04

 万華鏡の玄関を出てすぐのところで、気配を探っている女を見つけた。焦燥に駆られて追いかけたわりにあっけないほど簡単に追いついてしまったセツは、拍子抜けしながらもその背中に声をかける。

「まだそんなとこにいたの」

「帰れ」

 女は厳しい口調で云い放った。

「おまえの出る幕じゃない」

「……極煌オーロラならこっちが早いよ」

 セツは女の言葉を無視して、彼女の腕をつかむ。進むべき方向を決めあぐねていたらしいその身体を無理矢理に細い路地に引きずり込んだ。人ひとりがようやく通れるほど狭い、瓦礫のなかの通路と呼んでもいいような道である。

 女は憮然としながらも、黙ってついてくることにしたらしい。セツがこのあたりを根城にしているこどもだということを思い出したのだろうか。

 あまりに複雑で、ともすれば迷ってしまいそうな、迷宮のような路地をセツは女の腕をつかんだまま、たしかな足取りで駆け抜けてゆく。

「トワ」

 すぐそこが極煌の裏口だよ、と云うセツの声に、低いうなり声のような呼び声が重なった。

「コウ」

 すぐに応じたところを見ると、トワ、というのが彼女の名であるようだ。

「どうした?」

「アオがやられた」

 トワの問いかけに答えたのは、闇色の大狼おおいぬだった。濡れたような鼻の先が、セツの胸元にまで届こうかという巨躯である。

 ひ、とセツの喉が鳴る。

「やられた? アオはどうした?」

 セツの動揺にとりあうことなく、トワはコウと呼んだ大狼に歩み寄る。

「トワさま、ここに」

 かぼそいこどもの声が大狼の向こうから聞こえる。幼いと表現してもいいような男の子の声だった。

「アカ、どうした? なにがあった?」

「すみません、失敗しました。……アオが」

「だから、なにがあった」

 トワの声に苛立ちが混じる。静かないでたちのわりに、ずいぶんと気の短い性質であるらしい。

「呪を返され、まともに受けました」

 トワが険しい顔をする。

「先行していた私がよけきれず、そのまま……」

 大狼の陰から姿を見せたのは、白の生絹を身にまとった幼いこどもの姿をした異形だった。

 セツは目を見開き、息を詰める。

 紅の瞳の目立つ幼い顔を悔しげにゆがませ、油断しました、とトワを見上げているそれは、濡羽色の髪から小さな角をのぞかせている。

 小鬼だ。

「わかった」

「もうしわけありません。トワさま」

 いい、とトワは聞きようによっては冷たくも取れる口調でそっけなく云った。だが、しくじった小鬼を責めているわけではなかったらしい。

「疲れているだろうけど、アオをよく見てやりなさい」

 よくよく見てみれば、アカとやらの着物も焦げ跡が目立ち、片方の袖が引きちぎられている。蒼色をした帯もほどけた先が地面に垂れているし、なによりもその顔に疲労と焦燥の色が濃かった。

「はい。どうか、お許しを」

 小鬼たちはそのまま、なんの前ぶれもなくしゅるりと解けた。

 ひ、とふたたびセツの喉が鳴る。

「面倒だな」

 トワの低いつぶやきに、ああ、と大狼が答えた。

陰火おにびを灯したのは、まちがいなくあのぬえだった。あの子らはよくやった。われを呼んだだけ、たいしたものだ」

「そうだな」

 トワと大狼の視線は、極煌の裏口をにらむように据えられていた。

 セツのことなど、まるで気に留めていないその様子に、ふと気が緩む。妖物ばけものであるらしい大狼にも——むろん、姿を見て驚きはしたが——、不思議とおそろしさは感じなかった。

 だから、ふいにトワがこちらを振り返り、おまえ、と笑いを含んだ声をかけてきたとき、彼はすっかり油断していた。

「おまえ、見鬼けんきなのか」

 ひどく昏い笑いだった。

 これまでけっしてきれいとは云えない世界で生きてきたセツだったが、それほどまでに昏い笑いは目にしたことがなかった。人の魂をらうという魑魅魍魎でさえ、こんな笑い方はしないだろう。

「け、見鬼?」

 セツは、トワのその表情にぞっとしながらも、そう訊き返した。

「鬼魅、妖鬼を視る者。妖を祓う陰陽師のなかにでさえ術を使わないとやつらを見ない者も珍しくないのだから、便利と云えば便利な妖力ちからだ」

「便利って」

「便利だろう」

 ふたりのやりとりのなにが可笑しかったのか、くく、と大狼が含み笑う。しゃべる獣など目にしたこともないし、ましてや笑うなどとは思ってもいなかったが、それでも莫迦にされたことだけはわかった。

 思わずきっと睨みつければ、おおこわ、と低い声がふざけたことを云う。

「この大狼の姿が見えるのも、おまえに妖力があるからだ」

 彼はこれでも妖物の一種だからな、とトワは笑う。

「トワよ、妖物はないだろう。吾はこう見えても誇り高き」

「神々の眷属」

 声を立ててトワが笑った。さきほどのあの凄絶なまでの昏さが嘘のような、朗らかにも聞こえる明るい声だった。

「どうりで陰火も鵺も見えたわけだな」

「陰火?」

 あのへんな緑色の炎のこと、と尋ねれば、そうだ、とトワはうなずいた。

蒼銀あおのしろかね紅銀あかのしろかねも」

「あの小鬼たちの名前?」

 そうか、本当に見鬼か、と今度の笑い声は心底楽しげだった。

「あれらはわたしの使魔つかいまだ。ここにいるコウはわたしの、そうだな、守護人もりびとみたいなものか。みな、現世うつしよの者たちではないよ」

あやかし、なの……?」

 ああ、とトワはまたもや首を縦に振る。

「こんなに、きれい、なのに?」

 荒の紫檀の双眸がギラリとした艶を帯びる。ほう、と大狼はどこか満足そうな息をついた。

「なかなか見る目のある小僧ではないか」

「ありすぎるくらいだな」

 前脚の太く鋭い爪を見せつけるように、荒が一歩進み出る。セツは反射的に身をひいて、なに、とおびえたような声を出した。

「勘も悪くなさそうだ」

「……よすぎるくらいだ」

 きれいだと褒められて気をよくしたのか、まるっきり楽しんでいるような大狼の声に、トワの憂い声が重なった。

「さぞかし生きづらかろうな」

 人には見えぬものが見えるセツの孤独を、トワは正しく理解しているようだった。

 鼻の奥につんと抜けるものを感じ、セツは慌ててトワから眼差しを逸らす。そのままにしておいたら、また泣いてしまいそうだったからだ。

 冗談じゃない。あんな無様をさらすのはいちどきりでいい。

 セツの意地に気づいているのか、いないのか。トワは前ぶれもなく、荒、と大狼を呼び、極煌の建物へと近づいていった。

 セツは慌ててあとを追う。

 十和は人目を憚るようにあたりを見渡しながら、極煌の周囲を検めているようだった。

「陰火は消えたようだな」

「ああ」

「急いだほうがよさそうだ」

「吾はいつでもよいぞ」

 トワと大狼は低い声で囁きあっている。セツにはまるで意味がわからなかったが、むろんその場を立ち去る気になどなれなかった。

 しばし、あたりを探るように歩きまわっていたトワが、不意に立ち止まった。大狼は四足をしっかと踏ん張り、首筋を伸ばす。

 トワが目を伏せて両手の指を組んだ。

 印を結び、なにやら呟きはじめるとすぐに、彼女の身体の周囲に、仄かな光が纏わりつきはじめる。

 ひどく明るいのにそれは周囲を照らさない。光であって光でない、その輝きは灯りではない。コトだ。言葉が光となり、紋様となり、トワの身体を離れて漂いはじめる。

 それは、セツがはじめて目の当たりにするだった。

 彼は息を飲み、まばたきを止め、身を固くして目の前の光景を見守った。

 やがて、まばゆい言ノ葉の紋様によって呪陣が編まれた。

 セツの目の前、中空で完成したらしいそれは、雪に濡れた瀝青土コンクリートにふわりと舞い降り、ゆっくりと吸い込まれて消えていった。

 トワは印をほどいて術を崩した。

 獣が喉を鳴らす音で、はっとわれに返る。

 地面に片膝をついてしゃがみこんだトワが、荒の首筋を撫でながら、なにかを検分している。荒は気が高ぶっているようで、しきりに喉を鳴らし、牙を剥き出しにした。

「あんた、やっぱり拝み屋なの、か?」

 息を詰めたまま、セツはつぶやいた。本当に、本当にいたんだ。

 漆黒のトワの眼差しがセツをとらえる。黙っていろ、というその視線には、拒絶ではなく受容の色が含まれている。それをあやまたず感じ取ったセツは、素直におとなしくしていることにした。

 荒は、いまにも獲物にとびかかろうとするかのように、身を低くしている。それでもトワが囁くなにごとかを理解しているのか、しばらくするともとの体勢に戻った。

 トワはふたたびしゃがみ込んだ。

 今度は両の掌を地面に押し当て、先ほどとは響きの異なる呪を唱えた。

 素早く立ち上がり、印を結ぶ。伏せていた視線を高く上げ、印をほどくと、指先からほのかに緑色の光がこぼれはじめた。

 掌を地面に向かって翳していると、じきに変化が顕れた。

 あ、とセツは思わず声を上げた。

 瀝青土の上に、なにやら気味の悪い呪陣が、暗赤色に浮かび上がってきたのだった。先ほどトワが描いたものとは、似て非なるなにか。

 ——呪い。

 それを見たトワが、ああ、と低く嘆息する。

「最悪だ」

「なにが?」

 セツの声にトワはふわりと微笑んだ。おとながこどもを騙すときに使う、毒を含んだ微笑みだった。

 セツは思いきり胸を反らし、もう一度云った。

「なにが最悪なの?」

 ごまかされるのは我慢ならない、なぜかそんなわがままがこみあげる。

「おまえには関係ないことだ」

 トワはきっぱりと答えた。そして、それきり黙り込んでしまう。

 ねえ、ねえ、と何度問いかけても一向に返事がない。

 癇癪を起さんばかりのセツの前で、不気味な呪陣は音もなく消えていき、すぐになにも見えなくなった。

 荒もまた、いつのまにか姿を消していた。


 漆黒の髪が闇に揺れて遠ざかる。

 置き去りにされたような気分のセツは、あらためてあたりを見回した。

 いつもならば必ずと云っていいほど見える鬼魅も妖鬼も、いまはいない。トワのせいだろうか、とセツは思う。彼女の清冽な気が——あるいは、あのあやしげな呪陣が——妖を祓ったのだろうか。

 しばらくそうやって考え込んでいたセツだったが、やがて入り組んだ路地を戻っていくトワの背中を追いはじめる。

 ときおり道を探して足を止めながら進むトワには、すぐに追いついた。

 だが、なぜだかセツは、彼女と肩を並べて歩こうという気にならなかった。

 関係ない、と突っぱねられて拗ねる気持ちももちろんあったが、使魔だという小鬼たちや自在に術を操る姿を見せつけられて、急に気後れを感じてしまったのだ。

 拝み屋の力量などセツにわかるはずもないが、でも、少なくとも気軽に、あなたのことをよく知りたい、などと云える相手でないことはあきらかだ。

 離れたところに見えていた背中が、ふと立ち止まった。

 セツはのろのろとトワに近づき、同じように立ち止まる。そして、尋ねた。

「どうかしたの?」

「おまえが鵺を見たのはこのあたりか?」

「鵺?」

「妖鬼。白い着物を着た女の姿をしている。見ただろう、このへんで」

 セツが鵺という妖物を見たことは、トワにとって疑いの余地がないことであるらしい。もしかしたら、あれを目にしてびくびくとおびえているところを、目撃されていたのかもしれない。

 考えてみれば、トワがぼくに声をかけてきたタイミングだって、あまりにもできすぎだったじゃないか——。

「うん、そうだよ」

 このへんかな、とセツは結局素直に答えた。ほんの一時間ほど前、彼女に声をかけられた廃墟の脇に、さっきと同じように立って手を伸ばしてみせる。

「ちょうどこんな角度から見えた。万華鏡カレイドスコープに入っていった」

 ふうん、とトワは呟いた。

「なるほどな」

「なにが、なるほど、なの?」

 無視されることはわかっていたが、セツはそう尋ねてみた。

 案の定、トワはセツの言葉に注意を払うこともせず、窺うようにあたりを見まわしている。なにを探しているのか、ときおり、その闇色の瞳が細く眇められる。

 トワはまるで、彼女自身妖のようだ、とセツは思った。

 鬼魅でも妖鬼でも、妖力の強いものほど美しいように、セツには思える。幼い頃からあたりまえのように妖物を視て育った彼の——その割には何度目にしても、彼らに馴染むことはできないのだが——、それは、経験からくる確信だった。

 まるで作りものみたいにきれいなトワが、世界のどこかにいるとかいう神様の使魔だったとしても、なんの不思議もないような気がするな。

 トワは、なにかを探すようにしたまま、万華鏡のなかへと戻っていく。

 セツは、その姿をぼんやりと見つめていた。

 あの人はなにかに迷うことなどないのだろう。自分で自分がわからなくなって、迷いの森をいつまでも彷徨っているなんていうことはないのだろう。

 彼女には自分の進むべき道がはっきり見えていて、だからこそあんなにもまっすぐで凛々しいのだ。

 なんてうらやましい。

 あまりにもうらやましくて、なんだかまぶしすぎて、ぼくと同じ世界に生きているとはとても思えない。


 部屋に戻ったトワは、外套を脱いで煙草に火を点けた。

 一連のしぐさにこもるなんとなしの憂いに、自分の心まで曇るような気がしてならないセツである。

 彼女が唇にくわえている煙草は夜光雲やこううんという、このあたりではあまり見かけない銘柄だ。それを見て、そういえば、トワはどこから来たんだろう、とこどもはふと疑問に思った。

 どこかけだるげなトワを横目で見遣りながら、セツは扉のところでなんとなくぐずぐずとしている。

 それを見たトワが云う。

「どうかしたのか?」

 行きつく先に困って泳がせた視線は、部屋にひとつしかない寝台に向かってしまう。

 自分と寝る気がない客と、同じ寝台に入るわけにはいかない。

 だが、そうかといってろくな棲処を持たないセツには帰るところもない。

 おおよそがやくざな生活をしているのだ。もしもいま、この部屋を出ていかねばならないことになったら、今夜眠るところは雪の降りしきる屋外である。

「眠りたければそこで寝ればいい」

 トワは窓の外に視線を向けながら、ごくそっけなく云った。

 探すものはもうないはずなのに、そうやって自分と視線を合わせようとしない黒衣の背中をセツは見つめる。

 やさしくないようでやさしいこの拝み屋は、自分からは決してぼくを追いだそうとはしないだろう。

 けれど、いまここでトワに甘え、他人とともにある温かさを、彼女のそばにいる居心地のよさを知ってしまえば、明日からの暮らしが余計につらくなる。

「帰ろうか、と、思う、んだけど」

 そこで寝ろと云っただろう、とトワはやはり振り向かずに云った。

「わたしはβ市に着いたばかりで、宇宙ボケが治っていない。おかげでいまはぜんぜん眠くないんだ。考えなくてはならないこともあるし、しばらくは起きている。眠くなったらおまえの隣にでも寝るから、気にするな」

 セツは思わずうつむいた。帰るところなどないのだろう、という声にならない声が聞こえたような気がしたからだ。

「本当、に、いいの」

「かまわない」

 トワがセツへと視線を向ける。さっきまでの図々しさはどこへいったのか、いまのセツは、必要以上に傷つけられることにおびえる、哀れなこどもでしかない。

 やわらかい笑みなど向けられれば、ただ震えるしかできなくなる。

「寝台で眠ると、なにか不都合なことでもあるのか? 特別に悪い夢でも見るのか?」

 セツは慌てて首を横に振った。寝台に近づいて、おそるおそるスプリングをたしかめる。やわらかすぎるそれは、正直なところあまり寝心地がいいとは云えないが、そもそも風の通らない場所で眠ることからしてひさしぶりだ。寝具にケチのあるはずもない。

 いかにもこわごわといった様子で寝台の端に腰を下ろしたセツを見て、トワは喉を鳴らして笑った。

「なにかおそろしいものにでも近寄るようだな」

「ひさしぶりなんだよ」

 セツは思わず本音を漏らす。

「暖かい部屋も寝台も、あんたみたいに親切な人も」

 こどもはトワに背を向けている。

 自分の背に闇色の眼差しが注がれているのを感じ取り、だが、彼は振り返ることができない。トワの顔を見たら、あの清冽な眼差しをまともに向けられたら、また云わなくてもいいことを口走ってしまいそうだった。

 目が醒めても、あんたはここにいる?

 明日になって別れても、また会える?

 また会いたいと、ずっとそばにいたいと、そう思ってもいい?

 生まれてこのかた、だれかとともに生きたことのないセツにはわからなかった。出会ってから、まだほんの少しの時間しか経っていないトワに、なぜまた会いたいと思うのか、それどころか、なぜ彼女とずっと一緒にいたいと思うのか、その理由がわからなかった。

 自分でも理解のできない思いを口にしてはいけない、とセツは、じつにこどもらしい頑なさで沈黙を守っている。

「ひさしぶりならば、よけいによく眠るといい」

 やさしい言葉と同時に背中が軽くなった。

 トワが視線を外したのだろう。腐臭を放つ夜景へとまた目を戻したのだ。

 けっしておもしろいものではないはずなのに、もう見るべきものはないはずなのに、なぜかトワはさっきから外ばかりを見つめている。

 幽宮かすかのみやの夜景がそんなに珍しいのだろうか?

 そういえば、トワはどこから、なんのために、こんなところへやって来たのだろう?

 ああ、トワのことをもっと知りたい。でも、なんで僕はこの人のこと知りたいと思うのかな? ずっと憧れていた拝み屋だから? 

 冷えた寝台にもぐりこんだあとも、セツはさきほどと同じ問いを繰り返している。

 また会いたい。だけど、ぼくなんかがそんなことを思ってもいいのかな?

 ずっと一緒にいたい。でも、ぼくはなんでそんなことを思うのかな?

 自分では気づいていないが、彼の思考はずっとひとつのところをめぐっている。

 ——トワと、ずっと、一緒にいたい。

 自分で自分の願いに気づくまもなく、セツはすぐに睡魔に誘われ、夢の世界へと旅立っていった。

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