 そんな暮らしであっても、セツは少しずつ成長していった。一昨日より昨日、昨日より今日、今日より明日——。

「その医師は、いま、どうしている?」

「死にました」

 あまりにも予想どおりの答えに、十和は思わず喉の奥で低い笑い声を立てた。

「幼き主さまの身体に刃を突き立てて臓物を抜き、それを売りさばいてまで永らえたあの者は、つまらぬけんかに巻き込まれ、ある夜を境に帰ってこなくなったのじゃ」

 せいせいしたわ、と狐は云った。

「永く苦しむがいいと、最後にささやかな呪いをかけてやりましたえ」

「ささやか、か」

 十和は思わず苦笑いをする。齢を重ねた妖狐の云うささやかな呪いが、言葉どおりであるはずがない。

「そのようにして守ってやっても、あの子はそなたを妖物と呼ぶんだな」

 話が最初に戻り、狐はどこかいまいましげな表情を浮かべた。

「嫌な拝み屋でございますこと」

「しかし、その嫌な拝み屋に用事があったのは、そなたのほうであろう?」

 隠れていれば気づかぬふりで過ごしたものを、わざわざ姿を見せたのは、是が非でもそうする理由があったからだ、違うか、と十和は一息に云った。

「わたしの前に姿を見せれば、祓われてしまうこともあったかもしれないのに」

 もちろん十和とて、見知らぬ守護人をいきなり祓うような乱暴はしない。だが、妖狐はあくまでも幽世かくりよに属する存在である。拝み屋であることを隠していない十和は、狐にとって恐怖ではなくとも面倒な相手ではあったはずだ。

「お尋ねになるまでもなく、察しておいででしょうに」

 ほんに嫌な拝み屋でございますこと、と狐は顔をしかめた。

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