03

「なんで?」

 セツはおおいに慌て、戸惑った。

「なんで」

 女はセツに背を向けながら、意味の異なる同じ言葉を返してきた。

 セツには返事のしようがない。

「なんでもどうしてもない。帰っていいと、それだけだ」

 女が言葉を紡ぐごとに、セツは目の前に紗がかかっていくような気がしていた。ごくごく薄い墨色をしたそれが重ねられれば重ねられるだけ、絶望が募っていく。

 ——絶望? いったいなんのことだ?

「おまえに不満があるわけではないよ」

 強張ったセツの表情に、女はなにを誤解したのか、そんなことを云った。

「本当のことを云えば、おまえを買おうと云ったのは、ここに、この宿場に入るためだった。おまえに愉しませてもらうつもりなんか、はじめからなかったんだ」

「怒ったの? ぼくが、生意気なことを云ったから?」

 セツの幸せなどどうでもいい相手、なにも知らなくて当然の相手に甘ったれた言葉をぶつけたのだ。彼女が腹を立てたとしても、それはあたりまえだ。

 セツの問いかけに、女は薄く笑う。

「そういう意味じゃない。ここはひとりでは入りにくい宿だからな。おまえもさっきそう云ったじゃないか」

 憐れまれたんだ、と咄嗟にそんなことを思った。色街の奥の奥、崩れかけた建物の陰に潜む、春売りにすらなれないぼくは、こいつに憐れまれたんだ。

「その金はやる。この街に不慣れな人間をここへ案内した手間賃だと思えばいい」

 奥歯を噛みしめて、セツは女を睨んだ。自らを射抜く琥珀などまるでないもののように女は微笑む。

「ろくでもない場所、ろくでもない人生にも、たまにはうまい話があってもいい」

 そうだろう、と肩をすくめ、彼女はまた窓際へと戻っていく。

「待って」

 この金は受け取れないよ、と云った声はすっかりかすれていた。

「なぜ?」

 女は視線だけをセツへと流す。

「こんな場所、こんな人生、ほんとろくでもない。ぼくのやってることも。そんなことわかってる。けど、それでもぼくは物乞いとは違う」

 女は黙っている。先ほどとは違い、眼差しすらよこさない。おおよそまともな灯もない幽宮かすかのみやのはずれ、そのさびれた光景などなにがおもしろいのか。

 セツは自棄になったように矢継ぎ早に言葉を繰り出した。

「たかが道端の男娼にって、あんたはそう思ってんだろうけど、ぼくにだって自尊心ってもんくらいある。だれかになにかを恵んでもらうくらいなら、身体を売るほうがまだマシだ。憐れまれるのはきらいだよ。帰っていいと云われて金だけもらって帰るなんて、そんなことできない」

 女は身体を半分だけセツのほうへと向けた。しかし、その視線はなおも窓の外へ向けられたままである。

「あんたがぼくを蔑むのは勝手だけど、ぼくを買うと云ったのはあんたなんだ。自分が云った言葉の責任くらいとれよ」

「おまえ、わたしと寝たいのか?」

 背中に冷水を浴びせられたような気がした。

 女はゆっくりと視線をセツに据える。その漆黒には、蔑みの翳りも同情の細波も浮かんではいなかった。無色透明の、静かな、すべてを見透かす眼差しだった。

「わたしに男を買う趣味はないが、おまえがわたしと寝たいと思うなら、考えてみてもいい。でも、わたしはおまえの自尊心などに興味はない。わかるか、云っていることが」

 きっとぼくはいまにも泣き出しそうな顔をしているに違いない、とセツは思った。こんなふうに誰かの穏やかな顔を見ることなんか、もうないと思っていたのに、だから自分も心を凍らせて耐えていればよかったのに。静かで穏やかなもの云いは、ぼくの心を崩してしまう。暴力に耐えるほうがまだマシだ。

 女は静かなため息をついた。静かすぎて、それがため息だと気づかせないほどの、けれどもそれは失望に彩られた吐息だった。

 セツは身を竦ませた。

「おまえの云っていることはおかしい。自分でもわかっているんじゃないのか」

 望んでいるわけでもない仕事を聞こえのよい言葉で飾り、なけなしの矜持を満たしているだけだ、という女の言葉に心がえぐられた。

「こうありたい、こうあるべき、自尊心という言葉はその先にこそあるものだ。おまえがその仕事を望んでいるのならともかく、寝たくもない相手と寝て金をもらうことに使うような言葉じゃない」

 唇を震わせるセツの前で、女は表情も変えずに続ける。

「おまえの奉仕を受けるのもやぶさかではないよ。ただし、玄人としてのそれに限らせてもらうけれどね。甘い仕事は願い下げだ」

 なにがなんだかわけがわからなくなった。気がつけばセツは声を限りに叫んでいた。

「あんたはなにもわかってないッ!」

 感情の爆発が、声を抑えることを忘れさせた。女が与えた紙幣がきつく握り潰される。

「なにもわかってない! ぼくが何年ここで暮らしているのか! これまでに何人の客をとったのか! なにをさせられたのか! ここへ来る客がどんなやつらなのか!」

 ふいに身体から力が抜けた。がくりと落ちる肩、だらりと下げられた腕、震える指先。古びた絨毯に紙幣の落ちる音が、あるいは決壊の合図だったのかもしれない。

「なんにも知らない、なんにもわからないくせに、知ったふうな口をきくな」

 低い声で呟きながら、セツはゆっくりと窓際に佇む女に歩み寄っていった。

「ここがどんな場所なのか、あんたほんとにわかってんのかよ」

 あふれてくるなにかが怒りなのか、哀しみなのか、それすらわからない。感情の激流が、あとからあとから言葉だけを運んでくる。云いたくて云えなかった言葉を心の奥深くから運んでくる。口をついて溢れるのは、決壊した堤防からこぼれ落ち、氾濫する、汚濁した水のような感情の昂ぶり。

炎宮ほむらのみや陽宮ひのみやで上品を気取ってる連中がここの客だよ。長いところここにいるとね、ああいうところで偉ぶってる官僚や企業家とも顔見知りになるんだ。やつらの醜い本性や情けない趣味を残らず見せつけられる。望みもしないのに」

 セツは女の真正面に立った。わずかに見上げた先には、最新の人工生命体アーティフィシャルであっても遠く及ばないだろうと思わせるような、精巧な美貌がある。

「連中はぼくらがここを出ることをなにより怖れてる。自分たちの醜聞スキャンダルが表沙汰になると困るから。口封じのための殺人なんて、ここじゃあんまりあたりまえすぎて記事にもならない。いちどこの街の汚濁にはまったら、好きでやってるわけじゃなくても簡単にはやめられないんだよ」

 ぼくの云ってることわかる、とセツは頬を引きつらせて、まがいものの笑みを浮かべた。

「わからないか。はじめっから終わりまでお綺麗なところで生きてくあんたには、わかるはずがないよね」

 女は静かな瞳でセツを見据えている。

「わからないなら」

 セツは両手を伸ばし女の腕をつかんだ。

「わからないなら、偉そうなこと云わないでくれよ! おかしなことを云ってる? おかしくもなるさ! こんなおかしなところにいれば、だれだっておかしくなる!」

 女の身体を激しく揺さぶる。

 ——あんたになんかわかるはずがない。この街のことも。ぼくのことも。なんにも。

 女はセツの激情を甘んじて受け止めている。

 静かな瞳にはなんの色も浮かんでいない。自分に食ってかかる少年を哀れに思う気持ちも、そうしたこどもたちが存在する醜い世の中を憎む気持ちも。

 そのことに気がつき、セツはふとわれに返った。手足をばたつかせ、水を飲み、死を覚悟した淵が、膝ほどの深さもないと気がつくときのような、奇妙な唐突さだった。

 いったいぼくはどうしちゃったんだろう、とセツは思った。さっきから感情の制御コントロールがまったくできない。自分の心が自分のものじゃなくなっちゃったみたいだ。

「無責任なことを云ったのかもしれないね」

 女はどこか困惑したような、それでいてなにかとりなすような口調で云った。

「おまえの客になるような連中のことは、わたしも知らないわけではないよ。おまえの気持ちも考えず、ひどいことを云ったのかもしれない。許せ、とは云わないが、わたしにも事情がある。おまえと愉しんでしまうわけにはいかない事情がね」

 ほんとうはもっと優しい云い方もあったんだろうけれど、と女はそこでなぜか苦い笑いをにじませた。

「わたしは口の利き方を知らないみたいでね。よく人を怒らせる」

 泣かせたのははじめてだけれど、とそう云われてはじめて、セツは自分が泣いていることに気がついた。

 熱く腫れぼったい目蓋と喉、冷たく凍る頬。あまりにもひさしぶりすぎて、唇を濡らす塩気が涙のそれだとは思いもしなかった。

 女の身体に縋りつくような体勢のまま、ずるずると床にくずおれる。セツの身体を追うようにして女が床に膝をつき、胸の中に抱き込んでくれるのがわかった。

 セツは泣いた。声をあげて泣いた。

 身も知らぬ女の黒い服に指を絡ませ、必死にしがみつき、幼いこどものように泣いた。


 不器用なリズムで背中が叩かれる。うっかりすると、とろとろとした眠りに誘われるような心地よさだった。

 ときおりしゃくりあげながら、セツはただ女に縋りついていた。

 膝立ちの不自由な姿勢のまま、女はじっと忍耐強くそこにいてくれた。冷たい態度や、厳しい言葉とは裏腹に、彼女の手は暖かく、しぐさは柔らかかった。

 鼻をすすりながら視線をあげてみると、女の視線は窓の外へと向けられているようだった。声をかけるのも照れくさくて、セツはそのまま目蓋を閉じる。

 せめても自分を落ち着かせようと、よそごとを考える。

 この人はなんのためにこんなところへやってきたんだろう。目前に広がる夜景のなかに、いったいなにを待っているんだろう。

 窓の外には、まばらな電飾に彩られて偽りの輝きをまとう幽宮の景色が広がっている。たとえ目にせずとも、そこにある灯りの数を云えるほどに見慣れた光景だ。

 ここにはぼくと同じようなこどもが大勢いる。生きながら腐臭を放ち、泣くことも忘れ、闇の市場で自分自身を売り捌いている。

 自らを悲観して死を選ぶことはたやすい。死はいつでもすぐそばにある。自分で死ぬことができないならば、手伝ってくれる手はいくらでもある。

 なのになぜ、ぼくらは黙っておとなしく、いまに従っているのだろうか。なぜ生き続けることを選んでいるのだろうか。

 そう、ぼくはいま、この瞬間にも選んでいる。生きること、生き続けることを。

 セツはおずおずとした仕草で、女の身体から自分を起こした。ゆっくりとぎこちなく動くあいだ、女のほうは見なかった。

 彼女はそんな彼と視線を合わせることなく、あいかわらず窓の外ばかりを見つめている。その顎の線に浮かぶ無関心こそが、あるいはやさしさの表れなのかもしれない、とセツは思った。

「もう、大丈夫」

 立ち上がりながらそう呟いた。だが、セツの声が頼りなく揺れているのを、女は聞き逃さなかったらしい。自分よりも頭ひとつぶん背の低いセツの首に手をかけると、自分の腹のあたりに抱き寄せた。

「泣けるときには泣いたほうがいい」

 弱さを隠しきれない強がりは、その弱さを余計に晒けだすだけだということに、こどもはまだ気がついていない。あるいは気がついていても、己を御することまではできないのか。

 いずれにせよ、放っておいても大丈夫だ、とだれかに思わせるつもりなら、すべてを完璧に取り繕わなければならない。完璧でない嘘は罪深いだけだ。それがたとえ、自分を守るための仕方のない嘘でも、誰かを想うがゆえのやむをえない偽りでも。

 わかってる、わかってるよ、とセツは強く目を閉じた。ぼくは、この人に甘えている。

 ——けれど、いったいどうして。さっき会ったばかりのこの人に、どうして。

 目蓋のなかがまだ熱い。

 こんなに泣いたのは何年ぶりだろうか。はじめて仕事をして、客に身体を任せたときだって、こんなに哀しくなりはしなかったのに。つらいと思いはしなかったのに。

 なんだって今夜はこんなにも幼い自分が抑えきれないのか。

 女のゆっくりとした呼吸と鼓動が、自分のせわしないそれに重なる。

 ああ、もしかしたら、彼女の持つ不思議な透明感のせいかもしれない。

 ここは幽宮。腐り果てたぼくの棲処。なのに彼女の周りだけが、澄みわたった清冽な空気に覆われているようで、哀しいほどにきれいなのだ。

 開け放たれた窓から雪が舞い込む。風は冷たく、濡れた頬がいまにも凍りつきそうだ。そのなかで、不思議なほどに彼女の腕と肩は温かい。いままで数えるのも面倒なほど多くの人間と寝てきたけれど、人が温かいものだと実感したことがあっただろうか。

 セツはようやく目を開けた。

 頭を女の旨のあたりに押し当てたまま、ゆっくりと目蓋を持ち上げる。

 何年何年も暮らしてきて、ただのいちどだって美しいと思ったことのない夜景が、崩れかけた廃墟のあいだから星空のように見える。空に浮かぶ雲さえ染める遠い電飾の海をきれいだとは到底思えなかったけれど、セツは窓の外を眺める余裕を取り戻せたことに安堵していた。

 ——よかった。ぼくはまだ壊れきってしまったわけではなかったみたいだ。

 

 ふと女が身を硬くした。

 それを感じたセツの目にも、見慣れぬ光景が飛び込んできた。

 万華鏡から大きな路地を三本隔てた斜め左の方向に、極煌オーロラという宿がある。このあたりでは人通りの多い目抜き通りに大きな建物を構えている。もちろん万華鏡よりしつらえも立派で、価格も高い。だが、より儲かっているのかというと、そうでもないらしい。

 信用ならない主人の云うことだから話半分に聞くとしても、あちらさんは派手にやりすぎなんだよ、ということらしい。まっとうな客の払うまっとうな対価よりも、やばい客の落とすやばい金のほうが旨味がある。でもあれだけご立派に看板を構えてしまえば、あまり妙なことに手を出すわけにはいかなくなる。セツにもわかる当然の道理だった。

 その極煌のちょうど真上あたりに、にわかに気味の悪い緑色の炎が現れたのだ。

 少なくともセツの目にはそう見えた。

 女は素早くセツから離れ、窓枠に両手をついて身を乗り出す。漆黒の髪が宙に散る。夜に開く闇色を、セツは目を瞠いて見つめる。一瞬、彼女がそこから飛び降りるのではないかと思った。

 「でたな」

 低い呟きとともに女は左手を空に躍らせ、どこからともなく二枚の呪符じゅふを取り出した。

蒼銀あおのしろかね! 紅銀あかのしろかね!」

 涼やかな声で何者かの名を呼びながら呪符を放つ。

 瞬間、呪符は二羽の闇色の烏に変化した。

 女の手を離れた彼らの瞳は、それぞれ闇を含んだ蒼と緋。二羽は、呼吸も忘れて瞠目したままのセツの目の前で、一瞬のうちに景色に溶けた。

 緑の炎めがけて飛ぶ二筋の闇を目で追いながら、女は寝台に投げ出してあった外套を手早く羽織った。あわただしい仕草で部屋の扉を開け、少年、とセツを呼ぶ。

「悪いがここまでだ。金を持ってもう帰れ」

 そのまま足早に廊下を駆けていく。

 呆然と女の背中を見送ったセツは、女の言葉に従うように、のろのろと床にしゃがみこむ。

 落ちた紙幣を拾い集め、無意識に何度も数える。

 そうしたところで数字など頭に入るわけもない。ぬるま湯に浸り、心地よく微睡んでいたところを、凍てつく吹雪の中に放り出されたような気分だった。

 寝台の下に滑り込んだ最後の一枚を拾い上げたところで、ふと思い立って外の景色へと目を向ける。先ほど女がしたのと同じように、窓から身を乗り出し、極煌の上空を確かめた。

 不気味に光る緑の炎は相変わらずそこにある。

 それが、だれの目にも見えるものではないということは、直感でわかった。

 ——あれは、妖物ばけものと同じ種類のなにかだ。

 そして、炎を追った二羽の烏。あれもまた、異形の者だった。

「あの人、いったい……」

 いまのいままで気にもしていなかった女の正体が、ひどく気にかかった。

 壁に貼られているものしか見たことのない呪符を操って異形の者を呼び、わけのわからぬ文言で彼らを使役した。

「もしかして、……拝み屋?」

 話に聞いたことはあっても、これまでいちども姿を見たことのない存在だった。

 妖物の姿を見、その声を聞くばかりではなく、障りを祓うという拝み屋。

 魑魅魍魎の気配におびえるばかりの自分とはかけ離れた彼らに、それでもセツは一方的な親近感を抱いている。あるいは、憧れ、と云い換えてもいいかもしれない。

 あやかしが通り過ぎてしまうまで、息をひそめ、自らの存在を殺し、ただひたすら恐怖に耐える。生き延びるために、それしか方法を知らない自分に比べ、あいつらを退け、消滅させることもできるという拝み屋の、なんと眩しいことか!

 知りたい、とセツは思った。

 あの人のことを知りたい。もっとよく知りたい。叶うなら——、いや、それは、いまはいい。いまは、まだ。

 とにかく、いま、あの人から離れちゃだめだ。云われるままに金なんか拾ってる場合じゃない。それだけはたしかだ。

 セツは勢いよく部屋を飛び出した。

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